堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

下村観山「弱法師」(よろぼし)

2011-01-29 11:54:24 | 原三溪市民研究会

東京国立博物館に行って、下村観山の「弱法師」(よろぼし)を見てきました。(1月30日まで)

この絵のことは、原三溪のことを学んでから知りました。

謡曲の「弱法師」の一場面であり、観山は三溪園内の臥龍梅の木に着想を得てこの絵を描いたという。

そしてこの絵を見たインドの詩人タゴールが感銘をうけ、インドに持ってかえりたいというのを

三溪が荒井寛方に模写させて、それを渡したという。


Img_0740 東京国立博物館 本館



本館の近代美術の部屋にあるということで、真っ直ぐにそこへむかいました。

ありました、大勢の人が見ていました。


Img_0749  「弱法師」


ちょうど解説している人がいて、これは絹本に金箔をはって、その上に絵を描いたと説明していた。

6曲1双の素晴らしく美しい金屏風です。

100年近くまえに描かれたものなのに、今描きあがりました、といってもいいほどきれいな状態。

臥龍梅と弱法師と落日だけの大きな構図。

その絶妙なバランス。

法師の顔や衣服に梅の花びらがハラハラと舞っている、その一枚一枚までじっくりとみることができました。

金の上に朱で描かれた落日はその濃淡が得も言われぬ美しさ。

全体は凛としてとても静謐な感じです。


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ちょうど絵の前にソファーがあり、写真をとったりして(フラッシュなしでしたら、写真OKでした)

