堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

深谷の見学

2009-01-31 13:20:05 | 日記・エッセイ・コラム

ブログの更新が少し前のことばかりになってしまいます。

その日は無理でも翌日か翌々日ぐらいにはアップしたいと思っているのですが・・・。



25日の日曜日に埼玉県深谷市の「日本煉瓦製造株式会社」の臨時公開と説明会にあわせて、

深谷出身の尾高惇忠(初代富岡製糸所所長)のご子孫Oさんが深谷と島村の案内をしてくださいました。

Oさんは『尾高惇忠』の本も出されています。



当日は朝9時半に深谷駅に集合。


Cimg7122     Cimg7125  

    深谷駅、煉瓦つくりで東京駅を模したもの。Oさんの意見が取り入れられたそうです。


集まったのは堅曹さんの姉の子孫にあたる藤沢のEさん、東松山のNさんと私の3人。

Oさんの車に乗り込み、まずは日本煉瓦へ。


ここは明治21(1886)年に操業開始し、平成18(2006)年に約120年間の操業を停止しました。

まだ稼働していた何年かまえに見学をしましたが、その時は廃業近くで雑然と煉瓦が積まれ、雑草に覆われた荒れた感じの工場でした。

現在は市が管理して整備され、敷地はほとんど売られてしまいましたが、国重要文化財のホフマン6号窯と旧事務所、変電室が残されています。

ヘルメットをかぶって、ホフマン窯のなかへ入って、係員から説明を聞きました。


Cimg7127_2  ホフマン6号窯内部


窯の中にびっしりと生成された煉瓦が積み上げられ、天井の穴から炭が投げ入れられ、何日もかけて焼き上げられる。

一度火をつけたら24時間3交代制で続けられる。

これが人力で行なわれていたのです。大変な重労働だっただろうとおもいました。



Cimg7133  旧事務所


旧事務所にはその工程の説明や、6つの窯が稼働していた最盛期の様子もうかがえる資料があり、

この深谷の地が煉瓦工場の企業城下町として栄えていたことがよくわかりました。


Oさんに連れられ、工場と深谷の駅を結んでいた約4kmの専用鉄道の跡を見にいきました。

現在は遊歩道にもなっていて、線路や橋が保存されています。


Cimg7140  煉瓦アーチ橋


Cimg7154  ガーター橋



畑や田んぼの真ん中を機関車が煉瓦を運んで走り抜ける様は

今ののどかな田園風景がひろがる景色とは違って、

活気あふれる工業のまちの様相だったのだろうと思いました。




次にむかったのは、尾高家の墓所です。


Cimg7167  尾高家墓所


Oさんは毎年1月2日の尾高惇忠の命日にお参りなさるそうです。

尾高家一族の墓がまとまって祀られています。

どれも立派な墓で、それぞれの墓石に履歴が刻まれています。

尾高惇忠の墓は渋沢栄一の選書です。


Cimg7157  尾高惇忠の墓



お参りをしました。

尾高惇忠と堅曹さんがはじめて会った時のこと(←クリック 以前書いたブログが読めます)

その後富岡製糸場の開業についてたびたび相談したり、行き来したことを

おもいだしました。


あれから140年も経って、子孫同士がこうして会い、墓所を訪れお参りさせて頂けるなんて、

なんともありがたく、尾高さんや堅曹さんも喜んでくださっているかなという思いでいっぱいになりました。




お昼は深谷の名物、「煮ぼうとう」をいただきました。


Cimg7172  煮ぼうとう ちょっと食べたあとです


山梨で有名な味噌仕立てで、かぼちゃなどがはいっている「ほうとう」とちょっと違い、

醤油味で野菜がいっぱい、ほうとうももう少し細くて、ひもかわに近い感じでした。

とっても美味しかった。




午後は「論語の里」といわれている渋沢栄一生家を中心とした関係史跡のある地区を巡りました。

見たところ

   尾高惇忠生家、鹿島神社(藍香尾高翁頌徳碑)、渋沢栄一記念館、

   渋沢家墓地、「青淵由来の跡」の碑、青淵公園、渋沢栄一生家


Cimg7173  藍香尾高翁頌徳碑(大きくて立派です)


