堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

皆様よいお年を

2007-12-28 19:15:04 | あいさつ

今年も残すところあと3日となってしまいました。

今日は築地へ行ってきました。

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毎年恒例、いつものお店へ行って家族の好物のお正月食材を買い求めます。

ごった返して、年の瀬を感じさせてくれ、ウキウキしてしまいます。

行くのはいつも楽しみです。



さてそんな年末を迎えて、今年を振り返ると、

8月25日から思っても見なかったブログをはじめてしまい、今回でプチ記念すべき50本目の記事となりました。

約4ヶ月でよく書いたものだと、2,5日に1本は書いたのかと思うと我ながらびっくり!

つまらない記事も多かったと思いますが、お付き合いしてくださった皆様に感謝いたします。

ブログを書くことが生活の一部となってしまいました。ランナーズハイのような感じです。(ヤバイのかな?)

5年間調べてきたことを少しずつまとめてみる、いい場所を与えられたようにもおもいます。

忙しかったけれど充実した1年だったといえます。

また来年に期待してつなげていきたいと思っています。

皆様もどうぞよいお年をお迎えください。

  



 お知らせ

  元旦の朝 NHK総合テレビ 8:00~9:58(生放送) 

  「平成20年 ニッポン、心の原点」

  日本各地の「未来の世界遺産」からの生中継で、「富岡製糸場」からも行われます。

  是非ご覧ください。




「けんそう」と「けんぞう」 続編

2007-12-25 22:33:42 | 人物

以前に書いた堅曹さんの名前の読みかた。

カテゴリで「人物」をクリックすると以前の記事が読めます。

もう考えられることは全部考えたと思っていたのですが、あれからもいろいろな情報がでてきたり、発見したり、と展開があったのです。

年内にご報告をと思い、また名前について書かせていただきます。


まずいままでの見解のまとめから。

①群馬のIさんから提起された、航海免状の申請書に「ケンゾウ」と記されていること。「Hayami Kenzo」と書いてあることから、「けんぞう」が正しい。

②私の最初のブログで書いた考え。親のつけた読みかたは「けんぞう」。しかし途中から堅曹さん自身の意思で読み方を「けんそう」にしてそれを通した。

③速水堅壯の考え。本来は「けんそう」。海外に行くときだけ「けんぞう」にした海外一時パスポート説。

この3つの見解がまとまって①の群馬のIさんからは③の説の支持の表明をコメントでいただきました。

このときのコメントでは夢酔い人Kさんから②の親の付けた、というのは間違いで、幼名は惣三郎で父が亡くなって家督相続のときに堅曹となっているから後見人に付けられたとのご指摘もありました。

私も幕末の渡航についてもう一度考えてみると、海外一時パスポート説もかなり有力ではないかとおもっていました。



しばらくして夢酔い人Kさんからいろいろな情報がもたらされました。

親戚の歴史学者の方にこの問題の検討すべき点を尋ねてみたそうです。

このような場合、歴史上の人物の読みについて検討する場合ですね、学者としてするのはまずその人物の名前の表記の間違えている例を調べてみる、ということでした。

たとえば「速水」は「はやみ」と読みますが、文献にはよく「速見」と間違って書かれています。ということは「速水」は「はやみず」ではなく「はやみ」といわれていたのだと確定する材料の一つになるのだとか。なるほどね~。

「堅曹」も「賢曹」というのがよくあります。ということは「堅」は「けん」でいいということですね。

ただ「曹」の字が他の字になっていたのはみたことがありませんでした。



そんな話を聞いてひと月ほどたった頃、Kさんから電話がありました。

なんと「速水堅曹」のことを「早水賢造」と書いてある記事があったというのです。『群馬県蚕糸業史』上巻 P680

そしてKさんは堅曹の藩士時代の上司であり、一緒に前橋製糸所や研業社を創立した深澤雄象の御子孫に会いに行ったときの興味深い話をしてくれました。

Kさんが話の中で「けんそう」さんが、と話していたら、私たちは「けんぞう」とよんでいますとおっしゃったそうです。何代も前から「けんぞう」と伝えられている、というのです。

