白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(41)モダン寄席について(3)

2016-04-11 16:50:27 | トップホットシアター
トップホットシアターの前に何故「コマモダン寄席」と入っていたのか調べてみた
今回はその三回目


 梅田「コマモダン寄席」トップホットシアター

丁度その頃梅田にあった東宝のヌード劇場OSミュージックが閉鎖され、
その後にコマモダン寄席、トップホットシアターが設立され(昭和44年)渡りに舟の形でそこに芸人を供給することになる。
当時参議院議員であった横山ノックが杮落としの祝辞を述べた。
(彼は宝塚新芸座でも秋田Bスケの弟子、三田久として初舞台を踏んでいる)

ケーエープロからのタレントは
海原お浜・小浜 若井はんじ・けんじ 横山ホットブラザーズら人気者揃いであった。

他にはグループ企業の大宝芸能より
夢路いとし・喜味こいし 内海カッパ・今宮ヱビス、はな寛太・いま寛大 落語では桂朝丸がいた。

その他松竹系、吉本系以外の弱小プロダクション(米朝事務所、和光プロほか)のタレントがいた。

この寄席はかって宝塚で試行された「モダン寄席」構想を実現すべく芦屋小雁がメイン司会者となり漫談でつないで中に短いミュージカルスがありヅカガールの代わりにコマミュージカルチームの精鋭8名が「トッピーエイト」なる名前で歌と踊りで花を添えた。
(大島久里子 麻耶美雪ほか)

だがこの形式は一般にはなかなか理解されず、やがて普通の寄席の形になっていく。

そして当時当たってきた吉本新喜劇に対抗すべく専属作家山路洋平(茶川一郎のテレビドラマ「一心茶助」で有名)を作・演出にしたコマ新喜劇なるものをトリにもってきた。
  
新喜劇のメンバーは元吉本の奥津由三を座長格に据え、漫才出身の赤井タンクやOSミュージックや南街ミュージックでコントをやっていた泉祐介、そしてレギュラーとして芦屋雁之助の「劇団喜劇座」の残党(西川太市、三好正夫、伊東亮英、三角八重、白妙公子、前川美智子、芦屋凡々)と奇しくも劇場公演がなくなった「宝塚新芸座」の何人か(竹中延行、円尾紘一郎、神原邦夫(上金文雄)、吉井裕海、梅香ふみ子)の寄合所帯であった。
吉本のひっくり返るギャグだけの芝居とは違い、ちゃんとしたシチュエーションコメデイを目指したのである。

新喜劇の監修は「てなもんや」の香川登志緒、音楽は大宝に所属していた加納光記であった。








白鷺だより(40)モダン寄席について(2)

2016-04-11 16:40:11 | トップホットシアター
永年お世話になったトップホットシアターの名称の前に「コマモダン寄席」と入っていたのを
不思議に重い調べてみた 今回はその二回目

それから・・あべの「モダン寄席」

秋田と藤井の二人で堂島に上方芸能という会社を作った。
社長は秋田実、専務は藤井さん、常務には新生芸能プロの勝忠男が入って
難波戎橋松竹、千日前歌舞伎地下演芸場、京都新京極 富貴などに芸人を供給していた。

だが昭和33年歌舞伎地下劇場の閉鎖が決まり困っていたとき、
新生プロの勝忠男から一緒に新しく松竹が作る道頓堀角座に芸人を供給しょうと声が掛かる。
かくて同年11月、2社は松竹の斡旋で合併して松竹新演芸が誕生することになり事務所は映画館の松竹座の地下においた。
(ここはボクも知っている 階段を降りると受付があり座っている受付嬢が美人揃いだった)
そして元映画館として使用していた角座は1000人入るマンモス演芸場に生まれ変わった。

この時南都雄二が上方芸能のメンバーを振り分けた話はこいし師匠の思い出話にある。
曰く「ワカサ・ひろしは松竹へ行き、AB,あんたらは吉本へ行き、わしら蝶々・雄二はウロウロするわ そいでいとこいさんは東宝へ行き」
「東宝?」
「いや今度東宝の松岡さんという人が大宝芸能ちゅう会社を作る。そこへ行っときゃいずれは映画でも何でもでられるやろ」ということでいとこいさんは大宝芸能へいった。
大宝芸能には他にタレントは誰もいず会社も東宝の一部を間借りして始まった。

