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”安倍元総理事件と選挙“  ‘22-7-11

2022-07-11 22:42:02 | Massy's Opinion

★Massy’sOpinion

*安部元総理の事件は、衝撃的だった。政策論に批判はあるけれどまあ、いい総理だったと思う。学校も同じ成蹊だし、僕は3年しかお世話に成らなかったが、素晴らしい友達に恵まれて長い付き合いをして、未だに元気な人は付き合って居る。成蹊から慶応に大学で入って来た連中も多い。特に成蹊に居た時代は新制高校が出来たり、学制改革の始まったばかり、校内は7年生高校の名残と言おうか旧制高校の匂いが強く残り、特に野球部なんかは旧制高校流の練習が扇形キャチボールとか多かった。部室はラグビー部と隣り合わせ、慶応でも野球部とラグビー部は合宿所、風呂場は一緒だった。ラグビー部には成蹊の時、野球部で、慶應に入ってラグビー部に変わり、全日本のロックに成った人も居たし、一年浪人して慶応に入りラグビー部に入ったO君と言う人も居た。晩年、同期会で何時も一緒になったが,「おい、マスよ、成蹊と慶応は校風が似ているよな...俺たちは良かったよな」と話したものだ。僕は元総理も他の人と違った感じで、近親感を持って見ていたかも知れない。余り勉強が出来た方だとは思わないが、のびのびと学校生活を送られたと思う。外遊だのゴルフを見ていると長い総理の経験からのびのびとやられて居たと思う。成果については僕は少し物足りないように感じていた。経済政策は、全く既存の上での考え方でもう少しダイナミックにやって欲しかった。20世紀の輝く日本の特質は行き過ぎた経済成長の歪みが一気に表れて来たが、これは総理の人の好さが随所に表れた結果だと思う。桜問題」「加計問題」はもっと明解に説明責任を尽くして欲しかった。これから開成出の岸田さんと基礎学力の違いが出て来る様な気がする、いずれにしても、組織を動かす、人を動かすには時間が掛かる物だ。余りにも衝撃的な事件なので驚いたが、警備の落ち度は今の日本を象徴しているような気がしてならない。要するにタルンデ居るの一言に尽きるだろう。手製ガンで後ろから至近距離で撃つなんて全く信じられない。護衛する人は、特攻隊で飛びたたされた若者たちと比べて欲しい。

*選挙、誰か2100年の日本、世界を考える人は居ないのかな...もういらない政党が多すぎる。福島さんの「女性党首土井たか子さんの遺志を継いで...」なんて言うのは古すぎる。共産党ももう辞めた方が良い。末端の党員の人と話すと「志位さんが居る以上共産党は無くならないでしょうね...」と言う。安倍さんの問題で、立憲の小沢一郎さんが安倍批判をして居たら、泉党首が直ぐ小沢批判をしていた。僕は小沢さんが言うことは「その通り...」だと思う。泉党首は自民党に迎合している。もう、政府、経団連、全労と賃上げを議論する時代ではない。「経団連の会員会社が如何なっているの?」「全労の組織率は?」それぞれの代表としての資格はないだろう。

*2100年には...

世界平和と日本の役割

・議員制度の改革。スピードと末端の国民の意思が伝わる様に...

区議会議員の中から、地区議会の議員を選び、その中から国会議員を選ぶ。選挙、歳費の削減を図る。参議院はなくす。

・日本海を利用して、中国、ロシア、韓国、北朝鮮等との交易を拡大する。同時に日本海側に港湾を整備して大きな港を造り、地域の開発を計る。一帯一路を利用してアフリカ方面への輸出を拡大し、国内の産業を活性化する。

・自動車を始めとしてすべての生産物は、償却後の産廃物の処理を生産者の責任として、地球温暖化、環境保全を考えた物造りをする。

こんな事を考えた将来像を党是とする様な政党を作る。

*兎に角、今の儘では世界も日本も行き詰まってしまう。日本は世界の技術指導国として立国する。ドーバー海峡、香港の海底トンネルは日本の技術が作った事を知っている人は少ないだろう。


“Diary 186” ’22-7-5

2022-07-04 21:55:41 | Massy's Opinion

  ★Massy’s Opinion

*入院記

・僕は此の数年、健康診断で不整脈を指摘されて居た。日常の自己管理では、朝、晩、血圧、脈、体温を計っている。

・この5~6年来、心房細動と指摘されて居る。脈の下側が35位以下しか出ない日が1週間位続いた。別に肢が冷える、位しかない。「陽気も今年は悪いし、9月10日誕生日まで様子を見よう」と思って居た。ワイフも娘も「早く精密検査を受けて来い...」とうるさく言う。

・今月初から脈拍35位が続いたので、ホームドクターの診療所へ行って、心電図を取って貰うと、先生が「ニューハートへ行け」と言う。幸い我が家の近所に「ニューハート渡辺国際病院」と言う心臓専門の病院が7年位前に出来ている。早速、ニューハートで診断を受けた。

所見は徐脈 直ぐペースメーカーの手術が必要と言う診断で22日に入院と決まった。23日手術、1週間の予定と言う事。

・何しろ大学1年の5月1日にスライデイングの練習で足首を骨折、慶応病院ヘ一月入院した経験しかないので、ワイフの病院は3回も付き合って居るが、とてつもない不安に襲われた。入室は個室にして直ぐ入院、病院も新しいし、血液、レントゲン、エコー等の検査は幸いに異常なしで...一安心。担当医は慶応経済出、為替トレーダーを経験し、意に沿わないので東海大学の医学部を卒業し医師に成った。と言う変わり種。僕の眼には人柄の良い先生で、よかったな...と思えた。

・翌日の手術は、鎖骨の下にペースメーカーを埋め込むので、局部麻酔で在る。米倉さんのテレビの様な手術室でベッドに寝かされて、カバーを掛けられて何も解らない。準備時間を含めて、約2時間位だった。当たり前の話だが、手術が終わったら脈はキチンと60を刻む。

今の医学は聞きしに勝る高度なものだ。痛みも殆ど感じない。術後も普通に睡眠がとれた。

*最近の新設の病院は、センターのコンピュターを中心に各診療室にレントゲンの映像が届いて、患者が写真を持って歩かなくていいし横の科同志が連絡取れる様に成っている様だ。兎に角、効率よく運営されて居る。朝昼晩と各種検査の連続で幸い予定通りに27日の午前中で退院となった。入院中も術後3日目から300歩、1000歩、1000歩と軽いスクワットを30回やって居た。幸い退院後も何とか普通に歩くことが出来た。しかし、9月までは軽めに動くように医師から言われた。まあ、丁度季節も暑いし、家の中での体動かしに成るだろう。

 

*さて、入院期間中、本を読もうと7冊持って行ったが、結局は、テレビでMLBばかり見ていた。ニュースは欠かさず見たが...その中で気になった事。最近のマスコミはNHKでも話の間違いが多い。

・尼崎市のUSB紛失問題だ。尼崎市の「委託業者の人間が、USBを紛失した」僕は、こう言う風に考える。

委託したのが尼崎市」、「受託したのが業者」、「紛失したのが受託業者の人間」、此の委託、受託の関係は責任問題に成った時、必ず問題に成る。それから、受託した業者と紛失した人間との雇用関係も大事に成る筈だ。雇用契約の人間か?請負契約の人間か?も問題に成る筈である。僕も1960年頃、未だIBMが会社のテーマは「Think」と言うテーマで「360-40」と言う大型機種を売り込んで居た時代だ。新車の仕入れから納車、アフターサービスまでの一貫したシステムを作り上げたが、当然、プログラマーは、外注に成らざるを得なかった。数人のプログラマーが常駐で1年位掛かったかな。殆ど我々の会社に来て、自分の会社には行かない。高卒3年目位の連中だった。プログラマーの派遣会社には莫大な金を払った。僕は、晩年、「経過損益計算書」と言うリースにも応用できるシステムを組んだがこの時は勘定科目を自分で組み、そこから機械化をソフト会社に依頼した。一年で組み上がった。

その時のプログラマーは同じ会社に依頼したが1年で800万位で済んだ。今は時代も大きく変わっているが、発注する側がキチンと理解して居ないとあゝ言う事件が起こると思う。上層部の認識が大事だ。報道する側もこう言うことを啓蒙出来る様な報道をするべきだと思う。

限られた紙面で意が足りない処があるが又の機会にしよう。


“選挙結果”         ‘22-6-21

2022-06-20 23:17:13 | Massy's Opinion
  • Massy’s Opinion

・ウクライナとロシアの戦いは...

