堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

150年前の在日スイス人の日記

2008-04-08 11:01:10 | 堅曹と横浜

神奈川在住のEさんから情報がはいりました。

日経新聞神奈川版 4月5日の記事です。

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日本の開港当時横浜に「シイベル・ブレンワルド商会」というスイスの商社がありました。

慶応元年(1865)スイス人のヘルマン・シイベルとカスパー・ブレンワルドが横浜で創業しました。

当時「横浜甲90番館」と呼ばれていたその商館は日本の生糸取引の中心となり、「生糸王国日本」を築き上げる上で大きな役割をはたしています。

その創業者のブレンワルドさんが日本にスイス政府の通商使節団の一員として来日した1862年から16年間の日記が翻訳されることになったのです。



この「シイベル・ブレンワルド商会」というのは堅曹さんとたいそう関わりのある商社です。

明治3年(1870)に前橋で最初の器械製糸所をつくりましたが、その時堅曹さんが相談したのが、シイベルさんだったのです。( 2007.10.29ブログ記)      

シイベルさんは自分の商会をもちながら、なおかつスイスの領事でもありました。

そして器械製糸の技術を持つものとしてミウラーを紹介しました。そのミウラーを前橋につれてきて日本最初の器械製糸所を開設したのです。

4ヶ月後ミウラーを解雇してあとは自分たちだけで操業を続けていきますが、その間もその後もシーベルやミウラーらスイス人と行き来をしています。



今は堅曹さんの日記から当時の出来事を辿っているだけですが、それがシイベルと一緒に商会をしていたブレンワルドさんの日記が翻訳されれば、スイス人側からの日本の生糸貿易、器械製糸の嚆矢に関することがらが明らかになる可能性があります。

そしてスイス人からみた堅曹像なんていうのもでてくるといいのですが。

日記は全5冊で翻訳には3年ほどかかる予定です。

すごく楽しみです。


神奈川新聞の記事

2008-03-20 19:45:49 | 堅曹と横浜

堅曹さんのことが神奈川新聞に載りました。

3月6日の「私家版 横濱開港誌」という連載コラムです。

執筆は祖父江一郎という時代小説家です。中居屋重兵衛関係の『中居屋炎上』や『もう一つの黒船』、その他『阿部正弘』『関東郡代御用留』などの著書があります。

このコラムは横浜開港当時について人物を特定して史実をもとに物語を展開しています。



開港すぐの安政年間、横浜の地で生糸貿易を牛耳り巨万の富を築いた群馬県出身の生糸商・中居屋重兵衛。しかしその最後はだれも知らず、突如と消えた謎につつまれた人物である。

その彼とかかわりのあったであろう人物を描き生糸貿易の発展の盛衰を解き明かしています。

その中での堅曹さんの登場です。


著者は

速水堅曹は藩主直命の秘密御用である。

後の生糸関係の功績、時期を考えると重兵衛の輸出生糸増産の隠密行動にも加勢した可能性がある。

と推測しています。

Kangawashinbun_2 ←クリックすると大きくなります



私は当たっているかもとおもいます。

歴史には表もあれば裏もあるのです。

日記を読み解いてひそかに私は堅曹さんの任務は隠されたものがあると推理していました。

そうでなければどうして外国にもいっていない彼が明治初年に生糸の優位性、器械製糸の先見を養うことができたのでしょう。

大きな疑問でした。


ただ堅曹さんが時期的に重兵衛が存命中に会うことが可能だったのかがクエッションです。

横浜に行って情報を得ていたのは確かだと思っていたのですが、それが中居屋重兵衛とは考えてもいませんでした。

確定ではないけれど、そうか中居屋重兵衛というキーパーソンとの接点があれば謎がとけるかもしれない。

ちょっと面白くなってきました。



このコラムを読みたい方はHPでも読むことができます。

http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/AB-HIBUN-ZX.htm


3月11日は深澤雄象でした。このなかでは、速水堅曹のことを次のように書いています。

前回紹介した高須泉平は重職、今回の雄象は町奉行で、2人の働きもなかなかのものであるが、前に取り上げた微禄の堅曹の活動と功績は突出したものである。

う~ん、評価されてるなあ、とうれしくなりました。


中居屋重兵衛、調べてみよう。本読んでみよう。


堅曹と横浜 ③

2007-12-08 01:41:56 | 堅曹と横浜

前回「堅曹と横浜 ②」からあいだがあいてしまいました。

けれどよくみると「富岡製糸場③、④」で堅曹さんの流れにはつながっていったような。順番に書いていったらいいのかも、などと都合よく考えています。


さて前回日本初の器械製糸場を前橋につくり、その2年後富岡に官営の富岡製糸場ができたところまで書きました。

それらには横浜の居留地にいた外国人たちがたくさん関わっていました。

堅曹さんが明治3年(1870)に前橋製糸所をつくると、こんどはその日本初の器械製糸所を外国人たちが見学にきています。

当時横浜にいた外国人たちは居留地から自由に外にいけるのは「遊歩」といって10里(40キロメートル)四方までと決められていました。ですから群馬県の前橋まで来れるのは特別に政府から許可を得た人か外交官だけです。

