堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

キャンプ 新井領一郎

2011-08-26 13:21:18 | 日記・エッセイ・コラム

一週間前のブログの続き。

「川端家住宅」の調査見学のあと、時間があったので、

桐生市にある新井領一郎の実家に行くことにした。


新井領一郎は明治初めにアメリカに渡り、

日本の生糸貿易の先駆けとし移住して活躍した人物である。

ニューヨークでの日本人社会の中心となり、日本の生糸貿易がアメリカで成功した立役者である。


そして堅曹は彼のアメリカ行きをもっとも応援し、

のちに設立した同伸会社で彼をニューヨーク支店長として迎えいれた。


新井領一郎は水沼製糸所の星野長太郎の弟であるが、新井家の養子となっている。

その新井家のある場所にむかって行った。



大間々から足尾にむかう国道122号線の下田沢の交差点を左折し、

赤城山をふもとから登っていく。

といっても現在は舗装された道路で、当時「急な坂道ではって登った」という表現の

古道の面影はなかった。

「鹿角(かづの)」という場所にあるのだが、車のナビでも詳細な場所がわからず、

何度か人に聞いて探しながら走っていった。

そうしてたどり着いた場所はここである。


Img_2048 新井家跡


「西町インターナショナルスクール キャンプ 新井領一郎」というプレートが掲げられており、

現在は東京西麻布にあるインターナショナルスクールの夏季キャンプ場として使われている。


Img_2047 プレート


当時の蔵や住居が残っており、新しくロッジがつくられている。

昨年住居にだいぶ手を入れてきれいになったらしい。


Img_2042 ロッジ


Img_2043 住居


Img_2044


この建物の前に通っているのが当時の道だという。


Img_2050 当時の道


裏は森林に高く覆われ、国道から入ってきたあたりより随分涼しく感じられる。

標高はだいぶちがうのであろう。


この険しい山間の里を見ていると、ここで育った領一郎が明治初めに

ニューヨークへ行ってまだ誰もおこなっていない生糸の直貿易をしよう、と決断したことは

なんてすごいことだろう!とおもわずにはいられない。



次は来た道をくだって、水沼の星野長太郎の製糸所跡とお墓にむかった。

製糸所となっていた150年以上経つ長屋門の外壁の一部が

地震で崩れ落ちていた。

そして向いにある星野家墓地にあるお墓もおおきく倒れるまではいかないが、

少しづつずれていている石塔がたくさんあった。


Img_2054 星野家墓地


暑い日であり、夕方には小雨も降り、夏草におおわれた墓地はじっとりとした空気であった。


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1 コメント

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私はこの新井領一郎さんの故郷、桐生市(旧群馬県... (長谷川 勤)
2013-05-26 19:27:37
私はこの新井領一郎さんの故郷、桐生市(旧群馬県勢多郡黒保根村)の出身者です。本年2月に母校黒保根中学校の年間行事の一環として行われた「立志のつどい」の、OBとして講師に招かれました。現在は神奈川県厚木市にある「松蔭大学」で「吉田松陰論」という講座を担当しています。吉田松陰の妹婿である楫取素彦男爵は明治初期の、初代群馬県令でした。新井領一郎さんが渡米する時に、楫取県令の奥様(壽)さんが、亡き兄が果たせなかった渡米を実現し、無事に使命を果たして欲しいとの願いから、吉田松陰の「形見」である短刀を護身用に贈ったと伝えられています。故郷を出て51年後に、此のことを知りました。新井さんは初代文部大臣をつとめた森有礼らが創立した現在の一橋大学の一期生であり、同じ薩摩の松方正義とも縁戚の関係になるようですが、黒保根村と長州(萩)、そして薩摩を結ぶ関係があったことを知り、驚きと共に歴史の運命を感じさせます。
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