本当に無駄な事は、止めれば良い。始めたロシアも本当に良く解らない国だ。共産党も資本主義もどちらも同じ...指導体制の違いだと思う。プーチンの考えも歴史的なトレンドを見れば、我々が知らない言い分もあるのだろうロシアの問題は歴史的に相当長い時代が掛かっている様だ。僕なんかはウクライナと言う国の事は、ロシアと同一の民族だと思って居た。オリンピックで体操の選手が強くて奇麗で...何て言うことしか知らなかった。国土も広いし人口も多いし、まとまりも良い国だ。何よりも大統領が優秀だ。

Nato もEuも良く解って来た。何かロシアは世界を敵に回し孤立の道を歩んで行くようだ。ニュースで知る範囲だが、戦争の仕方も随分変わって来た様だ。人が戦わず、武器が全面出でて戦っていく様だ。それでも、一般大衆が相当被害にあって本当に気の毒だ。日本の政府も周りを見ながら取り敢えず今のポジション取りをしたのだろう。改めて我が国の敗戦をひしひしと感じている。例え国連の常任理事国に成れたとしても、米国に対等には付き合えないだろう。もっと世界がボーダーレスに成ったとしても、日本の国民は日本の自給自足を考えて、世界の技術指導にウエイトを掛けた世界の中の在り方を立国して行くべきだろう。 

・地方選

杉並区の選挙に注目していた。現職区長も余り評判が良くない。比較的知識レベルの高い学園都区だと思う。しかし、此の3年半に及ぶコロナ対策で色んな都内の他の区の人に聞くと、可なり細かい部分で違いが在った。杉並区は僕の住んで居る所が、区の中心部ではないためか、予防注射の会場が不便だったりした。注射の2度目、3度目の期間も違う様に想えた。再開発問題も同じだ。そんな不満を持ちながら今度の区長選挙に投票し、結果も注目した。新区長には女性の新人が選ばれた。現との票差は約180票と僅差である。区議の補欠選挙には自民党系の新人がこれも僅差で選ばれた。次点には共産系の新人女性が僅差迄追い詰めた。これから次の参院選まで反自民の民意は続くだろうか?野党の統一戦線は力がつづくだろうか?僕の予想が少し近づいて来た気がする。新しく政治を目指す人。若さをもって100年位先の日本の立ち位置を描き出して突き進んで欲しい。僕は、「通行区分の世界統一されるような社会を...2070年にと言う想いに世界平和を...2070年に」「一帯一路」に期待をかけて居たが、ウクライナのロシアとの戦いでこの願いは遠いい夢になった様だが是非若い人に考えて欲しい物だ。


”「三田評論」6月号“     ‘22-6-14

2022-06-13 22:12:20 | Massy's Opinion
  • Massy’s Opinion

慶應義塾には、1898年3月創刊に成る「三田評論」と言うB版の小冊子があり、“22年6月号は1260号”に成る。、冊子のトップの話題は、その時々、関連の人々の懇談会が記事に成り、「執筆ノート」と称する塾員が書いた物の紹介もあり、僕も友人に頼まれてレビユウを3通くらい書いたかな?最後の方には「三田会だより」と言う欄があり知っている塾員の名前が出て居ると動静が解り、懐かしいし、次から次えと友人の顔が浮かんでくる。僕の父方の伯父が兄弟で幼稚舎から予科迄進み、戦争に行き帰国したのち、直ぐ仕事に付かなくてはならず、親父の葬式の時に「弘、お前良く飲みに行って居るな...」言われたが「伯父さん、どうして知っているの?」と聞いたら、「三田評論さ...」と言って居たのが未だに印象に残っている。

さて、今月は野球関係の記事が3篇も載っている。

・巻頭丘の上欄に「多摩全生園での試合の思い出」種田吉富先輩の一文が載っている。僕らはすれ違いの先輩で、一緒にやった事は無い。しかし、先輩は鐘紡に入り、都市対抗で活躍され、後に、僕の居た東京日産の六本木ビルの上層階に種田さんのディオールオール事業部が入居して、先輩がトップだった。そんな事で当社の社長は早稲田出身なので、大喜び、接待をすると何時も「おい増田君昨日種田さんと会ったぞ」と話に来たもんだ。全生園の話は何度か伝え聞いた事がある。当時の阪井監督は僕らの時代には9シーズ藤田元司投手を擁しながら優勝出来なかったので、怖い監督だった。僕は、一度文句を言って怒られた事がある。「慶応高校、打たんでいい...」と言われたので、「増田、打たんでいい...」「まだ僕意外にも塾高いるんですよ」まあ、寒い監督室で1時間位お説教をされた。種田さん達とは年も違うし、随分、阪井さんも「うん、そうだったのか...」と思う。今の慶応高校見せたあげたい。石丸先生、長尾先生、山岡三田倶楽部会長が喜ばれるだろう。

・慶応義塾体育会の軌跡 第10回 名将・腰本寿/野球部 これは、諭吉記念館の人が書いた物で種田さんの様な体験談ではない。もっともっと身近な事が知りたい気もする。伝説的名将を類推するしかないだろう...

・執筆ノート 「砂まみれの名将 野村克也の1440日」塾員のプロのスポーツライターが書いた物。読んでみようと思って居る。シダックスの社長は可成りなアイデアマンらしい。

・演説館 近代日本の名作・神宮外苑の危機 石川幹子

今、やっと神宮外苑の森や野球場、ラグビー場等の再開発問題が表に出だした。

石川先生はヤット意見発表の場を「三田評論」に見いだされたのか?僕は浜田山の三井の運動場の再開発の反対運動をやった。あの三井の場所は、慶応幼稚舎、普通部、大学準硬式、塾内野球リーグ等、近隣では立教女学院等運動会、部活等でお世話になった運動場だった。地域の反対運動も約10年に亙り活動を続けた。裁判にもなり最終的には現在の形になり、住民の意見も取り入れられた。その過程で石川先生には随分ご指導を頂いた。三田評論の紙面を借りて石川先生の名文が載って居るので是非反対運動が盛り上がって欲しい物である。三井問題の時、行政側の説明会が高井戸中学の体育館で在ったが、その時には、杉並区には都庁から再開発を推進する課長が出向して来ており、その後は副区長に成っている。部長は説明会で問い詰められると「私は三井不動産には、行きません」と汗をふきふき説明していた。区議会は開発反対の議員が半数は居たのに議長が強行採決で賛成にしてしまった。あんな酷い議会は初めて見たが恐ろしい民主主義だ。今度も小池都知事はどんな意見を言ううのだろう。本当にお世話になった神宮外苑!石川先生頑張って下さい。


“Diary 185” ’22-6-7

2022-06-06 22:01:58 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・6・5 東日本交通 社葬

此のコロナの蔓延期間およそ3年半か?ことごとく人の集まりは避けられていた。当然、どんな業界でも、葬儀は殆どやらない。そんな処に東日本交通の社葬の連絡が届いた。もう僕も会社の現役を退職して離れてから23年になる。タクシー業界がどんな実態か外部からの情報は大体解るが、内情は解らない。唯、人の付き合いはそう変わるものでは無い。

東日本交通の榎元紀二郎社長は年齢も一つ違い、学校も早稲田大学、東京日産入社当時から何か気の合う友人だった。ご存知の様に日産自動車はタクシー向けの車の生産を止めてしまった。第二次世界大戦後,いち早く国産自動車を生産したのは日産である。中心はダットサン、その頃は東京のタクシーは20000台位だったろう。日産は97%位のシェアーを持って居た。必然的にタクシー業界の人々が集まり「ダットサン研究会」と言う会が出来た。其の2代目会長が紀二郎社長だった。当時、タクシー会社の2世は東京日産に社会勉強に勤めた人が大勢いる。紀二郎社長はその間に労働組合も僕と一緒に専従でやったことがある。

良く麻雀をしたり、飲みに行ったりしたものだ。この期間の経験は彼の人間形成には貴重な物に成っただろう。何か急に会いたくなって亡くなる一ヶ月位前に電話をしたら、急に体調を崩されたと奥さんが言われたので、驚いたら、間もなく亡くなってしまった。タクシーの無線利用とか業界のまとめ役とか紀二郎社長の功労が周囲の同業者等から声が出てこの時期の社葬と言う事に成ったと思う。会場は上野の寛永寺、僕は組合当時の書記長役を務めたK君と一緒に参列した。多くの業界の方も参列されて立派な社葬だった。後継の体制もしっかり出来ているし、整備部長が40年勤続と言うのはタクシー会社が安全をモットウに安定経営をしている証左だと思う。

・東京六大学野球 リーグ戦

コロナ禍の中のリーグ戦、無事に2勝1点の勝ち点制で8週に亙る対抗戦が終わった。久しぶりの明大の優勝。慶応は残念ながら明治に勝ち点を取られた。僕はどうもコロナ体制の神宮に足が向かず、テレビ観戦で全試合見た。好試合が多く、リーグ戦としては本当に面白かった。延長戦が多く、又、逆転ゲームが多く、どこの学校も選手が皆真剣にやって居たのが良く解った。僕は、東大の野球部が好きだ。大差がついた試合でも選手が真剣。勿論、6校ともみんな真剣だが、よく頑張っている。慶応の1年生投手が春のシーズンにスターティング投手を務めるのも初めてでは無いだろうか?この10年位選手の体格が大きく成り、凄く変わって来た。トレーニングの方法が変わって来て、筋トレの重要性が浸透して来たのだろう。応援団は女性の進出が非常に多く成って来た。僕は、ジャズが好きで、よくライブハウスに行くが、ライブでも女性の楽器演奏者が増えて来ている。皆、応援団か音楽サークルで楽器をやって居た人がライブハウスに進出してくる。時代は音を立てて変わって来る。早く神宮も脱コロナをして欲しい。秋にはコロナ以前の神宮に戻る様に祈っている。

