堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

九州の旅①

2009-09-29 23:52:34 | 旅行記

9月24日シルバーウィーク明け初日。

7:35 羽田空港発 スターフライヤーSFJ073便に乗り、一路北九州空港へ。


Cimg9745 スターフライヤー機


今回の旅を考えたとき、最初にこの「スターフライヤー」に乗れるんだ、とわかっただけで、

すぐに行くことを決めました。

いつか乗ってみたい!とおもっていた飛行機。

スタイリッシュな黒いボディーで内装も黒一色、しかもかなり料金が安い。



Cimg9737 北九州空港に進入


9:15 北九州空港着。

予約していたレンタカーを借りて、9:35 いざ出発!

車はSクラス、トヨタのヴィッツ。



めざすは中津。ご存知福澤諭吉の出身地。

ここには明治12年に福澤らが中津藩士授産のためにつくった「末広会社」という製糸所がありました。

中津の器械製糸については

明治12年、堅曹さんと福澤諭吉が会って意気投合、製糸について面倒を見ましょう、という話になり、

翌13年に25名の工女が富岡製糸場に伝習にきたり、

直輸出の同伸会社の海外支店に福澤諭吉の弟子を派遣する、というつきあいになっていきました。


この旅のはじまりは、堅曹自叙伝『六十五年記』には次のように記されています。

同廿日(明治21年3月20日)花房次官と倶に大分県に出張す。途中我は中津に立寄、同所製糸会社に至り業場一覧、社中に緊用の件を演説して夜宇佐に着。次官と倶に宇佐八幡に参詣し夕大分に着。

この同所製糸会社は「末広会社」のことです。

場所を確定してみました。

「中津市三ノ丁」というところまでは調べがついていたけれど、はたしてすぐにわかるか?


10:56 中津市三ノ丁に着く。

小幡記念図書館駐車場というのがあり、そこに車を止めたが、三ノ丁も広そう。

どこだろう?

中津城のまさに目の前の一角である。お堀が保存されている。


Cimg9749 中津城のお堀


近くの人に図書館の場所を尋ね、行ってみる。

角をまがると古い門が見え、ここは福澤諭吉らがつくった「中津市学校」の跡地であることがわかった。


Cimg9753 生田門(中津市学校、現南部小の校門)


連休あけなのに、この図書館は開いていてラッキー。(大分市の図書館は全部休み)


司書さんに古い地図はありますか、末広会社という製糸所の場所を確定したい、と相談すると、すぐに調べてくれた。

時間はありますか? 次の予定があるのであまりない、というと

10分後くらいに

「『中津市史』と地元で調べている人のHPから「中津カトリック教会」のところだとわかりました」

と教えてくれた。ありがたい。

すぐに行ってみる。


Cimg9763 中津カトリック教会(末広会社跡)


カトリック教会は「中津市学校」の目の前。

昔は中津城の堀のすぐ外側で、上士の住居のあったところである。

福澤らの息のかかった場所であるのが一目瞭然だ。


中津の町は歴史を感じさせる落ち着いた街で、非常にいい雰囲気でした。

このあと福澤諭吉の旧宅に行ってみる。


Cimg9781 福澤諭吉旧居


諭吉は下士の出なので、城よりすこしはなれた場所である。

昼頃には次の訪問地、宇佐八幡に着いている予定が、図書館に寄ったりして遅くなり、

12:00 中津出発となる。


おなかが空いたが、宇佐八幡にとにかく急ごう。

門前になにか食べるところがあるだろう、とおもって、中津のおいしそうなお店を横目でみながら走っていく。



12:45 宇佐八幡に到着。

あれ、食べ物やさんがない。しょうがないから、とにかく空腹のまま見学をする。

広いし、本殿までは30分はかかると聞いていたので、敷き詰められた玉砂利を踏みしめてどんどん参道をあがっていく。


大きな鳥居が風格を感じさせる。


Cimg9791 宇佐神宮 大鳥居


「下乗」とか「皇族下乗」とかいてある木札を見て、

堅曹さんはこのあたりまで、馬車で乗りいれたのだろうか、などとおもう。


本殿のところまで上がりきり、拝見。そのまま降りてくる。


Cimg9803 宇佐神宮 勅使門


天気は晴天。暑いです。

東京はすっかり秋の気配で涼しかったので、そのつもりだったが、

九州はまだ夏、31度とか。

皆、日傘をさしています。

神社は日陰がないし、また焼けそう。



13:30 腹ペコのまま車にのり、次の予定地大分市を目指します。

どこか途中でご飯をたべよう。

宇佐から大分までは時間節約のため

高速道路「宇佐別府道路」と「大分自動車道」にのりました。

2:45 別府湾SAでやっと昼食。

地鶏親子丼と貝汁。おいしかった。レバーも皮もはいった親子丼でした。


Cimg9822_2 地鶏親子丼


ここは高所にあるため、別府湾が一望できる、すばらしく景色のいいSAです。


Cimg9818 別府湾


たぶん堅曹さんは現在10号線の豊前街道と日向街道を通っていったはずだから、

もっと海沿いで、こんな景色は見ていないだろうとおもった。



さて、3:10 大分市内に入りました。

ここでは明治21年につくられた「大分製糸所」の跡地に向かいます。

『六十五年記』には

同二十七日各県の人々来て頗る多事。漸く午後当所製糸所に無案内にて行き彼(小野惟一郎)予備せざるところを綿密に見分す。流石小野氏の設計なれば百事申分無し、感ずるに余り有り。斯の如く全備せる業場は稀に見る所なり。