驚きました。

代々「けんぞう」とよんでいたという人には初めて出会いました。遠い親戚でもみな「けんそう」だったので。


そして最近モニュメントの準備のため『速水家累代之歴史』をもういちど読み返していたら、堅曹さんの父政信さんの幼名の次の名が「堅藏」であったと書かれているのに気がつきました。

これで父の名前を受け継いで「堅曹」と名付けたことがわかりました。

「堅藏」から「堅曹」へ。この「藏」は「ぞう」って読みますよね。辞書によると「そう」ともよめるそうですが、「けんぞう」が普通かもしれない。



まとめてみます。

新たに出てきた名前に関する情報

・間違った表記から推測する当時の名前の読み方。明治4年「早水賢造」というのがある。

・藩士時代からの付き合いの深澤雄象家では「けんぞう」と呼んでいる。

・堅曹の父「速水政信」の若いときの名前が「堅藏」

これらのことを考え合わせると最初の読みは「けんぞう」だったのではないかと思います。

そうすると一番最初に私が提唱した、もともとは「けんぞう」だったがいつからか「けんそう」で通そうと意志をもって家族親戚にそう伝えていった、という②の説が真実に近いのかもしれません。

嘉永2年(1849)の家督相続のとき名前を亡き父の「堅藏」からとった「堅曹」とつけ、少なくとも明治9年(1876)の米国渡航までは「けんぞう」であった。

ちょうどその頃から中央省庁の役人となり東京へ引っ越しているので、名前の読みも意識的に「けんそう」としていったのか。

または藩士時代を知らない新しい人間関係のなかで「けんそう」と呼ばれることが多くなり、自然とそうなっていったのか。


思ってもいない展開になってきて興味はつきません。

また心掛けていると新しい証言や文献が出てくるかもしれません。

そうしたら、またご報告します。


でも草葉の陰の堅曹さん、どう思っているんだろう。俺の名前で何やってんだ!って

こっちにきて教えてくださいよー、って言いたいですけどね。


モニュメント その2

2007-12-22 00:18:05 | お墓

12月1日のブログで書いた「速水堅曹翁を偲ぶモニュメント」

その後の進行状況。



12月12日 取手市の瑞法光寺で現場工事はじまる。

風もなく暖かい日です。

Cimg2108_2 朝一番で「石梅」さん到着

Cimg2109 まずは「ミニユンボ」を降ろします。大活躍します

Cimg2111_2 丁寧に測量

Cimg2117_2 ミニユンボで掘りはじめます

Cimg2119_3 川越のお墓の中にあった竿石やモニュメントに使わない上台や水鉢等。どれもきれいに洗浄されています。

捨てるのは忍びなくて川越から持ってきて使わないものは全部モニュメントの下に埋めることにしました。


Cimg2138 一つずつ掘った穴の中に。ユンボここでも活躍

Cimg2144_3  全部入りました 

Cimg2150_2  上に土がかぶせられ

Cimg2152_2  木の枠と鉄筋が付けられてこの日は終了。最後は真っ暗になってしまいました。


Cimg2201_2  2日後コンクリートで固められました


ぐんまシルク

2007-12-21 12:48:43 | 勉強会、講演会

さて世の中慌しくなってまいりました。
随分と更新できなくて、師走のごとく速水家の嫁も走っておりました。

ブログに書きたいこともいっぱいあったのですが、電脳生活に引っ張られないように我慢して本業に精出しておりました。

一段落ついたのでやっと更新。また来週からは年末年始脱兎のごとく忙しくなりそうです。



忙しいなか、13、14日と前橋に行ってきました。13日は本年最後の歴史WGの勉強会。
そして夜は『会津若松記』を書かれた松島洋子さんと興味深い楽しい話をたくさんしました。

翌日伝道師協会の研修会と忘年会。

内容については伝道師協会のブログ「富岡製糸場世界遺産化情報」に詳しいのでそちらを参照してください。
この研修でとても印象に残ったのは、日本の養蚕製糸が絶滅に近いくらい危機的状況だということ。

現在製糸工場は全国にたったの2軒しかない。

養蚕農家は年々減り続けている。

外国からの生糸と絹製品の輸入に押され続け、品質より経済効率だけで伝統の養蚕製糸は駆逐されようとしている。
そういう状況だとはおおよそわかってはいたけれど、はっきりと数字で示され、当事者から「死に体です」「危機的です」と聞かされるととても悲しくなりました。

