堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

リヨンのゴブラン織り 屏風になる

2009-06-30 23:55:34 | 旅行記

昨年の11月にフランスのリヨンに行ったとき、リヨン商工会議所でおこなわれていた

シルクマーケット(le marche des soies) で購入したゴブラン織りの布地。 (←クリック)


Cimg7307  買ってきた生地


一目見たときに、これは屏風にしようとおもい、

どのくらいの長さを買ったらいいのかわからなかったけれど、

130cm幅の生地を3m買って帰りました。

後で知ったのですが、生地を購入したお店はフランス王室御用達のお店だったそうです。



帰国してから知り合いの表具やさんに、布地の柄を生かして屏風に作ってくれるよう頼みました。

屏風という和風の調度品にフランスのゴブラン織りの生地がうまく納まるのか?

そういったものはいままで見たことがありませんでしたが、

とにかくこの生地でタペストリーでもなく、衝立でもなく、

屏風をつくりたい、と強くおもったのです。

少し横長の変形の屏風になるということでした。



さて、それが今日出来上がってきました。

どんな風に出来てきたか楽しみです。


表具やさんが馴れた手つきで品物を箱から出し、くるんである布の袋をはずします。

二つ折になった屏風を開く瞬間は、あっと息を呑むおもいです。



 Cimg8627 屏風を開きました


 Cimg8632 枠の色が効いてます


すごい!

真ん中の孔雀の柄がぴったりと決まって、とても綺麗!

布地は光によって玉虫色のように見え方が変わります。


 Cimg8638 花鳥風月のゴブラン織り


高さ120cmで幅125cmの屏風を開くと、幅が3m近くにもなり、

とても大きく、重厚な感じです。


屏風は木と紙からつくられているのですが、その木の部分を担当した職人さんが

相談していたのより、いいものを作ってくれたとかで、

枠は堅木(かたき)で四隅は金具ではなく、木で組ませて(?)あります。

枠の色がちょっとすてきです。



 Cimg8639 裏面もちょっと凝ってます


フランスで織られた生地が日本の屏風になっても全然違和感がない。

とてもゴージャスだけど、オリエンタルな雰囲気がいい感じ。

予想以上の出来で、ちょっと感動です。

表具やさんに

「わざわざフランスから持ってきた甲斐がありましたね。」と言われてうれしかった。


一等工女の気持ち

2009-06-27 02:07:46 | 原三溪市民研究会

今月の原三溪市民研究会(13日)の時でした。

『原三溪翁伝』の出版に向けての作業は相変わらず続いていますが、

その日は、各自持ち込んだパソコンで索引の項目やページを入力していました。

何百、何千という項目を手分けして入力し、最終的に合体してデータベース化します。


どちらかといえば単純な作業なので、手と目は動かしながら

周りの人といろんな話をしました。

パソコンはいつ頃使い始めたとか、一太郎ばかりしていたのに、

とうとうワードになってしまった、とか。

今の若い人は子供のころからこういうものに触れているから、

だれでも使えるようになっていいね、等々。


私は若いときに英文タイプを覚えたので、それからワープロ、パソコンという順番でやってきて、

30代で日本語入力も習得し、アルファベットと日本語の両方をつかって

パソコンでデータ入力の仕事をしたことがあります。


そのころ、自分の入力のスピードと正確さにちょっと自信があったので、

もらっていた時給に対して疑問がありました。

多分私はもっと入力できているはずだと。

ある日の休憩時間にその日に入力した文字数を数えて、

時間で割って、時給から一文字あたりの金額をだしてみました。

そうしたら、まさに会社が請け負っている一文字の金額とぴったりだったのです。

わたしがもらっていた時給は能力に実に妥当で、査定をしている人はすごいな、とおもった。

(いま考えれば、そうでなければ会社経営はなりたちませんから当たり前ですけれど。)


