堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

速水堅曹第百回忌

2012-01-17 23:59:12 | お墓

1月17日、今日は堅曹さんの99回目のご命日。

そう、第百回忌です。


堅曹さんのお墓のある取手の瑞法光寺で

家族とゆかりのある方にお集まりいただき法要をおこなった。



前日はお墓とモニュメントを掃除して、

お供物などの準備をし、

堅曹さんが亡くなった時の新聞や雑誌の記事を使って

出席者にお渡しする資料をつくった。



今朝はとても寒かった。

しかし風はなく、陽がでてくればお墓参りも大丈夫かな、とおもいお寺へ。


皆さん10時半ころにはお集まりくださり、

午前11時から本堂で法要のお経がはじまった。

法要の席には幾度も出ているし、身内のものも経験しているが、

今回はお経を聞きながら、なにか違った心持になった。


Img_4445 法要



すごく心に沁みこんでくる、というのか、

気持ちと想いと法要がひとつになった、というのか、

うまく言い表せないが、心から「いいご法要だな」と感じられた。



確かに百回忌などというものはなかなかできるものではない。

堅曹の次男の子孫である私共でおこなっていいものなのか、

少人数でこじんまりと、と考えたがそれでもいいだろうか、等々

最後まで悩んでいた。


それだけに法要がはじまって、とても安らかな気持ちになったときは

ああ、これでよかったんだ、

こじんまりだけど、堅曹さんきっと喜んでくれている、とおもえた。


昨年堅曹さんの姉の子孫である遠藤さんの本家からいただいた

百年以上も前に撮られた堅曹さんと奥さんの写真を飾らせてもらった。

とても写真が活きている。


Img_4439 祭壇




法要が終わり、お墓に移動してお焼香をした。

モニュメントのところで集合写真も撮った。


Img_4462 集合写真



モニュメントはちょうど4年前の1月17日に完成披露をおこなっている。

あれから4年。。。。


Img_4474 速水堅曹翁を偲ぶモニュメント


今日もあの日と同じように穏やかな冬晴れ。

真冬だけれど陽が差してあたたかく、気持ちがいい。


そういえば、墓地では蜂が一匹私達にずっとまとわりついていた。

写真を撮る時は住職の衣に止まって。。。

あれ~、もしかしたら堅曹さん?!

(そんなこと、ある?)



