インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

このブログもターニングポイントに入っているのだろう。

2012-10-11 06:43:49 | 考えるインディオ
  反復作業がなかなか進まない。「想起」といっても、今年初頭に大まかにやっていたのであるが、本格的に詳細に進めているのは最近になってからである。

 まだ「2012年2月16日ブログを大改造する!」ような地点にまでしか、ゴホゴホモグラは掘り進んでいない。

 そういえば、HTMLの高い本を買って、画像やらサイドバーをいじっていたなぁ、と懐かしんだりするのである(現在あるのはは自力で作ったのではない)。

 インターネットに過度に期待していた傾向が、あったのかもしれない。

 このブログの目的は、「創作者の表現の場」ということなのであろうが、物語のようにきちんとした連続性がないため、「備忘録」なのかもしれぬ。

 そして、何か創作の作品が出現した時には、下地というか、母体になるのだろう。

 現にある「作品?」は序章にしかすぎず、第一章は出来上がっているのであるが、まとめ上がらないのが現状ということか。

 第一章は「混沌」ということなのだわい(どこでどう出られなくなったのか)

 そこでモグラのように過去にさかのぼっているのですね(第二章は「反復」だったり)

 

反復しています。

2012-10-05 07:45:29 | 考えるインディオ
 思い出しの掘り下げの作業がなかなか進まない。39年間生きてきたのに、まだ今年の3月下旬までで叙述は止まっている。

 モグラのように掘り下げてきたのであるが、かたい岩盤にぶち当たって、それを削るのに苦労しているようだ。

 「一体何でこんな発想になったのか?」

 たとえば、▽△○▼▲□○とか。小説のアイデアとか。

 「おお、おお、そういうことを考えていた時もあったな!」と、思考回路をつなげるのに時間がかかるのである。

 呪術の世界では「型にはめて考えるのから解き放たれなければならない」わけであるが、

 やり方がわからず、イメージがつかめないので、徹底的に?型にはめているという矛盾が生じている。

 当時には見えなかったものが、時間がたった今、見えているから、それが面白いのかもしれない。

 ただ不可解なことはいまだに多く、壊れない岩盤も多いのかも。

 反復の作業をして、人生の課題が浮き彫りになってくるのであった。

なかなか進まぬ「反復」の作業

2012-10-02 06:52:34 | 考えるインディオ
  寒くて毛布にくるまって寝ていた(21.6℃)。癒されるような夢に泣いていたが、朝食を食べながら今ブログを書いている所だ。

 窓を開けると、青空が広がり、小鳥が飛んでいた。電車が走っていた。線路沿いなので、たまに(大都会に比べれば)みかける。

 福岡市や大阪市に住んでいた頃をたまに思い出すが、思い出しの作業は、まだ今年の4月ぐらいで、まだまだ先は長い。

 それにしても、今年は色々あった。春に行った三泊四日の泥温泉の旅が、かすんで見えるくらいだ(もっとも大したことはなかったか)。昔やったことがある三泊四日の車中泊の旅の方が、鮮明に記憶に残っている。

 安楽に?生きるより、苦闘した方が思い出しやすいことか。

 裏を返せば、思い出しに苦労するような人生を歩んではいけないということだわい(日々、流されています)

グダグダ考えるより、寝る。

2012-09-11 06:41:19 | 考えるインディオ
  色んなことを試しているが、もっともシンプルに「寝る」というのが、一番効果があったりする。

 こうやってグダグダと屁理屈というか文章を並べているのであるが、それで「頭が整理された」と思うのは非常に浅はかである。

 人間には膨大な量の無意識があり、意識など氷山の一角に過ぎない。だから本を読んだり、文章を書いたりして、自分の意識に衝撃を与えても、膨大な隠れた部分は変化し操作されるものでもないだろうし、多分何年もの長い時間がかかるのだろう。