Cimg7199  渋沢栄一生家




そのあと、島村へ行き、田島弥平宅らの養蚕農家、島村小学校の赤煉瓦の遺跡、板蔵、島村教会等。


Cimg7202  田島弥平宅 養蚕農家


Cimg7214_2  天明2年に作られた板蔵


また、深谷にもどり、最後は誠之堂、清風亭を見学しました。


Cimg7223  誠之堂   Cimg7231  清風亭



車で走りながら、韮塚直次郎の家を見せてくれ、

深谷駅に送ってきてくださったのが、4時少し前。


風もない暖かな一日で、絶好の見学日和でした。

この時期風があると、上州の空っ風で、ものすごく強くて寒くて大変なことになるんだけれど、

とOさんはおっしゃっていました。


たくさんの史跡を効率よく、巧みな解説で案内していただき、

しかもOさんのこれまで40年以上の先祖調べの話や思いもお聞きすることができて、

これからの私の堅曹さん調べの大きなヒントや力をたくさんもらいました。


大渡製糸所(藩営前橋製糸所)

2009-01-28 19:34:07 | 日記・エッセイ・コラム

ぽかぽか陽気になった23日の午後、

「群馬の絹」展をみたあと、前橋市へむかいました。



明治3年(1870)に堅曹さんら前橋藩がつくった「藩営前橋製糸所」が

日本で初めての器械製糸所になります。

スイス人のミューラーーを4ヶ月間だけ雇い入れ、イタリア式の器械製糸をはじめました。

まだ日本人ではだれも習ったことがなく、堅曹さんはこの4ヶ月の間に寝る間も惜しんで、

必死で技術を学びました。

これがその後「器械製糸のスペシャリスト」といわれる基礎となります。


このとき、一緒に習ったのが、姉の梅さんです。

対外的な仕事に忙殺される弟に代わって、

実際に製糸所で工女たちに技術を教える師婦となり、中をまとめていきました。

まさに日本の製糸の教師第一号といって間違いないでしょう。



そのようにして始められた6人取りの小さな前橋製糸所ですが、

最初は前橋市の中心を流れる広瀬川のたもと、

現在の住吉町一丁目の交差点のあたりにつくられました。

ここには「明治3年日本最初の機械製糸場跡」という記念碑が建っています。


   Cimg2180_2  記念碑




イタリア式は水力で器械を動かすので、川のそばに製糸所がつくられます。

このあと明治5年(1872)に作られる富岡製糸場はフランス式で動力は蒸気です。



そこがすぐに手狭になったため、2ヶ月ほどで観民の地に移ったと日記に書かれています。

この観民(かんみん)というのは、最初の場所から1キロほど中に入った場所です。

地名でいうと大渡(現、岩神町)となります。

そのため前橋製糸所は大渡製糸所ともいわれます。



その大渡製糸所のあった場所を探しにいきました。

風呂川沿いにあるということで、前にも何回か探しています。

ただ、車で近くまでいくと狭い道がおおく、ちょっと止めるのもむずかしい。

本には地図が書いてあるが、実際はどの辺なのかは、いつもついでに探しにくるので、

時間切れや本をもってくるのを忘れたりで今まできちんと調べがついていない。



共愛学園の跡地に車をおき、近くを歩いてみました。

すぐそばに風呂川が流れています。そこにかかっている小さな橋が「岩神橋」となっています。


   

   Cimg7086  岩神橋


そばに昭和58年改修記念の碑がたっている。

狭い一方通行の道が小さな橋の上で五叉路のように交差している。


風呂川をたどって、改修されたコンクリートの岸の先のほうにいくと、古い石積みの岸となっている。

よくみるとその急激なカーブを描いた川筋はいつか見た大渡製糸所の写真の地形とよく似ている。

その地にはひときわ大きな木が1本そびえ立っており、それすらも写真に写っていたような気がしてきた。


 Cimg7082       Cimg7242_2


    新聞に載った大渡製糸所の写真  手前の川のカーブに注目!

    大木はなかったですね。





たぶんここだ!とおもい、民家の建っているぎりぎりのところまで行き、

川筋をたどり、その先はぐるっと大周りをして、また川を探し、

そのあたりをぐるぐる歩き回ってみた。

風呂川は幅が2mにも満たない小さな川ですが、その流れの勢いは力強く、

水量の豊富さを感じさせます。

水力を使うには適した地だったことがよくわかります。


  

 Cimg7084_4    Cimg7090

     石積みの 風呂川の流れ   水鳥が2羽いました、つがいでしょうか。


本に載っていた地図とも合いそうです。



そうか、ここだったのか!

