堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

『原三溪翁伝』の新聞記事

2009-03-26 10:16:21 | 原三溪市民研究会

今月の原三溪市民研究会の時に朝日新聞の記者が研究会の様子を取材していました。

そのことが3月24日の朝日新聞神奈川版に載りましたのでお知らせします。


  よみがえる「ハマの礎」  「原三溪評伝」今秋出版

  浜銀系財団が費用助成  60年越しの悲願実現へ 


という見出しです。

ネットで見ることができるので、ご覧ください。(見出しは多少違っています)


http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000000903240005



著者の藤本実也氏と内海孝先生の長年の思いがこの横浜開港150年の年に結実しました。

縁があってこの活動に参加させていただけたことを本当に感謝します。


速水堅曹の肖像写真

2009-03-24 23:52:52 | 人物

ここに2枚の写真があります。


    Crw_8862_3  ①           Img033_3  ②



         

①は2年前、群馬県立歴史博物館で偶然見つけた、堅曹さんの写真。

これは私が「写っている人は速水堅曹です」と言うまで、

「洋装の男性」というキャプションがついた小川一眞という明治時代の有名な写真家の

貴重な一枚という写真でした。

このブログを始めた時真っ先に記事(←クリックすると読めます)に書いています。



そしてもう一枚の②は

   『日米生糸貿易史料 第一巻・史料編1』 加藤隆 阪田安雄 秋谷紀男編 1987

という群馬県出身でアメリカで日本の生糸貿易を成功させた先駆者、星野長太郎・新井領一郎兄弟の

史料集の本の口絵ページに載っている速水堅曹の写真です。

キャプションは 速水堅曹〈天保10年~大正2年〉 (UCLA所蔵) となっています。



先日の歴史WGの時、一緒に勉強している夢酔い人Kさんが、午前中にこの本の写真を見つけ、

あの小川一眞の写真と同じだ!とおもい、コピーをとってきて、指摘してくれました。



こうして並べてみると、全く同じ肖像写真ですね。

ただ、①は手札版といわれるもので、名刺サイズの小さいもの。

②は口絵なので大きさははっきりしませんが、

楕円の形で背景や洋服も①にくらべると多く写っています。




実はこの本は3年前から持っており、何度も②の写真は見ていて、

UCLAに堅曹さんの写真があるなら、いつか行って見てみたいなと思っていたのです。

てっきり堅曹さんがアメリカに行った時に撮って、新井領一郎に渡したものだと思っていました。

ですので、2年前に県立博物館で①の写真をみつけた時にも全く比較しなかったのです。

その時に①と②を比べていれば、すんなりと速水堅曹の写真だと確定できたのにと

今更ながら悔やんでいます。(ちょっとゴタゴタしたので)



ほんとうに夢酔い人Kさんの鋭さには頭がさがります。

それに引き換え、私の思い込みゆえいままで気がつかない愚鈍さにわれながらがっかりです。


①の写真を寄託されていた行田市立郷土博物館・元副館長のTさんにお知らせしたところ、

大変驚かれ、この2枚の写真の解説をしてくださいました。


  おそらく4×5インチ程度の大きさの湿版で撮影した原版があったのだろうとおもいます。

  それを鶏卵紙に焼きつける際に、顔だけを名刺サイズで焼いたのが富岡にあった写真で、

  焼き枠で楕円形に縁をカットしたのがUCLAなのでしょう。

  したがって、UCLAのほうが、富岡の写真より大きい紙焼き写真かと思います。


なるほど、同じ原版から作られていることがはっきりしました。

とてもうれしいです。


講演会「原三溪を考える」

2009-03-15 17:32:12 | 原三溪市民研究会

夜中から強風と雨のなか、14日は原三溪市民研究会に行ってきました。


毎月、横浜のみなとみらいの横浜美術館で続けてきた勉強会です。

一昨年秋から『原三溪翁伝』の稿本を読み解き、今秋には刊行の予定となりました。

今、校正の1回目が終わった段階です。

そこで、3月28日(土)に横浜美術館協力会で私たちが講演をすることになりました。


  開港150周年・横浜美術館協力会設立25周年講演会

  演題 「原三溪を考える」

  講師 原三溪市民研究会:研究会代表 内海孝(東京外国語大学教授)および市民メンバー

  日時 2009年3月28日(土) 14:00~16:00(開場13:30)