あんなに一生懸命堅曹さんがやってきた日本の製糸業。

明治42年には世界で一番の生糸輸出国だった日本が100年後にはもういつ絶えてもおかしくないところまできているなんて。
いい品質の生糸はいまでも国内で作れるのに。

群馬県ではそのことを考えて品質の高い「純国産絹製品」の「ぐんまシルク」というブランドを創りすべて国内産、トレーサビリティーのはっきりした品物をつくっています。
ただいくら生産者側がいいものを創ってもそれを購入していく消費者がいなくては成り立ちません。
そんな話をきいて悲しんでいるばかりではなく、私に出来ることはと考えれば、国産のシルクを消費者としてもとめていくこと。そう強く思いました。


研修会には偶然にも着物を着ていきました。

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何十年とご無沙汰していた着物を今年の春からぼちぼちと機会があれば着てみようとおもい、心掛けてきました。
いままでは結婚前の娘時代のものや義母や母、祖母の形見のものばかりで間に合わせてきました。

自分で着物は買ったことがありません。

でもこの研修会で学んでもし着物を作るなら「ぐんまシルク」で、などと殊勝なことを思ってしまいました。
幸い専門家の方々が手に入れられるところをすぐに教えてくださり、うれしくおもいました。

ただ先立つものがないのでいつになることやら、ですが。


『会津若松記』

2007-12-12 00:51:59 | 本と雑誌

今日は堅曹さん探しで知り合った方の素敵な冊子を紹介します。

幕末紀行 第1号 『会津若松記』 松島洋子

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彼女はひょんなことから幕末の志士、大鳥圭介に興味をもち彼の足跡を訪ねる旅を続けています。

大鳥圭介とはご存知の方もおおいでしょうが、

幕臣、官僚。兵庫生まれ。天保4年(1833)~明治44年(1911)。

父は医師。岡山藩の閑谷学校で漢学、適塾で医学、江川塾で西洋砲術を学ぶ。

幕府に用いられ歩兵奉行に進む。戊辰戦争では函館五稜郭で抵抗するが降伏し、投獄。明治5年(1872)に出獄後、新政府に出仕。

工部大学校長、元老院議官などを経て、19年(1886)から学習院長となる。22年(1889)清国公使として赴任。のち朝鮮公使を兼任。日清戦争開戦の端をつくる。

(国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」より)

今年の春に彼女と知り合い、夏に大鳥圭介を調べていく過程でのいろいろな体験を聞かせてもらいました。とても面白かった。

いわゆる偶然なんだけれど不思議なことがあったり、知りたいと強くおもうとその事にめぐり合えたり、私が堅曹さんを追いかける過程で経験したことと同じようなことを彼女も経験していて、ものすごく惹かれていきました。



この冊子は彼女がそんな体験をしながら訪ねた大鳥圭介の戊辰戦争追体験の紀行文です。

今回は会津若松地方。白虎隊の激戦の地。

主に土方歳三との関係について視点を定め、足跡を辿っていきます。

彼女は現地に行ってみてそこで感じること、いわゆる直感を大切にして旅をしていきます。

私の先祖調べも可能な限りかならず現地を訪ねてみます。そうすると必ず得ることがある。

その共通体験はうれしいものでした。傍からみると変わった二人かもしれませんが。


まずは大鳥圭介のお墓参りで自然と出た「必ず真実を見つけますから」という誓い。そうしてでかけた会津若松への旅。

行く道すがらはじめて見る景色に懐かしさで胸がいっぱいになってしまう。

そして偶然行き着いた近藤勇の墓でメッセージノートに無意識のうちに“誠”と大きく書いてしまった驚き。

そういった不思議な数々の体験は彼女が本当に大鳥圭介の真実を知りたいという真っ直ぐな強い気持ちが引き起こしているということに心を揺すぶられる思いがしました。



飽きさせずに読ませるとても上手な文章です。

幕末や戊辰戦争に興味のある方ならとても面白いとおもいます。大鳥や土方の目線で彼女がどこまで戊辰戦争の戦いを会津の地で感じていったのか。

東北を訪ねる旅はまだまだつづき、函館まで追いかけていくそうです。

続きも楽しみです。

お読みになりたい方は私までメールまたはコメントでお知らせください。