堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

小田原・箱根ツアー②

2010-09-18 02:35:53 | 原三溪市民研究会

北条早雲の菩提寺である早雲寺に着いたのは午後1時過ぎ。

北条五代のお墓などを見学して、集合写真をとりました。


Cimg3205 早雲寺


Cimg3218 北条五代の墓



バスに戻り、次は小田原市板橋にある松永記念館に行きます。

ここは耳庵こと松永安左ヱ門の晩年の自宅である「老欅荘」と記念館があります。


Cimg3253 記念館


Cimg3266「老欅荘」入り口の欅


この板橋という一帯は明治末から大正時代にかけて政財界の大御所たちが屋敷をつくりました。

鈍翁こと益田孝、山県有朋、大倉喜八郎、清浦圭吾らです。

丘陵地になっており、相模湾の眺め、温暖な気候、鉄道の便などがよかったのでしょう。


松永記念館では小田原市郷土文化館の方に解説をしていただきました。

実にわかりやすい丁寧な内容でした。


「老欅荘」はスッと見てしまえば、ものの10分もかからないような広さの自宅ですが、

耳庵がいかにこだわり、数寄を凝らして作っているか。

たとえば、広間の畳の大きさはそれぞれ違っているのだが、違和感がないように敷かれていること、


Cimg3306_2 広間の床の間


縁座敷に座って眺める景色を計算して、庭の塀の高さを決めていること、


Cimg3278_3


障子は光の入る具合を考えて工夫していること、


Cimg3311 障子


等々、数え切れないほどのこだわりは解説を聞かなければ気がつかないことばかり。

それこそ一時間いてもまだ聞いていたいような話しばかりでした。

しっかり堪能しました。



そのあと近隣の大御所たちの居宅跡を見てあるいて、バスにのりこみました。

『原三溪翁伝』に強羅の白雲洞で大震災の報を聞いた三溪が

歩いて横浜に帰る途中、この板橋にあった益田鈍翁の邸宅「掃雲台」に立ち寄り、

山羊の乳をのませてもらったというエピソードが載っています。

強羅で縁側をさがしたKさんは、そのことを話しながら、

「三溪さんが大震災の日歩いて横浜に帰った道をたどりたいね」と言いました。

いつかやってみたいです。



さて最後の見学地、小田原市内の西海子(さいかち)小路の「小田原文学館」にむかいます。

このあたりは、やはり明治末から文学者たちがおおぜい住んでいたところで、

元宮内大臣の田中光顕の別邸が現在「小田原文学館」になっています。


国道一号線でバスをおりて、西海子小路を歩きながら文学館へ。

桜並木のゆったりとした道のある、とても落ち着いた閑静な住宅街です。

昔は西海子が植えられていたとか。


Cimg3335 西海子(さいかち)小路



文学館には洋館と和風の建物と、移築してきた尾崎一雄の書斎があり、

この地にゆかりのある文学者たちの資料がたくさん展示されています。


Cimg3326 小田原文学館入り口


Cimg3329


広い邸内を自由に散策して見学しました。


1800坪といわれる敷地を歩きながら、

今日見てきた当時の政財界の人たちの豪華な別荘や居宅、

凝った茶室についてあれこれ考えていると、

現代ではあまり言われなくなった「普請道楽」という言葉をおもいだしました。


「人生最後の道楽は普請道楽」というように、

見学した建物は皆ある程度の年齢になってから造ったものです。

うらやましいなとおもいます。

けれど現在の日本の経済状況と違うのはもちろんですが、

そういったものにお金だけでなく、時間もかけているゆとりの在り方が

現代とは決定的に違うのではないかという気がしました。



明治終りから、大正、昭和にかけてそういった面々が集まったこの地域の歴史を学び、

風光明媚な地としての面影を感じ、

今まで遊びにきていた箱根や小田原を違う視点でみることができるようになりました。

おもしろい、の一言です。


午後5時過ぎ、バスは小田原駅前に到着。

予定どおりでした。

ここで解散、お疲れ様。


Cimg3351_2 小田原提灯


このあと有志で駅ビルの「魚国」で夕飯を食べて帰宅しました。