小野惟一郎という官吏がなんども堅曹さんのところに相談にやってきて、

たくさんの工女を富岡製糸場に送り込んで技術を磨かせ、

地元大分のためにやっと作り上げた器械製糸場。

すごく優秀な人物だったらしく、めったに褒めない堅曹さんが絶賛しています。

お墨付きの製糸場なんてはじめてです。


さてその場所は、事前に大分教育委員会の文化財課に尋ねて調べてもらいました。

大分市太平町です。

「裏に山がありますか?」と文化財課の方に電話で尋ねたところ

「あぁ、ありますよ。」との返事。

では間違いない。


当時は大道町といい、メインの通りに面していました。現在では市内の中心部に属します。

詳細な地図をFAXしていただいたので、すぐにわかりました。


Cimg9826 通り側から 大分製糸所跡地


Cimg9858 裏側から


現在は駐車場になっています。


再び『六十五年記』の記述から。

同二十九日(略)本日又製糸所に至る。当所工女、曩(さき)に富岡製糸所に伝習中没した者の招魂祭有り。本所の裏山亡霊碑前に社長祭文を朗読し拝礼。畢(おわっ)て山上に宴会を開き、百二三十人列席し頻に感愴の情を発し、男女共落涙せざるは無し。是皆小野惟一郎の誠意誠心に感じたるなり。我亦堪へずして饅頭三百と一首の歌とを供ふ。

なき人の魂は出て来よ友なへて 有し昔の物がたりせむ

ここに書いてある裏山で行われた富岡製糸場の伝習中に亡くなった工女達の招魂祭。

その場所と亡霊碑を一縷の望みをかけて、探してみようとおもった。


製糸所跡の横から一本の急な狭い坂道が裏のほうに続いている。


Cimg9840 裏山へ続く坂道


ここだ! とおもい徒歩でのぼっていく。

100m程上がると両脇の民家が切れたところに神社があらわれた。


Cimg9847  大平神社


古そうだ。灯籠をみると「安政十三寅年寄進」の文字が。

しかし亡霊碑や招魂碑らしきものはない。


この神社より上には行かれるのだろうか?とおもっていると

スクーターに乗った男の人が左手の細い道をあがっていった。

私も道を登ってみると、すぐ上の畑を手入れしている人で、

思い切って声をかけて、いろいろと話を聞かせてもらった。


坂を降りたところが製糸所の跡だということも知っており、

あそこの前は昔水路があった、と教えてくれた。

たいてい製糸所のところは川があるはずなのに、ここにはないのが不思議だったが、

やはりあったんだ、という思いで聞いた。

いま登ってきた坂道が昔からあった道だから、裏山はこのあたりとのこと。



招魂碑をさがしていると言うと、

これより上にはとてもそんな格好じゃいけないし、近代よりずっと以前の墓しかない。

近代の碑なら神社の後ろにある墓地にある可能性が高い、という。

他にもいろいろと昔の製糸所の話を聞かせてくれた。


お礼を言って、すぐに神社の裏へいってみた。


20く基らいの古い墓が、まるでお化けでも出そうな感じで寄り固まってあった。


Cimg9855 神社裏の墓地


もしや招魂碑があるまいか、とひとつひとつ見てまわった。大正あたりからのお墓が多い。

全部みたけれどなかった。


明治21年のはなしだから、この辺りで招魂祭をおこなったとしても、

その碑はとっくの昔に取り払われちゃっただろうし、もしかしたら、木の碑だったかもしれない。


もう陽も落ちてきて、くもの巣とやぶ蚊に刺されまくりで、残念ながら調査はここまで。

でもこのあたりでおこなわれたのは確かだし、今現在家が建っている辺りかもしれない。

製糸所の跡地が確定しただけでも満足しました。


18:10 今日の宿の大分市内のビジネスホテルに着く。

夕飯は大分名物のとり天を食べました。


Cimg9880 とり天


つづく。


九州よりの帰路

2009-09-27 11:29:31 | インポート
「堅曹さんを追いかけて」やってきた九州の旅も、今朝長崎の港をしっかりと見て終了。ここから船に乗って横浜に帰ったんだ、と確認しました。 私は長崎駅から特急「かもめ」に乗って、博多から新幹線「のぞみ」で新横浜に向かいます。 とにかく自動車で走りまくり、各地の製糸場のあった場所や親しかった長野濬平の墓参りをして、だいたいの初期の目的は達成できました。 今辿ってみても山道が多く長距離なのに、当時はどんなに大変だったろう、と思わずにはいられませんでした。 行ってみてよかった。書いたものだけではわからない感覚のようなものを感じることができました。追い追い詳しく書いていきます。 博多にて、携帯電話より送信


九州へ

2009-09-22 23:01:46 | 旅行記

全く秋の気配だというのに、今週後半に遅い夏休みをとることにしました。

どこにいくか?

