ゴロゴロしながら映画を見ていたのだが、現実のシーンとファンタジーのシーンが入り混じった不思議な映画だった。
ブルーム一家の一人息子、ウィルは、父親エドワードの現実にあったようなおとぎ話を耳にタコができるほど聞かされてきたのだが、さすがに20,30になると「作り話」であることに気がつき始める。
親父エドワードの話を聞くのが嫌になり、会話もしない仲になっていたのであるが、親父が危篤状態に入り、ウィルとの和解が始まる。
調べてみると、ビッグ・フィッシュとは、「誰も信じないホラ話」という意味があるようだ。
人生において回想というのは、美化されたり、尾ヒレがついたりするものだが、エドワードの場合は、ファンタジー小説になっていたというわけだ(冒険もの)。
とりわけ、エドワード夫人との出会いが、そこだけで独立したようなファンタジー映画となっており、巨人が出てきたり、理想の町が出てきたりしていた。
青年エドワードは、小さな金魚鉢では小さな魚しか育たないとかで、スポーツやら事業に打ち込み、活発に活動したものの、地元の英雄として巨人と旅に出たりする。そこで困難な森を抜けたところで詩人や靴を奪った町長の娘と出会ったりした。サーカスを見ていると、そこで婦人に一目惚れし、時間が止まった。サーカス団長から、「一ヶ月働くごとに彼女のことを一つ教えよう」と奴隷なって働き、水仙が好きだとか、少しづつ彼女のことを知る(ケチで腹黒い団長!)。そしてついに彼女の本名を教えてもらった。が、大学生だった彼女には既に婚約者がいた。
この辺から『ビッグ・フィッシュ』の美しい映像に魅了される。彼女が朝起きて、窓を開けたら、黄色い水仙で景色が埋め尽くされていた。そして水仙畑で、婚約者から彼女をつい手に入れたのだった。
が、エドワードは出征する運命に遭う。彼女はエドワードが戦死したと思っていたのだが、洗濯物の間からふっと現れた時に…(観客は涙が出ます)
現実主義のウィルは「作り話は山ほどあるけれど、話してないことも多い」と親父の書斎にある資料を色々調べてみる。すると、単なるファンタジーな話ではなく、現実が入り混じっていることに気づかされるのである(エドワードが冒険中の18歳の時、8歳だった町長の娘は実際にいて、大人になってからは明け渡しのサインをしていた…)。
ラストシーンでは、エドワードは鼻にチューブを入れられ病室で死んでいくのだが、息子ウィルはエドワードの死をファンタジーのようにして聞かせ、彼の人生に幕を閉じようとする。
現代人は人生を重苦しいリアルなものにはめようとするけれども、終わってみれば、人生は不思議な夢のようなものに違いない。