  会場 横浜美術館レクチャーホール(聴講無料)


原三溪とはどういう人物だったのか。

『原三溪翁伝』を読んだ私たちが三溪のさまざまな活動や思いを紹介します。


昨年末より準備をはじめ、1月2月でグループごとにまとめ、

昨日は当日使うパワーポイントの最終チェックと内容の最終検討をしました。

登壇して発表するのはグループのリーダーと先生になりますが、

全員の総意が組み込まれた内容です。


『原三溪翁伝』から三溪の生涯を3つのグループにわけて

それをまた一人ひとりに割り振って読解していきました。

それぞれが自分の担当したパートをしっかりと読み、まとめて、要点を提出し、

それをグループで検討して発表の形としていきました。


このようなグループ学習の勉強は学生のとき以来です。

結構口角沫飛ばして、激論にちかいこともしました。

熱くなりますね。

でも皆、三溪さんが大好き、という人ばかりで、その素晴らしさを伝えたくって能弁になるのです。

そして、何より藤本實也の『原三溪翁伝』がそれをあますところなく伝えているので、

ついついこんなことが書かれていた、と熱く語ってしまうのです。


この一連のまとめの勉強を通して、いっそう原三溪について詳しくなりました。

先生のねらいはそこにあるのじゃないかと思うくらいです。

そうやって準備した、28日の講演会、是非大勢の方に聞きに来てほしいものです。

くわしくはTEL045-221-3863まで。




帰りは雨もあがり、土曜日ということもあって、多くの人がみなとみらいの街に遊びに来ていました。


Cimg7465  ランドマークプラザ入り口


Cimg7468  ドッグヤードガーデン


写真は横浜美術館のそばのランドマークプラザ入り口のモニュメントと

隣接している「ドッグヤードガーデン」。(明治29年竣工の旧横浜船渠第2号ドッグ、国重要文化財)


