堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

小諸で堅曹さんの手紙に会う①

2009-05-30 22:45:09 | 勉強会、講演会

しっかり修理したデジカメをもって、28日の木曜日信州小諸まで行ってきました。

富岡製糸場伝道師協会の歴史ワーキンググループの活動として相棒Tさん、夢酔い人Kさん、

そして堅曹さんの姉の子孫であるNさん、Eさんもお誘いしました。



4月26日に同じ伝道師協会の近代化遺産ワーキンググループがおこなった

小諸の純水館という製糸場と明治7年丸萬製糸場をつくった高橋平四郎の足跡をたどる見学会の

あとを引継ぐ形で今回歴史WGが行きました。


近代化遺産WGの代表Ⅰさんから、

高橋平四郎に宛てた速水堅曹の手紙が何通も残っているよ、見てきたらいいと教えていただき、

居ても立っても居られない気持ちでこの日を迎えました。



当日朝5時に起き、東京から新幹線に乗って軽井沢までいき、そこからしなの鉄道に乗り替えて30分弱。

10時に小雨のふりはじめた小諸駅に降り立ちました。


Cimg8408  小諸駅


高橋平四郎のご子孫の高橋氏や純水館研究会の方たちの迎えを受け、

まずは小諸の歴史的な史跡を見学。

つぎに丸萬製糸場ゆかりの人物の碑や純水館を見下ろす高台にある工女の墓を見学しました。


Cimg8263 4基の工女の墓 


ここで純水館の社長で信州味噌の顧問である小山氏とお会いして、

小山家、高橋家の立派なお墓に案内していただき、お参りさせていただきました。


11時過ぎに北国街道にある「荒町館」に着き、交流会と昼食となりました。


Cimg8276  荒町の北国街道 

  建物は信州味噌本社、元純水館の事務所であった





今回の見学会は急遽日にちが決まった為、

この2週間のあいだに都内の図書館に数日通い、下調べに没頭しました。

速水堅曹が明治10年内務省の役人として長野県を巡回指導したことは

『信濃蚕糸業史』(昭和12年)に記述されているので、長野の方はよくご存知です。

その原典をあたるべく調べてみました。


明治33年に出版された大塚良太郎編纂『蚕史』に、

「速水堅曹手記から引用」という形でその部分が記されています。

残念ながらこの手記は現在ありません。

引用されているのも、この『蚕史』だけです。

内務省の記録も調べましたが、これも探しだせませんでした。


そしてこの原典の『蚕史』前編、後編すべてに目を通し、ほかに長野県に関すること、

高橋平四郎に関することが堅曹さんの手記から引用されていないか調べました。

ありました。

明治11年と13年にも高橋平四郎の製糸場を訪れています。

そして長野県の模範製糸場を建てるにあたって、県知事が計画の段階から堅曹のところに相談にきており、

出来上がってからは、堅曹がこの明治11年と13年に指導に訪れています。


この新たにわかった堅曹と高橋平四郎、長野県製糸場の関係の資料を見ていただきながら、

交流会でお話をさせていただきました。


また、堅曹さんは明治13年に横浜で同伸会社という生糸の直輸出会社を起こしていますが、

その取締役12人の中のひとりに高橋平四郎を選んでいます。

全国の製糸業にかかわる人の中からこれはと見込んだ人物を同伸会社を発足させるときに集めています。

高橋平四郎は堅曹さんが見込んだ人物であることに間違いありません。

そんなことも話させていただきました。



高橋氏からは曽祖父にあたる平四郎の足跡と、人口12000人の小諸で工女が3000人だったいう、

いかにこの町が製糸業が盛んだったかという話。

志半ばで病に倒れ亡くなった平四郎の跡を運命的に引き継ぐように隣同士だった小山家が純水館を始める。

この製糸場は昭和56年まで続き、この製糸業にまつわる家同士、人間関係の繋がりを話してくださった。


小山氏からは小諸には与良(よら)の小山、荒町の小山といわれるほどの一族がおり、

同族一致で力を合わせてやってきたこと、祖父や父の話。

そして平四郎の人物像を彼の履歴から考察されて話されました。


純水館研究会は5年前から活動をはじめ、忘れられていた工女の墓を探しだしたり、文献を読み解いて

『純水館ものがたり』を出版したこと。

速水堅曹についての質問もしてくださいました。


こうやって昼食をとりながら、多くの情報交換をしました。

とても有意義な時間でした。



さて、午後は待ちに待った、堅曹さんの手紙を見にいきます。

「高橋家文書」を見るために、歩いて10分くらいの場所にある「荒町古書蔵」に行きました。

つづく


デジカメ 故障!

