寒い。10.5度、かなり腰痛を感じる。
さて、このブログはカスタネダの検索からやってきた方が多いので、本日もそれについて、昨夜の体験談でも書こうかと思う。
古代メキシコの呪術とかあるが、一見過ぎるわけであるが、本来ナワールがいなければ体験できないような別の世界を夢見したことがある人は、もう確実な信奉者となるわけである。
昨夜は昔懐かしの音楽やらカスタネダの『夢見の技法』などに接して一度寝て、再び起きて、また寝た時に生じた。あの頭がボーッとした時がいいのか。全身がピリピリし、寝ていた吾輩は、空中をムーンサルトして着地した。そこはやはり田舎の生家であった。
やはりスタートラインはここかと思いながら、夜空をの星を見つめつつ、吾輩は寂しい道をとぼとぼ歩いた。途中、吾輩は体外離脱しているのだから自由にどこへでも行けるのではないか、と思って、移動を意図すると、一気に、光のように、大都会へ飛んだ。
面白くないので、人が多いところがいいと思ったのだろうか。商品が沢山並んでいる薬局の様なところに入り、太った人とか色々眺めたり、実験してみた。
そのうちエネルギーが衰えたのか、吾輩は現場から消えてしまった。半分意識が消えていた(眠っていた?)状態で、面白かったのでもう一度行きたいと思ったところ、全身が震え、再びムーンサルトした。
二度目は、カスタネダの言葉が過ぎり、「凝集力・均一性」なるものを意識し、夢の画面を鮮明にしようと思ったせいか、一度目よりもリアルになった。が、冴えない現場で、暗い男たちが群がっていた牢屋のような場所だった。受付の事務の女性がマスクをして、薬を調合していたのを覚えている。面白くない、逃げ出したいと思ったのか、吾輩は夢から覚めた(しばらく動けなかった)。
夢見の注意力をもっとまともなところに使うべきだったと思う。次は、夢の中で視点を保つのをもっと意識すべきか(自分の手を見るのは忘れていた)。
それにしても、非常に面白いのであるが、こんなことをして本当に大丈夫なのかと思ったりする。『夢見の技法』には「呪術師の道にあるものはすべて生か死かという問題に直結しているが、夢見の道ではこれが百倍にも大きくなっているんだ」(p136)とあるように、非有機的存在という化け物の餌食になってしまう恐れがある。
カスタネダの本がなければサメがそこらじゅうにいる海の中に裸で飛び込むようなもので(いや、そもそも夢見をしないか)、何をどうしたらよいかわからず、パニックになって自滅してしまうに違いない。いや、古代の呪術師のようにサメの腹の中で生きるか、逆にサメになるかして生きるのかもしれないが、吾輩もドン・ファンたちのように自由を求めたいものだ(現代の呪術師)。
しかしながら、本を読んで、吾輩もカスタネダ同様、非常に古代の呪術師に近いような気がして、同じような罠にはまっていくような気もする。「弟子を非有機的存在への贈り物にするのは、古代の呪術師がよくやっていたことだ」とかあり、吾輩も何となく生贄にならなければならないような強迫観念に取りつかれることもあり(昔はそんな物語を書いていた…)、もっと自由を求めることを意識しなければならない。
その現代の呪術師が求める自由は、たぶん『沈黙の力』に描写されてあり、無限なるものと、自分との輪を強くする(生き返らせる)という感じか。現在の生活環境ではなかなかそこまで気が回らないかもしれないが、とりあえず、これまで生きてきた39年間を事細かに「反復」してみようと思う。
自尊心に使うエネルギーは減ったが、まだ執着心に使うエネルギーが残っていたり。この辺か。
さて、このブログはカスタネダの検索からやってきた方が多いので、本日もそれについて、昨夜の体験談でも書こうかと思う。
古代メキシコの呪術とかあるが、一見過ぎるわけであるが、本来ナワールがいなければ体験できないような別の世界を夢見したことがある人は、もう確実な信奉者となるわけである。
昨夜は昔懐かしの音楽やらカスタネダの『夢見の技法』などに接して一度寝て、再び起きて、また寝た時に生じた。あの頭がボーッとした時がいいのか。全身がピリピリし、寝ていた吾輩は、空中をムーンサルトして着地した。そこはやはり田舎の生家であった。
やはりスタートラインはここかと思いながら、夜空をの星を見つめつつ、吾輩は寂しい道をとぼとぼ歩いた。途中、吾輩は体外離脱しているのだから自由にどこへでも行けるのではないか、と思って、移動を意図すると、一気に、光のように、大都会へ飛んだ。
面白くないので、人が多いところがいいと思ったのだろうか。商品が沢山並んでいる薬局の様なところに入り、太った人とか色々眺めたり、実験してみた。
そのうちエネルギーが衰えたのか、吾輩は現場から消えてしまった。半分意識が消えていた(眠っていた?)状態で、面白かったのでもう一度行きたいと思ったところ、全身が震え、再びムーンサルトした。
二度目は、カスタネダの言葉が過ぎり、「凝集力・均一性」なるものを意識し、夢の画面を鮮明にしようと思ったせいか、一度目よりもリアルになった。が、冴えない現場で、暗い男たちが群がっていた牢屋のような場所だった。受付の事務の女性がマスクをして、薬を調合していたのを覚えている。面白くない、逃げ出したいと思ったのか、吾輩は夢から覚めた(しばらく動けなかった)。
夢見の注意力をもっとまともなところに使うべきだったと思う。次は、夢の中で視点を保つのをもっと意識すべきか(自分の手を見るのは忘れていた)。
それにしても、非常に面白いのであるが、こんなことをして本当に大丈夫なのかと思ったりする。『夢見の技法』には「呪術師の道にあるものはすべて生か死かという問題に直結しているが、夢見の道ではこれが百倍にも大きくなっているんだ」(p136)とあるように、非有機的存在という化け物の餌食になってしまう恐れがある。
カスタネダの本がなければサメがそこらじゅうにいる海の中に裸で飛び込むようなもので(いや、そもそも夢見をしないか)、何をどうしたらよいかわからず、パニックになって自滅してしまうに違いない。いや、古代の呪術師のようにサメの腹の中で生きるか、逆にサメになるかして生きるのかもしれないが、吾輩もドン・ファンたちのように自由を求めたいものだ(現代の呪術師)。
しかしながら、本を読んで、吾輩もカスタネダ同様、非常に古代の呪術師に近いような気がして、同じような罠にはまっていくような気もする。「弟子を非有機的存在への贈り物にするのは、古代の呪術師がよくやっていたことだ」とかあり、吾輩も何となく生贄にならなければならないような強迫観念に取りつかれることもあり(昔はそんな物語を書いていた…)、もっと自由を求めることを意識しなければならない。
その現代の呪術師が求める自由は、たぶん『沈黙の力』に描写されてあり、無限なるものと、自分との輪を強くする(生き返らせる)という感じか。現在の生活環境ではなかなかそこまで気が回らないかもしれないが、とりあえず、これまで生きてきた39年間を事細かに「反復」してみようと思う。
自尊心に使うエネルギーは減ったが、まだ執着心に使うエネルギーが残っていたり。この辺か。
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