堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

横浜開港資料館

2008-12-28 03:54:30 | 資料

少し前のことになりますが、クリスマスイブの24日、横浜へ行きました。


用事は夕方からだったので、朝から出かけ、

時間まで横浜開港資料館で調べものをしました。


Cimg6920  横浜開港資料館 正門


ここは旧イギリス総領事館で、ペリーが横浜に上陸したときの錦絵に描かれている

「玉楠(たまくす)の木」が残っていることでも有名です。


Cimg6923_2  中庭にある「玉楠の木」



ここの閲覧室は地下にあるのですが、

本当に小さな、学校の図書室といった感じの部屋です。

しかし、幕末からの近代の資料はものすごいものがあります。



先祖調べを始めたばかりの頃から、何回も通っています。

堅曹さんの新聞の死亡記事はここで見つけました。

堅曹さんの長男のプロフィールもここにありました。

そして今日はリヨンの続きで、同伸会社のことを調べにきました。


リファレンスが学芸員のかたで、とても詳しく相談にのってくれます。


同伸会社の『生糸商況報告』を教えてくれて、読んでみました。

リヨンの駐在員からの情報が「佛國書信抜萃」として載っています。

当時は郵便の手紙がひと月かかっていたことがわかりました。

それでも最新の情報として、生糸業者にどんどん知らせていたのが

文面から読み取れます。



そんな資料をみながら、ふと手にとった人事録。

ぱらぱらと索引をみていると、速水○○と堅曹さんの次男の名前があります。

私の曾おじいさんです。(うちは堅曹さんの次男の系統です)

いそいで、読んでみました。

昭和12年当時の職業、経歴や住所、家族等がのっています。


昔は大衆版でもこういったものがたくさんだされていたのですね。

今では、考えられないです。

ということは、これから先百年も経って、私のように先祖のことを調べようとしても

現代の人のことは全くお手上げですね。

そんなことまで考えてしまいました。



この資料は本当にうれしかったです。

いままで次男のことも随分調べたのです。

遠く秋田にまでいったこともあります。

それでも出ないときは出ないのです。

それが、こうやってふとしたときに出てくるのです。

不思議ですね。



なんだかとてもうれしくて、

「あの世からのクリスマスプレゼントかしら」

などとおもいながら、賑やかな夕方の街に出ました。


大正15年の「全国製糸工場調査」

2008-06-10 02:36:11 | 資料

数日前、いつもお世話になっているSさんから、

大正15年発行 農林省農務局編纂の「第十次全国製糸工場調査」という貴重な資料のコピーをいただきました。



全国規模の詳細な製糸工場の調査書で、とてもよく出来ています。


  Cimg3753 「第十次全国製糸工場調査」


北は青森から南は鹿児島まで、すべての工場を網羅して、その規模から、生産額、工員数はもちろんのこと作業日数、代表者名、企業組織、起業年月まで記されています。

それを眺めているだけでおもしろくって、だいぶ時間がたってしまいました。



明治30年代から大正年間にかけて起業した工場が圧倒的におおいのですが、中には堅曹さんと同じ時代からはじめて、がんばっている工場がいくつかありました。

ひとつはもちろん、明治5年開業の富岡製糸場。このときは原富岡製糸場で、所長は大久保佐一です。

明治6年起業の群馬県の徳江製糸所も営業しています。前橋の交水社も明治10年。

堅曹さんが明治6年、株式会社として最初につくった福島県の二本松製糸場もまだ営業しています。すごいな~と感心してしまいます。

群馬出身の小渕しちの糸徳製糸場も明治12年起業でがんばっています。


堅曹さんの時代の次の世代の方たちがやっているのでしょうか、名字をみて、お子さんが継いでるのかな、とおもう製糸場もいくつかありました。



全国の製糸場の数を県別で一覧にした表などもあります。製糸業の盛んな地域が実感できます。

このころダントツだった長野と群馬。ちょうど群馬県が長野県に追い抜かれた頃でしょうか。

工場数も釜数も数字に表れています。


またこの調査書は日本の製糸業の動向を明治33年の調査からずっと追って数字で分析しています。

ここもおもしろいですね。



これから総体的に日本の製糸業のことをみるときには役に立ちそうです。

Sさん、ありがとうございました。


官員録

2008-03-05 11:26:15 | 資料

昨日(4日)広尾にある東京都立図書館へ行ってきました。

資料として読みたい本や文献を探しに。

お墓に関する文献になるような本を読んだり、明治期の人名事典をさがしたりしました。



最近『六十五年記』に出てくる人物名の索引を作ったのですがまだ不完全で、名字しか書いていない人の名前を確認したり、正式な読みを知るために人名事典を使いたかったのです。

最近はパソコンの検索でもかなり調べられるようになって便利ですが、それでもわからない時、最終的には図書館です。

有名な人はすぐに出てくるのですが、それほどでもない人、その分野では有名でも一般的には知られていない人、当時は当たり前のように知られていて、でも今は忘れられている人などはたいてい調べればわかります。



