海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「イラクの外にいるが、戦闘に参加している」と題する『ワシントン・ポスト』紙の記事。

2005年06月09日 | イラク問題
 シリアのアレッポ発:アメリカ軍がイラクに侵攻したとき、アブ・イブラヒムの家族は、シリア北部の共同住宅の中庭に集まった。10枚の折りたたまれた紙片がプラスティック製の袋の中に入っていた。彼らはくじを引いた。インクで印のついた紙を開いた5人がイラクへ行って、アメリカ軍と戦うことになった。後の5人はシリアに残った。アブ・イブラヒムが引いた紙には、インクの印はなかった。しかし、シリアに留まるということは、戦争と無関係であることを意味しない。2年以上、この4人の子供の父親である32才の男は、熱心に他の若いアラブ人がイラクへ行くのを手伝った。数百人のアメリカ兵と何千人ものイラク人を殺した武装勢力を育てた。
戦士の流入--大抵はシリア人だが、後には彼らが持ってくる現金によって、サウディ・アラビア人が好まれた--は、イラクの反対勢力の核心を支え、補充し、自爆攻撃をする人たちを供給した。アラブ諸国から引き込まれ、イスラム教の戦闘的解釈に養われたこれらの戦士は、自分たちは自分の信仰のビジョンのために戦っているのだと主張する。このことによって、彼らは、イラクのスンニー派アラブ人をこの国の新しい政府の支持者にしようとする努力の及ばないところに置かれているのだ。
 「私たちの兄弟は、イラクで、小さなグループに分かれて活動している。それぞれの地域で、人々は、宗教的指導者や部族長によって組織されて、アメリカ軍を攻撃している。私たちがシリアやイラクで兄弟に会う場合は、彼らを集めるのは、しばしば、私たちである。」
 反対勢力を支え、組織する場合のシリアの役割は、時間と共に変化している。イラク戦争の初期においては、戦士達はイラク行きのバスに群れ集まり、シリアの国境警備隊員は、国境のゲート越しに手を振った。だが、2004年の後半には、ブッシュ政権がシリアに圧力を加えた結果、シリアの治安部隊は、武装勢力の手助けをする人たちを逮捕した。しかし、アブ・イブラヒムを含めて多くの人たちは、数日の後には釈放された。それ以来、武装勢力の密輸人達は、こっそり仕事をしている。裏通りや中庭や公衆の広場やモスクで行われた一連のインタービューでは、アブ・イブラヒムは、明らかにアムン・ダウラと呼ばれる治安部隊のメンバーを伴っていた。昨年12月に、治安部隊は、彼のパスポートと身分証明書を没収した。彼の新しい身分証明書は、一枚のカードで、彼はそれを毎月彼の管理人に提示しなければならない。
 彼が述べた人間を密輸する組織の構造は、武装勢力におけるシリアの役割を詳細に研究しているアメリカ政府とイラク政府の評価と一致している。
 シリアで行われたインタービューは、イラク人武装勢力の説明を裏書きしている。それによるとアブ・カカという名前で知られているシリア人聖職者が、西欧に対するジハード(聖戦)を推奨したと言われている。2003年3月におけるアメリカ主導のイラク侵略以来、ジハードという概念は、多くの若いイスラム教徒、特に旅行する手段と資金を持った人たちの想像力に刺激的なインパクトを与えた。
 「アメリカ人は、イラクにいる武装勢力を何千人も殺せば、ジハードは終わると考えている。だが、彼らは彼らが直面している事態を知らない。周囲のイスラム諸国からのますます多くの若者達が目を覚まし、聖戦原理に従っている」とアブ・イブラヒムは、挑戦的に言う。(中略)
 「2001年9月11日は、素晴らしい日だった。アメリカが負けたのだ。われわれは、彼らがシリアかイラクを目標にするだろうということを知っていた。どちらかの国に何かが起こったら、われわれは戦うと誓った。」
 ニューヨークとペンタゴンの攻撃の2週間後、アブ・カカのグループは、アレッポの公衆の前でお祝いをするほど大胆だった。そこでは、ゲリラの戦闘訓練の模様を撮したビデオが上映された。後に、アブ・カカは、当局によって逮捕されたが、数時間後に釈放された。2002年までに反米祭りは、結婚式や集会に紛れて毎週、2回行われた。アブ・イブラヒムによれば、シリアの治安部隊や大統領の顧問も、「アラブは、ユダヤ人を打ち負かし、彼らを皆殺しにするだろう」という標語を掲げた反米祭りに出席していた。費用はサウディ・アラビアや他のアラブ諸国から供給された。