2009-05-25 23:51:18 | 日記・エッセイ・コラム

このブログに載せている写真を撮っている愛用のデジタルカメラの調子が

どうもおかしい!


昨年のフランスに行った頃からちょっとおかしいので、もう半年も経っています。

液晶モニターの画面が急に紫色っぽくなって筋が流れ、写真をとってもそのままの映像しか撮れない。

困ったな、とおもって何回もシャッターを押しているとまた普通にもどる、という状態です。

異常になる間隔がだんだん狭まってきています。



14日に行った前橋見学会でも途中でそうなり、写真の撮れなかった場所があります。


Cimg8086  こんな風になってしまいます



もう修理に出さなければダメだ、とおもい、近くのカメラやさんでみてもらったところ、

多分CCDという映像を写し取る、普通のカメラでいうとレンズの役目の部分の不具合だろうということです。

(私の大雑把な理解で、違うかもしれませんが)

修理には2週間くらいは最低でも預けて、代金も1万円くらいは覚悟しなければなりません。

どうしよう、とおもってとりあえず家に帰ってきました。


今週の木曜日にまた見学会があって、多分デジカメで貴重な資料を写すことになりそうです。

預けるわけにはいかないし、肝心の時に写らなかったらなお困るし。

新規に買うには、最低でも2万近くかかるから修理のほうが安い。

慣れない家族のデジカメは使いたくないし・・・。


そうだ、メーカーに直接もっていったら日数がそんなに掛からないかもしれない。

いろいろ調べてみた。

メーカーはカシオです。


ありました、クイック修理サービス。

全国に3店舗。首都圏は秋葉原です。

技術の人がいて、60分を目安に修理をしてくれるという。

電話をして聞いてみたら、CCDの交換なら午前中もって来てくれれば夕方までには出来上がるという。

やった~!


今日、朝一番で持って行って、夕方無事修理完了。

代金は12,075円。

半年前にすぐもって行けば保証期間内だった!ということに、

今頃気づいてちょっとイタイおもいです。


『開港と生絲貿易』 購入

2009-05-22 10:57:47 | 日記・エッセイ・コラム

ついに買ってしまいました!


   『開港と生絲貿易』全3巻 藤本実也著 

          昭和14年の覆刻版 名著出版 昭和62年刊


幕末の開港から明治期にかけての日本生糸貿易の変遷を詳述しているこの書は、

堅曹さんのことを調べる上でほんとうに欠かせない書物でした。

いつも図書館でみては、その箇所だけコピーをとってということを繰り返していましたが、

あとになるとその前後も読みたくなる。

でもそうしょっちゅう図書館にはいけない。


そしてこの復刻版には索引と著者の藤本実也についての論文が別冊としてついている。

それを書いているのが東京外語大の内海孝教授です。

堅曹さんの自叙伝を探すときにたいへん力になっていただき、

いま原三溪市民研究会でお世話になっています。

そしてその『原三溪翁伝』の著者は藤本実也です。


まあ、私にとっては運命的な本であり、どうしてもいつかは手に入れたいとおもっていたのです。


22年前に出されたこの復刻本はすでに在庫はなく、古書として探すしかないのですが、

値段が高い!

しかも私がぜひほしいとおもう内海教授の書いた別冊がついているものがない!