明治4年5月26日 英国公使及び英一番館ワートル

      6月29日  南校(現東京大学)御雇教師イタリア人メジョル

              8月 8日 スイス公使シーベル

と堅曹さんの日記にはでてきます。



ここで先日図書館で調べた『ザ・ファー・イースト』の新聞記事に書かれたイギリス人3人の紀行文を紹介します。

Cimg2157 『THE FAR EAST』 February 16th, 1872


彼等は明治4年(1871)の夏、富士甲信地方へ旅行にでかけました。横浜から小田原、箱根、富士山へ登り、甲府、下諏訪、高崎と訪れ前橋にやってきます。そして前橋製糸所を訪ねます。

私たちはひとりの大変利潑な紳士を訪問したが、彼は親切に私たちに手で動かす機械を見せてくれた。

この機械には二本の軸があって、部屋の両側に渡してあり、各軸は六つの車をまわしていた。

各車のこちら側にはひとりのムスメがつき、その向い側にはもうひとりのムスメが坐り、二人の間には湯を満たした小鍋が置かれ、繭がはいっていた。

一方のムスメの仕事は湯の中の繭を二本の竹の刷毛の先であやつって、相手のムスメに糸の端を分けて渡してやる動作をくりかえすことであり、もうひとりのムスメは繭七つ分もしくは八つ分をまとめて車に送る作業をするのである。

この家には一二の巻き枠があって、二四人の女が働いていた。

そして貯蔵室では、私たちは市場に送る準備のできた生糸の袋を見た。 

 (『みかどの都“ザ・ファー・イースト”の世界』金井圓・広瀬靖子訳)


この「大変利潑な紳士」というのが速水堅曹といわれています。

原文では「a  very  intelligent  gentleman」となっています。

We visited  a  very  intelligent  gentleman  who kindly  showed  us  a  machine  worked by  hand,・・・・・    (『THE  FAR  EAST.』)

こうやって画期的なことをして国内はもとより外国の人たちからも評価をうけた堅曹さん。


けれどそれと同時に外国公使館や商社らはいっせいに前橋藩にもっと大きな製糸所を一緒にやらないかと持ちかけてきました。

共同経営、外国資本の流入になります。ここは慎重に対応をしていきます。

このころの日記にはスイス公使らとの手紙のやりとりや交渉が頻繁におこなわれていることが記されています。

結果どことも共同経営の契約は結ばず、ミウラーを4ヶ月だけ雇いその間に技術をしっかり学び自分たちだけで製糸所を経営していきます。

そうやって外国資本を絶ったことが、この後の日本の製糸業の自律的発展の道を開いたといえます。


対外自立を推し進めた、そこが堅曹さんの偉かったところです。(ちょっと自慢!)

つづく。


堅曹と横浜 ②

2007-10-29 05:48:04 | 堅曹と横浜

英一番館と前橋藩のトラブル処理で男をあげた堅曹さん、次は横浜で何をしたか。

一件落着した直後の明治3(1870)年3月今度はスイス領事館に行きます。

Cimg1713 「英一番館」「スイス領事館」があった居留地の現在

領事のシーベルは当時横浜で生糸輸出を行っていた九十番館(シーベル=ブレンワルド)のメンバーでもあります。

明治三年三月廿五日 横浜寄留地瑞西国領事館に於領事シーベル氏と談じ欧州製糸の業上生糸の代価等を問ひ又倫敦の生糸相場表を一覧し始めて驚く我日本の糸価は百斤に付六百五六十弗なるに、伊仏両国の糸価は同量に付一千二百弗以上に売買し居れり、殆ど倍額なれば大に驚嘆し一意改良に熱注すと雖も其方法に於て如何せば可ならん・・・・・(自叙伝『六十五年記』)

彼に会い、ヨーロッパの製糸業のことや生糸の代価を教えてもらい、ロンドンの生糸相場表を見せてもらいます。

驚きました、日本の生糸に比べてイタリア、フランスの生糸の値段はなんと倍もの価格で売買されていたのです。

そこで堅曹は考えました。とにかく生糸の品質をよくすることが急務であり最重要であると。それにはどうしたらいいのか。

シーベルは教師を雇ったらいいと助言しました。



堅曹は横浜寄留の外国人に質のよい生糸を生産する方法を知っている人物がいないか尋ねまわります。しかしみつからず。

やっと神戸にスイス人のミウラーというイタリアで13年間生糸製造の教師をしていた人物を探しだします。

ミウラーは製糸全般にわたり熟知していて、教師として最適でした。

シーベルを通して前橋藩はミウラーを雇い入れ、責任者は参事深澤雄象、直接の担当者を速水堅曹として明治3(1870)年6月器械製糸場を細ヶ沢(前橋市住吉町)につくります。

