昭和51年 蝶々新芸スクールが梅田のコマの近くに出来た時 その運営をやるために出来たのが日向企画である
仕掛けたのは松竹芸能の野田嘉一郎という人で 社長は日向鈴子ことミヤコ蝶々 専務に蝶々さんの義理の弟日向利一
事務所は新芸スクールが入っていたビルの二階だった(三階が教室)
何故か東京事務所も持っており(乃木坂秀和レジデンスビル)この事務所はTBS系の制作の仕事が多かった
野田さんとはKAプロの藤井さんの知り合いで僕がトップホットにいてるときからよく知っていたので
彼が日向企画にいてる間の仕事は殆ど僕が手伝っている
年代順はよく覚えていないが思い出すまま書いてみよう
南田洋子・長門裕之夫婦主演の茂木草介作「極楽夫婦」(九州巡業)(注)
長門さんの林家染丸と石浜裕次郎の桂春団治の二人がマッチ棒を並べてオンナの数を競い合う場面は良かった
南田さんは染丸夫人で寄席三味線の名手の林家トミ役であった
この芝居を社長として九州まで見に来たミヤコ蝶々は「フーン」と言って帰ったが翌年中座で「女と三味線」として発表する
この巡業が終わってコマに帰ってきたらミュージカルチームのベテラン女性ダンサーが僕を呼び出し 旅の間のある男優の所業を聞いてきた その男優は彼女の情夫だった 彼は確かに巡業中某女優と出来ていたが黙ることにした
その女優も次に会った時は別の男がいた
澤田雅美劇団旗揚げ公演
澤田雅美のお兄さんが担ぎ上げられ劇団を作って九州・四国を廻った
出し物は平岩弓枝作石井ふく子演出の「花はどこでも咲く物語」「舞踊ショウ」
大村崑 坂東好太郎が出ていた どこの会場も客が入らず不安になった大村崑が途中で帰ると言い出し雅美が大泣きしたことがあった
結局お兄さんが莫大な借金を背負う形で終わったが 芸能界は魑魅魍魎が闊歩する恐ろしいところだと実感しただろう
東芝日曜劇場1000回記念公演
全国を三ブロックに分けてTBSの系列局が公演を主催する体でやった公演
野田さんと僕(制作補)の受け持ちは京塚昌子さんのブロックで北陸・四国・九州だった
あとは池内淳子班(女と味噌汁)と中村玉緒班(八坂恋坂おんな坂)があった
出し物は「肝っ玉かあさん」と前狂言として大西信行作 勝呂誉主演「とうなすかぼちゃ」であった(演出は石井ふく子?)
赤坂にあったTBSのスタジオが稽古場で空きスタジオを転々としての稽古であった
(その仕切りは庄司さんという石井さんの助手がやっていた)
資料を見ると日曜劇場1000回は1976年だからそらく公演はこの年か
1978年8月僕は一か月間日向企画の事務所に電話番をしながら寝泊まりさせてもらって「屋根の上のヴァイオリン弾き」の東京稽古に参加していた
どこに行くのも便利な場所にあり 初めて江戸風の銭湯にも入ったし 朝は近所の公演でラジオ体操に参加して皆勤賞を貰うという最高の場所であった
大阪郵便貯金ホールにて行ってきた「蝶々新芸スクール記念公演」は何度かお手伝いした記憶がある 記憶に残った生徒を列記する
池内和彦、宮崎裕次、蝶美蝶子、川内澄恵、西島敦子、上中はるか 田中哲司
やがて専務利一さんが野田さんの会社の金の使い込みを問題(仕事上の赤字はあっても私的流用は野田さんの性格上ありえない)にした
野田さんは一切弁明もなしに日向企画を辞めることになる
その後野田さんはKAプロの岸本さんの世話で渋谷道玄坂百軒店にコーヒーとカレーの店を開き やがてヒャケンダナ商店会会長となる
僕は利一さんから野田さんの共犯者扱いで蝶々さんの公演には出入り出来なくなった
もっともそのころには蝶々さんの仕事の中心は中座へ移っており梅コマの公演は無くなっていた
(注) この「極楽夫婦」は1969年NHK銀河ドラマ枠で放送されたドラマ(全10回)で脚本はテレビと同じ茂木草介 主演は南田洋子、金田龍之介 原作は田辺聖子「でばやし一代」富士正晴「紅梅亭界隈」
野田さん 東京の加藤さん、皆さん先生の為に活動されていた記憶しか私には無いです、