それでもわからない人がいます。名字と役職だけ書いてあります。

たとえば「宮島書記官」。明治18年当時の農商務省の役人です。

富岡製糸場など養蚕製糸関係は当時の管轄が農商務省でした。

困ったな~。

はたと、そうだ当時の農商務省の名簿のようなものがあればわかるかもしれない、とおもいました。



職員録、名簿、役人名簿、農商務省、人事、といろいろ本の検索をしても出てこない。

そう、当時は「官員録」といっていたのです。明治時代の官吏、役人のことを「官員」といっていました。

やっと明治時代の官員録をみつけました。

明治13年から19年までのものを復刻した資料集がありました。

調べると「宮島書記官」の下の名前がわかりました。

「宮島信吉」でした。よかった。

そうやって、何人も名前が確定できました。



ふっと、そうだ、堅曹さんも官吏だったんだ!と思い出しました。

堅曹さんもちゃんと「官員録」にのってるか確認しよう。

一生懸命探しました。

明治13年は「内務省御用掛、准奏金八十円 群馬 速水堅曹」と載っていました。

明治18年は「富岡製糸所 長 御用掛准奏任 百五拾円 群馬 速水堅曹」

明治19年は「富岡製糸所 長 奏任三等上級俸 群馬 速水堅曹」

Cimg2632 『明治十九年七月版 官員録』より


うれしくなりました。

よく自伝や評伝などに当時の名簿で地位を確認する写真がのっていたりします。

いままで探してみようともおもわなかったけれど、思いがけずみつけることができて、大変な収穫となりました。


速水家 略系図

2007-11-02 20:44:38 | 資料

群馬のIさんから「川越 妙善寺」の記事について次のようなコメントをいただきました。

様々な困難を押しのけてのルーツ探訪ご苦労様です。ところで川越で発見された三基の墓石が4~6代のものであり、初代・2代が白河、3代が姫路と有りますが、ここで分かりやすく系図を書いて頂きたいと思います。別けても「三輪政吉」と言う人はどういう人で、何代目に当たるのか(門外漢には)分かりません。よろしくお願いします。

説明不足でした。



速水家は初代以来、代々松平氏(結城系、直基を初代とする譜代藩)の家臣で、藩主の移動と共に各地に移っています。

速水家の略系図載せます。(『速水家累代之歴史』より)

   初代 ~ 速水政義 〔元禄13年(1700) 奥州白河にて没〕

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   二代 ~ 三輪政法 〔元禄15年(1702) 奥州白河にて没〕

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   三代 ~ 三輪政勝 〔寛保4年(1743) 播州姫路にて没〕

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   四代 ~ 三輪政吉 〔天明元年(1781) 武州川越にて没〕

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   五代 ~ 速水戍信 〔文政10年(1827) 武州川越にて没〕

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   六代 ~ 速水政信 〔嘉永2年(1849) 武州川越にて没〕

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   七代 ~ 速水堅曹 〔大正2年(1913) 横浜にて没〕

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二代、三代、四代が「三輪」姓である理由は、『速水家累代之歴史』にはこう書いてあります。(筆者解釈文)

初代速水政義は鉄砲先筒組であり、砲術が上手であった。

ある時主君の鷹狩先において鉄砲を試してみたところ、みごと鳥を撃ち落した。

主君が「彼身者炮術ニ妙ナリ」(かのみはほうじゅつにたえなり)と言ったので、重臣がその言葉(「みは」)をとらえ、おまえにはありがたいことだからこれから姓は「三和」にしなさいと勧めた。

それで名字を「三輪」と改めた。

こうして名字が「三輪」となりそのまま二代、三代、四代と続いていきます。

そして五代の戍信のとき「三輪」姓をもとの「速水」に戻したと記されています。



これでお解かりになりましたでしょうか。


『蚕業新報』

2007-09-02 01:18:12 | 資料

堅曹さんが生きた明治時代も20年代後半になると、ぞくぞく業界雑誌が創刊されました。

『蚕業新報』はそんな養蚕製糸の業界誌として明治26年から昭和16年まで実に48年間、573号も発行された月刊誌です。

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昨年1月堅曹さんの自叙伝を探すため蚕糸科学研究所の図書室ではじめて手にしました。その雑誌に自叙伝が連載されていたのです。

自叙伝は本になっていなくて雑誌掲載後は原稿から直接製糸関係の本に引用され、私はひそかに幻の自叙伝と呼んでさがしていました。

見つかった自叙伝は丁寧に雑誌からコピーをとり、貴重な資料として読み解いています。

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そのとき『蚕業新報』に堅曹関連の記事が多く掲載されていることがわかり、残されている雑誌から記事を探し、コピーをとっていきました。ただあまりにも古い雑誌でなかなかまとまって保存しているところがなく、蚕糸科学研究所、国会図書館、群馬県立図書館、と一年半かけて集めましたが、60冊ほど欠号でした。

もうどこにもないのかもしれない、とあきらめかけていたとき、つくば市の農業生物資源研究所の図書室にほぼ全号あることがわかり、7月に『蚕業新報』すべてから堅曹関連の記事を取り出すことができました。

生前の記事は本人の当時の評価がわかり、とてもおもしろいものです。

また自筆の論説も10本以上あり、彼の意見、思想、考えなど理解するには絶好の資料です。

そして演説の記事からは口調がわかったり、談話の記事からは普段の話しっぷりが伺えたりと、唯一生の堅曹さんが想像できる貴重な資料にもなりました。

そんなこんなで集めた120本近い記事をこの夏のあいだ整理し、一覧をつくり、自分の分といつも一緒に速水堅曹のことを調べ研究してくれるT氏の分をコピーして、やっと8月31日に彼に送ることができました。

やれやれ。ひと段落ついて暑い夏も終わりました。