座って眺めていたら、隣の女性も感慨深く鑑賞していらした。


話してみると、なんと謡曲を長年たしなんでいる方で

謡曲「弱法師」はよくご存知で、たまたまこの絵をご覧になって感銘しているという。

「弱法師」の物語を教えてくださいました。

法師は本当はもっと小さい子供で、設定は梅の花の咲いている四天王寺の境内だという。

絵馬と塔婆があることでそれを表しているという。

落日の位置が最高だとその方はおっしゃった。

そしてこのあと、父親と会うことができてハッピーエンドの話なのよ、と。




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うれしかった。

偶然とはいえ、謡曲の素養が全くない私がこの絵の物語についてこの場で知ることができるなんて。

話しを伺ってから絵をみると、この絵の精神性が何倍も感じ取れるような気がした。

法師の日想観(西に没する太陽を拝み、西方の極楽浄土を想い浮かべる修行)をする悟りの境地が

画面全体からつたわってくる。

その能面のような横顔からはうっすらと笑みさえうかがえ、

自分の置かれている状況を静かに受け入れ、み仏の心に包み込まれているのだろうとおもえた。


こんなに素晴らしい絵だったとは。。。

こちらの気持ちまで洗われるようだった。


課題の答えはひとつ

2011-01-26 02:25:11 | 日記・エッセイ・コラム

ある人が大学教授に尋ねました。

「先生、学問の研究とは限りがないのですか?」

「そう、自分は恩師からこう言われた。課題の答えはひとつだけ。

それをもとめていくと限りがない。次から次へと課題があらわれてくる。」



昨年末より、日本で最初の器械製糸所「藩営前橋製糸所」について調べている。

何年も前から、だいたいの事は調べてわかっており、製糸所のあった場所も特定でき、

昨年の製糸所跡の碑の建立までたどり着いている。


しかし、ここにきて前橋製糸所についてしっかりと書いてまとめる作業をしていると

文献や資料の内容にかなり矛盾があることに気がついた。

群馬県前橋市にあった製糸所なので、『群馬県史』と『前橋市史』が

とりあえず一般の人が最初にあたる資料であるが、このふたつがかなり違っている。


なにせ、明治3年の出来事であり、残されている一次史料がきわめて少ない。

すべてを取り仕切った速水堅曹の日記は最も重要な史料といえる。

私は最初から日記しか見ていないので、いままで矛盾していることに気がつかなかった。


県史と市史ではそれぞれ執筆者が違うし、引用している文献や資料がちがう。

出版の年はだいたい同じ1980年代である。

古い出版物を参考にしたり、引用したりしているが、それのまた元になる資料があるのである。

例えば、最初の製糸器械の造作一つとっても、方式や台数が違っている。


あまりに矛盾していたり、堅曹の日記や資料ではわからない事柄については

その参考にしている元の文献まですべて読んで検討してみることにした。


結局明治30年代の出版物や公文書、そして蚕糸業に関する資料がまだ豊富にあった

昭和の戦前までに書かれた蚕糸関係の専門書にあたった。

そこには現在はもうない「堅曹の手記」から引用されている内容も載っていた。

それらは一字一句が貴重で、これが本当のことだろう、間違いないだろう、と確認していった。



100年以上も前の出来事を書くにはどうしても資料の孫引きになりやすく、

それは伝言ゲームが少しづつ内容が違ってきてしまうように、どこか一箇所まちがえて引用すれば、

それが次にまた間違ったまま引用されるという具合である。

今回はそれを逆にたどるような作業になった。


冒頭に書いたことば、「課題の答えはひとつだけ」

それをこの作業をしながら噛み締めていた。

2つの説はいらない。

真実はひとつ。


それでもどうしても確認のとれなかった事柄については、まとめの文章にいれなかった。

それが最善であり、誰も見ないかもしれないが、後世に私の文章から

まちがったことが伝わらないようにしなければいけない、という強いおもいがあった。

その作業も今日やっと終り、ひとつ肩の荷がおりた。


息子の結婚式

2011-01-23 19:40:34 | 日記・エッセイ・コラム

22日に長男が結婚しました。

堅曹さんのお墓のある瑞法光寺でおこないました。


仏前結婚式です。

一般にはあまりなじみがないかもしれませんが、

それはそれは荘厳で格調高く素晴らしいものです。


  Img_0723  仏前結婚式




私自身も仏前結婚式でした。

むかしのことを思い出しながら、花嫁さんの美しい白無垢姿に二人の幸せを祈りました。


 Img_0709     花婿・花嫁さん



先祖調べをしている私としては、速水家のあとを継ぐ息子が良き伴侶を得たことは

何にもかえがたくうれしいです。


二人なら明るくて楽しい家庭が築けそうですね。

おめでとう


堅曹さんの命日

2011-01-18 01:41:08 | 日記・エッセイ・コラム

1月17日は堅曹さんの命日です。

お墓参りに行ってきました。

お墓は茨城県取手市の瑞法光寺の境内にあります。


Photo 速水堅曹の墓



気温も低く、風も結構強かったのですが、

お昼ごろだったのでお墓には陽があたり、おもったより寒くありませんでした。

いつもはお墓用に出来ている花を入れるのですが、今日は好きな花を選んでみました。

百合と赤いチューリップ。

どうだろうか、堅曹さんは気に入ってくれるだろうか、とおもいました。


今年で没後99年です。

来年100年。身が引き締まる思いがします。



ふっと帰り道に思いました、

自分が亡くなって100年後って、いったい誰かお参りしてくれるだろうか。

きっとひ孫やひひ孫、いやひひひ孫くらい?

会ったことも聞いたこともないおばあちゃんのお墓には興味ないだろうね。

そして、それまで子孫がつづくかどうかだって、この少子化の世ではあやしいものです。


斯く言うわたしも会ったことのない堅曹さんのお墓参りをしているのです。

書き残されたものだけで、どんな人だったか想像して

身近に感じているのだから不思議です。


新年にあたって

2011-01-17 10:42:51 | 日記・エッセイ・コラム

なんだかんだと過ごしているうちに、1月も半分過ぎてしまいました。

年あけて、甘味の話ししかないなんて、いけませんね。


8日の土曜日は横浜で原三溪市民研究会、

13日の木曜日は前橋で歴史WGの勉強会、

そして夜は富岡製糸場世界遺産伝道師協会の新年会。

と相変わらず、あっちにいったり、こっちにいったりしています。


Img_0693 新年会の会場「群馬会館」(昭和5年建造)


Img_0698 群馬県庁32階展望ホールより前橋の夜景



そう、今年は冬期の早稲田大学のオープンカレッジもとっていて、

12日は大学で講義を受けてきました。

内容は明治初期のかなり特異な事件「マリア・ルース号事件」を再考します。

本当のところはどうだったのか? 担当の先生の真骨頂が発揮されます。

横浜の維新直後の裁判制度のことや、政府の対応、当時の国際情勢などを理解して、

日本の外交政策の真実に迫ります。

これから3回続くので楽しみです。


そして講義のあとはいつもお決まりの大学の図書館篭り。

資料の宝庫の図書館に行くと、時間を忘れて調べものに没頭してしまいます。

あっという間に夜になってしまい、大急ぎで家に帰って夕飯の支度となります。


こうなると完全に学びモードにはいったという感じです。

今年はどうしても堅曹さんのことをまとめ上げなければ、と

そればかりが頭のなかでグルグルしています。

時間を無駄にしないで、集中してやろうとおもっています。