そんな昔話をしたところ、相棒Tさんが、

「それじゃあ、昔の富岡製糸場の一等工女たちと同じだね。」と言いました。


Img_1940 官営富岡製糸場の工女の錦絵


ああ、そういえばそうかもしれない。

製糸場の工女たちは、一日どれだけの量のいい糸がひけるかで、

1等から4等くらいまでの等級でわかれていました。

そして賃金もちがってきます。


『富岡日記』の著者、和田英さんはこんな風に書いています。


  一等工女の日々繰舛る枡数は四升五升位が其頃通例で有ました。

  私も其位づつとりました。今井おけいさんは中々枡数が上がりまして、

  六升位おとりに成ましたから、私も一生けん命に成りまして、

  追々六升位とれ舛様に成ました。

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そのうちに他の人で八升上げた人がでました。

そこで和田英さんと今井おけいさんは二人でがんばって八升とれるようにやってみようと決めます。


  其翌朝場に付ましてからは、両人共無言、決して目遣ひも致ません。

  はばかりにも可成参らぬ様に致しまして、ぜひ参らねば成らぬ時は

  往復共かけ出して参る位に致まして、一生けん命にとって居ましたら、

  かつかつ七升余りとれました。

  其様に致まして、慥三日目頃両人共八升上りました。

  両人の喜びはどの位かわかりません。



私語もつつしみ、わき目もふらず一生懸命切れないように、

少しでも多くのきれいな糸をとおもい繰っていた工女たちと、

100年以上たって、

パソコンでミスタッチしないよう集中して、時間内に一文字でも多く入力しようとおもっていた私は

形は違えど仕事に取り組む気持ちは同じだとおもいました。


おもわぬところで自分の体験してきたことが、富岡の工女たちにつながる事を知り、

一等工女(私は二等工女くらいかな)の気持ちが少しわかった気がしました。


象の鼻パークと「横浜につながる絹の道展」

2009-06-20 01:58:41 | 日記・エッセイ・コラム

12日は伝道師協会の活動で、横浜開港150年記念のイベントに参加してきました。

朝10時半集合ですので、少し早めにいき、

先日の開港記念日にオープンした「象の鼻パーク」を見てからいきました。


おお~、神奈川県庁のところから、真っ直ぐにパークに入れるようになっている。


Cimg8490  偶然、群馬県庁のIさんが写っていました


広々としていますね~。

正面の先に高架の開港の道が見えます。

入り口の左右には屏風のようなものが何枚も立てられている。

これはどういう意匠なのか、ちょっとわからない。

Cimg8492 入り口はいって


Cimg8493 開港の道


運上所があったところが、すべて取り払われてこの空間になったのか。

すっかりきれいになっている。

Cimg8503  開港の丘という芝生の広場

象の鼻と呼ばれている堤防はそのままの位置で、

多少手をいれて先まで歩いていけるようになっています。


Cimg8498_2  象の鼻





ざっと見て、今日の仕事の赤レンガ倉庫一番館にいきました。


Cimg8509 赤レンガ倉庫


   Img057 チラシ


「横浜につながる絹の道展」というイベントで、

富岡製糸場や群馬の絹関係のパネルもでており、その解説や群馬産の繭を配ったりしました。


Cimg8510 会場

昼食以外は立ちっぱなしで、声かけっぱなしで結構疲れました。

でもお客さんは多く、300セット用意した繭はお昼過ぎにはなくなってしまいました。


開港当時、群馬、長野、埼玉、山梨、八王子から生糸が横浜へと集められた道があり、

それはまた各地に横浜から新しい文化が広がっていった道でもあり、

その歴史的な経緯などが説明されています。

とてもいいパネル展示です。


Cimg8520_2  展示


Cimg8522  絹の道MAP

隣のテントでは物産展も行われており、

休憩時間に久しぶりに知人と会い話が弾みました。



夕方まで伝道活動をして、帰りにまた象の鼻パークを今度は開港の道から眺めました。


Cimg8535 開港の道からの眺め


Cimg8537 眺め


Cimg8530 県庁方面



以前の横文字看板の古い建物がゴチャゴチャっとある猥雑な感じが、

今思えばいかにも「波止場」という港町の風情だったなあ。

それがなくなってしまったのがちょっと残念、とおもっていたら、

開港の道から降りた大桟橋の入り口のガード下の部分はそのまま残っていたので、

うれしかった。


開港当時の錦絵をそのまま壁に書いています。


Cimg8539


Cimg8540


ここ好きです。


明治21年長崎で空白の一日

2009-06-19 01:41:53 | 勉強会、講演会

なんじゃ、このタイトルは!とおもった方もいるでしょう。

先週の木曜日(11日)に毎月の勉強会の歴史WGで

堅曹さんの自叙伝『六十五年記』を読んで気になったことです。



明治21年、堅曹さんは農商務省の官僚として九州の大分県で行われた

九州聯合共進会に出席するため出張をしました。

その日程と製糸業関連の視察の様子が詳細に書かれていて、

地図を見ながら読み解いていきました。

大分の仕事が終わったとき、堅曹さんは自分だけ残り、

予定にない熊本、長崎へまわって帰るということにしました。

省庁へは事後報告で、東京へ帰宅後辞令を受け取っています。


そうやってまで行きたかった熊本、長崎には何があったんだろう。

熊本ははっきりしています。

明治3年に大渡製糸所を作ったとき、真っ先に伝習にきた長野親蔵が熊本の出身であり、

地元に帰って一族が九州の製糸業の嚆矢となったのです。

その関係した方々に会ったり、製糸場の実態を見て歩いています。

そうやって熊本で旧交をあたため、関係者らに製糸業について力強い演説をしています。


さて、次は長崎です。

4月6、7、8日と合計3日間いたのですが、特に製糸業に関する視察はしていない。

1日目に知事に会って、その場で「せっかくですからなにか話でもしてください」と求められ

3日目に演説をしているだけです。

そして2日目、4月7日の記述が全くないのです。


視察は3月20日から4月12日まで計23日にわたりますが、

この長崎の一日以外はすべて記述があります。

特に移動するだけの日でも、つまらない景色ならつまらない景色だとかいています。

いったい何をしていたのだろう、とおもいます。

製糸業が特に盛んではない町へどうして?