・クレジットカード 問題

ウクライナ、ロシアの戦争が終わると、色んな裏話が出て来るだろう。その中でITの利用方法にどんな差が在ったのか?解る時が来ると思う。我が国もデジタル庁が作られたりして居るが、消費者の消費態度も大きく変わって来ているだろう。そして、犯罪も変わって来る。何しろ法律を作った連中がそれを利用して悪事を働くのだから...僕もクレジットカードの悪用をされて2ヶ月の間に4回もセキュリテイコード変える羽目に成っている。クレジット会社もそれなりの対応はして呉れるが、成りすましには本当に困る。Pcのスキム防止は何とかして欲しい。


“犬に魅せられて70数年...ⅲ”    ‘22-5-24

2022-05-23 21:33:25 | Massy's Opinion

★Massy’sOpinion

・LoveとGyuのお産

・交配 基本的な考え  loveを購入するときから、繁殖を考えて居た。浜田さんはその後、イギリスのサンスー犬舎を尋ねてクラフト展も見て来ていた。イギリスでは、日本の犬界は評判が悪い。「流行を追いかけて、犬を商売にする」と言う事だそうだ。確かに英国系の犬は日本には少ない。KCと言うのはイギリスケンネルクラブ、AKCと言うのはアメリカンケンネルクラブである。確かに犬の雑誌を見てもKCの血統書の犬は殆ど見ない。浜田さんは2度英国のサンスー犬舎を尋ねて、種オス(レンジャー)を一頭分けてもらってきた。もう一人浜田さんの所から雌犬を飼った坂本さんと言う人が居る。要するに,Loveと同胎のメスを買った人だ。この人も自分の犬の交配にスコットランドからオス犬を輸入している。実は、アメリカ系とイギリス系ではこの位違いがあるのである。もう我々のブリードが終わってから、イギリス系のPaleGoldのゴールデンにはお目にかからないだろう。確か、長野の方にこの血筋の犬を飼っている人が居るらしいが...

・産床は、コリーの失敗を考えて、玄関の上がり口にケージを置いて、何時でも直ぐ見られるようにして準備した。Loveは順調に妊娠してお腹も大きくなった。コリー、エアデールとお産の経験はあり、犬のお産は軽いと言うが、この時は何しろ犬が高い犬なので、交配の条件は、「子分け」にして貰った。5~6頭は生まれると予想していた。Loveも家への中へ上げる事もあったので、身近に人が居ると落ち着いていた。

今迄もそうだが、子犬は胞衣を被ってお腹から出て来る。そして、良い親犬はこの胞衣を舐めて息が出来るようにする、「うわん...」と可愛い声を挙げれば無事お誕生だ。

此の産床の傍には、42度位のお湯を入れたバケツを用意しておく。産声を上げない子犬は産湯に浸けて柔らかくマッサージをしてやる。中には弱い声や、泣かない子がいる。その時は、ワインか日本酒を用意して置いて、インクのスポイドで口の中に一滴ずつ垂らしてあげる。これで、産声を上げれば「良しよし」と言う事に成る。親犬には一頭生まれる度に、生卵を食べさせる。これを旨そうに食べれば、また一安心と言う事である。Loveは7頭生んだ。Gyuの時は血統の関係で坂本さんが輸入したサンスー系の犬を交配したが、1頭しか生まれなかった。無事に出産したら、子犬が巧く乳を吸うか、1週間位は目が離せない。子犬は生存競争が始まる。母乳を均等に吸えるか?この位から犬の個性が解って来る。面白いものだ、どんな犬に育ってくるか...

さて、大体45日位から、新しい買主探しである。何しろ、30年位前の30万だから高い浜田さんが、「増さん、保険料ですよ。可愛がってくれるか、如何か...」

出産 オス3頭30万 メス4頭35万 メスが高いのは良いオスを交配すれば、いい子が出来る。「オスは良いオスでないと交配相手が見つからない」と言う。

・子犬を引き取って呉れた人びと

考えていたより多くの子供が出来たので、今度、飼って貰う人を探すのが大変。まあ、一番一般的に「愛犬の友」に広告を出した。予想外に反響があり、値段の交渉が凄い。「もっと安く成りませんか?」当然である。しかし、子犬の出来は僕の経験上一番いいし、血統の良い親の子は遺伝力がつよい。雌の内で一番いい子を家に残す事にしたが、これがGyuである。買いに来る人は、勿論、経済力のある人。お金を白封筒に入れ袱紗に包んで来る人も居た。犬を売るのにこんな人初めてだった。又、親が子供を二人連れて来て、「犬屋でゴールデンを買ったが、6ケ月で死んでしまった、子供たちが欲しがって仕様がないんで...だけど、30万は出せない」と言う。他のお客さんも居るので、「それでは解りました」と言う訳にはいかない。随分、粘られた。子供が子犬から離れないのである。当日は、帰って貰った。最後に一頭に成った時、その大工さんに電話をして、10万で分けて上げた。凄く死ぬまで良く可愛がってくれた。二人兄弟でお兄ちゃんが犬と一緒に寝ていた家もある。犬が生きている間、(大体12歳位迄生きた)飼って呉れた殆どの人と交流があり、我が繁殖犬の日常行動の話を聞くとこの繁殖は本当に血統の遺伝力が強いなあ、と驚かされ殆どの犬が10歳以上生きた。

・ズット付き合って呉れた武石先生

Loveが高かったので、育て方を変えようと警察犬訓練所に入れる事にした。そこで出会ったのが武石先生である。未だ、若い先生だったがLoveとGyuはお世話に成った。

Gyuは少し胴が長め、これは繁殖には向いている。武石先生と相談して、トレーニングチャンピオンを狙う事にして訓練して貰い見事チャンピオンに成った。昔、Ⅽ80型と言う日産車で犬の移動トリミング車を考えたが、先生はそれにケージを付けて犬舎替わりにした車を買って呉れた。600万円位した車だった。浜田、坂本さんと訓練士の松村先生、五島先生、武石先生で「東京南ゴールデン・レトリーバー倶楽部」と言う会を作って、訓練会やショウをやったりしたが、瞬く内に会員が650人にもなってしまった。10年位活発な会だったが、それぞれの愛犬が亡くなるとともに他の犬種が入り、会の形が変わってしまった。イギリスからKCのメンバーの英国人が東京へ転勤に成り3頭の犬も連れてきて、入会して呉れて賑わったものだ。

・我が家のLoveとGyuは偶に家の中へ上げても絶対に人の食べ物を欲しがったりしない。お風呂場で洗っても、「ぶるん、ぶるん」と言うと体を振って水を切る。Gyuがおしっこをすると「早く片付けて呉れ...」とLoveが吠える。まあ、本当に良く解る犬たちだった.死んだ年も全く同じ13歳半だ。死んでから4年位の間、「イギリス系のワンちゃん居ませんか?欲しいのですが...」と知らない人から電話を頂いた。その位、英国系のゴールデンのチャンピオンは希少価値だった。最近は、スーパーで犬を売っているが、Mixでも15万円位する。まあ、この位の値段は仕方ないかも知れないが、まず、Mix犬は繁殖しない事だ。又、小型犬が多く、同伴で入れる喫茶店も目立つが、矢張り、犬と人間は区切りをしっかりとした飼い方をするべきだと思う。犬の飼い方はイギリスを参考にするべきだと思う。

Love


 Gyu


“犬に魅せられて70数年 ⅱ...。      ‘22-5-17

2022-05-16 22:18:47 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・この頃から、犬へののめり込みが激しくなった。或る時、新車置き場当時は車両庫と呼ばれて居て品川に在った。業務上良く出入りをして居たが、「おい、増田君良い所へ来た。君が来るのを待って居たよ...」天井係長から言われた。「何ですか?...」車両庫の柱の下に場違いなコリーの5か月位の子犬が縛りつけられていた。「君、犬が大好きだろ。この犬を1万5千円で買って呉れないか?」「どうしてですか?」東京自動車の石川さんが、スクターを1万5千円っで下取りの商談を決めたら、お客様の都合でその下取りにこの犬を取って呉れ...」と言う話に変わって仕舞ったそうだ。石川さんの家はマンションで犬が飼えないんで誰か買ってくれる人は居ないか?犬の好きな君に話してくれ...と言う事なんだ。

「血統書もついて居るし...」早速、帰宅して両親に話して飼う事にしたのである。犬の下取り何て聞いたこともない。もうその頃、僕は犬の勉強もしていたし、割と良い犬だったので繁殖をして見ようと思ったのである。コリーは当時映画にもなって居た人気が在った。ご存知の様にコリーは、セーブル、トライ―、ブルーマールの3色の犬が居たのである。血統書を発行している処は、日本警察犬協会(シェパード、エアデールテリア、コリ―の3犬種の血統書を出していてコリーとシェットランドだけの血統書はコリー倶楽部出も出しているコリー倶楽部の血統書の方がグレードが高いと言われていた)、今ではJKC日本ケンネル倶楽部、FCIと言う風に世界統一の団体出来て居るが、こんな時代だった。家へ来てから呼び名当時大人気だったテレビ「サンセットストリート77」の中から「ロスコ」と決めた。