 それより寝ることだ。さっきも寝ている間に、奇怪な夢を見た。英語の文章が出てきたり、何かの役のおじさんが出てきたり(多分その英語の行動)、酒を飲んで自分と格闘技をやっていた感じであった。何か未来に関する余地めいた内容も混ぜっているのかもしれないが、思い出せないのであるからどうでもいいことである。

 ただ、こうやって延々と夢を見ることで、頭の中がすっきりとする。意識の世界でなく、無意識の世界をまとめようとしているのかもしれない。

 目覚めれば意識的な世界が延々と展開している。だが、それは理性によって行動を抑制されたような世界であるから(?)、本当の自分は眠ったままである。

 大海原を、氷山が同じ向きで、毎日毎日漂っているのだ。大海原が荒れて大波に飲み込まれた時、氷山はひっくり返る。違う自分が出てくる。

 眠っている時もそうなのだろう。

タイトルなどつけようがない。

2012-08-13 08:31:38 | 考えるインディオ
  ありとあらゆる検索で、人々はこのブログにたどり着く。そして、「おやっ」と二、三記事を閲覧し、「よう分からん」と逃げていくのが実情であろう。

 まず書き手の素性がよう分からん。多くの書物を読み漁り、勉強家であるような感じはばら撒いているが、このブログに書いている事柄を生業としているわけではない(単なる趣味)。

 本当は山奥で呪術の(精神世界の)本でも読みながら(実践しながら)、市場(都会)から離れ、ひっそりと暮らしていたいと思っているのだが、どっぷりと現代社会に浸かっている。

 パソコンを叩き、ケータイを持ち歩き、クルマを運転する。どれも不可欠なのであるが、本当は大きな「足かせ」になっているに違いない。賢ければ、自分のを利用せず、他人のを拝借するという手もある(迷惑するかもしれんが)。

 他人の力を借りるというのはポイントで、山奥で呪術的な生活をするにしても、同じ志を持つ人と共同生活をするのが最適なのかもしれない(ナワール集団というのがカスタネダの本にある)。禅寺か何かを髣髴するが、人間味が薄いような気がする。

 昨夜、今では全然食べなくなったポテトチップスをバリバリ食べまくっている夢を見たが、現代の都会生活というのは根本的にジャンクフードを食べている感じなのかもしれない。非常に美味しいように加工されているけれども、栄養やら後味に問題があるのかも。

 ただ自分で材料をとってきて加工して食べるのは、えらい効率が悪く、「誰かが作り出したものをカネで買う」というシステムが、一番理にかなっているのだろう(異論もあるが)。

 100万本のひまわりを見る体験も、独力では不可能です(また横道に逸れたまま終わってしまったわい)

  

オリンピックがあるらしい

2012-07-19 07:44:12 | 考えるインディオ
  ロンドン・オリンピックまであと8日であることに、今、気づいた(ネットで)。今年、オリンピックがあるということは、ぼんやりと知っていたが、日程までは知らなかった。

 あまりテレビも見ないので、どうでもいいのかもしれない。もう40に近づくと、「誰が金メダルを獲ろうが、日本のメダル数が増えようが、それでどうなるのだ?」という冷めた発想になっているのかもしれない。

 サッカーとかは少しは関心があるが、まあ、観れなかったらそれで、別に問題はない。昔、なでしこジャパンの世界一には感動を与えられたので、男子日本が優勝すれば感動はするだろう。

 そのサッカーですら、福岡にいた10年ぐらい前、夜中に銭湯に行ったとき、誰もいないので、おかしいな、と思っていたら、ワールドカップで日本がどっかの国と対戦している最中だったというのを、後で知ったくらいである。