どうせ手に入れるなら本の全3巻+別冊でなければいやだ、とずっとこだわって探していました。



先日とある出版社の古書目録で検索したら、『開港と生絲貿易』全3巻がありました。

値段も高くない。

すぐにメールで本の状態、別冊の有無を問い合わせてみました。

別冊はついているという。

そして3巻とも状態は良好で箱入りであり、さらにその3巻全部がはいる箱もついているという。

う~ん、別冊がついていれば問題はない。

3巻全部がはいる箱ってどういうのだろう、とおもいながらも、即買いです。

すぐに代金を振り込んで、本が届くのをまっていました。



昨日宅急便で届きました。

厳重にダンボールにくるまれた『開港と生絲貿易』。

梱包をほどいてみると、なかからダンボールで出来た書名が印刷された箱が現れました。


 Cimg8211 全3巻の入った箱


予約のセット販売としてだされたもののようです。

予約揃特別定価 五三、〇〇〇円と書いてある。

こういう形態で出版されたんだ、とおもいながら、そっと蓋を開けてみる。


    Cimg8214_3 箱を開けたところ


中には箱に入った『開港と生絲貿易』上、中、下の3巻と

別冊の内海孝著『藤本実也と生糸貿易研究』と索引がきちんと入っていました。


やっと手に入った!と感激して本をだしてみると、

ダンボールの箱の底になにやら折りたたまれたチラシのようなものが・・・。

もしや、とおもい手にとってみると、それは発売前の予約案内のリーフレットでした。


  「日本近代史研究に不可欠の資料集 ― 待望の復刊

   幕末維新期の横浜貿易の実態を解明   限定二三〇組」


それには注文書がついていて、本文見本がでており、目次も載っています。


そしてもしやとおもった最大の事柄、そう東大の石井寛治教授の「すいせんの辞」が載っていたのです。

これはよく内海先生から、あの時は恩師の石井寛治先生に推薦文を書いていただいたんだ、と聞かされていたその文章です。

お若い時の先生の写真も載っていて、すぐに文章を読んでみました。

先生は著者の藤本実也に会っていることがわかり驚きました。

そして内海先生自身の「復刊にあたって」という文章も載っていました。


  Cimg8216_2 別冊(右)とリーフレット



本当にこのリーフレットの入っていたことにまたまた感激です。

古書の世界では、こういった紙片ほど時が経つにつれ貴重で重要になってくるといわれます。

何年も待って買った甲斐があったというものです。

この本でしっかり勉強させていただこうとおもいました。


歴史WG 前橋見学会

2009-05-21 12:23:13 | 勉強会、講演会

5月14日(木)は月に一度の歴史ワーキンググループの勉強会の日でした。

かねてより前橋市内の速水堅曹のゆかりの地をめぐりたいという希望があったので、

午前中に見学会をし、午後は勉強会を行いました。



堅曹さんは慶応2年(1866)川越より前橋に越してきて以来、

生糸改良のため日本初の器械製糸所を立ち上げる等めまぐるしい日々を過ごしています。

そして住居も明治7年(1874)11月までの約8年間に7回も市内で引越しをしています。

しかし前橋市内にはその頃の建造物や痕跡はほとんど残っていないのですが、

その跡地、碑等を見学して速水堅曹の歩んだ足跡を辿ってみることにしました。


夢酔い人Kさんが詳細な資料を作ってきてくれました。

何ヶ月もかけて、いままで少しづつ調べてきた各箇所に関する、

ここがそうだと確定する出典(文書、本、写真、地図)を全部まとめています。

この資料だけでも感激物です。



朝9時に群馬県庁に集合。いい天気です。

まずは県庁のところにある「前橋城跡の碑」を見にいきました。


Cimg8056 「前橋城跡の碑」と左の「賛助人名」の碑


堅曹さんは藩士として毎日お城へ通っていました。

先日偶然みつけた碑の建立賛助者の名前の速水堅曹を皆でみて、

他にも知っている人物がいないか探しました。

Nさんが裏面にも名前が書いてあるといって探しています。ありました!

Kさんや今回特別参加のEさんの先祖にあたる、遠藤鏘平さんの名前が!

