まさおさまの 何でも倫理学

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Q.哲学・倫理学に関する研究はどのようにしていますか?

2013-05-12 21:15:14 | 哲学・倫理学ファック
質問をいただいたのは相馬看護学校の 「哲学」 の授業でしたので、
もともとは哲学のみに限定した質問でした。
また、第1回目のまったく哲学に関して予備知識のない段階での質問でしたので、
「研究」 という言葉は使わず、「勉強」 という言葉で聞かれており、
正確には 「Q.哲学に関する勉強はどのようにしていますか?」 という質問でした。
しかし、私にとって 「哲学」 と 「倫理学」 はほぼ同義ですし (こちらを参照)、
また、哲学や倫理学は、既成の答えを覚えていく 「お勉強」 ではなく、
常に既成の答えを疑い、問いを発し続けていく 「学問」 ですので、
ご質問を 「Q.哲学・倫理学に関する研究はどのようにしていますか?」 と置き換えて、
お答えしていくことにしたいと思います。
実を言うと、明日の6、7限に夜間主現代教養コースの 「専門演習」 という授業があり、
その授業のなかで 「倫理学はどうやって研究を進めていくか」 という話をするので、
その学生さんたちにもあとで読んでもらえるように、
まとめて書いてしまおうという深慮遠謀があってのタイトル変更です。

さて、相馬看護学校11期生の皆さんには 「哲学とは何か」 という話をほとんどしていませんので、
(フツーはどこかの班から代表質問として聞かれるものですが…)
最初に、哲学や、哲学の一部である倫理学がどのような学問かということを、
ごくごく簡単に説明しておきたいと思います。
哲学の出発点は、上にも書いたように、既成の答えを疑い、
自分で考えて自分なりの答えを見出していこうとする営みでした。
人間は身のまわりのものすべて、自分が行うことのすべてに関して、
問いを発し自分で考えてみることができます。
その営みが古代ギリシアにおいて 「知を愛すること (フィロソフィア)」 と名づけられました。
それが現代の言葉で言うところの 「哲学」 ですが、
「哲学」 というとある特別な学問を指すように思われるかもしれません。
しかし、「哲学」 が特殊な学問のことを指すようになったのはほんの200年前くらいからで、
古代ギリシアから19世紀のはじめの頃まで、
「哲学」 というのはすべての学問を表す言葉でした。
既成の答えを疑って自分で考えて自分なりの答えを見出していくというのは、
まさにすべての学問がやってきたことであり、したがってすべての学問は哲学だったのです。

変化が生じ始めたのは16世紀頃からでした。
この頃、哲学 (=学問) の世界に大きな変革がもたらされます。
「実証化」 と 「分業化」 が進み、「実証科学」 と呼ばれる学問が擡頭してきました。
実証化とは、神様や前世など人間の経験によって捉えることのできないものをできるかぎり排し、
人間が頭で勝手に考えるのではなく、観察や実験などによって得られるデータにもとづいて、
誰にもはっきりとわかりみんなが納得し共有できるような知のみを蓄積していこうとする試みです。
この試みは大成功を収めました。
それまでのようにプラトンの哲学、カントの哲学など唱える人の数だけ学問があるのではなく、
観察や実験によって確証された知 (データや理論) が確実に蓄積され、
学者たちが協働して学問の発展に寄与できるようになっていったのです。
これによって学問はそれまでとはけた違いの発展を遂げるようになりましたが、
そうするとそれまでのように、ひとりの哲学者がすべての学問を研究するという方法では、
もうやっていけないほどになってしまいました。
それでも19世紀のはじめくらいまではひとりですべてを引き受けようとする強者がいましたが、
全体の趨勢としてはそれぞれが得意な分野のみを担当するというように、
「分業化」 が進んでいくことになりました。
分業化してしまった学問のことを 「科目に分かれた学問」 という意味で、
開国期の日本では 「科学」 という訳語を当てて呼ぶことになりました。
すべての学問を意味していた 「哲学」 のなかから、
天文学や物理学、生物学、化学、政治学、経済学、社会学などの 「実証科学」 が、
次々と分離・独立していくことになったのです。

現在の 「哲学」 はたくさんの実証科学が分離・独立してしまったあとの残りかすみたいなものです。
つまり、実証化することのできなかった部分が 「哲学」 として残っているのです。
人間の考えることはすべてが観察や実験によって答えを出せるような事柄ばかりではありません。
目で見てわかることに関しては実証的方法はきわめて有効ですが、
人間が関わるのは目で見えるものだけではありません。
例えば心を見ることはできません。
みんな自分に心があることは知っていますが、他人にも同様に心があるというのは、
目で見たり耳で聞こえる行動や言葉から類推しているだけで、
直接人の心を見てその存在を立証することはできないのです。
同様に何がよくて何が悪いかということも、
実験したり、アンケート調査をしたりして確定できることではありません。
このように人間にとってけっこう大事なことが、
実証的方法によっては解明できない問題としていろいろ残されているのです。