家へ来てから三ヶ月位経った日曜日セーラ服のお嬢さんと両親が我が家へロスコに会いに来てくれた。この話には50年後エセ-ラー服のお嬢さんと接触出来た。この人名前は日塔さん、犬舎名はSon Towerだった。神田川の近く農家でセーブルの素晴らしいオスのコリー飼っている人が居た。僕は本当はセ―ブルが欲しかっただが、ブリーダーさんが良い人だったので安心した。

・ロスコの犬小屋を親父と作った。約畳一畳位の大きさで半分に仕切り、寝床の方には毛布を敷き、反対側の屋根にはが曇りガラスを入れた本格的な物だ。やがて1年位して交配の時期に成り「ドッグワールド」(月刊誌)を見て、オス犬を探した。折からラッシー物語の映画の人気がありコリーの人気が上がり、沢山の輸入犬も出て居たが、下北沢にミドルビレッジ犬舎と言うのがありアメリカチャンピオンが3頭いた犬舎が在った。そこへ尋ねてみると上下2段のケージがあり、一頭だけ家の中に居た、パレダーズダークビクトリーと言う素晴らしいトライのチヤンピオン犬だった。交配料は9万円との事、その次のクラスはセーブルで矢張りチャンピオン犬で6万円、もう一頭の輸入犬は3万円だと言う。コリーには、セーブルにはトライをかけた方が良いと言う話も在り、6万円の物を掛ける事にした。エアデールの時は子分けと言って、生まれた子供の中で一番いい犬を交配料の替わりにオス犬の持ち主に上げるやり方を取った。コリーで初めて本格的道楽が始まってしまった。

・この時は11月頃12頭生まれたのであるが、凄い寒波が来て親犬が暖められず、全部翌日に死んでしまった。僕は、野球部の合宿で伊東へ行って居たので、生まれそうだとは知って居て連絡を貰い、直ぐ帰京したが、間に合わなかった。経験もないしお金を払って交配して不幸にも初めての本格的犬道楽は失敗に終わった。この後、もう一年後に同じ犬を交配して、その時は小分けで御願いした。この時は、友人知人に分けたが、確か4頭しか生まれなかった。この間にコッカ―スパニエルの子供を知人から貰って飼ったが、これもミックスか大きく成らなく3歳位で死んでしまった。又その後、僕も親父が死に、結婚もして暫く犬がいなかった時期がある。その内、ダルメシアンを大原人事部長から貰ったが、この犬も半年位で、全然大きく成らず死んでしまったが、先天的腸ねん転だと獣医さんが言って居た。中々犬もいざ飼うとなると難しい物である。こうして数年犬の居ない時期が在った。

・その後、3~4年は犬の居ない暮らしをしていた。僕も結婚して、ワイフは部品商を辞めてコーヒーショップにして朝から出勤、お袋が一人で留守番の生活が続いたが珍しくお袋が「寂しいから犬を飼をうよ」と言い出した。さて、大型犬はムリだな」と思い、ビーグルにした。

犬はコリーの中村犬舎ら飼う事にした。ビーグルは吠え声の可愛い犬だった。元々、ウサギ狩り用の猟犬で「ビーイちやん」と名付けた。よく穴を掘る、その穴によくお袋が躓いては、怒って居た。ジステンバーで死んだ。基本的に繁殖の為に「メス」しか飼わないが、繁殖はしなかった。そんな余裕もない時代だった。又、犬の居ない時代が3年位続いたが、其の間も次はどんな犬種を飼おうかな?と「愛犬の友」は毎月読んでいた。僕は室内犬はヨークシャーテリア、矢張り中型犬がいいな。ベアーデットコリーが良いかなとブリーダー周りはして居たが、或る時「室内で飼える大型犬」と言う広告が眼に止まり、キャッチフレーズに魅かれて中州(日本橋)迄行く事にした。まあ、驚いた。

・フォルムス犬舎 浜田さん

中州の横道をちょうッと入った処に、20坪位の建坪か?4階建てのビルが建っている。一階は喫茶店の看板が出て居た。初めて挨拶をして、どこに犬が居るのかな?と思ったら3階に案内をされた。何とそこには4頭のゴールデンが居て人なっこく寄って来る。その中に畳一畳位の大きさで部屋が作られて居る。其処が、浜田さんの寝室なのである。驚いた...

室内で飼える犬ではない。犬小屋の中に人が住んで居るのである。4階は犬の運動場。僕も色んな犬舎を見て来ているが、生まれて初めて見た犬小屋の中に人が住んで居るのである。

奥さんは、お店の前のマンションに一部屋借りていて自分のシェルテイーと住んで居る。これは尋常な犬好きではない。全くゴールデンに惚れ込んでいるのである。そこで、広告に出て居た子犬を見た。可愛い! 値段を聞くとオス30万,メス35万と言う。確か、6頭位だったかな。僕も犬を見る目はそれなりの積り...子犬は「持ち重り」のするのが良いと言われて居る。値段は「高いな」と思ったが、黒い目で見つめられると「これに決めよう...」と思い購入を決めた。未だ一月引き取るのは60日経ってからと言う事にして、首にブルーのリボンを付けて貰った。この出会いが、驚きと可愛さと浜田さんの人柄である。犬えの対応の仕方で人柄が解る。信用できる人がブリードした犬は間違いがない。我が家へ引き取ってから、家の中の玄関にゲージを置きその中で飼う事にして、名前は「Love」とした。

ゴールデンには。アメリカ系とイギリス系がある。イギリス系は「pale gold」と言って白いゴールデンが珍重される。浜田さんの犬は此の系統でLoveは正にこの中でも白い方だった。家内で相談して今迄と違った飼い方をしようと言う事で訓練所に入れる事にして、6ケ月経ったら訓練所に入れた。可愛い盛りである。そこで出会った訓練士が武石先生で、未だ25歳位だったか。此れ以来、ショーに出そうと武石先生と相談して、1年半くらい経って初めてJKCの地方展に出したら、ベスト・オブ・ブリードで4ポイント取ってしまった。

さあ、これで欲が出て展覧会がある毎に参加した。殆ど毎週何処かへ行った。ゴールデンも人気が出て来て出頭数も多くなる。或る時、雨上がりの会場でLoveを車から降ろしたら、水溜りがあり、何と言っても動かない。もう、出ずっぱり展覧会で嫌になったのだろう。

仕方ないので出場辞めて、家に帰ったら普通に尻尾を振って甘えるのである。確か20ポイント取るとグランドチャンピオンに成るのである。大きな展覧会は審査員はイギリスからも来る。兎に角、外国人の審査員の時には何時もいい得点が取れてJKC本部展のチャンピオンに成った。この展覧会が一サイクル終わって、3歳半位から子供を取ることにした。勿論、浜田さんに相談して、イギリス系のオスを探した。浜田さんはこの間にイギリスのサンスー犬舎を尋ねてオスを一頭輸入して居るので、これを交配する事にした。此のお産の事は次回にしよう。色んな勉強をさせられて、いろんな人との出会いが在った。


“犬に魅せられて70数年...1“      ”22-5-10

2022-05-09 22:01:57 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

さて先週のブログで、犬の事を書いた。ホントに犬との付き合いは長い物に成った。

決して僕だけが好きだった訳ではない。親父も相当に好きだった。犬だけでなく生き物が好きだったのだ。第二次世界大戦が終盤に近付いた頃。芝の御成門旧田村町6丁目からこの東京の西部地区に家を探していたようだ。聞いた話では。荻窪周辺を候補地に探していた相だがその時、現在地が見つかったとのことである。「人間魚雷」が話題になっていた頃、人間魚雷の船には、古い自動車のエンジンが使われたとの事。其のエンジンの整備に芝周辺の自動車整備工場が使われたそうだ。今、西新橋1丁目の交差点にエネオスの本社と三井物産の本社がある。勿論、建て替えられているがその北側にはヤナセの大きなガレージが在った。

ヤナセは三井物産の鉱油部から独立したそうで、あの周辺には数軒の修理工場が在った。今、浜田山の億ションが建っている処は、三井の運動場だったが、そこに人間魚雷のエンジンを整備する工場を作る話も在ったらしい。そんな事で親父は浜田山に疎開を兼ねて引っ越しをして現在に至っている。当時は、周囲は畑と雑木林、兎に角、駅の周囲には、3公社5現業の酒屋、炭屋、たばこや位しかなかった、のどかな田舎だった。三井の雑木林には雪の降った次の日ウサギ撃ちに炭屋の坂本さんに連れて行って貰った記憶がある。神田川の水は冷たくてとても奇麗だった。今では考えられないが、ぬまず、鰻、ドジョウ、ヤマメ、タナゴ、フナ、メダカ、鯉本当に釣った事がある。僕の泳ぎは、此の神田上水で覚えた。川の縁を上流に向かって行くと「お釜」と呼んでいた湧水が出て居る所がある、そこには4月から今頃に掛けて、産卵の為に多くの魚が集まってくる。ミミズを餌に吊り糸を垂れると直ぐ釣れたものだ。今でも神田川には昔の魚が集まって来た処には、その後放流された鯉が集まってくる。不思議なものだ。

