堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

反原発 脱原発 小出裕章さん

2011-05-25 07:58:26 | 東北関東大震災

ここのところ、またブログが停滞ぎみ。

どうしても福島原発のこと、放射能のことが気になってしょうがない。



3月14日に私は放射線の恐怖で茨城南部より横浜まで避難した。

20数年前に読んだ一冊の本『危険な話』(広瀬隆著)の影響だ。

そこには東海原発が爆発したら、とにかく一刻もはやく遠くへ逃げる。

風にのってどこまでも放射線は飛んでいくから。

車にのって窓をしっかり閉めて、と書かれていた。

過激な論調ではあるが、決して考え方として間違ってはいないとおもった。


その一文が20年以上たっても頭に鮮明に残っており、

万が一、原発が爆発したら子供を車に載せて逃げよう、と思い続けていた。


今回は東海原発ではなかったが、それでも風下にあたるのは間違いない。

流れてくるのは時間の問題だとおもい、子供を連れて逃げた。

ただしこの時はガソリンが入れられなくて、しかたなく動きはじめた電車に飛び乗った。

子供に被曝だけはさせたくなかった。


広島や長崎の原爆の被害と放射能の恐さは、たくさんの本を読み、現地に行き、

出来る限り学んできた。

だから、福島原発の爆発事故についての政府の発表や報道機関のいうことは

おかしいとおもった。

100キロ以上離れているのに「避難」などという行動をとって、

笑われてもいい理解されなくてもいい、とおもった。



ここにきて、あの時やはりたいへんなことが起きていて、大量の放射線が飛散していたことがはっきりしてきた。

2ヶ月もたってから発表される異常さ。

そしていつまでも収束されず、まだダラダラと放出され続けている放射性物質。

ほんとうに空気だけでなく、地面、農作物、魚介類、すべてが汚染されてしまった。

その中で住み、日々内部被曝が増えていくやりきれなさ。怒り。


国や電力会社の発表することなど、本当に信じられない。



幸いネットでは多くの情報を得る事ができる。

ずっと調べ続けてきて、いまやっと一番信用できると思う人物にであった。

小出裕章。京都大学の原子炉実験所助教。

原子力に夢を抱いて学び始めた学生が、原子力の危険を認識して、

反対するために原子力を専門にした。

40年間反対してきて、今やっとこの論客に世間が意見をもとめるようになった。


一言一言が実にわかりやすく、納得がいく。

誠実な人柄がしのばれる。

ネットではこちら で情報が得られる。


著書は


038 『放射能汚染の現実を超えて』河出書房新社


039 『隠される原子力・核の真実』創史社



反原発。脱原発。と大きな声でいわせてもらう。


伊豆長岡へ

2011-05-09 11:45:28 | 旅行記

GWのはじめに娘やお嫁さんと女子だけ(+孫のヒロト)で伊豆長岡に行ってきた。

今年は震災の影響で直前でも宿がとれるらしい、とか

行楽地もすいているらしいと聞いて、急遽決めた。

車でいける近場で放射線のすくないところ、海に面していないところ、

温泉のあるところ、のんびりできるところ、などを条件に決めていった。



当日はまず小田原にいき、駅ビルの美味しい魚料理のお店「魚国」で昼食。


Img_1354 「魚国」 のランチ


ここは昨年の原三溪の箱根遠足できたところ。

それから1歳半のヒロトのため小田原城址遊園地に行った。

ここもそのとき教えてもらった、「小さい子を遊ばせるにはとってもいいよ~」と。


ランチを食べてから、歩いて遊園地まで。

小田原城がすぐ横に見上げるようにあり、木立にかこまれ、

こじんまりとしているが小さい子にはちょうどいい。


Photo 小田原城


大人も乗れる小さい機関車がぐる~と走っていて、一回に2周もしてくれる。

料金は大人100円。2歳以下はタダ。


Img_1360 機関車


電気自動車なども1回30円と良心的。

車の渋滞で予定より時間がなくなり、もっと遊びたいのを切り上げて伊豆へとむかう。



さて伊豆長岡は宿泊を決めた後で、そうだ、原三溪の別荘「南風村荘」があったところだと思い出した。

いつか行こうとおもっていたので、偶然とはいえ、これは跡地をみてこなくては、とおもった。


宿の「三養荘」には夕方6時近くに着いた。

ここは昭和4年につくられた岩崎弥太郎の息子久弥の別邸だったところで、

庭が広いという話しであった。



Img_1486 「三養荘」玄関



まずその玄関の広さから圧倒され、素足で長い廊下を気持ちよく歩いて、

本館という実際に岩崎家で使われていた建物に案内された。

ぐっとレトロで重厚なゾーンだ。

当時のままだという玄関の横を過ぎ、畳廊下から引き戸を開けて入ったその部屋は、