 無関心というのは、恐ろしい。いや、マスコミが騒ぐ情報に一緒になって騒いでいる方が恐ろしいのかも。

 情報やら出来事というのは無数にあるわけで、どこにポイントを合わせるかで、意識のありようが決まる。

 オリンピック選手が頑張るのを応援する前に、自分自身が頑張らなくてはいけないのが、本当のところか。

人間の性格は変わらない

2012-07-05 07:04:52 | 考えるインディオ
  ズボラな性格というのは、なかなか治らない。「正しい言葉を使うこと」とあるが、潜在意識に蓄積があるためか、喋るとき、ついうっかり、ゴシップなどの悪い言葉を口にしてしまう。特にそういうことを交わすのを馴れ合いとしている相手を見たら、口が止まらない。こうなればもはや、沈黙するしかないだろう(相手は無視するのか)。

 ズボラといえば、電気や水道代を払うのもそうで、家賃とガス代は給料口座から振り落とされるが、あの二件はコンビニ払いを続けているので、面倒だがそうしている。が、「送電のお断り、断水のお断り」の通知が来るまで、放置している感じである。

 そういば、昔福岡に住んでいたころ、夜仕事から帰ってスイッチを押しても電気がつかず、近所のスーパーまでロウソクを買いに行ったことがあった。最後通告が来ていたのだが、忘れていて、真っ暗闇の中で、「本当にやるとは…」と愕然とした思いが忘れられない。

 電気がないと生活できないのであるが、そんなことど電力会社にとっては知ったことではないのである。もっとも、二か月分払わなかった人間が悪いのであるが。電気も水道も口座引き落としが賢明だろう。

 あまり良い傾向とは言えず、追い込まれなければ力が発揮されないタイプというのは、神様から追い込まされるのかもしれない。

 そうなる前に、自分で気づいて、修正するしかないのだわい(何も考えず、強制的にやるまでです)

一人称小説では…

2012-06-27 07:39:50 | 考えるインディオ
  小説を書いている夢を見た。身近な人間が犯罪者なミステリードラマで、何かどこかで読んだことがあるようなストーリーだった。

 そこで問題なのは、誰を視点に据えた方がいいかという問題で、ちょっとしか犯罪や捜査に絡んでいないが、重要な場面で活躍した男にスポットを当ててみた。

  何か「チェックペンの黄色の筆が店でやっと手に入って…」という感じで、何でそんなものがキーポイントになるのかしらんが、犯罪関係者には喜ばれているのであった。

 さて、視点なのであるが、三人称で書くより一人称がいいのではないかということになり、「○○は○○と連絡をとった」から「俺はあいつと連絡をとった」という風に変えていたのだが、何か自分の悪い書き方が全部出てきていた。

 一人称小説は全部自分であるからして、自分の価値観やら趣味趣向が全部出てくるのである。

 だから100円にこだわる貧乏くさい作者が一人称で書いて、自分に合わせようととしたならば、

「俺は金がもったいないので、リンゴジュースを飲むのをやめた」という記述がボロボロ出てきて、

「何てケチで貧乏くさい主人公なのだ! こんな奴に感情移入できるか」ということになろう。

 如何に、共感を持たれる(とは限らないが個性的な)人物を演技できるかという、役者な書き方が求められているのである。

 今更そんなことは当然なのであるが…、


  吾輩の描く主人公は、もっと志が高くあるべきなのだわい(書き手の人格が疑われています)

文章について

2012-06-19 07:31:14 | 考えるインディオ
  そういえば、今年のはじめ、物凄く歯が痛くて苦しみ、「苦しみを忘れさせてくれるような文章を!」と決意したはずなのだが…、

 いつの間にかそんな感じではなくなったわい(かなり真面目です)

 最近、物語を書いているのだが(今回こそ性根を入れて)、堅苦しい文章というのは、読解ストレスを感じ、万人に読まれないような気もする。ウンチクが多すぎたり、情景描写が長すぎたり、会話が執拗だったりすれば、我慢して読まなければならなくなってしまう。

