愛とは時間である、と私は思います。
今までこんなことを語った哲学者や文学者がいたのかどうか知りませんが、
私は、愛とは時間である、と思うのです。
もう少し正確に言うならば、愛はその相手のために割く時間に比例する、ということです。
相手のためになにかをしてあげる時間、
相手のことを想っている時間、
要するに、自分の人生のなかのどれくらいの時間を相手のために割いているか、
それが愛だと思うのです。
この定義によれば、愛は別に恋愛感情だけとはかぎりません。
自分の子どものために自分の時間をどれくらい割くか、
自分の親や兄弟姉妹のためにどれくらい時間を割くか、
それによって愛は測れると思います。
もちろん恋愛という意味での愛も時間に比例すると思います。
ただし、この仮説の場合、熱狂的なファンやストーカーのような片思いの愛と、
相互交通的な本来あるべき愛との区別はできなくなってしまいますが、
それでもやはり、愛は時間である、と私は思うのです。
たとえ報われなかったとしても愛は愛ではないでしょうか。
もう終わったとわかっていても、それでも思い出して相手のことを考えている時間、
それってやっぱり愛だろうと思うのです。
誰かのことを想ったり、その人のために旅行の計画を練ったり、プレゼントを選んでいる時間、
それらを集めたトータルの時間が愛にほかならないと思うのです。
今までこんなことを語った哲学者や文学者がいたのかどうか知りませんが、
私は、愛とは時間である、と思うのです。
もう少し正確に言うならば、愛はその相手のために割く時間に比例する、ということです。
相手のためになにかをしてあげる時間、
相手のことを想っている時間、
要するに、自分の人生のなかのどれくらいの時間を相手のために割いているか、
それが愛だと思うのです。
この定義によれば、愛は別に恋愛感情だけとはかぎりません。
自分の子どものために自分の時間をどれくらい割くか、
自分の親や兄弟姉妹のためにどれくらい時間を割くか、
それによって愛は測れると思います。
もちろん恋愛という意味での愛も時間に比例すると思います。
ただし、この仮説の場合、熱狂的なファンやストーカーのような片思いの愛と、
相互交通的な本来あるべき愛との区別はできなくなってしまいますが、
それでもやはり、愛は時間である、と私は思うのです。
たとえ報われなかったとしても愛は愛ではないでしょうか。
もう終わったとわかっていても、それでも思い出して相手のことを考えている時間、
それってやっぱり愛だろうと思うのです。
誰かのことを想ったり、その人のために旅行の計画を練ったり、プレゼントを選んでいる時間、
それらを集めたトータルの時間が愛にほかならないと思うのです。
いま自分は誰を愛しているのだろうかと思うと…たくさんいるけれど(笑)
時間で考えるととてもわかりやすいです。
憎悪も同じ性質のものの気がします。
誰かのことを(憎しみの感情で)思っていたり、仕返しの計画を練ったりする時間…
そう考えると愛と憎悪は表裏一体なのかなと思ってしまいます。
びっくりして思わずコメントしてしまいました。わかりやすくてとてもいいです。
確かに直球勝負の方が、心に響いたりするのかもしれません。
折しも、今日は聖光の試合ですね。
(いつも直球ばかりではなく、たまに見せる直球だから効果的なのかもしれないなとも思いました)
そもそも時間は客観的に語れるけど、縦軸は?Aの想いの強さ=思われ人の迷惑度の場合はストーカー状態?・・・ということもあるよな・・・縦軸のとり方は難しい。と想いはさまようばかり。
ロムオンリーの人間にもコメントを書かせたくなるような深淵なテーマでした。
ふにゃふにゃした実体不明の愛を追い求めて終えるのが人生かと思っていましたが、世の中の大半の人には、もっと愛は明確なものなのかな?と自省いたしました。
いきなり核心的な反論で、私もそこを突かれたらどうしようと思い今まで発表できずにいたのです。
そうなんだよなあ、憎しみとは時間である、も成り立っちゃうんだよなあ。
この問題に関しては、えいさんの仰るように、愛憎は表裏一体であると逃げるか、
もっと積極的に、憎しみと愛は同じものである、と主張するかのどちらかしかないかもしれません。
ものすごく頭に来る人がいて、ついそいつのことを考えてしまって眠れないようなとき、
なんでオレはこんなにそいつのために時間使ってるんだろうと反省して (そいつが好きなのか?)、
あまり相手のことを考えないようにする、ということは時々しています。
別に土曜日のもうひとりのTさんに触発されて、直球勝負したわけではないのですが…。
土曜日は哲学カフェ、昨日は福大オケのコンサート。
今回の聖光学院戦の日はいずれもダブルブッキングで、
とうとうまったく応援できませんでした。
聖光愛が足りなかったと反省しました。
今回の私の仮説は、横軸 (時間) のみに限定して、縦軸 (思いの強さ) をカウントしない、
というところが一番のミソなのです。
思いの強さもけっきょくは、相手のためにかける時間として現れてくるだろうということです。
愛を測る尺度を簡素化してみたかったということなのですが、
もちろん、こんなに単純に客観的に愛を測れるのかということは、
私が立証しなくてはならない一番悩ましい問題だと思います。
この尺度で一番はっきりするのは、自分のための時間 (自己愛) と比べて、
他人のために使う時間 (他者へ向けられた愛) がどれくらいかということです。
ぼくもぢゅんちゃんほどじゃないけど自己愛が強いんだよなあ。
親兄弟のためにも全然時間使ってないし (血は水よりも薄い)。
面白いですね。
愛の反対は、「憎しみ」ではなく、
「無関心」だと言った人がいました。
相手に嫌われても構わないから、
「忘れられたくなかった、気づいて
欲しかった」と言ってた、
ストーカーの女の子もいました。
「想う時間=愛」という意味では、
自分が想っている相手からは、
憎まれる(=ある意味、想われている)よりも、
忘れられることの方が
つらいという状態はありうるのだろうな、と
思います。
恋愛だけでなく、勿論、家族の中でも。
「無関心=相手のためにまったく時間を使わない」 ということですからね。
ちょっとこの話はイタイです。
うちの母親には今回のブログは見せられません。
いつも 「用がなくたって電話してきなさい」 と怒られていますから。
でも彼女も私のことには無関心だと思います。
ぼくがブログをやってることなんて知らないと思うし、
たまに向こうから電話してきても、自分のことを話しまくってるだけだから。
ふ~ぞく28の皆さん、今回の話についてご自分のお母さんと語り合ったりしないでくださいね。
うちの母親に筒抜けになってしまうかもしれないので…。