以前に書いた堅曹さんの名前の読みかた。
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もう考えられることは全部考えたと思っていたのですが、あれからもいろいろな情報がでてきたり、発見したり、と展開があったのです。
年内にご報告をと思い、また名前について書かせていただきます。
まずいままでの見解のまとめから。
①群馬のIさんから提起された、航海免状の申請書に「ケンゾウ」と記されていること。「Hayami Kenzo」と書いてあることから、「けんぞう」が正しい。
②私の最初のブログで書いた考え。親のつけた読みかたは「けんぞう」。しかし途中から堅曹さん自身の意思で読み方を「けんそう」にしてそれを通した。
③速水堅壯の考え。本来は「けんそう」。海外に行くときだけ「けんぞう」にした海外一時パスポート説。
この3つの見解がまとまって①の群馬のIさんからは③の説の支持の表明をコメントでいただきました。
このときのコメントでは夢酔い人Kさんから②の親の付けた、というのは間違いで、幼名は惣三郎で父が亡くなって家督相続のときに堅曹となっているから後見人に付けられたとのご指摘もありました。
私も幕末の渡航についてもう一度考えてみると、海外一時パスポート説もかなり有力ではないかとおもっていました。
しばらくして夢酔い人Kさんからいろいろな情報がもたらされました。
親戚の歴史学者の方にこの問題の検討すべき点を尋ねてみたそうです。
このような場合、歴史上の人物の読みについて検討する場合ですね、学者としてするのはまずその人物の名前の表記の間違えている例を調べてみる、ということでした。
たとえば「速水」は「はやみ」と読みますが、文献にはよく「速見」と間違って書かれています。ということは「速水」は「はやみず」ではなく「はやみ」といわれていたのだと確定する材料の一つになるのだとか。なるほどね~。
「堅曹」も「賢曹」というのがよくあります。ということは「堅」は「けん」でいいということですね。
ただ「曹」の字が他の字になっていたのはみたことがありませんでした。
そんな話を聞いてひと月ほどたった頃、Kさんから電話がありました。
なんと「速水堅曹」のことを「早水賢造」と書いてある記事があったというのです。『群馬県蚕糸業史』上巻 P680
そしてKさんは堅曹の藩士時代の上司であり、一緒に前橋製糸所や研業社を創立した深澤雄象の御子孫に会いに行ったときの興味深い話をしてくれました。
Kさんが話の中で「けんそう」さんが、と話していたら、私たちは「けんぞう」とよんでいますとおっしゃったそうです。何代も前から「けんぞう」と伝えられている、というのです。
驚きました。
代々「けんぞう」とよんでいたという人には初めて出会いました。遠い親戚でもみな「けんそう」だったので。
そして最近モニュメントの準備のため『速水家累代之歴史』をもういちど読み返していたら、堅曹さんの父政信さんの幼名の次の名が「堅藏」であったと書かれているのに気がつきました。
これで父の名前を受け継いで「堅曹」と名付けたことがわかりました。
「堅藏」から「堅曹」へ。この「藏」は「ぞう」って読みますよね。辞書によると「そう」ともよめるそうですが、「けんぞう」が普通かもしれない。
まとめてみます。
新たに出てきた名前に関する情報
・間違った表記から推測する当時の名前の読み方。明治4年「早水賢造」というのがある。
・藩士時代からの付き合いの深澤雄象家では「けんぞう」と呼んでいる。
・堅曹の父「速水政信」の若いときの名前が「堅藏」
これらのことを考え合わせると最初の読みは「けんぞう」だったのではないかと思います。
そうすると一番最初に私が提唱した、もともとは「けんぞう」だったがいつからか「けんそう」で通そうと意志をもって家族親戚にそう伝えていった、という②の説が真実に近いのかもしれません。
嘉永2年(1849)の家督相続のとき名前を亡き父の「堅藏」からとった「堅曹」とつけ、少なくとも明治9年(1876)の米国渡航までは「けんぞう」であった。
ちょうどその頃から中央省庁の役人となり東京へ引っ越しているので、名前の読みも意識的に「けんそう」としていったのか。
または藩士時代を知らない新しい人間関係のなかで「けんそう」と呼ばれることが多くなり、自然とそうなっていったのか。
思ってもいない展開になってきて興味はつきません。
また心掛けていると新しい証言や文献が出てくるかもしれません。
そうしたら、またご報告します。
でも草葉の陰の堅曹さん、どう思っているんだろう。俺の名前で何やってんだ!って
こっちにきて教えてくださいよー、って言いたいですけどね。