あ~、楽しかったな~。


小田原 ・箱根ツアー①

2010-09-16 09:14:08 | 原三溪市民研究会

11日の土曜日、原三溪市民研究会で箱根、小田原方面に見学にいってきました。


この日もまだ暑そう。

しっかり日焼け止めをぬり、冷たいお茶を詰めたマイボトルをもって、

朝8時半すぎに小田原駅に到着。


Cimg3078 小田原駅前の北条早雲像


実はこのブログによくコメントをくださったジバゴさんが、入会してはじめて来るというので、

お会いできるのを楽しみにしていました。

9時には全員集まり、出発です。

総勢28人で大型観光バス一台。

ゆったりです。


Cimg3084 箱根登山鉄道のバス



まずは一路、箱根の強羅公園内にある「白雲洞茶苑」へむかいます。

箱根湯本を越えて「箱根八里」で天下の険といわれる、折れ曲がった急坂の山道を登っていきます。

バスの中では、会長Fさんの詳細な解説がつづきます。


強羅はもともと小田原電気鉄道が開発した高級別荘地で、

大正初めにそこに益田鈍翁がハイカラな強羅公園をつくり、一角に茶室をこしらえました。

この地は巨大な岩がおおいところで、それを生かして公園はロックガーデンに、

茶室も巨岩を生かした庭のつくりで、浴室も岩風呂のようになっています。


白雲洞は大正11年に益田鈍翁から原三溪に譲られ、昭和15年に松永耳庵にと、

近代数寄の「三人茶人」に継承されてきました。


Cimg3086 白雲洞茶苑の看板

Cimg3166_2 路地入り口

Cimg3165_2 苑内


3人の数寄者たちが愛した茶室をぐるりと見て回ります。


Cimg3161 白雲洞

Cimg3152 不染庵

Cimg3112 対字斎


三溪がつくったという「対字斎」は広縁の向こうに大文字山の「大」の字が真正面にみえます。

なんと素敵な景色でしょう。



開け放たれた白雲洞でお茶席に座らせていただきました。

(リハビリがんばって、この日のために正座が出来るようになりました!)

蓬のお饅頭と甘納豆、そしてお抹茶をいただきました。

清涼の一服です。

そして亭主からこの庵のいわれや歴史を聞きました。


Cimg3136 お茶席


茶室の裏の一角には鈍翁、三溪、耳庵の3人の写真が飾られ、お祀りされています。

Cimg3133 3人の写真とお供えなど


3人の心が今でもこの茶室に宿っているのを感じさせてくれます。



そして三溪はこの白雲洞で大きな事件に遭遇しているのです。

大正12年の関東大震災です。

9月1日12時少し前、この白雲洞の縁側の柱にもたれかかって本を読んでいると、

グラッときて、庭に転げ落ちたという。

それから横浜の大被害を聞き、4日間歩き通しで三溪園のある本牧へ向ったという。


そのもたれていた柱はどれだろう、縁側はどこだろう、と

『原三溪翁伝』のその部分の解読を担当したKさんと探しました。


たぶんここで間違いない、という場所に座って柱にもたれかかってみると、

たしかに座り心地がよく、実に気持ちよく風が通り抜け、青葉と巨岩の庭が眺められます。

同じように暑かったであろう9月の大震災の日に、三溪はこうやって本を読んでいたのかと

しばしそのゆったりとした感覚に浸りました。


しかし前庭に転げ落ち、という表現のとおりに

その場所は高低差のある庭であることが確かめられ、

文章でしか知らなかった場面がここに来てはじめて、はっきりとした場景になりました。

三溪のつくった茶室に佇み、大文字山の景色を見て、

自然の木々に囲まれた雰囲気を味わってみると

自分が思い描く三溪像をまた一歩深めることができたようにおもいます。

これこそが現地研修の良さです。


さて、ゆっくりと白雲洞茶苑を見学したあとは、

バスで三溪の別荘があった(現在はない)芦之湯へいき、

そのあたりをバスの中から見学して

そのまま来た道を戻り山をくだっていきました。



湯本へ戻り、お昼は有名な「はつ花」でおそばを食べました。


Cimg3198 はつ花本店

Cimg3190 貞女そば


強羅は涼しかったのですが、下へ降りてくると、まだ猛烈に暑い!