なにか書けない別の目的があって長崎に寄ったとしかおもえません。


長崎といえば・・・・・。

まあ、歴史には表もあれば、裏もある。

裏の世界にも通じていた堅曹さんなので、多分その関係か?

と想像を膨らましています。

そう考えると、どうせそういう記録は完璧に消されているのでわかるはずもないのですが、

夢があり、先祖しらべもおもしろくなる一方です。



と、一昨日ここまでブログの記事を書き、さあ載せようか、とおもった時、

長崎、長崎、な・が・さ・き...........

あれ、ひょっとして、長崎、病院? 明治21年?

思い当たる節があり、いそいでゴチャゴチャ調べました。


そうです! 堅曹さんの娘が結婚してその時長崎にいたかもしれないのです。

二女の久米さんは明治17年12月に医者の栗本東明と結婚して、岡山に行きました。

このことは『六十五年記』に書いてあります。

そして栗本は長崎医大の教授だったと叔母たちから聞いたことがあります。

ネットでそのあたりのことが書いてあるのがありました。(荘内日報社HP←クリック)


  栗本東明(くりもと とうめい)

  嘉永6年  山形県鶴岡市大山生まれ。

  明治17年 東京大学医学部卒業。岡山県立医学校教授、熊本第五高等学校教授歴任。

  明治18年 長崎病院の眼科医長、内科医長に赴任。

  明治27年 長崎で多発した狂犬病のため、世界ではじめて予防注射液を発見。

  明治31年 ドイツ、フランスに留学。

  大正11年 東京で死去。


お~、明治21年はやはり長崎にいました!

そうか、結婚して4年目で長崎にいる娘夫婦に会うのが目的だったのかもしれない。

それなら、製糸業関係の自叙伝で、しかも視察の中に書くのはふさわしくないから、

何も記されていなくても納得がいきます。

多分OKでしょう。


これがわかるまで、1週間かかりました。

でも、これですっきり。

堅曹さんも娘をもつ親なんですね。


『経済発展と技術選択』大塚勝夫

2009-06-13 23:57:53 | 本と雑誌

ネットで速水堅曹のことを評価している論文に出会いました。


大塚勝夫著 『経済発展と技術選択-日本の経験と発展途上国-』 1990 文眞堂


「一橋大学機関リポジトリ HERMES-IR」 という大学での研究を電子的に保存し、

発信するインターネット上の集積庫のところでみつけました。(読みたい方はこちら

もちろん出版もされています。


本のなかで明治以降の日本の経済発展の要因は何かという視点から

日本の製糸業の技術革新と技術選択を検証している章があります。


そのなかで、速水堅曹のことを述べている部分があります。

前橋藩が日本で最初に西洋技術を導入する際にもっとも重要な役割を果たしたのは、

外国人技師を雇用した藩士速水堅曹であり、先見の明を持つ人物が存在したことの

意義は非常に大きい。」

大学教授にこういう評価をしてもらえると、とてもうれしい。


そして群馬県はこの日本最初の器械製糸所や官営の富岡製糸場ができたにもかかわらず、

器械製糸がいろいろな理由からすぐにはひろまらなかった。

それにひきかえ長野県は群馬の技術をどんどん取り入れ器械製糸がひろまった。


そういったことを背景に速水堅曹のことを次のようにも書いている。

「ここでは、速水堅曹のような新しいタイプのリーダーは地域で孤立せざるを得ず、

所期の目的を達成することができなかった。」



そうか、そういう見方もできるかもしれない。

堅曹さんは、断りきれなくて中央政府の役人となったけれども、

それがかえって全国レベルで器械製糸をひろめるいい機会になったともいえる。

所詮、地方の枠に収まる人ではなかったのだろうとおもう。



先日小諸に行く時に速水堅曹と長野の関係をもう一度調べてみたら、

長野県の人々の熱心な気持ちに応えようと一生懸命指導巡回していることを

再確認しました。

このことは今回の論文の内容ともつながる気がします。


今年はなぜか長野に縁があり、自分では勝手に「長野年」などと言っています。

いい機会ですのでようく調べてみようとおもっています。