さて周囲の環境は想像頂けたと思う。小学校5年生から高井戸小学校に通い始めたが、犬が欲しくて仕様が無かった。当時、小鳥屋は有っても、犬屋は殆どなかった。犬を飼って居る人から子供が生まれたら貰って来ると言う入手方法しかなかった。丁度、前記した炭屋の坂本さんの家で子犬が産まれたので伯父さんに頼んで、貰って来た。親父もお袋も反対はしなかった。これからが僕の犬遍歴である、個別に思い出してみよう。

・初めての犬。ビーグル系の雑種 白地に薄茶色の大きな反斑がった。背高35㎝、垂れ耳、尻尾、水平。眼玉大きくて、可愛い.鼻黒、「タロー」と名付けた。或る日、散歩に連れて行った時、猫に出会った。猫が怖がったのだろう。タローの鼻面に飛びかかって来て、顔を引っ搔いたのである。その時、爪がタローの眼に当たり瞳を傷つけてしまった。5歳位で死んだが左目は恐らく一生見えなかったのでは...と思う。此れ以来、僕は猫は嫌いになってしまった。今では、猫と犬と一緒に飼って居る人も居るが、僕には出来なかった。

・「マリ」僕の親友、政克ちゃん高校から僕が慶応に入りズット一緒。もう亡くなったが彼の父上が犬のブリーダーをやって居た。大型秋田、エアデール、チャンピオンクラスの犬を飼って居た。或る時、「ヒロちゃん、どうせ犬を飼うなら血統書付きを飼う方が良いよ、どうせ同じ餌代は掛かるのだから...」と言われた。それは「その通りだな」と思いタローが居なく成って寂しいので親父に頼んで、新宿の三越に畜犬売り場があるのでそこへ行き、柴犬の血統書付きを3000円で買って貰った。雌犬で子供を取ろうと思った。当時は放し飼いが出来たので庭中遊びまわり、当時、生垣区切って在った裏の畑へ出て、掛けずり廻り元気な犬だった。半年過ぎても「耳」が立たない。血統書は日本犬協会の物だったが偽り在りだった。或る時、散歩に行った時、畑の中にある「肥溜め」の中に落ちてしまった。肥溜めの表面が土を被り匂いがするのに間違えたのだろう。引き上げるのに臭いし大変だった。それから神田上水の農業用の小川に連れてゆき洗ってやった。この時は、2~3日臭くて大変だった。この犬もフェラリアで5歳位で死んだが、血統書付き。三越で買った柴犬なのに一生耳は立たなかった。ボール紙に伴創膏で立ち耳に固めて矯正したが遂に駄目だった。この時に血統書は発行している処が色々ある事を知った。

・1代目 「ファニー」当時、親父のやって居た自動車修理工場には、駐留軍人が整備や帰国することに成ると車の売却に来る人も多かった。ついでにペットの犬を誰か飼う人は居ないか?と言う依頼もあり、或る時、エアデールテリアの成犬を連れて来た人が居たらしい。

親父から「如何する?」「欲しいよ。僕が面倒見るから...」と言う事で家に連れて来た。雌のエアデールで結構、人なっこかった。当時は僕らに繁殖の知識もなく,交配の知識もないその内に妊娠してしまった。勿論、あれよ、あれよと言う間に無事出産確か5頭だったと思う。その内の1頭は白地に茶色の斑点の子犬が居た。それから他の子犬は飼ってくれる人が居たが、その白地に茶色の犬雑種丸出しで、「クルクル自分の尻尾を噛もうとするので,「独楽」となずけた。犬としては頭のいい「可愛いい犬」だった。矢張り、この時代、狂犬病の注射はしたが,フェラリァの注射もなく、大体5歳位が寿命だった。この経験は、犬の交配の時期や血統やメンデルの法則を勉強させられた。

 


“Diary 184”  ‘22-5-3

2022-05-02 22:30:55 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

Stay Homeの4月何にもしない内に、ニュースに追いかけられて月日が過ぎる。

早くも ゴールデン・ウイークを迎えた2022 しかし、薫風爽やかなMay… と言う感じがしない。

今年は、北風が何か強い様な気がしてならない。余りにも暗いニュースが多いからかも知れない。自然は、人間世界の暗い雰囲気にお構いなしに命を繋いでいる。我が家の庭は狭い庭だが、結構な木が植わっている。4月は、色んな花の開花を期待して随分と庭の草木の手入れをした。

・一番古い木は柿の木でこの浜田山へ親父が越して来た時からあった木である。この土地へ来たのが1943年だから、太平洋戦争末期である。その家は老夫婦が住んで居た純日本風の建坪20坪位の家だった。敷地は90坪、庭は初めて来た時には凄く広く感じた。北側に桧が三本植わって居てその柿の木が東側に植わって居た。その後、西側に桧を抜き7坪位の總二階4間の家を建てた。お店の従業員を住ませるようにである。僕たちが結婚した時には、この家に住んで居た。周囲は平屋ばかりで、見晴らしが良く富士山が見えるし、2階は凄く快適だった。戦争中、空襲に成ると、B29が飛んで来た方角に富士山が見えたのである。その後、親父が死んでお袋と一緒に住むために、その小さい家を壊し少し大きめの家を建てた。この時に庭の木は柿の木ともみじと寒椿とグミを残して他の木は全部処分した。建て直した家は桜材に統一したのだが、桜材は奇麗だが弱くて、余り良くなかった。庭木はこの時に榊やつつじを植えた。そうそう大事な事を忘れて居たが、家の近所に柏の宮公園がある。小学校5年の頃、学校から帰ると直ぐ柏の宮へ行き野球をやった。其処には桜や椿や紅葉が沢山植わっていた。そして、紅葉は種が自然に落ちて、可愛い双葉の芽が出るのである。其の芽を抜いて来て、家の庭に植えたものが今でも残っている。樹齢65年位に成るのか...紅葉は凄く枝が広がる。可哀そうに毎年枝を詰められるから我が家の紅葉は大きくならない。

・親父は庭いじりが好きで防空壕も庭に自分で作った。コリーを飼った時は畳一畳くらいの天窓付きの犬小屋を二人で作ったものだ。考えて見ると親父に習ってか僕も結構庭いじりが好きで植木は匂いの良い物が好きである。今の家は、ワイフが足の具合いを悪くしたときに色々将来を考えて、自由度の高い木造建てで廊下や天井はヤヤサイズの大きめの1,5所帯住宅にした。当然、庭は狭くなり、庭木も残したのは柿の木と椿と今では珍しくなったグミと周囲は金木犀と棒樫である。東側は棒樫と金木犀半分ずつであるが、全部金木犀にすれば良かったと思って居る。後、クチナシ八重、つつじが大きなものが3本。今年は皆、花付きが凄く良い。季節的には何か北風が冷たすぎる年だった様な気がするが、樹々にはエネルギーをたくわえることに成ったのか...芝生は雑草の伸びが強く困った。昨年、植木屋さんに言われて電動の芝刈り機を買った。刃渡り30センチで従来の物より10cm位広いか?リョービ製である。よく切れるし刃渡りが広いと時間が短くて済む。

・後、池がある。初めはU字溝を二つ繋げた池だったが鯉が大きく成り、可哀そうだからと畳一畳位で、深さ45センチ位の池を造り今6匹の鯉が居る。大きなものは45cm位、これにはフイルターを使って水を濾過して居るがこれの掃除は最近では重荷に成って来た。鯉は小さいのを買って来て大きくなるのが楽しみ...ただカタログに載って居る様な鯉は中々出会わない。生き物は育てるのが楽しみ...昨年9月頃からバラの挿し木をしているが、5本のデオールの挿し木の内、一本だけついて今見事な花を付けている。親父に似たのか感化されたのか、ジュウシマツ、カナリア、文鳥、インコ、鶏、ウサギ、手乗りにしたり、繁殖した。犬は飼った犬は67頭に成る。ビーグルの雑種から始まり、柴、エァデール繁殖3回、コリー繁殖3回(スクーターの下取りが犬の下取りに変わって僕が買った),コッカスパニエル、ダルメシアン、ゴールデン・レトリーバー繁殖2回最後のゴールデンは2頭ともJKCのチャンピオンを取った。想い出すと育てる楽しみは本当に意のままに成らず、そこが楽しい物だ。今の家は、犬小屋を二つ置けるように、そして、排水溝も犬舎用に作り掃除がしやすいようにしてある。生き物は犬が一番楽しい。最後のゴールデンは、訓練士も付けたしキチンと可愛い盛りの6ヶ月から半年、訓練士に預け、長い付き合いに成るので,きちんと教育をした。その甲斐あって本当に良い仲間も出来て楽しかった。今は欲しいけれどお隣さんやご近所さんの犬で我慢している。Love & Gyuの話はこの次にしよう。

 


