まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

頭がデカイ

2010-01-23 19:06:29 | 幸せの倫理学
シャンプー台の話をしたときに、私の頭がデカイという問題に触れました。
今日はその話を。
私は子どもの頃から頭が大きかったです。
私は横浜国立大学教育学部附属横浜小学校というところに通っており、
そこには制服があって、制帽をかぶることが義務づけられていたのですが、
それほど背は高くはないのに、
帽子に関してだけはみんなのよりも一回り大きなものをかぶらなくてはならなかったのです。
小学生ぐらいのときは、自分としてはあまりそのことを問題と認識してはいませんでした。
頭がデカいんだから、みんなより脳も大きくて、きっと頭もいいんだぞ、
ぐらいに思っていたように思います。

しかし、中学、高校と進むにつれてそれはコンプレックスとなっていきました。
頭がデカイから頭がいいという仮説は、経験によって否定され、
それよりもルックスとかスタイルが重要になってくるにつれて、
頭がデカイということは大問題と化していったのです。
みんなからからかわれたこともあったように思います。
大学ではダンス部に入部して、部室の大鏡に自分の踊る姿を映したりしていましたから、
いよいよこの問題は自分にとって可視化されるようになったわけです。
とはいえこの問題は如何ともしようがないので、
自分にとってはずっと躓きの石であり続けました。

ある程度年をとって、ルックスやスタイルもどうでもよくなってきた頃、
この問題をポジティブに捉える視点が自分の中に育ってきました。
ひとつは、目の錯覚による利点です。
私は身長が168㎝しかないのですが、
ひとは私のことをもっと背が高いと思ってくれている、
ということがわかってきました。
ほぼすべての人が、私を170㎝以上あると思っているようです。
それはどうやら私の顔が長いので、
その顔の長さから類推して身長はこれくらいあるだろうと、
みんなが錯覚を起こしているようなのです。
実際以上に背が高く見られるということはとても有り難いことですので、
わざわざ本当は168㎝だなんて触れ回る必要はなく、
みんなの勝手な思い込みは特に訂正せずに甘受しようと思います。

もう一つは教えるショーバイに携わる者として、
自分の頭のデカさはけっこうネタに使えるということです。
塾で教えていたときに、たまたまそんな話題になり、
生徒のひとりが 「先生、マッチ棒みたいだぁ!」 と言ったら、
それがみんなの共感を呼んで、
しばらく生徒たちから 「マッチ棒先生」 と呼んでもらえたことがありました。
卒業のときの色紙にマッチ棒の絵を描いてくれた子もいました。
子どもにとってはなんであれ印象に残るということが大事ですので、
外見の弱点も、教師にとっては大きな長所となります。

また、先ほど私は顔が長いと言いましたが、
やはり塾でその話になったときに、
たしかに前から見ると顔が長いんだけど、
横から見るとオレの頭はけっこう奥行きが深いんだぞ、と自慢したところ、
これもある生徒が 「うわー、エイリアンみたいだっ!」 と叫び、
この呼び名も一世を風靡しました。
私もエイリアンはひどいだろうと思いながらも、
こいつ、うまいこと言うなあ、と我ながら納得してしまい、
「エイリアン先生」 の呼び名も甘受することになりました。

マッチ棒にせよエイリアンにせよ、外見でインパクトがあるというのは、
芸人にとっては、じゃなくて教師にとっては有り難いことです。
子どもの頃は、なんで自分はジミー・ペイジみたいに生まれなかったんだろうと、
けっこう悩んでいたものでしたが、
大人になってくれば外見というのはたんなる誘い水にすぎなくて、
人に覚えてもらえるようなインパクトさえあれば、
プラスのものであれマイナスのものであれ関係ないと思えるようになってきます。
現に悩んでいる子にそんなことを言ってあげてもしょうがないかもしれませんが、
早くこのことに気づいて幸せになってほしいなあと思う今日この頃でした。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