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「コロンブスは、残酷で貪欲で嘘つきだった」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2006年12月10日 | 人物
クリストフォロ・コロンブスは、1506年5月20日に死んだ。今年で彼の死後500年経つことになる。予期しない文書館の発見が彼の人となりについての歴史像を根本的に変えたので、この記念の年は、静かに過ぎようとしている。シマンカスの文書館で、司書のイザベル・アギーレは、偶然に公開された文書束に属さない書類の束に出くわした。
それが1500年にフランシスコ・ボバディラがイザベラ女王とフェルディナンド国王の依頼でヒスパニオーラ島でのコロンブスが行状について行った調査についての記録の同時代の写しだることが彼女にはすぐ分かった。イザベル・アギーレは、文書を写し、コロンブス研究の最も重要な専門家の一人であるコンスエロ・ヴァレラに見せたところ、彼女はこの発見の意義を直ちに認めた。
ボバディラがこのような調査を行ったことは知られていた。なぜなら、さまざまの史料がそれについて語っていたからである。しかし、これらの史料は、すべてコロンブスの影響がかかっており、ボバディラの調査結果を否定していた。直ちにスペイン宮廷に送られた原文は、行方不明のままであった。ボバディラは、彼をスペインへ送り返そうとした艦隊が沈没した際に溺死したから、彼は自分の調査結果を自分で裏書きすることができなかった。何世紀もの間に作り上げられた偉大な発見者という教訓的な像は、それゆえ本質的な点で維持されたままであった。コンスエロ・ヴァレラが新たに発見された記録を去る5月にコロンブスの故郷ジェノアで彼の死後500年を記念して開かれた開かれた国際会議で公表するまでは。彼女は、文書の内容をかいつまんで報告し、包括的な研究の形で間もなく公刊すると告知した。この研究は最近公刊された。(Consuelo Valera, la caida de Cristobar Colon.El juicio de Bobadela.Edicion y transucription de Isabel Aguirre,Marcial Pons Historia,Madrid,2006).
ボバディラがアメリカに派遣された理由は、コロンブスの重大な職権乱用を非難する多くの訴えが国王の耳に入ったからだった。密使は、1500年8月23日にサン・ドミンゴに到着した。このとき、コロンブスは、島の別のところにいた。彼が審問官の到着を耳にしたとき、彼は抵抗を組織しようとしたが、自分がスペイン人移住者のところでもインディオのところでも支持を見出さないだろうということをすぐに見抜いた。それゆえ、彼はサン・ドミンゴに帰り、ボバディラのところに出頭した。ボバディラは、副王としての地位を解任するという国王の指令を手渡した。直ちに調査にとりかかった。そのために、彼は22人のスペイン人を召喚した。その中には、副王の忠実な召使いがおり、彼らはコロンブスの行状について証言をするように期待されていた。
尋問は、前代未聞の重大さをともなう出来事を明るみに出した。すべての僧職者によって一致してコロンブスに対して出された非難は、彼が宣教師による土着民の洗礼を組織的に妨げたということであった。それに対する同意を彼はさまざまの言い逃れによって拒んだ。その背後には、土着民を奴隷としてスペインに売り飛ばすという意図があった。それは彼らが洗礼を受けてしまうと、不可能だった。コロンブスの態度は、彼が生涯、信仰の闘志だという振りをし、その原住民をキリスト教徒に改宗させるために、新世界を発見したという功績を要求したことを考えると、特にスキャンダルだと見なされたに違いない。
新世界の発見者の深い信仰心が疑われたことは一度もなかった。
スペインの市場に提供された沢山の奴隷は、イザベラ女王を不安にしたが、コロンブスは、反乱者として戦争で捕虜となった未洗礼の原住民が奴隷として売られたのだと断言した。現実は違っているように見えた。コロンブスは、島の村々で手入れを行い、その際に、スペインから連れてきた犬が投入された。コロンブスは植民地でも残酷な統治を行ったが、そこでは、彼は彼の兄弟のディエゴとバルトロメオの助けを借りて本当の恐怖統治を行った。彼は常に自分の特権を乱用し、彼の部下達のための生活物資や支払いをけちり、移住民を文字通り飢えさせた。そのわけは、食糧はこの島では乏しく、スペインから持ってこられたものは、彼によって厳しく保管されたからである。それ以外に、彼は住民からその所有を奪い、抵抗を非常な過酷さで罰した。反抗的な住民を裁判なしで絞首刑にした。その際、彼は拷問を適用し、手や鼻や耳を切り取るというような体罰を加えた。それどころかある義理の兄弟を死ぬまで拷問した。その兄弟は宮廷にコロンブスの悪行に対する告訴状を手渡すのにフランス人の手を借りたのだった。
ボバディラの報告書は、他の史料やそれに基づく歴史記述が伝えてきた伝統的なコロンブス像とはかなりこととなる像を描いている。嘘つきで、腐敗して、残酷だったので、コロンブスは、つまらないミスに対して厳罰を加えたのに対して、ケチ、所有欲、拘束されない冨への欲望が彼の性格の主要な様相として際だっている。コロンブスの手紙の中では、しばしば、黄金の追求について語られているが、その際常に、失敗した場合には、宮廷の恩顧を失い、究極的にはより高い宗教的目標に奉仕する彼の金のかかる探検旅行のための金を失っただろうと断言するのが常であった。
調査が終わった後で、ボバディラは、コロンブスと彼の二人の兄弟を捕らえ、スペインに送った。そこで彼らは法廷に立たされる予定であった。西暦1500年11月20日、コロンブスは、カディスに到着したが、新世界の発見者として彼の声望が大きかったため、現地の役所は、彼が個人的に宮廷で自己弁護できるように、彼を釈放した。12月17日、彼はグラナダで国王夫妻に出迎えられ、そこで彼は告訴状に部分的に反論することができた。彼の発見者としての否定できない功績に基づいて、ボバディラによって押収された品物は返却された。だが、副王の職は取り戻すことができなかった。それは植民地における間違った統治に対する非難が信じられたという明らかな証拠である。彼が第一次のアメリカ旅行以来国王と結んだ約束に基づいて彼が手に入れた独占権は、剥奪された。他の航海者達にも新世界への発見の旅を企てることが許された。
コロンブスは、もう一度「大海の提督」とい肩書きでアメリカに航海した。この最後の航海は失敗に終わった。1504年に彼は病気になり、借金を抱えてスペインに帰国した。あらゆる暗黒面にもかかわらず、伝統的なコロンブス像のうちで、彼の企ての大胆さと、地平線上のただ一つの小さな雲から台風が近づいていることを予測した偉大な航海者の非常な大胆さが残ったのだ。
[訳者の感想]コロンブス像ももはや嘗ての栄光を失ったようです。この書評の筆者はロベルト・ザッペリという人です。
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