“読後感” ’22-4-19

2022-04-18 22:52:32 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*早期退職時代のサバイバル術 小林裕児著 

前回、読後感を書いた鳩山さんの本は、「個人向け」この本は時代の変化を、管理者に向けて、参考に成る様な内容だと思う。非常に幅広く、歴史的にこんな時代になって行く歴史的背景、住居の移り変わりから捉えている処など、面白い。しかし、学者の論文的で、データも多く、少し読みにくい。最近、高齢化社会が進むにつれて、本のフォントも大きい方が読み易いだろう。しかし、著者が書いて居る年功序列型の変化などは、僕の考え方と全く同一である。僕は、今は親父がやって居た部品商の会社を継いだが、社長はワイフで頑張ってくれている。勿論、昔は番頭さんが居て、仕事の面では僕の入り込む余地はなく、僕は、会社勤めを続けた。

親父は、52歳で亡くなったが、会社の金庫の中に社規、社則、退職金規定などが入って居た。どこかの大会社の物を参考にしたのだろう。十数人居た社員には公表して居なかったものだが、「一年一ヶ月何て言う退職金は将来払える訳がない」と考えた。それ以来、年功序列型は変えなくては...と思った。企業は急速に年功序列型から能率給、業績給型等に変わって行くだろう。その中では、個人は資格を持たなくてはならない。或いは、自分だけしか出来ない特殊技能を身に着ける必要がある。著者は歴史的、周辺的からサバイバル術を説いているが、僕は、若い学生に就職の相談を受けた時に、必ず、「自分の本当にやりたい事を考えろ...」「目先の給料の高さや企業の大きさだけに目を捕らわれるな」と言って居る。僕の部下には本人の適性に見合った資格を取らせた。僕自身自動車デイ―ラーの事務社員でありながら国家の三級整備士と保険上級、JAFの国内A級レースドライバーの資格を取っていた。国家の三級整備士は事務社員としては、当時初めてだった。これからは、そう言う時代になって行くだろう。昔で言う「腕に職を持つ」だ。

*はじめてのトライアスロン   倉坂鬼一郎著

コロナ騒ぎの影響で、例年、年末には帰京することに成って居たMegumi のスケジュールが大幅に変更に成って、此の12日から2年半ぶりに1週間帰京して帰米する。丁度、その帰京が決った時期に前回のブログで記載したような書籍の広告に出会った。Megumiが帰ってくる前に最低3冊は読み切ろうと思って居たが、中々難しかった。ワイフと分担して読破する事にした。トライアスロンの事は、僕は恵がトライアスロンを始めた頃、随分と調べた。その頃は、未だこのような本は無く、JTUの事をしらべたりした物だが、殆ど自転車屋さんが組織の役員をしている様な状態だった。その頃、慶応大学の女性で、確か、馬場さんと言ったかな?慶應の銀座三田会の幹事から「彼女の講演を聞きたいからコンタクトを取って欲しい」と頼まれて、彼女にお願いをしたことがあった。今は女性の参加者が非常に増えて、我が家の近所の女性も、「初めはトライアスロンのファッションが気に入っているのかな?」と思って居たら、その内に自転車は買うし、本格的にレースに参加する様に成り、今ではお子さんも就職したので全くきちんとした練習をするように成って、いつも自己ベストへの挑戦を楽しんでいる。この本の著者も全く同じ、50歳から始めたと言う事であるが、トライアスロンの入門書としては体験談も豊富に、読み易く興味のある人にはお勧めである。ワイフも著者の体験的な記述に解り易く、改めてトライアスロンの魅力を理解した様だ。人それぞれ、感じ方は違うが、ハワイトライアスロンは、「あのスタートの時の青い空が何とも言えないいい気持ち」だと言って毎年ハワイへ行く人も居る。高齢化社会、改めて健康維持を考えて居る人びとにお勧めである。

 

 


“読後感 シリコンバレーで結果を出す人は何を勉強しているのか”   鳩山 玲人 著

2022-04-11 22:51:11 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

Diary183の中で、朝日新聞の単行本の広告を取り上げた。早速、4冊をアマゾンで発注。さてどれから、読もうかと考えた。「川端康成」は少し年配向きかな?「トライアスロン」は純レースの事でもない様だ。しかし、今月は中旬にMeguが3年振りの帰国をする。今月の初めSanDiego 迄行き、Iorman 70,3 マイルレース(勿論、Age Group) 世界大会に参加している。サンノゼから車で往復1600㎞位の長旅である。ワイフにもトライアスロンの事、少し専門的に覚えさせていた方が良いだろう。と思って、僕は、標記の鳩山さんの本、ワイフには「トライアスロン」を読ませることにした。鳩山さんの本は、文章も字体も読み易かった。

さて、僕は読書の勧めを小学校5~6年の時の担任の佐藤先生から必ず「著者」を選べと教わった。今でもそれは実行している。僕が後輩たちに読書の仕方を教える時には、著者との経歴と後書きを必ず読んでから、中身を読めと言って居る。

この本は、著者が鳩山さん履歴を見ただけではあの著名な鳩山さんの一族なのかな?と言う疑問を持ちながら読んだ。

僕は、アメリカに行った経験は、西海岸、しかも、ロス、サンフランシスコ、シリコンバレーしか行ったことは無い。しかし、偶然の出会いが重なりシリコンバレーには知り合いが多いので、この本は本当に面白かった。細目別に色々書かれて居るが、これがこの種の「指導書」には重要なのだと思う。目次の細目に同意見の物を黄色のサインペンで線を引いて居たら、殆どがまっ黄色に成ってしまった。特に「勉強しろ」「死ぬまで勉強だ」は僕が絶えず言って居る事。

「弱い自分をさらけだす」ことは「自分の強み」になる。これも何時も「裸に成れ」と僕は言って居る。

最強の情報入手術は「人と話す事」だと思う。此れも僕はとても大事にしている。そして、「奇麗な言葉」で話すことを身に着けるべきだと、此れには「だ行」の言葉を使うなと言って居る。人との対話は野球のピッチングとキャッチングの関係と同じだ。ピッチャーのボールを捕る要領が必要で、ボールに逆らわず、良い音を出して捕る事が大事だ。受け言葉に「でも」とか、濁音を使うより、「成程」とか「一拍置くことが会話を奇麗に進める」と思うと言って居る。

鳩山さんには、云っても無理な話だが、矢張り、華麗な一族の人だ。三菱商事、サンリオなど華麗な転職をして真面目に取り組まれたのだろう。しかし、今一般の人はリストラの予兆に震えている。次に現れる社会はシリコンバレーの様な社会に成ってゆくのだろうか?これからの若い人は「何を自分がしたいのか?」 「何が人より良く出来るのだろうか?」を考える事が大事だ。今日も何か広告を目にしたが、シリコンバレ―の事が出て居た。今迄でも注目を集めていたエリアだが、シリコンバレーが更に注目を集める地域になる様だ。


“ ’Diary 183” 22-4-5

2022-04-04 23:06:10 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・僕はアウト・ルックで毎月予定表をワイフの分と2枚作って居る。お互いに医者に行く日とかヘアーサロンに行く日とか忘れないようにである。此のコロナ問題が起こってから、早、3年は殆ど日程表が埋まらない。大体週に2回位出掛ける日が在ると、具合が良いのだけれど... と言う事は嫌いな小池知事の言う通り、stay homeのくらしをしていると言う事。

植木や、鉢植えの水やり、愛車のアイドリング10分位、週一回、此の頃は体を動かす事も少なくなったので又意識的に運動をしている。

週2日はワイフのリハビリに付き合って、恵とSKYPE で約45分コーチを受けている。

買物は一日おきに大体ス―パーまで往復で3000歩に成る。目標が一日平均3500歩だから丁度いい。此れからは野球始まるし楽しみが増える。散歩に無い日や買物のない日は家の中で自転車を30分は乗るようにしている。こうやって考えてるとコロナの今日この頃、プールが閉まったのは痛いな。結局、水泳を辞める事になって仕舞った。

幸い有難い事に、掃除に週一回半日来てくれる人と近所のお嬢さんが家事手伝いに半日週3回来てくれるので本当に助かっている。

・ウクライナ問題  大統領のテレビ演説は、臨場感が有って訴求力はあったと思う。ウクライナ云うと美人の運動選手が多いな。ロシアとの戦いは、同族間の内戦だろうと云うくらいの認識だったが、本格的な戦争に成って仕舞った。大体、あの地域については認識が乏しいが、民族問題は歴史が長く、現場へ行かないと解らない事が多い。此れだけの大事になるのだから予兆は充分在ったのだろう。NATOにしてもEUにしても如何してモット機能しないのだろう。

僕が考えて居る「通行区分の左右統一」2070年に向けて、何て言う話も更に遠くへ行ってしまった。先ず「一帯一路」が遠のいて仕舞った。

・中古車輸出  日本の富山辺りの港からは「中古車輸出」が止まってしまった、と言う記事が一般紙に出て居た。新車も半導体の不足で生産が落ちているし生産台数が落ち込んでいる様だ。昨日井の頭通に面しているディーラーを覗いて来たが、三菱のショウルームには1台の車しか無かった.平常は3台入って居たのに...社員の顔色も手持無沙汰。此れから経済の牽引は何がして行くのだろう?...