これが日本で最初の器械製糸場の「前橋製糸所」です。



ミウラーは4ヶ月の契約で雇われていたので、その間堅曹は泊り込みでミウラーから器械製糸技術の奥義をすべて学びとろうと必死の努力をします。

七月 是ヨリ日々糸ノ試験ニ関係シ、ミウラーニ欧州製糸ノ実際ヲ問フ故、宅ニ帰スル克ハサル多事ナリ (堅曹履歴抜粋 甲号自記)

この経験を基礎として堅曹は日本最高の製糸技術者の地位を確立するのです。

前橋製糸所は9月には近くの大渡(前橋市岩神町)に移り、規模を6人繰りから12人繰りにして「大渡製糸所」となります。

ミウラーは10月に解雇となり、すぐに小野組に雇われ東京の築地製糸場(60人繰り)を作り、次いで工部省に雇われ明治6(1873)年に東京溜池に勧工寮製糸所(48人繰り)をつくっています。



こうした器械製糸の勃興をうけて明治政府も国の経営で大規模な器械製糸場の建設を考えました。政府が教師として雇い入れたのは横浜の生糸輸出商社「和蘭八番館」の紹介のフランス人技術者ポール・ブリュナーです。

そして作られたのが群馬県富岡市に今も残っている「官営富岡製糸所」(300釜)です。

開業明治5(1872)年10月。



だんだん器械製糸場の開業の話になってしまいましたが、日本の器械製糸のはじまりには横浜の外国人たちが大きく関わってきた歴史があることがわかります。

つづく。


堅曹と横浜 ①

2007-10-27 09:01:54 | 堅曹と横浜

このところ横浜関係が続いているので、ちょっと堅曹さんと横浜についてまとめてみようかと思います。

相棒Tさんはコメントで次のように書いてくださいました。

堅曹さんが英国1番館とのトラブル処理で男を上げた土地 ヨコハマ。

堅曹さんが直輸出の同伸会社を立ち上げたヨコハマ。

堅曹さん終焉の地 ヨコハマ。



長くなりそうなので、とりあえず①として書けるところまで。

初めて堅曹が横浜に行ったのは明治元(1868)年

十月十七日御内用にて横浜行ノ命ヲ受本日出立ス、是即公事二生糸二関スルノ始ナリ(堅曹履歴抜粋 甲号自記)

「これが公事で生糸に関係した最初である」と書いているように、まさに時代がかわったその時にそれまでとは違う生糸の世界に踏み出していきます。

堅曹さん30歳のときです。

これは前橋藩が安政6(1859)年の横浜開港以来上州の生糸が売れるのを見て、藩財政の増大のため直売を企て堅曹に白羽の矢をたてたのでした。

堅曹はそれからしばしば横浜へ行き、県知事寺島宗則と相談をし翌年(明治2年)3月に藩の生糸売込問屋「敷島屋庄三郎商店」を本町2丁目に開店させるのです。



その後堅曹は5月から奥州(福島)へ行き生糸を実際に売買して、生糸経営の研究を3ヶ月にわたって行ない多くの利益が出ることを確信します。

そうして9月に前橋に戻ってきたとき、急の呼び出しがかかるのです。

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それは藩の上層部が英1番館(ジャーディン・マセソン商会)と汽船の購入契約をするが、支払いができなくなるという藩の存亡にかかわる大事件がおきたのです。

それをなんとかしなくてはならないと堅曹が呼び出され処理にあたることになりました。

たいへん難しい交渉でひとつ間違えば英国との争い、または莫大な賠償金請求となります。

明治2(1869)年

十月四日命ヲ受而出浜ス、従是英国壱番館ヨリ船買入の件ニ関係ス、此要件タル藩ノ興廃ニ関スルノ大事ナリ、必至苦心日々裁判所ニ行、又外国人ト争ヒ、伊藤大蔵少輔ニ内願シ、又寺島・井関・桜田等ノ官員ニ内談シ、苦心ヲ重子必至ノ心配セリ、庄司来テ少シク助之、岸田・横山・中山等ヲ頼ム、此尽力中此年ヲ横浜ニ終ル(堅曹履歴抜粋 甲号自記)

堅曹は必死で事にあたりました。

裁判所に行き外国人と争い、伊藤大蔵少輔に頼み、寺島知事らにも相談し苦心に苦心を重ねます。

年越しも横浜でするほど詰めて、やっと半年後の翌年(明治3年)3月に藩は多少のキャンセル料を支払っただけで無事決着となるのです。

この一件で堅曹は藩のなかでも飛び切り認められるようになりました。そう男をあげたのです。

つづく。