そんな中、食後の腹ごなしもかねて、徒歩8分の早雲寺へとむかいました。

Cimg3202

つづく。


国会図書館憲政資料室

2010-09-10 21:57:12 | 人物

あいかわらず「五代友厚」追っています。

昨日は歴史WGの例会があって群馬まで行ったのですが、

そこで皆といろいろ話していたら、どうしても気になることがでてきて、

今日は国会図書館まで行ってきました。

久しぶりです。


はじめて憲政資料室に入りました。

マイクロフィルムになっている膨大な点数の資料から必要なものを選んで、

リールをだしてもらいます。

その資料はコピーを取るのにいろいろ手間がかかるそうなので、

全部手で書き写すことにしました。

フィルムのリールを回すときは気分が悪くならないように、なるべく画面を見ないようにします。

目的の資料にたどりつけば、あとはひたすら読んで、書き写して、の繰り返し。


出てきた資料は堅曹さんの直筆の文字でした。

とても丁寧に楷書で書かれており、しばし見惚れていました。

最近は手紙文の難解な崩し字ばかりみているので、なんだかホッとしてうれしかったです。


目的の資料だけでなく、意外なものも見つけることが出来ました。

億劫がらずに出かけてきて良かった。


五代友厚

2010-09-04 23:19:27 | 人物

早稲田のオープンカレッジの夏の講座で五代友厚についてのものがあり、受講してきました。

堅曹さんは五代友厚と「莫逆(ばくぎゃく・ばくげき)の友」だったと書いています。

それは「たがいに意気投合した親友」という意味です。

そこまでの間柄だった人はどんな人物なのか?

調べないではいられません。



五代は薩摩藩士で、幕末に海外にいき、早くから薩摩の貿易にかかわっています。

しかし其の頃の行動には未だに謎が多いといわれています。

維新後は外交の担当として出仕しますが、すぐに官僚をやめ、

民間の商人となり主に大阪の経済界を確立します。

実業家であり、政商といわれています。


しかし、こういった経歴だけでは、

なぜ堅曹さんが彼と意気投合して、何事も相談する相手と選んでいたのか、

納得できる答えが得られません。

伝記や資料も読んでみましたが、

私の頭では彼の行動や仕事の内容から、それが当時どういう意味をもつことだったのか、とか

商人、実業家としてのセンスなどを理解するのはとてもむずかしい。



そこで彼を研究している歴史学者の説をぜひ聞いてみたいとおもっていました。

あくまでも経済学の講座でよく取り上げられる政商としての五代ではなく、

歴史的に分析した五代友厚の話しです。

それがすごくおもしろかった。


できうる限りの史実に基づく解釈で語られる五代友厚の実像。

聞いていて、なるほどなるほど、とおもう。

堅曹さんが書いていることとすべて合致してくる。

五代友厚の壮大な思想や事業のやり方、直貿易のこと等々、

すべてが堅曹さんと同じだ!

だから莫逆の友なんだ、と講義を聴いていて、本当に興奮してしまいました。

2時間の講義もあっという間。

先生の一言一句決して聞き漏らすまいと身を乗り出していました。


現在語られる、どちらかというと悪いイメージのある政商としての五代とは全く違う、

真実の五代友厚像を知ることができてうれしかった。

こういった人物なら堅曹さんが意気投合して一生付き合っていったというのもすごく納得できる。

ずっとわからなかった謎が解けました。


ブログ3周年

2010-09-01 02:27:58 | あいさつ

もう9月になってしまいました。

いったいいつまで暑いんだろう、とうんざりしていたら、

あっ、と気がついた!


ブログをはじめた記念日、8月25日が過ぎてしまいました。

まる3年がたちました。

書いた記事は全部で338本(載せてないのが2,3本ありますが)。


先月はじめて愚痴を書いたら心配して励ましてくれる方が何人もいて

とてもうれしかったです。

夫はもう書かないの?なんて聞いてくるし。。。



日々、あっ、これ書こう、とおもうことはあるのですが、

なんか筆が走らない、というかキーボードが走らないという感じです。


でも更新しないのに、毎日訪問してくださる方がたくさんいるのです。

こんな私の書く文章でも読んでもらえるのがネットのありがたさです。

そして、ブログを通して多くの人と知り合えるのはネットのすごさです。


やっぱり発信していこう。


4年目に入ったこの「堅曹さんを追いかけて」、

これからもよろしくお願いいたします。