 ストーリーをぐいぐい引っ張り、「いつの間にか読まされてしまった」(最初の三ページしか読むつもりがなかったのに)、というような文章力?が必要なのである。

 内容が面白ければ物語は確かに面白いのだが、文章が個性的?で面白ければ、もっと面白くなるわけで、

 このブログもそうであるが、初心に帰った方がいいのかもしれんわい(内容はともかく、文章は昔の方が面白かったかも)

 本来の自分に戻るのですね(力を抜いて、自然体で書いてください)

恋愛について

2012-06-06 05:45:29 | 考えるインディオ
  このブログでは突飛なことになるが、恋愛について。

 このブログを長いこと閲覧している方はお分かりだろうが、チューリップやらフジやらポピーやら花だらけの画像があり、「彼女でも出来たのかしら」と思われただろうが、そういう感じであった。

  ヒッピーマーケットの情報を提供してくれたりしたのも、全部彼女だ。

  一生独身で生きるものだと思っていたので、最初出会った時は戸惑いを感じていたし、彼女の実家に送り迎えしながら、こんなでは親は結婚をよく思わないかな、とか想像したりしていた。三ヶ月、週一日ぐらいで会っていたが、粗雑で無神経にも思える?我輩と付き合ううちに、少しずつほころびが見え始めてきた。

 先週、彼女に会わずに実家に帰ってしまったのが、決定的だったかもしれない。「私と会うのより、田舎の実家に帰ったほうがいいのでしょ」と言われ、吾輩の中では比較のしようがないのであるが、先日のブログ記事(森林浴を満喫していた!)を読まれたのが、かなり問題だったのだろう。

 まったくインターネットとは恐ろしいものであり、この記事も誰が読んでいるか分からず、もっと配慮したほうがいいのかもしれない(もう手遅れか?)。

 「生活スタイル、趣味趣向が違う」という理由で、何年も付き合って分かれたら、傷口が深くて苦しむだろうが、早めならすぐに修復するということかな。経験のない吾輩は胸がチクチク痛み、「憐れみのない目」という妙に鎮静したおかしな状態になったりする。


 向こうは、吾輩ともっと合っている相手がいるはずだ、とかいう。今は、「付き合っている」から、「様子見」になっている感じか。

 色々な思い出をありがとうと言いたい。



 斎藤一人『変な人が書いた成功法則』より


 男と女というものは面白いものです。
 夫婦というのは、世の中で一番相性の悪い者同士がくっつくのです。
 それはなぜか。
 「恋」という字は、変わる心と書きます。普段は絶対にホレ合うことはないのです。でも、会うと心が変わって、頭では理解できないけれど結婚してしまうのです。
 それで、しばらくしたらシラフに戻ります。そして、そのとき相手が自分の嫌なことばかりすることが気がつくのです。
 たとえば、もし、あなたが家の中でゴロゴロされるのが嫌いだとすると、相手は絶対にゴロゴロするのです。
 働かない人間が嫌いな人には、働かない人がつく。口うるさい人が嫌いな人には口うるさい人がつく。
 とにかく、相手が困るようなことを絶対にするのです。
 まれに、相性のいい夫婦がいますが、そういう人たちはどうなるかというと、相手が先に早く死んでしまうのです。これはお互いが困ることです。
 夫婦は、世の中で一番相性の悪いものがくっつきます。でも、これは困ったことではないのです。それが魂の修行なのです。
 たとえ、相手がどんなに嫌なことをしても、相手を変えようとしないこと、相手に期待しないことです。相手に期待することは一番苦しいことなのです。
 あなたが嫌だと思うことをしている、あなたの妻、夫は、あなたの魂の修行のために現れた人間なのです。

考え直さなければならない生活スタイル

2012-06-04 05:28:37 | 考えるインディオ
  週末は二日間、田舎に戻り、エネルギーを充電した。温泉へ行ったり、森林浴をしたりする。

 椅子を持ち、背後で山水が流れているアナグラへ入っていく(砂浜で寝転ぶタイプに変えた)



 いつ見ても心が安らぐ光景である(これがこのブログのシンボルだ)