 アブ・カカを取り巻く青年達は、自分たちが驚くべき量の力を持っていることが分かった。彼らは、イスラム法を厳格に実行するように他の人々を強制することができる。たとえば、彼らは真夜中に行いが悪いと非難するために人の家に押し入ることができる。
「われわれはなぜ政府に逮捕されないのか」と部族長に聞いた際、部族長は、「それはわれわれが政府に対しては何も言わず、われわれの共通の敵であるアメリカとイスラエルに焦点を当てているからだ」と答えた。
 サダム・フセインの政府は、ボランティアを受け入れ、彼らに武器を与えて、彼らを「アラブ人のサダム・フェダイーン」と呼んだ。普通のイラク人はしばしば歓迎されず、家に帰れと言われた。あるシリア人は射殺されるか、アメリカ軍に引き渡された。
 イラクにいる協力者の依頼で、アブ・イブラヒムは、しばらく、戦士を送り込むことを止めた。「彼らはそこら中にシーア派やアメリカ人がいて、何もできないと言っていた。」
 しかし、2003年の夏には、武装勢力は組織され始めた。ボランティアを求める声が高まった。イラクとの国境をなしている大きな沙漠は、かっては商品を密輸するルートだったが、今度は、戦士を送るのに使われた。
 「われわれは、イラク人の密輸組織のための特別の会合場所を持っていた。われわれに15人以下の戦士しかいない場合には、彼らはやってこない。われわれは国境を越えて、イラクの村へ入る。そこから、イラク人の仲介者がムジャヒディンを訓練キャンプへ連れて行くんだ。」
 シリア人の戦士は、既に2年間兵役に服しているので、大抵は、訓練はしなくていい。訓練が必要なのは、サウディ・アラビア人だ」とアブ・イブラヒムは言った。その後、戦士はイラク人が指揮する小さな部隊に参加する。彼らはアメリカ軍の輸送隊に対して地雷を仕掛けたり、急襲したりする。
 「一度アメリカ軍がシリアへ行くバスを爆撃したことがある。われわれは大騒ぎをして、それは商人で一杯だったと言ったが、実は乗っていたのは、イスラム戦士だった。」
 2004年夏、アブ・イブラヒムは、50人のボランティアと共にイラクへ行った。イラク社会では、彼は注意を引くことなく動くことができた。しかし、彼が米軍のファルージャ攻撃の後、シリアへ帰ったとき、50人の志願者のうち生き残ったのは、たった3人だった。
 「若者は一生懸命に戦っている。サウディ・アラビアの将校や、シリア人、イラク人がいる。だが、サダムのために戦った人はいない。たいていの場合、彼らを指揮しているのは、ザルカウイだ。」
 「六ヶ月前にはザルカウイとオサマ・ビン・ラディンとは意見が違っていた。オサマは、シーア派を殺すのは正しくないと考えていた。ザルカウイは、シーア派を殺した。アメリカ人と協力する者は、キリスト教徒だろうが、ユダヤ人だろうが、スンニー派やシーア派だろうが殺して構わない。これは聖戦なのだ。」
(以下省略)
[訳者の感想]ガイト・アブドル・アハドという署名のある長文の記事です。シリアが武装勢力の供給地になっており、シリア政府は、表面だけ抑えているが、実際は、ムジャヒディンがイラクへ入るのを抑えてはいないようです。シリア国民の中に反米、反イスラエル、反西欧の考え方がかなり浸透していることがわかりました。これを読んで、私は1930年代のスペイン内戦を思い出しました。ナチ・ドイツに後押しされたフランコ軍と戦うためにヨーロッパや、アメリカから社会主義者や、共産主義者が武器を持ってスペインにやってきたのでした。フランス人のアンドレ・マルローやアメリカ人のヘミングウエイもその一人でした。もっとも、彼らは社会主義的なスペイン政府をたすけるために戦って、結局フランコ将軍(後の大統領)のファシスト軍に敗北したのですが。

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