白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(277)シネマクラシック(7)「赤い天使」

2017-11-11 10:45:37 | 映画
シネマクラシック(7)「赤い天使」



 大映映画「赤い天使」を久しぶりに見た
若尾文子主演 増村保造監督 1966年 この年の芸術祭参加作品だ
しかし この映画は日本よりフランスでの評価が高いのです

 若尾文子が大映に入ってすぐの1952年 急病の久我美子の代役で「死の街を逃れて」でデビューして翌年の「十代の性典」がヒットして「性典女優」などといわれたがそこから溝口健二 川島雄三などに鍛えられ山本富士子と並んで大映の看板女優となった若尾と増村保造とコンビを組み「青空娘」「妻は告白する」「清作の妻」「夫は見た」「卍」に続いてのコンビ作がこの「赤い天使」だ 
このあともこのコンビは続き合計20本の作品を生むことになる

「増村さんは長い私の映画生活の中で影響を受けた監督の一人 私には細かい演技指導は一切なさいませんでした 以心伝心というか不思議な関係でした これだけ縁が深くてもお食事に一度も行ったことないんです 父の郷里が山梨で一緒で他人のような気がしなくて 増村さんも私のこと「妹のよう」と言っていたみたい 余計な事、個人的なことは離さないげど好きでした」(若尾文子談)

増村は東大法科を出て哲学科に再入学 学費稼ぎに大映の助監督になり溝口健二らにつく
その後イタリアに映画留学 戻ってきて正式に助監督に復帰という映画エリート

増村保造はその名前は知らなくても大映映画ファンだった僕はかなりの本数を見ている
大映のドル箱シリーズ雷蔵「陸軍中野学校」勝新「兵隊やくざ」の第一作目は増村が撮った 
大好きだった田宮二郎の「黒シリーズ」も第一作「黒の試走車」も監督した
ちょっとHな渥美マリの「でんきくらげ」「しびれくらげ」もそう 
ちょっとおしゃれなコメディ「足にさわった女」や文芸物では谷崎の「卍」「痴人の愛」有吉の「華岡青洲の妻」もそうだった

井上ひさしの自伝的小説「青葉繁れる」によると東北一の進学校仙台一高の落ちこぼれたちが憧れのマドンナ仙台二女高の若山ひろ子のモデルが後の若尾文子だった話は有名である その若尾文子が従軍看護婦となって中国大陸を彷徨い歩く

予告編の惹句には「明日をも知れぬ身体ゆえ 白衣の下の女が燃える 血と泥の戦場で 男の欲望と戦い 女のいのちを生きる従軍看護婦  天使か? 娼婦か?」とある

昭和14年、西さくら(若尾文子)は従軍看護婦として天津の陸軍病院に赴任した
数日後消灯後の巡回中 数人の患者に輪姦されてしまう 原作(兵隊やくざと同じく有馬頼親)を読んだ人によると何度か拒むが結局彼女の方から身を投げ出すらしい その後深県分院に転属になった彼女は負傷した手足を切りまくる(骨を切るノコギリの音が耳に残る)岡部軍医(芦田伸介)の下で多忙な日々を送っていた 傷ついた兵士を三択 摘出(銃弾)、切断、死亡(助からない)に分ける その死亡の中にいた かって自分を強姦した兵士を助けようと岡部に輸血を頼む「今夜俺の部屋に来るのだったら輸血してやる」彼女は条件を承諾するがが その兵士は死亡する 天使のつもりだが実は「死神」彼女は悩む 部屋に行った彼女はそこで岡部がモルヒネ中毒であるのを知ってしまう
 
天津に戻った彼女はそこで両手を岡部に切断された折原一等兵(川津祐介)に出会う 
用をたすのも性欲の処理も全て引き受けざるを得ない ある日外出許可を取って二人でホテルに行き 綺麗に洗ってあげて 騎乗位で結ばれるが彼はビルの上から投身自殺してしまう 口で鉛筆をかんで書いたと思われる彼女あての遺書を残して・・・
ここでまた原作を読んだ人によると折原は首を吊って自殺していて その自殺方法が判らないと後の「四万人の目撃者」の作者らしく推理ものが入るが真相は実は性処理を新人看護婦津瑠崎(映画の後半西が前線に連れていく看護婦)に頼んだが彼女が男性経験がなく うまく出来なかったことを男が怒る 彼女はずっと申し訳なく思っていて彼の自殺を助け西宛の遺書も書いてやるという話だったらしい 
さてその新人看護婦を連れて行った先は営林鎮 日本軍の最前線 周りは敵だらけ さらに従軍慰安婦が中国軍によってコレラ菌を移され壊滅的場所だった そこで彼女は明日の命も判らぬ岡部のモルヒネ中毒を直すべく禁断症状を克服させ 不能だった岡部を直し二人は結ばれる
 ニッコリ笑って「西が勝ちました」と叫ぶ顔が天使だ
しかしそのあとには中国軍に襲われ部隊は全滅してしまう 
かろうじて生き延びた彼女はやっとやって来た援軍に自らの身分を名乗り 見つけた岡部の遺体に縋り付きます

中国軍が一人も顔を見せない戦争映画
増村が「兵隊やくざ」(1965)を撮り「清作の妻」(1965)、「陸軍中野学校」(1966)を撮ったあとの戦争ものの作品である

増村は大映倒産後も活躍したが1986年62歳で死去
誰だ 69まで生きてる奴は!


 




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