インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

今宵も酒を飲む。

2011-08-24 21:40:11 | 身の回り
  いつでも帰られる実家があるのだが、田舎過ぎて役に立たないので、アパートで生活している。東京やら大阪ほど大都会ではないが、何となく都会生活をしているような「気」がする。実家が都会であれば、パラサイトになっていたかもしれない。カネは貯まる反面、いろいろ束縛されたり、自立が妨げられるであろう。現に、我が輩の職場でもいるのだが、表面上はフットワークが軽くて、社会人なのであるが、やはり子供っぽさが抜けていない。親が死ぬことを全然想定していない。もう、40も近づき始めると、「親は死んでいるもの」として行動するのが一番いいのかもしれない(無茶苦茶か?)。

 たまに?帰省したら御馳走してもらうけれども(トマトやらコメなども頂くが)、小遣はもらわず、世話もかけない。狭いアパートばかりでゴロゴロしていたら、人間が小さくなりそうなので、羽を伸ばす場所と割り切る。懐かしいものが散乱しているし、「反復」という記憶の掃除をするのにもってこいか。

 「既知」の存在というのは、「未知」を知るための手掛かりであり、未知に向かう自分の意識を構造を確認するために、欠かせないのかもしれない。本やらCD,写真やら、記念の品物などを手に取るたびに、その時の鮮明な意識がよみがえる。果たして今につながる何かがあるのか?

 カスタネダな世界によれば(かなり自分で勝手に解釈している)、あらゆる存在は物質であるが、実は物質ではなく、「イーグルの放射物」にすぎない。ある本やらCDを手にとっても、馴染み深い人間にとっては、とてつもなく膨大な意識を呼び起こすわけだが、何も知らない人間にとっては、「ただの物質」である。人間の身体でさえそうで、他人の身体はただの物質であるが、自分の肉体はそうではない。まさに意識の賜物であり、イーグルの放射物である。

 この得体の知れないブログとて、何度も何度もアクセスしていると、イーグルの放射物として、馴染み深い意識として、知覚されるのかもしれない。

 その意味では、今、我々の世界は分断されているわけで、意識として呼び込むか、物質として突き放すか、それはまさに、自由なる各人の勝手である。我が輩は今、自分さえ、物質として突き放しそうな、無感動な状態に陥っているが、何か悲しい気分にさせられる。

 酒をちびちび飲みだした(日曜日以来!)

 こう考えてみると、アパートでひとり酒を飲んでいる人間が相当数いるのではないか…(我が輩のような飲み方は異常かも知れぬが)

 無縁社会が取り上げられているわけで、社会構造からして、それもまた仕方ないのかもしれぬ。はっきりいって、日本には希望も何もないのである。

 がんばろう! ワーキングプア…って感じか。

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