やっと前置きが終わりました。
以上のように、現代の哲学は、実証的方法によっては解明できない問題を扱いますので、
観察や実験などの方法を用いることができません。
ではどうするか?
以前と同様に、既成の答えを疑い、自分で考え、自分なりの答えを見出していくしかありません。
もちろん、自分でまったく新しい問いを立て、ひとりで考え始めるということもありえますが、
人類の長い歴史のなかでは、たいがいの問題がすでに誰かによって考えられています。
ですので、まずはこれまでの哲学者たちがどんなふうに答えてきたかを知っておく必要があります。
というわけで、哲学書を読むというのが研究のスタートとなるのです。

まあ、哲学者が書いた本に直接当たる前に、
まず概説書や入門書などを読んで、誰がどんな問題について考えて書物を残しているのか、
誰の考えが面白そうか、自分にとって参考になりそうかリサーチしておいたほうがいいでしょう。
とにかく哲学書は難しいです。
なぜ難しいかは以前に書いたことがあるので、そちらを参照してください。
また、哲学書を直接読み始める前に、自分が研究するテーマに関して、
いろいろな専門用語なども学んでおく必要があるかもしれません。
あるテーマに絞ったら、そのテーマに関するわかりやすい解説書なども読んでおくといいでしょう。
しかし、それらをいくら読み漁ったところで研究はスタートしませんから、
やはり研究を始めるためには哲学書を読まなければなりません。
ただし誤解のないように言っておくと、
哲学書というのは何週間かであっさり読み終わるようなものではありません。
分厚くて難解な本だったりしたらそれこそ読むのに何年もかかる場合もあります。
そして、1冊全部読み終わらなければ研究できないかというと、そういうわけでもないのです。
哲学書のなかのほんの数ページ分に関する詳細な研究というのもあるくらいです。
それぐらい哲学書というのは読み応えがあるし、研究しがいがあるものだといえるでしょう。
とはいえ、あるページを理解するために他のページのことを知っておく必要がありますので、
やはり全部通読するのが理想ですし、同じ人の別の書物も読んでおくとよけいに理解は深まります。
とにかく、哲学者たちがどういう答えを出しているのか、
これを知るだけでもものすごく大変です。

哲学者が書いた哲学書のことを一次文献と言います。
これについて理解を深めるためには、その哲学書に関する研究書もいろいろと読む必要があります。
これらを二次文献と呼びます。
カントが書いた哲学書が一次文献だとすると、
私がカントについて書いている論文が二次文献ということになります。
カントの言っていることを理解するだけでも一筋縄ではいかないので、
カント研究者たちはそれぞれの立場から自由にカントを読み解いています。
つまり、カントがあるテーマに関してどういう答えを出したのかということすら自明ではないので、
カントはどんな答えを出したのかに関するいろいろな研究があるということです。
要するにそれくらい哲学書を理解するのは難しいわけです。
ですので、一次文献のほかに二次文献も大量に読まなければなりません。

その他にも、例えばカントを研究する場合、カントに影響を与えたカント以前の哲学者や、
カントと論争を交わしていた同時代の哲学者たちの書いたものも読んだりする必要があります。
カントはカントで、他の哲学者たちが出した答えを踏まえて、それを疑いそれに対抗することによって、
自分の新しい考えを築いていったわけですからね。
既成の答えを疑って出された答えに対して、さらにそれを疑問を投げかけていくためには、
こんなふうにどんどん遡ってみんなが出した答えを研究しておく必要があるわけです。
ただまあ卒業論文レベルでそこまで遡及していく人はめったにいません。
私も自分の研究スタイルとして、どんどん遡っていくという手法はあまり得意としていません。
ここらへんは研究者個々人の好みといったものも関係してくる部分です。

このように一次文献、二次文献を読破してそれらを理解することができたら、
いよいよそれに対して問いを発し、自分なりに答えを考えていくことになります。
とはいえ、みんなものすごい思考のプロの人たちが考え出した答えですから、
その問題点を見つけて指摘し、自分なりの正しい答えを提示するなんていうのは、
並みたいていのことではできません。
それができたら、それこそ 「哲学者」 と呼ばれる偉人たちの一員に加えてもらえることでしょう。
私なんかは、自分なりの答えを提示するというところまでははるかに及ばず、
カントが出した答えを理解するにあたって、
カント以後にカントを研究している人たち (二次文献を書いている人たち) のカント理解について、
それは間違ってるとか、本当はこういうふうに理解すべきだということを提言するのが精一杯です。
とはいえ、長年カントのことを研究していると、カント研究者たちのカント解釈ばかりでなく、
カント自身が言ってることに対してもだんだんいろいろな疑問が湧いてきます。
その疑問を解決できるような新しい答えを考え出すことができたら、
ただの 「○○研究者」 からショボイながらもひとりの 「哲学者」 となることができるのでしょう。