客殿にもどりお斎となった。

献杯をし、集まった方々と堅曹にまつわることをたくさん語り、

和気藹々と話が弾んだ。

実に和やかな楽しい時間が過ぎた。


堅曹の100年目の追善供養がとてもいい形でおこなえたようにおもう。

とてもうれしい。


速水家本家の墓参り

2011-06-05 16:40:45 | お墓

昨日青山墓地にある速水家本家の墓参りにいってきた。


速水堅曹夫婦の墓は、取手のお寺にあるが、

その他の方々は堅曹が生前に求めた青山墓地におさめられている。


4年前に亡くなられた本家のご当主も青山である。

生前先祖調べでお世話になり、命日も近いので、お参りさせていただいた。

奥様は現在95歳になられ、時々電話でお話しをさせていただく。

とてもお元気でいつもこちらのほうがパワーをいただく。

あのように生きられるなら私も長生きしたい、とおもうほどである。



さて、久しぶりの青山墓地。

東京都の整備事業がだいぶ進んだとみえて、全体にきれいになってきた。

でもお陰で明治初期に建てられ、現在は継承者のいない外国人の墓などが処分されて、

歴史的意味のあるものがなくなったことは大変残念で、胸が痛む。


墓を掃除し、花を手向け、線香をあげてお参りさせていただいた。


Photo_4 青山墓地の速水家の墓




それにしてもこのお墓の位置は、いろいろな事を考えさせる。

尊敬していた大久保利通の墓からまっすぐ裏のところである。

この場所を選んだ堅曹のおもいを想像してみる。


ひときわ大きい大久保公の墓にいってみた。


Photo_2 大久保利通の墓


なんと墓前にある大きな一対の燈籠が先日の大地震で倒れていた。


Sbsh0153 倒れた燈籠


Photo_3


この燈籠は当時の勧農局員たちが寄進したものである。

台座のところに堅曹さんの名前も刻んである。

はじめて見つけたときはとてもうれしかった。その時のブログ


地震でこんなふうになってしまったとは。。。

台座は残っているので、なんとか修復してほしいとおもう。


速水堅曹の碑文

2009-01-18 18:28:13 | お墓

「速水堅曹翁を偲ぶモニュメント」に建てられた

碑の文章を紹介します。

撰文は群馬県の世界遺産推進室長で、文学博士の松浦利隆氏です。



   Cimg7051  モニュメントの中央におかれた碑



                   

                        

 速水堅曹は天保10年(1839)、川越藩士速水政信の三男として武州川越(埼玉県

川越市)で誕生、嘉永2年(1849)わずか11歳で家督を継いだ。

 幼少より学問に精進し、14歳で初出仕、黒船警備、京都勤務を経て、文久4年

(1864)石浜幸と結婚し、慶応2年(1866)の前橋城再興により上州前橋(群馬県

前橋市)に移住した。

 明治3年(1870)、藩命により日本初の器械製糸場である前橋製糸所を創立

明治5年(1872)の官営富岡製糸場に先んずること実に2年であった。廃藩置県後は

福島県の二本松製糸会社の創設や米国フィラデルフィア万国博覧会へ審査官として渡米

官営の千住製絨所所長にも就任した。明治12年(1879)その識見と手腕を

見込まれ官営富岡製糸場に赴任、第三・五代所長として十年余の長きに渡り

良質な生糸の生産と赤字体質の改善に尽力、全国に器械製糸の模範を示した。また

この間には、生糸直輸出の同伸会社の創立にも関わった。明治26年(1893)製糸場の

官営廃止後も養蚕改良、製糸改良に腐心、後進の育成に努めた。

 速水堅曹が日本で初めて手がけた器械製糸は明治時代全国に拡大、大きく成長し

生糸輸出は日本近代化の最大の資金源となった。明治42年(1909)日本はついに

世界最大の生糸輸出国となったが、これを見とどけるように大正2年(1913)

堅曹は74年にわたる無私公益に生きた生涯を閉じた。

        

          平成20年1月17日 (速 水 堅 曹  歿 後 95 年)

        撰   文  群 馬 県 世 界 遺 産 推 進 室 長 

                文 学 博 士        松 浦 利 隆

 