・嬉しい事 3月31日 朝日新聞 広告より

最近の新聞は、どこの新聞も紙面造りに苦労している様だ。新聞離れが進んでどの紙も広告が多い事。然し時には世の中が、何を考えて居るか?広告の並べ方で推測出来て具合の良いことも有る。3月31日の朝日新聞の広告には、僕の眼には、鋭く引っ掛かった。幻冬舎の文庫本の宣伝で4冊のタイトルが出て居たが、正に僕の考えて居た事、ブログに書いてあるものと全く同じ、4冊の著者は皆違うが、上記の添付の通りだ。早速、楽天ショップで4冊を購入。どれから読もうか?今。「シリコンバレー...」を読んでいる。半分位読んだが、「勉強しろ...生きている限り...経験しろ...」と言う事の様だ。兎に角、全部読み終わる迄楽しみだ。川端康成の物は一番最後に成るだろう...

僕の現役時代に使ったテーマは...色んな職場へ行ったが、最後の頃は部下が自分達で奇麗に書いて貼って居た。その位、僕の心構えは知れ渡っていた。

*着眼大局 着手小局    大きく考えて、小さくスタート

*Keep your eyes Open       両眼を大きく開いて物を見ろよ

*次のプレーを考えろ    野球でよく言われた


“ブログ 雑感”    ‘22-3-22

2022-03-21 22:10:08 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

さて、このブログを書き始めたのが、‘05-6である。早いもので、もう17年に成る。

初めの時は、会社勤めの間にやってきた事、考え方、等折在るごとに書いて居たが、どうせかくなら、昔から書いて居たように、そして、保存できる様にしようと考えたからである。

僕は、昔から文章を書くことが好き、成蹊中学に入った時から日記を書くようになった。

読書も好き、これは、高井戸小学校の5年、6年の担任だった佐藤良夫先生の教えが大きい。

成蹊中学の3年の頃、朝鮮戦争が在った。その時に戦争の事を作文で書いたら凄く褒められたが、新聞記事的だと言われた。犬が好きで、犬は良く作文の題材に成ったが、或る時、「犬は裏切らない...」という作文を書いたらこれも凄く褒められた。その代わり親友のY君から「お前、親友だろー、犬の方が親友なのかよ?」と文句を言われた。結構、あの頃受けた友人からの批判はそれ以降、物を書く時の心構えの中には、大きなウエイトを占めている。本当に「Tennssee Waltz」見たいな事も在ったが彼の会社が日立電線だったので日産と系列が一緒でサラリーマンを辞めてからも一緒に沖縄へ行ったりしたものだ。

ブログを始める時、色々考えたが、将来、残る物だからプロバイダーはシッカリした所を使おう」と考えて、NTT系の「ブログ人」を使った。それが同じNTT系の「Goo」と一緒になり、今度、テンプレートが変更になり、「Massy-Academy」もプレートを変えざるを得なくなった。

我ながらよく今日まで続いたもんだと思うが、これには、「Megu’s Sports」の応援が本当に大きい力に成っている。矢張り、「継続は力なり...」「努力は続けるもの...」と言う事か? 僕の目標の設定の仕方は、80%主義...健康の為に10000歩けと言うけれど、これは60歳まで...今の僕は一日3500歩、又は、室内バイクを30分踏む事を必達目標にしている。 無理は避けて、休みなく...と言う事だ。

*努力の大切な事は、高校2年の夏休み、20日間一人でバットスイングを一日400本と5キロのランニングをやった事、8月の新チームの練習で凄く当たって、レギュラーに成れた。今は高校生でも一日1000本位のスイングをしているらしい。体感した事は、その後の人生でも本当に役立った。ブログを書き始めてから色んな友人が出来た。一番の友人は朝日新聞大株主の上野克二さんだ。彼のブログは「人生のエンドピン」と言う本に成っている。住まいは大阪の芦屋、僕の「通行区分の世界統一」を読んで、「一度お会いしたい」とメールを頂いた。「本当に上京されるの?」待ち合わせ場所は、「六本木の国際文化会館」と言う事でお会いする事にした。その時に集まったのが、皆慶応、上野さんと弟の信三さん、JAFの自動車ラリーの審判長をしていた福井さん、読書会でご一緒する排気ガスの研究をされて居る山口先生のメンバーである。皆さん野球、音楽が好き、上野さんは肺がん、うつ病をやられてそのリハビリにブログを始めたとの事、処が、正にPDCAを実践されている人で、その後、オーストラリアを5000KMのドライブをして来たが、その計画の緻密さには驚かされた。そして、上野さんに勇気づけられて、今日まで続けられて居る。Megumiの書いた物も東北大学の医学部の教授にリハビリテイションの考え方がとても参考に成ったとお褒め頂いた。水泳コーチの田村栄子さんの「育てるを読んで」の一文も良く見てくれる人が多い。それやこれやで、見て頂くことはとても有難い。今度のテンプレートの変更は、手間が掛かるけども、当分従来通りに頑張って行く事にしよう。


“Documentary 箱根路 3” '22ー3ー15

2022-03-14 22:14:23 | Massy's Opinion

★Massy’Opinion

*部長宅 大泉学園へ

部長宅は大泉学園である。今では想像もつかない様な田舎の中の一軒家。日産自動車で課長待遇、社宅住い、確か200坪位の土地で、60万位と聞いていた。事故が夜11時半位、兎に角、前記の様な手配をして、箱根を出たのが夜中の1時半位だったろう。品川車両庫に新車を入れて、車を乗り替え、H君と二人で部長宅に向かった。朝4時半位に大泉学園に着いたが早すぎたので車の中で一眠りして、部長宅に向かった。お宅には車が無かった。「おい、部長帰って居ないな」と話している内に犬が吠えだし、奥さんが出て来てしまった。「朝早く済みません。チョット事故がありまして...部長に報告に参りました」「済みません、今日は帰って来ていないんです。多分、品川だと思いますが...」「そうですかそれでは会社の方で...」と言ってお宅を辞した。「おい、H君如何しよう?」「なんか品川に彼女がいるとか...僕一度送らせられた事がありますよ」「それじゃそこへ行って見ようやっぱり早く報告した方が良いよな...」「そうしましょう」と言う事で立会川の団地迄戻った。団地の2階にMと言う名前の家があった。思い切って戸を叩くと若い顔見知りの人が出て来た。その人は部長の甥でメーカーのサービス課に勤めている人だった。「M部長いらっしゃいますか?」部長は凄く驚いた顔をして、浴衣の儘出て来た。「なんだね、君たち...」「実は昨日吉原へ車を取りに行きまして、その内で一台が崖から落ちまして...」

と事情を手短に話した。「君、O君は如何したんだ...」「無事でした、車は多分全損でしょう」「それで、O君は如何した?」その車が動けるので「自分で運転して来いと言いました」

「バカ!如何してそんな可哀そうな事をしたんだ...」デッカイ声で怒られた。僕は、お詫びに来たし、後始末もうまくいつたし、あんなに怒られるとは思わなかった。「人の命を何と思って居るのだ。車はお金で解決が付く、命はお金では買えないぞ...」「ああ、その通りだな...O君大丈夫かな」と心配に成って来た。それにしてもあんな勢いで怒られたことは無い。「あの人は情に厚い良い人だな、一生懸命尽くそう...」と思った。

*始末

其の後、事故現場の様子は、お巡りさんが来たのが午前3時過ぎ、ディーラーナンバーを交換するのも間に合った。R君は2時間チョットで小涌谷~生麦を往復して呉れたのだ。「うん、これで陸送中の事故あっかいで保険処理出来る」それにしても、警察は夜中に「いやいや現場検証に来たんだな」この事件を振り返ると「こう言う事故が在った時、矢張り会社の決め事(出張手続き)は守らないといけないな」と反省、それにしても、本人も無事で良かった。トラックを止めてロープ買ったのも、以前の経験が生きていたな。人の命は大事なものだ。幸いO君も軽い打撲で済み、会社に出勤出来たし、数年後、社内結婚をした。今は如何しているか?音沙汰もない。遠いい昔の事だ。回数も解らない位、箱根路を超えて良く吉原通いをしたけれど、310型ブルーバードの1号車をメーカーの車両課のブル担当者と箱根越えをして来た時の初めてのニーアクションの乗り心地も忘れられない。霧が深い夜、湯河原に下りた事、車輛庫の凄くまじめな男がアルバイトの吉原帰りの時、人をはねた事件、渋谷営業所の時は、凄くまじめな男が人を撥ねて死亡させ、これは休日の時だった。裁判に成ったが、上申書を書いて年老いた彼の父親を証人に出す等して、最高の弁護体制を敷き示談、無罪にし、保険会社からも褒められた。2件とも被害者は路線バスを降りて、バスの正面から反対側に道路を横断しようとした落ち度もあったのである。それから7~8年後、僕の従弟から結婚式の招待状を貰った。当日、目黒の雅叙園に行き、トイレに行ったそこで渋谷営業所の彼と出会った。「おい、なんだよ今日は...」「僕の結婚式ですよ」「おおそう言えば、新郎側は君と同じ姓だよな。僕は、新婦側からの招待だよ。そう言えば新郎はN君と同じ名前だな。いや、驚いた君、未だ一人だったの?」「そうなんですよ」「驚いた...君と親戚だな...よろしくな...」って云う様な事もあった。さて、色んな事を想い出してきたが、本論に戻そう...吉原から2時間45分で品川に帰って来たのが、最高タイムだった。兎に角、1965年から75年位の時代には様々な事件や体験をした。新車が盗まれて、転売されそのグループを追いかけて突き止め、車台番号打刻の改ざん変更手口を知った事も有る。普通では出来ない経験を沢山した。しかし、全て問題なく乗り越えて来られた。すべて幸運と感謝に尽きる。