さて、○○研究者レベルでもいいですし、一哲学者としてのレベルでもいいですが、
なんらかの答えを考えついたら、それを頭のなかにのみ留めておくのでなく、
文章として書き記さなければなりません。
書き留めなければ何も起こらなかったも同じこと、なのです。
その文章はできるかぎりみんなにわかりやすく書かなければなりません。
自分は誰かの哲学書やあるテーマに関する研究書を一生懸命読んだかもしれませんが、
みんながみんなその本を読んでいるとは限りません。
読んでいない人にも伝わるように明快に簡潔に要約して、誰が何を言っていたのかを紹介します。
そして、それのどこがどう優れていて、どこにどういう問題点があるのかを指摘し、
それを解決するための自分なりの答えを書いていきます。
哲学・倫理学の場合、実験結果やデータはありませんから、
なぜそこに問題があるのか、なぜあなたの考えた新しい答えでそれらを解決することができるのかを、
すべて言葉、論理によってみんなが納得できるように説明していかなければなりません。
もちろんあなたの出した答えにみんなが納得してくれるということはありえませんが、
(それが 「哲学=学問」 の長い歴史でした)
それでも、予想しうるかぎりの反論は自分で想定してみて、
それらをひとつひとつ自分で説き伏せるつもりで文章を書いていかなくてはなりません。
そのためにはまず何よりも正しい日本語を書けなくてはなりません。
(別にどの言語でもかまいませんが、何語であろうと正しい文章を書く必要があります。)
誤字脱字があるようではそもそも自分の言いたいことは伝わりません。
また日本語は主語を省略しがちな言語ですが、哲学・倫理学の論文を書くときは、
曖昧さを避けるためにできるかぎり主語をはっきり書くようにします。
そして、主語と述語がきちんと対応していないとやはり正しく意味が伝わりませんので、
すべての文の最初と最後がちゃんと呼応しているかどうかチェックする必要があります。
ものすごいことを考えているのだけれど、正しい日本語が書けないという研究者がたまにいますが、
そういう人はけっきょく自分の考えていることを人に正しく理解してもらえないので、
一人前の研究者として人から認めてもらうことができません。
実験結果や調査結果があれば、多少文章が下手でもデータの力で人を納得させることができますが、
哲学・倫理学の世界では、考えることと書き表すことは表裏一体、
切っても切り離すことのできない関係なのです。

哲学・倫理学の研究の進め方というのは大体こんなところでしょうか。
明日の2コマ分の授業のネタを考えながら書いていたので、
長々とダラダラ書いてしまいました。
もっと簡潔に書けばよかったですね。
申しわけありません。
ご質問の答えを以下のようにまとめておきたいと思います。

A.哲学・倫理学の研究は、哲学・倫理学の専門書を読み、それを疑い、
  自分で自分なりの答えを考え、それを正しい日本語で書き表すことによって進めていきます。

なんだ、看護学校の皆さんにはこの結論だけ言えば十分だったかな。
まあでもこの機会にまとめておくことができてよかったです。
夜間主現代教養コース 「専門演習」 を取っていて、卒論を誰の下で書こうか悩んでいる皆さん、
私のゼミに入るとやることは、本を読んで、自分の頭で考え、文章を書いていくだけですから、
哲学書 (倫理学書) や専門書を読むことが好きな人、物事を論理的に考えていくのが得意な人、
自分で正しい文章を書くことができる人でないと、卒論を無事書き上げて卒業することができません。
ぼくの講義やこのブログがわかりやすくて理解できそうだったからという程度では、
まさおさまのゼミについてくることはできませんので、
安易な気持ちで取ったりすることのないように気をつけてください。

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2 コメント

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批判 (通りすがり)
2013-05-15 01:36:48
かなり上から目線ですね。
哲学を、決まりきったものにしてしまうなんてつまらない。
ゼミについてこれないなど、ナンセンス。
返信する
予防線 (まさおさま)
2013-05-16 16:50:13
通りすがりさん、コメントありがとうございました。
まったくもっておっしゃる通りでございます。
ただまあいろいろと政治的な配慮がありまして、このように言わざるをえないという…。
返信する

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