インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

マヤ文字について

2011-05-17 06:06:25 | 思想・宗教
  一昨日の深夜の続きだろうが、閲覧数:1,488PV と多かった(オールナイトでクリックされまくったようだ)

  これをどう解釈するべきか、悩むところだが、爆発的にヒットする何かの前兆なのかもしれぬ。2012年も近いし。

  そういえば、かつて、「Q.マヤ文明の世界観を教えてください」のような記事を書いたようだが(ぼんやりとしか覚えていない)、我々現代人と肉体的な認識が全然違うような存在であるとは思っていた。今でも全然謎であるが、古代メキシコの呪術師の末裔、カスタネダの本を読んで、ぼんやりながら少し謎が解けてくる。

 マヤ文字事典をぱらぱら捲って、これはちょっと普通の言葉ではないような気がする。

  『沈黙の力』にこうある(p72。マニアの世界で恐縮である)。

  (呪術師の)仕事は私たちと精霊とをつなぐ環をきれいにすることだという。そのとき「意志」が私たちの前に提示する建築物は、いわば一つの情報センターとなる。その中で私たちは、自分の環をきれいにするための手続きよりもむしろ、その手続きを生じさせる沈黙の知そのものを見つけることになる。この沈黙の知なしではどんな手続きも作用しないし、そうなれば私たちに残されるのはただ、何かが足りないという漠然とした感覚だけになってしまうだろう。

 (ドン・ファン)の説明によると、沈黙の知がもたらす結果として呪術師の手で解放された一連の出来事は、実に単純だがあまりに抽象的であるので、呪術師たちは遠い昔に、そうした出来事については抽象的な言葉でしか触れないようにしようと決定した。精霊の顕示やノックという言葉がその実例だ。

  たとえば、ナワールと未来の弟子とが初めて出会った時に起こることを、呪術師の側の視点から記してみても、それは全く理解できないものだろう、とドン・ファンは言った…


  ということは、マヤ文字とは「精霊のサインとかが書かれてある」ということになるのか。絵文字にもちゃんとしたルールがあるのだろうが、 あれが長々と綴られた場合、「理解できるものにしか理解できない」ような領域であるような気がする。

  ストレートに「死んだ」ではなく、「シバルバへ旅立った」という感じであるからして、死というものの認識が我々現代人のものとは違うような気がする。他にも、「死んだ」=「白い花が枯れた」とか表現され、魂とは生命という世界樹の花にたとえられている。ということになると、花が散る=死の前兆、ってことになって、何か我々日本人の感性と似ているような気もするのだが…(いや、人種に関係ないか)。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