車で走れば、あっという間に通り過ぎてしまう何の変哲もない住宅地です。

でも川の流れが決め手となってみつけることができました。

よかったよかった。


「群馬の絹」展

2009-01-24 12:13:52 | 日記・エッセイ・コラム

23日は高崎にある「群馬県立日本絹の里」で開催されている

「群馬の絹」展に行ってきました。


     Img007 パンフレット


朝はまだ前日からの雨が結構降っていて、どうかなとおもったのですが、

天気予報の「昼前から晴れて暖かくなる」というのを信じて出かけました。

案の定、車で高速を走る間にどんどん晴れてきて、

群馬に入ると山並みがすばらしくきれいに見えました。



この展覧会は群馬県産の絹糸を使用した製品が一堂に集められ、展示、販売されます。

昨年もこの展覧会にきて、(←クリック)いろいろ群馬シルクの製品を買いました。

日本の養蚕製糸が風前の灯と言っていいほどの危機的状況をなんとかしようと、

繭生産量が日本一の群馬県は、群馬の繭、生糸、絹でつくられた製品を

「ぐんまシルク」として認定、ブランド化しています。



群馬にかかわり、富岡製糸場を世界遺産にしようという運動にかかわっている者としては、

応援せずにはいられません。

私にできるのは消費者として、絹物を買うなら「ぐんまシルク」の製品を買い、

知り合いに宣伝するぐらいのことですが・・・。



  Cimg7056  会場の様子


今回来てみて、ここに出店している方の知り合いが増えたなあ~と思いました。

同じ伝道師の方もいらっしゃるし、イベントでご一緒して知り合った方も、

昨年のフランス旅行で一緒だった桐生のSさんもいます。


みなさん、なんとか日本のシルクを残したいと、日夜製品づくりに取り組んでいらっしゃる。

昨年の展示会にはなかった新しい製品がどこのブースにもでています。

話を聞くと、一年かけて作り上げた、織りの模様がきれいに出るように糸を工夫してみた、

この繭の糸だとこういう輝きがでるようになった、染めはこういったものをつかってみた、

などなど、実にいろいろ研究して開発しているんだとおもいました。

それが新しい製品につながっているんですね。



今回見たものでとてもよかったもの。

「ぐんま200」という繭を座繰りでひいて、県内で織り、県在住の作家さんが染めた反物。

すべて群馬県内で作られた純国産の着物。

とても軽いものだと聞いていたけれど、ほんとうにフワッとして軽くて、でも輝きがある。

これが座繰りの糸?と信じられないほど、繊細で美しい反物でした。

座繰りというと、節があって、それが味わいとなり、機械でひく糸とはちがう。

機械糸のように均一でないところが持ち味というイメージでした。

でも全然ちがっていました。



話を聞いていて、ふと堅曹さんの時代、

日本ではじめて器械製糸ができた頃の座繰りの糸はこういうものだったのかなとおもいました。

群馬では特に改良座繰りといって、器械製糸より座繰り糸のほうに力をいれて、

世界の織物の需要に見合ういい品質の生糸を作り出していた時期が長かったのです。

100年以上も前、それらは横浜から世界に輸出され、

今日見たような素敵な織物や美しいスカーフになったんだろうな、と実感しました。



とてもいろいろなことが勉強になり、外にでると、なんだかとってもぽかぽかと暖かい!