あまりの広さと豪華さに一瞬目を疑い、

あの3人だけですが、この部屋でいいんですか?と聞いてしまったほど。

えっ、特別室を頼んだわけじゃないよね、と頭のなかでぐるぐる。


その瞬間から女3人+ヒロトの興奮ははじまりました。

部屋は10畳、12畳、6畳の三間でまわりはぐるっと畳敷きの広縁。


Img_1375 部屋


Img_1438 広縁


昔のゆがんだガラス戸をあければ、そのまま300坪の庭にでれる。

欄間や柱もふすまもも凝っている。

蚊帳をつる器具が部屋の四隅に。

調度品は朱の漆塗り。 

座椅子に脇息、鏡台など懐かしい品々。


岩崎家別邸のときは客間として使われていた部屋だという。

当時のお偉いさん達がお泊りになったんだ、とおもうだけで

わたしなどはテンションが上がってしまう。


早速お庭にでて散策。

ちょうど黄昏時で照明がともった各部屋は庭に溶け込んでとても素晴らしい景観。


Img_1378 灯りのともる泊まった部屋


こんな素敵なところに泊まれるなんて、幸せ!


夕食も温泉もとてもよかった。

夜おそくまで、広~い部屋でのんびりとおしゃべりに興じ、

まるで自分達だけしか泊まっていないかのように静かで、本当の別荘にきたように寛いだ。


Img_1405 くつろぎ




さて翌朝早くに起きて、朝風呂。

そのあと庭にでて、散策しながら写真撮り。


Img_1408


Img_1413 庭の池


Img_1410 泊まった部屋


Img_1430 木戸


Img_1424


Img_1415 石橋




まだ朝食まで時間があったので、一人で車で原三溪の別荘のあった場所を探しに行った。

数年前まで会社の寮として残っていた建物は壊されてしまい、

今は普通の住宅がいくつも建っているだけ。


Img_1446 南風村荘があったあたり


家の前に住んでいる古老に話しを聞いてみた。

ここが門で、奥のあのあたりに家があったよ、敷地はここからあそこまで、と教えてくれた。

昔はまわりはずっと畑で、全然景色が違ったという。


自動車道路も目の前にあり、写真で見た山の中の田舎家という面影はまったくなくなっていた。

奥のほうに進むと神社と古いお寺があった。


Img_1441 宗徳寺


そこにいたおばあさんにも話しを聞いた。

そのあたりはずっと静かで、山里の感じが残っていた。

三溪さんの別荘は建物だけでも移築して残せたらよかったのに、とおもった。



さて雨も降ってきて大急ぎで宿にもどり、朝食を済ませ

11時のチェックアウトまでまた一休みして、ゆっくりした。

帰りは箱根を通ってそこそこ渋滞にあいながら帰宅。

思い出に残る旅となった。


明治時代の製糸家のご子孫

2011-05-06 10:05:53 | 日記・エッセイ・コラム

    Photo


すこし前の話になりますが、4月下旬に桐生で

明治初期に製糸業をはじめた方のご子孫Hさんとお会いする機会があった。

前日の夜遅くに友人からメールをもらったのだが、

送ってくれた方も、私もピンとくるものを感じて、翌早朝には家をでた。

果たしてそれはとても素晴らしい出会いだった。



Hさんは明治7年から機械製糸業をはじめて、数少ない成功した製糸家のご子孫でした。

ご自身は全く関係のない仕事をしておられたが、

ある時、先祖が大量の写真を残しているのを知り、

何十年も開けられることのなかったアルバムを手にとり、

そこから先祖調べが始まったという。


文字で書き残したものは何もないが、写真だけが大量に残っている。

若い時にアメリカにいた先祖自身が撮影したものだという。

19世紀後半から20世紀はじめの貴重な写真を一枚づつひもといて

先祖の足跡をたどる作業をつづけていらっしゃる。


パソコンをもってきて、たくさんの写真をみせてくださった。

私の知っている方がいる。

アメリカの織物工場の写真がある。

ニューヨークの街が写っている。


写真についているキャプションを基に調べてわかってきた先祖のことを語ってくださった。

その話しはとても興味深く、ご先祖は速水堅曹とつながりのある人物だった。

写真をみて、話しを聞いて、とてもワクワクした時間だった。


先祖の足跡の手がかりを求めてアメリカにも足を運んだという。

そして現地で日本のシルクに興味をもつ方たちと出会い

2年前にシルクスタディーツアーを企画して日本を案内している。


同じ先祖探しでも、こうやって日米の交流をするところにまで発展させてしまう行動力に

私は感嘆してしまった。


ご縁があってお会いできたので、これから何かできるような予感がする。

Hさんも先祖の事を調べはじめてから、人との出会いをとても大切に感じると話しておられた。

これからの展開を楽しみにしたい。

(写真はHさんから頂いた当日の桐生の町)