横浜外人墓地 バスチャンの墓

2008-10-14 02:33:39 | お墓

案内してくださる方がいて、10月11日に横浜外人墓地にある

エドモンド・オーギュスト・バスチャンのお墓参りをしました。


Cimg5119 外人墓地入り口


E.A.バスチャンは、富岡製糸場を設計したフランス人建築技師です。


フランス・シェルブール出身の彼は慶応2年(1866)、横須賀製鉄所の

ヴェルニーに雇われ、船工兼製図職人として来日します。

明治3年(1870)12月に彼は富岡製糸場の設計図を完成させ、

工事監督をしました。

製糸場が完成して操業を始めると横須賀にもどり、その後上海で結婚をして、

再び日本にもどり、明治21年(1888)横浜で亡くなるのです。


120年も前に建てられた墓ですが、とてもしっかりとして傷みもすくなく、

皆で草むしりをして、水をかけ、手をあわせました。


Cimg5101 E.A.バスチャンの墓



考えてみれば、富岡製糸場の開業にあたって日本は

多くの外国人の力をかりたわけですが、

唯一日本に残り、お墓があるのはバスチャンだけです。


自分が設計した製糸場が130年以上経っても、ほぼそのまま残り

世界遺産として登録されるかもしれないような建物になるとは

思ってもみなかったのではないでしょうか。


他のお墓も案内してもらい、幕末から明治にかけて遠い異国の地で亡くなった

多くの外国人のお墓をお参りさせてもらいました



その後、港の見える丘公園にむかい、公園内にある「大佛次郎記念館」に

行きました。


Cimg5131 大佛次郎記念館


ちょうど「大佛次郎とフランス」という企画展が行なわれており、見てきました。


Cimg5132 ロビー

Cimg5140 サロン


開館30年も経ちますが、とてもステキな内装で、ご遺族から寄贈された蔵書や

再現された書斎の立派さに目を見張り、著書の多さに驚きました。



元町にもどり、昼食をとってから午後は、毎月の勉強会、原三溪市民研究会に

向かいました。

『原三溪翁伝』の出版に向けての準備が本格的になってきて、

今日は初稿の校正の作業に入りました。

この原稿が本になるのかとおもうと、間違いのないようにしなければと

緊張してしまいます。


市民研究会も丸一年がたち、ここまできたんだ、とおもうと

とても充実したものを感じ、また、がんばる意欲がでてきました。


富岡製糸場・工女等のお墓

2008-07-15 00:39:01 | お墓

13日は用事があって、相棒Tさんと群馬県富岡市に行きました。

暑い暑いまるで真夏ですね。



メインの用事の前に富岡製糸場の北にある「龍光寺」に行きました。

ここには官営時代から明治30年代までに働いていた工女さんのお墓が30基あります。

何度も来ていますが、今回はTさんが確認したいものがある、というので一緒に来ました。


   Cimg3959   龍光寺


    Cimg3973    Cimg3968

                    工女さんたちの墓


堅曹さんが建てたお墓も3基あります。

一つは彼の腹心とも言うべき人物で、明治12年製糸場で若くして亡くなった長野親蔵さんのお墓です。

墓の竿石のまわりにぐるっと堅曹さんの追悼文が彫られています。


   Cimg3969     Cimg3971


         長野親蔵の墓と作業中の相棒Tさん


最後に漢詩があり、それをTさんは一文字一文字確認しました。

   東西奔走  拮据十年  有志不遂  一朝斃顛  

   嗚呼男児  生則有造  斃而后巳  有合古道  

   君身雖死  君功不捐  九泉之下  可以瞑焉

   明治十三年二月

          内務省御用掛准奏任 速水堅曹 撰文

                        高橋信貞 書



長野さんのお墓のうしろには、堅曹さんが明治26年の民営引継ぎのときにそれまでに亡くなった工女さんの連名のお墓を2基つくっています。


    Cimg3985  堅曹さんのつくった工女の墓


それぞれ13人と14人の名前が刻まれています。

墓碑の裏には

  表面列記之人名者元富岡製絲所工女也

  明治二十六年十一月建之

  元富岡製絲所長正六位速水堅曹  

と彫ってありました。




次に製糸場の東南にある「海源寺」に行きました。ここにも官営時代の工女さんのお墓があります。こちらは初めて行きます。

ちょっと奥まった場所にあり、自動車だとわかりにくく、通りがかった人に聞いたりして着きました。


    Cimg3995  海源寺


門の中に入って、わ~と視界が開けます。

鏑川の川沿いの高台になるのでしょう、遠くに山並みが見え、とても眺めがいいです。

工男、工女のお墓が門を入って直ぐのところにありました。3基です。

墓地を整理して、この位置に移動してきたようです。


    Cimg3999  工男工女の墓


お参りをしてから、墓地のなかを歩き景色を眺めました。


    Cimg4002 墓地からの景色




このあと、二人で本来の用事をすませました。

そして富岡市立図書館に寄り『川越藩士速水家の墓』を寄贈しました。

製糸場にも寄り、お世話になっている方に小冊子を謹呈させていただきました。


    Cimg4005  富岡製糸場 入口



いろいろ用事をすませ、ポツリ、ポツリ、夕立が降り出すころ帰路につきました。