海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「中国の人権問題」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2007年05月27日 | 中国の政治・経済・社会
ケーラー・ドイツ連邦大統領は、最も最近のドイツからの来訪者として、ピリピリした雰囲気の中で中国を旅行している。最近数週間のうちに、ドイツは、人権というテーマを再び鋭くするのに成功した。このテーマについては、それは外交上の型どおりの仕事の中ですっかり姿を消したと思われていた。だが、連邦議会の決議は、中国の労働収容所を批判した。ベルリンでのヨーロッパと中国の人権対話から、中国の外交官達が早々に退去した理由は、国家に敵対的だと分類された香港の非政府系通信社が加わっていたせいである。今回、ケーラーは、彼の言葉を慎重に選んでいる。
 少し前に、抽象的すぎる概念はうまく無害化されているという印象を持つことができた。人権状況について西欧の政治家達が口に出すのと同じ頻度で、中国の政治家達は、内政問題であるという理由で丁寧に反論した。
 だが、クールな外見は、欺いている。外交的に平静な時代でも、中国は、普遍主義的な要求によって挑発されていると感じている。そのことによって、具体的な批判は、直ちに単なる内政干渉であるとして退けられないでいる。多数の研究者や研究施設、例えば、「人権研究のための中国学会」は、何年も前から、「西欧の議論上の覇権」に対して何か独自のものを対置するために、このテーマと取り組んでいる。繰り返し変えられる公式の立場は、中国の伝統文化は、人権についての独自の見方を展開してきたというものである。それは「個人主義と利己主義」からではなくて、共同体の調和を前提にしている。それゆえ、政府の出している人権白書は、「存在と発展に対する人民の権利」を「国家が配慮してきた人権」だと称する。
なぜ政府が権力を譲渡しないかという理由を探している政府が哲学していることは、明白である。真剣に考えられた論拠も、それが適合する国家によって道具化される。けれども、人権の持つ普遍主義的性格を真剣に考える思考は、歴史的文化的経験に立ち入るのが良い。
「中国社会科学院」が発行している雑誌に最近、ある論文が載せられた。それは、通常の文化主義的論証よりももっと過激である。「社会科学院」で仕事をしている哲学者チャオ・ティンヤンは、西欧がいつも人権を支持することを新たな「西欧の事実上の宗教」だと表現した。(別の機会には、彼は、西欧的普遍主義を「隠れた原理主義」と呼んだ。)彼は、公式筋の受け身の反応を哲学的に無意味であり、西欧の見方が正しいということを暗黙の内に認めていることに他ならないと述べた。
 けれども、西欧が人間であるという単に生物学的な事情から権利を引き出す仕方は正当化されないと彼は言う。自然は、まだ一度も権利を基礎付けなかった。それができるのは道徳である。実際には、人間が何で「ある」かではなくて、人間が何を「する」かによって、人間は権利の主体になることができる。ゲーム理論的な考慮に基づいて、チャオは、人間の利害関心は、「調和の取れた正義」を持った制度において最も良く満足され、そこでは、人権は、存在に基づく「自然権」ではなくて、行為に基づく「信用への権利」が保障されると言うのだ。
 「すべての人権は、結局、生命と自由への権利を含めて、払い戻されねばならない何かである。」その権利は、良い振る舞いにおいてのみ、通用する。
 この行為との関係から得られた立場の盲点は、明らかである。この立場は、権利が依存すべき、社会を何か自然発生的なものと見なし、誰がどんなカテゴリーにしたがって、権利を保障したり、奪ったりするのかという問いを中心に置いていない。チャオ自身が、この体制では、正義に対する客観的な判定基準は存在しないということを白状している。まさに人権によって限界が置かれるべき国家の恣意に対してどうぞご自由にと言っているのと同じだ。
 だが、チャオがまさに人権において不都合だとしている点は、それがもともと自然法的、あるいはキリスト教的由来をもっているということである。実際の政治においては、この起源は、括弧に入れられているが、全く違った精神史との対決において、この起源は再び何か異質のものとして現れる。だが、人権のパラドクシカルな点は、この起源には依存していない。人権の要請は、国家に、それ自身の有効性の限界を無条件に認めることを要求している。このような限界の線引きの意味を見抜くのに、一定の形而上学は必要でなく、国家が人権に対する侵害をなし得るという歴史的経験だけが必要なのだ。この経験を中国は十分持っている。
[訳者の感想]人権問題を文化的な違いから違った解釈が可能だと考えているこの中国人哲学者の意見は、日本の保守派の意見とそっくりだとは思いませんか。筆者は、マーク・ジーモンスという記者です。
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1 コメント

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国家 (yosi29)
2007-08-07 02:30:00
国家は一つの便宜的枠組みと考えます。
その国家の機能をどこまで認めるのか。
国家の機能は時代により変化してきました。
中国が、1800年代の環境では人道的国家でしょう。
議論として成立するのは、中国が内外に見ている状況が、1800年であれば成立します。
国家の外には、侵略者国家。
内部には、餓死の可能性、内乱の悲劇
今の中国政府がそう考えている。
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