昭和35年秋田はBKで土曜放送のバラエテイ番組を始めるがそのタイトルは「モダン寄席」
その中のコメディを元近鉄劇場支配人の宮川龍太郎が書いていたと彼の思い出話にある。
角座で成功した松竹新演芸であったが寄合所帯であるためか、しばしば両派は衝突を繰り返していた。

その頃、秋田実には阿倍野にビルをいくつも持った岸本さんがスポンサーとしていた。
その岸本さんのビルの辺りが阿倍野再開発の区画に入ったので自社ビルに「モダン寄席」を作ることになり、
松竹新演芸を出て行く形で昭和43年ケーエープロダクションが誕生する。
ケーは岸本のK、エーは秋田のAである。

一方、出て行かれた新演芸は名前を松竹芸能と変更し、
角座をホームグランドにして、かしまし娘、中田ダイマル・ラケット、レッツゴー三匹、などを擁して
吉本興業を凌ぐお笑いの大プロダクションとなって行く。

一方、阿倍野のビルでひっそり誕生した「モダン寄席」だったが再開発事業の変更でわずか一年で閉鎖される。





白鷺だより(39)モダン寄席について(1)

2016-04-11 16:17:58 | トップホットシアター
  長年お世話になったトップホットシアターであるが その名称の前に「コマモダン寄席」というのがついていたのを
不思議に思い調べてみることにした  今回はその一回目

小林一三の夢・秋田実の夢「モダン寄席」

戦後小林一三は宝塚に新しい時代にふさわしい新しい演劇興行を模索していた。
昭和25年、満州帰りの秋田実に出会い、彼の「モダン寄席」構想に共感して
まず写真館の地下の宝塚第2劇場を解放、
小さな劇場だったが
MZ研進会という漫才研究会を主催して戦争で仕事場を失った若手漫才師たちを束ねていたので
彼らの仕事場は是非欲しかった秋田にとっては充分だった。
出し物は一芸を持っている人間を集めて色んな芸をやらせ、
そのつなぎに宝塚の生徒を使って歌と踊りのいわゆるバラエテイショウを目指し、
「あれもこれもショウ」という題名だった。
だけど宝塚の本科生は男性との共演を嫌がったのでまだラインダンスしか踊れない新入生ばかりをつかわざるをえなかった。
「勧進帳」の長唄を宝塚のコーラスで演じるという後年の梅沢並の演出もあったらしい。
(嵐冠十郎の息子の市川弥十郎が父から聞いた話として書いている)

その中の秋田実の構成による「漫才学校」が当たって宝塚映画で映画化、また同名のラジオ放送も始まった。
MZのゲストだったミヤコ蝶々が校長先生・南都雄二の小使い,
生徒役にはミス・ワカサ・島ひろし、秋田Aスケ・Bスケ、いとし・こいし、らがいた。
昭和30年の朝日放送土曜7:30「漫才学校」は57・5%の高聴取率だった。
7回目の放送から朝日放送専属になったばかりの森光子が生徒役で加入した。

しかし小林はこの頃、戦前入れてしまった宝塚男子研究生の処遇に悩んでいた。
そして映画館を改造して大きな劇場、宝塚新芸劇場(現在のバウホールの場所)となった時 
彼らを入れ、
他に元雪組の組長で三枚目のスター初音礼子や小林の友人の娘梅香ふみ子や同じく友人の武智鉄二に頼まれた関西歌舞伎の若手たち
(嵐冠十郎、嵐三右衛門、市川小金吾(青虎)、市川弥十郎(先代)ら)を入れた。

また空いた第二劇場は昭和27年、宝塚若手落語会として入場無料で出演料1000円は小林のポケットマネーで若手落語家に勉強の場として解放した。
参加したのは笑福亭光鶴(松鶴)、米朝、桂春坊(露の五郎)、笑福亭松之助、林家染語楼、桂福団治(春団治)らであった。

昭和31年3月、
小林が国民劇、芝居路線に変更したため演芸指向の秋田は袂を分かつ形で文芸部の藤井康民と一緒に漫才師たちを引き連れ退座して(株)上方芸能を作った。
その人気に目をつけたのが松竹の白井昌夫であった。
さっそくその年の7月「劇団上方演芸」との提携公演を南座で開催した。
この公演は同年10月、32年正月公演、5月公演と続いた。
が・・それは秋田実の本意ではなかった。やはり寄席が主体とする気持ちが変わりなかった。

一方、演劇路線を進んだ小林「新芸座」は香村菊雄を宝塚歌劇から移籍して今東光の原作もので当てるなど初音礼子を座長にして人気の宝塚新芸座を作り上げるのであるがそれも結局は長続きしなかった。