Cimg8050  「中川町 遠藤鏘平」と彫ってあります


彼は堅曹さんの甥で、まるで家族のように堅曹さんはよく面倒をみています。



次は住吉町一丁目の交差点にある「日本最初の機械製糸場跡」の碑です。


Cimg2182 「明治三年日本最初の機械製糸場跡」の碑


明治3年(1870)、たいへんなおもいをして始めた日本最初の器械製糸所の跡地にたてられています。

この碑は昭和36年(1961)前橋商工会議所が中心になって建てられたものですが、

道路の拡張などで当初1本の碑だったものが2分割されて下の部分はそのままで、

上の部分はそばの広瀬川の厩橋のたもとに移動されています。


Cimg8072 左の照明塔が上の石碑の上にあったものです。提糸と生糸の取り枠がつり下げられています。




次はその器械製糸所を4ヶ月後に場所を移動して開業した大渡製糸所(岩神町)の跡地に向かいました。

元共愛学園のあった隣です。

古い地図を見ながら、現在地をたどり、裏のほうまでいって敷地の大きさを確認。

明治時代に英照皇太后が見学にいらした時に植えた、お手植えの松があった場所も教えてもらいました。



次は森厳寺(昭和町)。

ここは藩主の松平氏が国替えのときにいつも一緒に越してきているお寺です。

そのため、前橋藩士のお墓が多いです。

Nさんの家の墓や堅曹さんの姉のうめさんの墓等、親戚の墓がたくさんあります。

NさんやKさんが子供の頃で覚えている法事の話や墓を改葬した時の話などをしてくださいました。

そういった細かいことは伝えていかないとだんだんわからなくなってきちゃうんだろうな、とおもいました。



そして次は国領町にある琴平神社です。


Cimg8123 琴平神社


このすぐそばにあった大川(平兵衛)の家に堅曹さんは越したと日記に書いてあります。

神社の周りをぐるぐる見てどの辺りだったんだろうと話しました。



次は関根町にある研業社跡地に行きました。

現在は片原公園になっています。


Cimg8124 片原公園


ここには平成19年に「研業社跡地」の碑ができて、昨年は町の由来をしるした大きな碑もできました。


Cimg5058 公園内にある「研業社跡地」の碑


『前橋市史』に載っていた研業社の建物の配置図と写真を見ながら公園の中を

この辺が製糸器械所か、工女寄宿舎か、などと皆で話しながら確認していきました。



そして最後は三河町(当時中川町)の遠藤鏘平さんの家の跡です。

堅曹さんも何回か同居させてもらっています。

日記に書いてある間取りと地形を照らし合わせてみました。


Cimg8143_2 遠藤宅の跡


現在はビルになっていますが、

となりに今も住んでいる鏘平さんの二男のご子孫の方にいろいろお話を伺いました。



さて、見学の最後は遠藤家がいつもひいきにしていた

本町の結城屋という蕎麦やさんで昼食にしました。

おいしかったです。

午後は市立図書館へ行き、勉強会で自伝の『六十五年記』を読み解き

充実した一日を過ごしました。


中区開港150周年事業

2009-05-17 01:47:09 | 原三溪市民研究会

9日の土曜日は月一回の原三溪市民研究会の日でした。

横浜みなとみらいにある、横浜美術館で行っています。


横浜では開港150周年ということで、4月からいろいろなイベントが行われています。

私たち原三溪市民研究会も開港150周年記念事業として『原三溪翁伝』を出版するので、

研究会としてイベントに参加していきます。

7月19日(日)に横浜開港記念会館の講堂でフォーラムを行うことが決まり、

その詳細についての相談がこの日行われました。


いつもより1時間早く集まり、内海先生を交え全員でテーマから決めていきます。

  開港と横浜、原三溪と横浜、生糸と横浜、タゴールと三溪、インドと横浜経済、等々。。。

  どこを切り口にするか、軸は何にするか、。。。

  討論の形でいくか、講演をしてもらうか、等々。。。

たくさん意見がでて、徐々に内容が固まっていきました。

そして、時間配分や具体的な話まで進みました。

担当者も決め、あとは来月にそれぞれが作った内容を持ち寄り検討を重ねます。


3月に行った「原三溪を考える」のイベントに私は出席できなかったのですが、

今回はしっかり参加します。

時間等詳細は決まり次第お知らせします。



さて、フォーラムの話し合いがおわり、次は肝心の出版のほうの作業です。

「原典チェック」という作業の説明をうけ、それをはじめる準備をしました。

といってもこれはそう簡単にできるものではありません。

昭和20年(1945)に書かれた原稿の「原典チェック」ですので、

いまそれを探し出すのはたいへんなものもあります。

でもできるだけ完璧を目指してやろうという内海先生の意向をうけて

とりかかることになりました。


フォーラムの準備と原稿の作業を同時にすすめなければならず、これから忙しくなりそうです。

月1回で間に合うかしら、という声もでてきて、正念場をむかえています。