そうだ、まだ時間があるから、堅曹さんが明治3年に作った

大渡製糸所の場所を確定しにいこう、とおもい前橋に向かいました。

つづく。


「交差する眼差し」 クリスチャン・ポラック コレクション

2009-01-22 02:03:12 | 日記・エッセイ・コラム

クリスチャン・ポラック氏のコレクションの展示会を見にいってきました。


      Img006 「交差する眼差し」  クリスチャン・ポラック コレクション

   2009年1月16日(金) - 1月30日(金) 11:00~20:00  入場無料


東京銀座の中央通りに面してド~ン建っている「シャネル」のビル。


   Cimg7024  シャネルのビル


銀座松屋の向い側です。

このビルの4階にシャネル・ネクサス・ホールがあり、そこで催されています。



日仏の研究の合間、長年にわたって集められたコレクションのなかから、

今回はとくに幕末から明治維新期にかけてのものを中心に、開港当時の浮世絵や

フランスのジャポニズムの流れでつくられた日本にまつわるポスターが展示されています。


浮世絵は保存状態がよく、額装されています。

これらは横浜絵ともいわれ、資料として本や図版でよく目にするのですが、

実物はなかなかみることがありません。

三枚組のものなどは、おもっていたよりずいぶん大きなものでした。


外国人や外国のものが珍しくて、江戸からこぞって浮世絵師たちがやってきて

題材にしていたそうです。



M_hito153

私がへぇ~、とおもったのが、

フランス人女性が洋装で馬に横乗りしている絵です。

当時の日本人もとても珍しいとおもったらしく、

何枚もそれを題材にした横浜絵が残されています。


そういえば、居留地の外国人たちは許可をもらって国内旅行をしています。

まだ鉄道はなく、当時の旅行記を読むと「馬に乗って」とよく書いてあります。

てっきり女性は乗馬服みたいのを着て、ズボンでと思い込んでいましたが、

長いスカートのまま横乗りしていたんですね。




また、フランスで作られた日本を題材にしたポスターは初めて見るものばかりでした。

フランス人が好奇心をもって、日本人や日本の風景などを描いている視点が垣間見られて、

これも意外な印象でした。



両国の交流を一方の視点からだけではなく、双方向で検証してみる。

当時の絵やポスターから、お互いに新鮮な想いで相手国の文化を取り入れようとしていた

熱い息吹きを感じました。



クリスチャン・ポラック氏の著書

『絹と光』(絶版) と 新刊『筆と刀』 が置いてありました。

どちらも日仏2ヶ国語で書かれ、写真やイラストも豊富で、なかなか豪華な本でした。


日仏交流 新聞記事2点

2009-01-20 18:23:53 | 日記・エッセイ・コラム

いつも私のブログを見てくださり、的確な情報を寄せてくださる藤沢のEさんから、

1月15日の日本経済新聞の記事を教えていただきました。


   Img005_3 ←クリックすると大きくなります



「アートが語る日仏150年 

      ~幕末以降の関係示すポスターや版画など収集~」 クリスチャン・ポラック


クリスチャン・ポラック氏は早稲田大学と一橋大学で日仏外交史を研究。

現在コンサルタント会社を経営しながら、中央大学、立正大学で教鞭をとり、

フランス社会科学高等研究員日本研究所客員研究員でもある。



記事から少し抜粋すると、


  ・二国の交流史のキーワードは「絹と光」。


  ・58年に日仏修交通商条約を締結し、横浜開港の翌年、60年には絹商人が

  横浜に上陸している。日本産生糸の半分が輸出されたフランスは日本の

  最大の貿易相手国にのし上がり、横浜の外国人の5人に1人はフランス人と

  いわれるまでになったのである。


  ・絹を求めて来日したフランス人が日本にもたらしたものが光、つまり近代化だ。

  徳川家茂と交渉したロッシュ公史が蚕の見返りに申し出たのが、横浜や横須賀への

  製鉄所、造船所の建造である。さらにリヨンにあった最新の工場の技術、機材を

  持ち込んで富岡製糸場が建てられ、富岡をモデルに全国二十ヶ所に製糸場が

  つくられた。


  ・「絹と光」に象徴されるようにフランスと日本の関係は、経済的に相互に依存して

  いたために深く親密になった。横浜から帰国した絹商人が記事を寄稿し、

  当時のパリの新聞は毎日、日本のニュースを報道していた。



外国人の5人に1人がフランス人!

パリの新聞は毎日、日本のニュースを報道していた!


そうかフランスの19世紀後半のジャポニズムはこうした側面の影響もおおきかったのですね。



同じ日(1月15日)の朝日新聞には文化面に次のような記事がでています。


   Img004_2 ←クリックすると大きくなります


「日仏芸術交流 150年機に新たな光」


  ・日仏交流150年の昨年以降、意欲的ないくつかの企画が、それ以外の交流に

  光を当てている。


  ・最も驚いたのは美術史家の宮崎克己氏の発表だ。美術品の日仏貿易は、

  19世紀後半は圧倒的に仏側の輸入超過で浮世絵や屏風が流出したが、

  20世紀初めに逆転して日本の入超になり、印象派などの絵がはいったという。

  この間に日本の政治・経済状況が大きく変わり、文化環境も一変したことが背景だ。



この記事を読むまで、ジャポニズムというと、浮世絵や印象派の絵のことしか

頭に浮かばなかったけれど、それには両国の経済状況が大きく関わっていたという。


絹を最大にして行なわれていた、日仏の貿易の変化が美術品の購入にも密接に影響していた。

ちょうど19世紀末から世界的にみてリヨンを中心とするヨーロッパ・フランスの絹市場は

アメリカの機械化の生糸消費におされ、ナンバーワンの座から落ちて低迷していくのです。


今年は横浜開港150年、さまざまな企画展や研究発表も行なわれています。

日仏の関係にしても、単に生糸貿易のことだけ見ていくのではなく、

それによる文化交流、人的交流がおよぼしたものという視点をもって見ていくと

とても広がりがでて、面白いとおもいました。




さて、クリスチャン・ポラック氏は長年両国の交流を示す文献から美術作品まで

捜し求めては収集をしてきました。

それが今月16日から東京・銀座のシャネル・ネクサス・ホールで展示されています。 


       「交差する眼差し」 クリスチャン・ポラック コレクション


早速初日に行ってきました。

これは次回に。