いろいろ考えた結果、九州へ “堅曹さんを追いかけて” 行くことにしました。


自叙伝『六十五年記』には、

彼が農商務省の役人として、明治21年(1888) 3月20日から4月12日まで、

九州聯合共進会の出席と製糸業の視察を兼ねて九州へ出張したことが詳しく書かれています。



大きな地図で見る



横浜から船で九州に行き、中津宇佐をとおり、大分へ。

共進会の褒賞授与式に臨席して、多くの製糸場や織物工場を視察する。

そして富岡製糸場に習いに来た工女たちの招魂祭にも参列する。

その後竹田に行き、阿蘇山の北側をまわりながら、熊本へ。

ここでは器械製糸の黎明期から深いつきあいのある長野濬平に会いにいき、

多くの有志らに素晴らしい演説を行う。

そして船で長崎へ渡り、ここでも演説や談話をする。

帰りは長崎港から船に乗り、下関と神戸に寄りながら横浜に帰る。



この22日間にわたる九州の旅を、できるだけ書き残されている道順でたどってみようとおもう。

当時は船と馬車、徒歩で通ったルートを

飛行機と新幹線、自動車、フェリーをつかって4日間でまわる駆け足の旅となります。

堅曹さんが見た風景や名所旧跡も訪ねてみます。

ただ一番見たいとおもっている、100年以上も前の製糸場はもうほとんど跡形もないでしょう。

せめてあった場所だけでも確認して、またなにか碑でもあれば見てきたいとおもっています。


最後の卒業式

2009-09-18 22:43:04 | 日記・エッセイ・コラム

今日は大学生の息子の卒業式でした。

我が家の三人の子供のこれが最後の卒業式です。



9月卒業は人数が少ないので、とてもアットホームな感じでした。

学長の話も学部長の話もゆっくり聞けました。

しかも卒業生は1人づつ登壇して

学部長から「おめでとう!」という言葉と握手をしていただいて学位記をいただきました。


なんだか、中学や高校の卒業式みたい、とおもいながらも、親としては写真をパチリ!


Cimg9680 学位授与



式典が終わってから明治45年につくられ国の重要文化財になっている旧図書館に行きました。

ここには小川三知がつくった有名な「ステンドグラス」があります。


 Cimg9700 旧図書館

   


       Cimg9691_3 ステンドグラス


「Calamus Gladio Fortior」(ペンは剣よりも強し)と建学の精神が書いてあります。


図書館をでて、「学士さんだね、卒業おめでとう!」と息子にいいました。

これで親の務めが終わったと、感慨が深くなりました。



帰りに近くにある私の母校に寄って、ここに毎日通ったんだよ、なんて言って子供に見せました。

もう40年も前のはなし。


ずいぶん町並みも変わったけれど、学校の前の坂道を上がるとあの頃の気持ちがすぐに思い出され、

今日の私は、親になったり、学生になったり。


心に残る穏やかな秋の一日でした。


『原三溪翁伝』と市民研究会の今後

2009-09-15 14:04:59 | 原三溪市民研究会

久しぶりの雨になった12日の土曜日は横浜の「原三溪市民研究会」に行きました。

発足して丸2年。

当所の目的『原三溪翁伝』出版にむけての活動は無事終りをむかえました。

10月に待望の発売となります。



『原三溪翁伝』 藤本實也著 A5判・936頁 定価16800円 思文閣出版

Img065_2 ←詳細はクリック



原三溪が昭和14年(1939)に亡くなり、

横浜の経済界の重鎮らが発起人となって三溪の評伝出版にむけて委員会をつくった。

そこで『開港と生糸貿易』『富岡製糸所史』『日本蚕糸業史』の著者であり、

横浜在住の農学博士藤本實也氏に執筆を依頼。

昭和20年(1945)に原稿が完成。

しかし戦後の混乱期となって出版にいたらず、原稿は60年の間眠ったままとなる。


その幻の原稿が横浜開港150年という節目にやっと本になりました。

原稿用紙3600枚、936頁というボリュームですが、

それだけ原三溪の実像にせまる評伝となっています。

一般に知られている生糸貿易で成功した事業家で三溪園を作った人という面だけでなく、

横浜の経済人としての貢献、関東大震災後の復興委員長としての活躍、

美術愛好家として活動等々、多才な人物像が丹念に描かれています。

ぜひ、多くの方に読んでいただきたいとおもう。



そこで、この原三溪市民研究会は当初の目的の出版は達せられたので、

今後どうするかという話し合いをしました。

解散をしてしまわないで、せっかく2年間一緒にやって親しくなった方々と、

これからはこの『原三溪翁伝』を自分たちももっと読み込んで学び、

市民に原三溪のことを普及する活動をしていこう、ということになりました。

これからも私の月に一度の横浜通いは続きます。