インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

個人的な力

2014-07-23 21:56:35 | 考えるインディオ
  雅太は最近よく考えることがある。それも20代では全く思いもよらなかった考えである。子供の頃は、世の中は序列があり、社長やら先生といった上役の方が望ましいように思われたのであるが、実際はその逆なのではないかということである。

 世の中には雅太の想像を絶するような境遇で生きているような人々がいる。例えば飯場の、タコ部屋労働で働くような人々であり、ミキサー車などない時代で、北海道を開拓し、道路やらトンネルを設えたのは、彼らな訳である。むろん、今の社会でも、喘いでいる人々は無数にいるのであるが、タコ労働者に比べれば、大したことではない。

 そんな凄まじい境遇では、圧倒するような凄い人間が多々いたことであろう。一見して、こいつはただ者ではない、口先だけではなく何かやりそうだ、という感じで、大企業のエリートやら先生の類いとは、説得力、パワーが違うわけである。

 過酷な世界を体験し、生き延びてきた年配者は、やっぱし言葉の重みが違う。「修練とは、やりたくないことをやり、読みたくもないものを読まされることだ」というわけで、小暴君に屈することなく、意識を磨くということになるのだろうか。

 雅太はカスタネダの『未知の次元』を読み返すたびに、実生活で、個人的な力をつけるためには、自分自身がもっと抑圧される環境にあるべきなのではないかと思ったりするのである。むろん、今の仕事でも雅太は体のあちこちが痛く、必ずしもやりたいことをやっているわけではないのだが、シベリア抑留者やらタコ労働者に比べれば、まだまだ温い環境にあるに違いない。もっとも、雅太には、生きて帰れるかどうか分からないような身を委ねる根性がないのかもしれぬ。

 もっとも、どこにいても同じなのかもしれぬ。意識を磨くのは自分次第、ひねくれたり、マイナスに染まるのも、抑圧してくる相手を祈るのも、自分次第である。日常生活とは、意識の闘いなのであろう。

 個人的な力がついたかどうかは、何をおびき寄せたか、前兆、結果、目の前の出来事が、それを示しているのだろうか。

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