 


“Documentary 箱根路2”    ’22-3-8

2022-03-07 22:17:15 | Massy's Opinion

★Massy’Opinion

*時代背景 1962年頃 ブルーバード310型 1959年発売

1955年頃から、国産自動車が乗用車に力を入れ始めた。ダットサンの復活である。」と同時に日本の戦後最高景気が本格的に成って来た。僕が大学卒業した年が1957年。就職をしようか?野球をやれる所へ家を継ごうか?親父は何にも云わなかった。六大学は立教長島を始め、そうそうたる連中が居て人気絶頂の時代。4年の秋までは殆ど就職先きは考えて居なかった。或る日、練習を終わると稲葉監督に呼び出された「増田、就職どうするんだ?」と聞かれて、「出来れば野球出来る自動車会社へ行きたい。そこで3年位野球やって後は、家の稼業を継がなくては...一人っ子ですから...」稲葉監督は「川崎トキコ」の監督をして居たので「川崎地区のいすゞに話してやろ」と言って呉れた。幸い学校推薦は通るし...第2志望で東京日産に志望を出した。処が、試験日がいすゞより先に成り、「2次試験は受けなくてよいからいすゞを断って来い」と言う事になり東京日産に入社を決めた。初任給は12800円その年は大卒30人位採用した。配属は業務部業務課で男子は6人女子1人だった。業務課と、車両受渡課の二つの部署だった。業務課が仕入れ等、メーカーとの折衝、営業所への配車、受渡課は現車の配車が中心の仕事だった。

・メーカーには車両受渡課があり、出来上がった車は、工場回りのテストコースを一回りして受渡課の置き場に置かれて行く。其処からディ―ラー迄の引き取りは、昔の話で「先方引き取り」と「ディーラー渡し」と言うのがあり、ディーラーはどちらか選べた。殆どが「先方引き取り」で陸送屋のプールに運ばれる。当時、吉原工場は昼夜3交代のフル操業だった。陸送屋も手が足りず、奥の方へ入ってしまった車は中々出て来ない。要するに業務課の要望通りに出荷されないのである。ドライバーは殆どが「運転手組合」の所属で社員は4人位と少ない。結局、組合の運転手も高い日当の方に行ってしまう。当時の吉原から東京までの陸送代は陸送会社に一台2750円ディーラーが払い、その内、運転手には1000円の手当にガソリン券15リッター(1リッター、35円位)だった。大体、距離は、吉原~東京品川迄が120kmくらいだった。リッター10キロ位走るので、巧く走れば、10リッター位で済む。毎日、会社が終業すると、新橋発6時10分発の鈍行に乗り、吉原駅に向かうのである。吉原着は10時頃、確か、運賃が610円、入場料が90円位、入場料で乗車し、検札が来ないとそのまま吉原まで行き、吉原駅の手前で列車が速度を落とすところがある。そこで飛び降りて運賃を節約するのである。会社の正規の手続きでは,近地出張で稟議を挙げて、手続きが大変、手当は900円で陸送屋のアルバイトで行けば1000円殆ど変わらない。一応、次長には話して置いたが、ある時期は、週に3日位吉原へ行ったものである。

*日産吉原工場

昔の話で、うろ覚えであるが、当時、吉原工場は、月産10000台、当時はダットサンが人気最絶頂で工場は3交代8時間労働で深夜業迄あり、月産3万台位生産したことも有った筈だ。自分の会社へ引き当てられた車をプールから引き出すのが大変だった。それでも昼休みには、車を寄せ集め、広場を造り、ソフトボールをやった。当時受渡課の課長が大の野球巨人好きで、勿論、僕は狩り出される。面白かったし、工場の人達には、直ぐ覚えられた。僕の自動車会社に入った大きな希望は、新車の出来立てのオフライン車を運転する事だった。当時のG検査課長にお願いして一度だけマッサラのメータ―0mの車を運転させて貰ったことがある。新車は何とも言えない特有の匂いがして、気持ちの良い物である。

*沼津口から小涌谷へ。箱根越え...

当時、業務課には33年入社のH君、34年入社のS君、N君(W大自動車部)、35年S君(青学自動車部主将)K君、Y君(慶応弓道部、自動車部)E君(青学)高卒O君等の課員が居た。大体、皆、此の吉原行の残業メンバーである。工場の車置き場から、納期を急がれている車を探し出し、陸送に移る訳である。吉原の町は、本当に田舎町で、工場の前にストリップ小屋が建てられて居た。白河と言う酒屋があり、ガソリンスタンドは沼津よりにあり、夜12時頃まで営業していた。そこで、ガソリンを15l入れて沼津口より箱根越えに入る。僕は、何時も隊列を守る様に云って、先頭はH君に頼み、僕は一番後ろを走った。何かあると困るからである。車は吉原から沼津まで走ると俄然エンジンの調子が良くなる。

当時の箱根路東海道は今の様にガードレールもない左右一車線ずつの2車線である。街灯なんか勿論ついて居ない、真っ暗である。道の脇は直ぐ崖である。運転は対向車の前照灯を目掛けて走る。これで一番怖いのは3輪車とのすれ違いである。ライトは1個で真ん中について居る。傍まで行くと対向車の車幅が「わっ」と広がって来る。兎に角、当時の箱根は怖い道だった。特に夜は霧が多い。ハンドルを持って居ると自然に早く帰りたくなりスピードが出てしまうのである。元箱根で全員の異常が無いか?一休み、車を止めて、確認をする事にしていた。その時、O君の車が、追い越して行ってしまった。元箱根から又登りに成り、隊列を守らず走り去るO君の車を僕が追いかけた。小涌谷のカーブを切ると崖下から、灯が煌々と輝いている。僕は、「ああ、やったな...」と体中がぞくぞくと寒気がした。其処まで行くと、崖の下からライトが煌々と上を向いて照らしている。あの時の記憶は60年近く前のことだが未だに鮮明に脳裏にこびりついている。直ぐ車を止めて、崖下を覗くと6メーター位下の太い木に車が引っ掛かっていた。車は、助手席側のドアーが樹の幹に引っ掛かって止まっていた。多分スピードを出し過ぎてカーブを曲がり切れなかつたのだろう。直ぐ崖を下りて現車の傍に行く運転台にO君は頭を押さえてハンドルの上に追いかぶさって居た。「おい、O君と肩を叩くと顔を挙げて、幸い無事そうだった。車も火を吹いたりしていない。フロントガラスは滅茶滅茶。その内に上の街道に仲間の車が止まって車列が出来る。皆、驚いて口も利かない。

さて、その時に僕が考えた事。兎に角、崖の上の街道迄、車を出さなくては...街道を通るトラックで引張って貰おう。車の弁償は如何しよう?確か、70万位だな、O君に弁償させるのは無理だな。隊列を組んだ仲間たちが次々に止まって、車から降りて来る。皆、声も出ない。「おい、トラックを止めて、事情を話し、ロープを持って居るか?聞いてくれ...」幸いに壱台目に来た5トン積みのトラックが良い運転手さんで、ロープを持って居た。早速、ロープで結んで、本当に幸いにそんな深い所でなかったので、5~6人で事故車を支えながら崖から上の道へ引き上げた。昔、500円でロープを買った経験から、トラックの運転手さんには、1500円払った。次に考えた事は、「この山の中に止めて置いたらしようがない。何とかもっと山ノ下の湯本辺りまで牽引するかどうか?後の処理は如何しよう...」「ディーラーナンバーは会社の名義だからこれはまずいな...」運航の範囲が都内ときめられている。そうだ、陸送会社に頼んで陸送中の事故にして貰おう。警察に届けておかないと、保険処理も出来ないな。そんな事を考えた。後から、何時も陸送屋のアルバイトをしている連中も現場に来る。何しろ15台位のダットサンがライトつけっ放しで、周囲は煌々と明るく成っている。事故車は幸いにもヨタヨタ自走が出来る。運転していたO君も運転は出来る様だ。ああ、一段落だ。何時もアルバイトをしていて陸送屋に顔が利く、R君に「横浜生麦のT陸送に行ってナンバーを借りて来てくれ、警察が来る前でないと拙いから急いでな」2台は事故車の伴走をして呉れ。と言う段取りをつけた。さて、それから、H君と部長の家へ謝罪と報告に行こうと言う事にした。   (次週に続く...)