ブログの更新が少し前のことばかりになってしまいます。
その日は無理でも翌日か翌々日ぐらいにはアップしたいと思っているのですが・・・。
25日の日曜日に埼玉県深谷市の「日本煉瓦製造株式会社」の臨時公開と説明会にあわせて、
深谷出身の尾高惇忠(初代富岡製糸所所長)のご子孫Oさんが深谷と島村の案内をしてくださいました。
Oさんは『尾高惇忠』の本も出されています。
当日は朝9時半に深谷駅に集合。
深谷駅、煉瓦つくりで東京駅を模したもの。Oさんの意見が取り入れられたそうです。
集まったのは堅曹さんの姉の子孫にあたる藤沢のEさん、東松山のNさんと私の3人。
Oさんの車に乗り込み、まずは日本煉瓦へ。
ここは明治21(1886)年に操業開始し、平成18(2006)年に約120年間の操業を停止しました。
まだ稼働していた何年かまえに見学をしましたが、その時は廃業近くで雑然と煉瓦が積まれ、雑草に覆われた荒れた感じの工場でした。
現在は市が管理して整備され、敷地はほとんど売られてしまいましたが、国重要文化財のホフマン6号窯と旧事務所、変電室が残されています。
ヘルメットをかぶって、ホフマン窯のなかへ入って、係員から説明を聞きました。
窯の中にびっしりと生成された煉瓦が積み上げられ、天井の穴から炭が投げ入れられ、何日もかけて焼き上げられる。
一度火をつけたら24時間3交代制で続けられる。
これが人力で行なわれていたのです。大変な重労働だっただろうとおもいました。
旧事務所にはその工程の説明や、6つの窯が稼働していた最盛期の様子もうかがえる資料があり、
この深谷の地が煉瓦工場の企業城下町として栄えていたことがよくわかりました。
Oさんに連れられ、工場と深谷の駅を結んでいた約4kmの専用鉄道の跡を見にいきました。
現在は遊歩道にもなっていて、線路や橋が保存されています。
畑や田んぼの真ん中を機関車が煉瓦を運んで走り抜ける様は
今ののどかな田園風景がひろがる景色とは違って、
活気あふれる工業のまちの様相だったのだろうと思いました。
次にむかったのは、尾高家の墓所です。
Oさんは毎年1月2日の尾高惇忠の命日にお参りなさるそうです。
尾高家一族の墓がまとまって祀られています。
どれも立派な墓で、それぞれの墓石に履歴が刻まれています。
尾高惇忠の墓は渋沢栄一の選書です。
お参りをしました。
尾高惇忠と堅曹さんがはじめて会った時のこと(←クリック 以前書いたブログが読めます)
その後富岡製糸場の開業についてたびたび相談したり、行き来したことを
おもいだしました。
あれから140年も経って、子孫同士がこうして会い、墓所を訪れお参りさせて頂けるなんて、
なんともありがたく、尾高さんや堅曹さんも喜んでくださっているかなという思いでいっぱいになりました。
お昼は深谷の名物、「煮ぼうとう」をいただきました。
山梨で有名な味噌仕立てで、かぼちゃなどがはいっている「ほうとう」とちょっと違い、
醤油味で野菜がいっぱい、ほうとうももう少し細くて、ひもかわに近い感じでした。
とっても美味しかった。
午後は「論語の里」といわれている渋沢栄一生家を中心とした関係史跡のある地区を巡りました。
見たところ
尾高惇忠生家、鹿島神社(藍香尾高翁頌徳碑)、渋沢栄一記念館、
渋沢家墓地、「青淵由来の跡」の碑、青淵公園、渋沢栄一生家
そのあと、島村へ行き、田島弥平宅らの養蚕農家、島村小学校の赤煉瓦の遺跡、板蔵、島村教会等。
また、深谷にもどり、最後は誠之堂、清風亭を見学しました。
車で走りながら、韮塚直次郎の家を見せてくれ、
深谷駅に送ってきてくださったのが、4時少し前。
風もない暖かな一日で、絶好の見学日和でした。
この時期風があると、上州の空っ風で、ものすごく強くて寒くて大変なことになるんだけれど、
とOさんはおっしゃっていました。
たくさんの史跡を効率よく、巧みな解説で案内していただき、
しかもOさんのこれまで40年以上の先祖調べの話や思いもお聞きすることができて、
これからの私の堅曹さん調べの大きなヒントや力をたくさんもらいました。