Cimg7469  大道芸


脇のイベントスペースではお兄さんが大道芸をしていてました。

ドッグヤードガーデンは2号ドッグで、日本丸が停泊している「日本丸メモリアルパーク」が1号ドッグでした。


Cimg7493  日本丸メモリアルパーク


ブラブラしながら見ていて、はじめて知りました。


歴史WGで演説文を読む

2009-03-14 04:09:42 | 勉強会、講演会

12日は毎月の歴史ワーキンググループの勉強会でした。


いつもより早く家を出て、午前中に群馬県立図書館にいきました。

前橋市の古い地図を閲覧したかったので。

明治43年のものと大正12年13年のがあり、出してもらいました。


堅曹さんが幕末から明治前半に前橋で住んでいた場所や製糸所の場所を確認するため、

なるべく当時に近い地図でとおもったのですが、

閲覧した地図ではだいぶ道路もできていて、細かい番地までは入っていなかったので、

おもったほどの結果は得られませんでした。




午後は前橋市立図書館で勉強会です。

堅曹さんの自叙伝の『六十五年記』から、明治20年のところを読んでいきます。


10月23日富岡で行なわれた農工商の集談会での演説です。

「農工商振起の根源を論ず」というタイトルです。


  内容は子弟の教育に尽きる、ということ。しかも家庭教育が大事である。

  父母の特に母の家庭でのしつけは大切であり、学校に入れ教師にだけまかせるのではなく、

  父母は子供に良い友人を得、品行を謹ましくさせ、一生の目的を定めるように促す

  精神的な面を育てることが務めである。


  そういったことが今は行なわれなくなり、いつかこれが国家の盛衰にかかわってくるだろう。

  親に孝行もせず、驕りおもい上がっている子供は自分の意見ばかり言う。

  安月給の役人で満足していたり、税金取立ての役人勤めを好むばかりで、

  大きな夢にむかって事業をおこし成功したいという目的をもつ者は至ってすくない。


  世の中や親たちが権力のあるものにあこがれ、役人を望んでいる。

  したがって尊敬される仕事は職業ではないと信じられ、

  我が子たちを金の取れる地位につけようと望むことが、

  そういった虚位をのぞむ子供ばかりをつくっている実情だ。


いやー、今も全く同じである。100年以上前とちっとも変わらない。

読んでいた一同、感心するばかり。


  このあと、世界の経済状況をデータを使って詳しく説明。

  堅曹さんお得意の数字から読みとく解説はわかりやすく、筋が通っている。

  損得の判断は的確である。


  教育は学校にだけ任せるのではなく、幼少のころより、物事をよく学び、勉強をして、

  何でもいいから一つの事だけは誰にもまけない卓越したものを得なさいと、

  技術の種を植え付けるのです。

  それがひいては農業、工業、商業を盛んにすることにつながる。



いまでいうオンリーワンになれ、っていうことでしょうか。

実業の考えが息づいている。

堅曹さん自身の生き方がオーバーラップされている。

そう思いました。


旧横田家住宅と六工社跡

2009-03-10 23:56:30 | 富岡製糸場

9日の月曜日、病気見舞いがあり日帰りで長野に行ってきました。

時間があったので、以前より訪れたいとおもっていた松代の旧横田家住宅と六工社の跡地を見てきました。



長野駅からはバスで30分。


 Cimg7355 松代の町の入り口


松代は真田10万石の城下町だったところで、松代城跡や真田家関連の史跡があり、

また佐久間象山の出身地でもあり、墓所や記念館もあります。

旧横田家住宅というのは、富岡製糸場といえば『富岡日記』を思い起こすひとも多いとおもいますが、

その著者の和田英(旧姓 横田)の住んでいた家です。


  Cimg7363 旧横田家住宅 長屋門



横田家は150石の真田藩の中級武士で、この家は江戸時代末期に建てられています。

当時の松代の中級武士の住宅の特長をよく残しているそうで、国の重要文化財にも指定されています。

立派な長屋門をくぐるとかやぶき屋根の主屋があり、中にあがって見学しました。

式台のある玄関は時代劇でみる武士の家そのままです。


 Cimg7367 主屋


 

座敷や勝手のようすなどは、商人の家とは違う簡素で端正な感じ。


 Cimg7380  土間から家の中 お雛様が飾られていた


 

 Cimg7378 勝手


どの部屋からも庭がみえ、風情をたしなむ武士の生活も感じられます。


 Cimg7400 庭


庭の奥には横田家に使えていた人たちが耕していた300坪の菜園があり、

屋敷の土地の広さは全部で約1000坪で、他に隠居屋と土蔵があります。


武士の家とはどんなものだったのか。

堅曹さんの書き残した図面から住まいを想像するのにとても参考になりました。




次は富岡製糸場にならってつくられた民間製糸場「六工社」の跡地にむかいました。

横田家より1km半くらいでしょうか。

西条(にしじょう)という所にあります。タクシーでいきました。

昨年見にいった相棒Tさんから、大体の場所と案内板があるだけだと聞いていきましたが、

タクシーの運転手さんも知らないほどの史跡です。


 Cimg7361 松代の町並


 

武家屋敷の名残を残す街中を抜け、小さな川沿いで、松代のメイン通りに入る橋のところにありました。


 Cimg7409_2 製糸場前の川 神田川


 Cimg7410_2 まわりの景色




「六工社」とは藩士大里忠一郎が同士らと建設をし、横田英らが富岡製糸場の伝習から帰ってくるのを待って、

明治7年(1874)7月開業した民間では黎明期の蒸気製糸場です。

工女50人繰りの規模で、その後明治12年(1879)には100人繰りとなり、

そこでつくられる糸は「信州エキストラ糸」として有名でした。

『富岡日記』の中にこの六工社の開業の頃のことも詳しく書かれています。

大里忠一郎はその後も製糸業で活躍をし、速水堅曹が作った直輸出の同伸会社では取締役にもなっています。



本当に木の立て札と案内板以外なにもない。


 Cimg7406 六工社跡地


 Cimg7408「フランス式改良民間蒸気機械製糸発祥之地 西条六工社製糸場の跡」


石垣が当時のものだといわれています。



廃屋のようなトタン屋根の建物がいく棟かあります。

荒れ放題で草木も絡まるようななかを奥まで見にいきました。


  Cimg7417  


  Cimg7416_2 裏はすぐ山


 


途中に小川からひいた水路がありました。

大工場だったはずですが、敷地がどこまでだったのかもよくわかりません。

  


当時の人々が情熱をもって、苦労を重ねながらも資金をあつめ建設し、

藩士や娘らを富岡製糸場に伝習に行かせてまでしてつくられた製糸場。

最盛期にはきっと壮大な工場だったのでしょう。

三方に見える山々の景色だけが当時とかわっていないのだろうと想像します。

それにしてもあまりにも哀れな跡地にこころ痛みました。