 それにしても、ノートパソコンも持ち帰らず、ケータイ電話もほとんど使わねば、かなり楽ちんである。デジカメはあるが、これくらいしか撮っていなくて、テレビもほとんど見ていない。

 呪術のポイントは、そういうものに注意力、エネルギーを奪われずに、エネルギーを蓄えることであるから、

 本気で呪術を実践するなら、根本的に考え直さなければなるまい(iphoneが欲しいと思っていたが、そんなものはもってのほかか)。

 利用できるものは利用すればいいのだが、周囲の擬似情報によって意識が操作されている。捕食者に食べられているのである。


 そういえば、三週間分の新聞(ローカルな中国新聞)をめくったのであるが(お気に入りは切り取る)、この前の「ヒッピーマーケット」に関する情報は全くなかった。第4回アートまつりin向原とかはあるのに、何で堂々公園ヒッピーマーケットはないのだ!

 まあ、役所が先導した事業やら子供や学生が頑張るボランティアなどが、「公共の紙」では閲覧されるように配慮され、どうやって食べているのか知れぬ得体のわからない連中の集いなど、反社会的であると封印されているのか。

 情報というのは、新聞社やテレビ局に都合のいいように報道されているわけで、

 このブログとてそうかもしれんわい(あんまり社会というのもを意識していません)

風俗営業法の適用によるクラブの摘発について。

2012-05-30 05:37:01 | 考えるインディオ
 毎朝、アクセス解析を見て(このブログの編集画面が標準設定)、アルファポリスのポイントを眺めた後に(未だに押してくれていて有難い)、天気予報やら朝日新聞のサイトとかを巡回するわけであるが、面白い記事を発見した。


朝まで踊れるクラブ取り戻せ 規制撤廃求め全国署名活動(朝日新聞デジタル)

  風俗営業法の適用によるクラブの摘発が各地で相次ぐ中、利用者やアーティスト、経営者らが29日、深夜にダンスをさせても風営法の適用対象にならないよう求める全国署名運動を京都市で始めた。「クラブは若者の表現の場。楽しみを奪わないで」。都市部を中心にクラブカルチャーが衰退している現状を訴えた…
 
 …とある。 クラブじゃ踊れない? 風営法違反、店の摘発相次ぐ(朝日新聞デジタル)にも掲載されている。


 このブログも当初は「インディアンな踊り」がテーマ?であり、実際に自作小説でもそれが展開され、本人自体の身も心も踊っていた(踊りの神に憑かれて狂っていました)

 次第にカルロス・カスタネダの古代メキシコの呪術師の世界へと、シフトしているのであるが、やはり過去のを引きずっているわけである(果たして芸術的な要素はあったのか)

 
 踊りには、「音楽」が必要であり、「衣装」「踊り方」「デザイン」「設備装置」「妄想?」など趣向を凝らすことになるだろう。しかも踊る時間帯とかは、深夜の方が非日常的で、夢の心地にいるような雰囲気が出るのである。 4年前に書いた記事ダンスホールと宗教

新聞記事でも、
 坂本龍一さんは「クラブはサブカルチャーのハブ(中継点)。音楽、ダンス、アート、文学、ITなど多くの分野がつながっている。クラブ文化を取り締まるのは時代錯誤。日本文化破壊といっても過言ではない」と批判する…
とある。


 ただ、踊り場は酒場でもあるから、問題も多い。酒場には「ヤ」がやってくるし、麻薬の売人とかも客を求めて足を運ぶだろう。

 理性の支配していない集団狂気の現場が、オールナイトで続くというのは不気味ではある。まっとうな仕事をしていたら、普通疲れるから早めに切り上げるし(そもそも行かないか?)、当局も、麻薬の売人がネズミ算的に増えるのを危惧するのか(?)

 そういえば、この前のヒッピーマーケットでも踊っていたようであるが(日曜日は知らない!)、踊る場所やら、人間の種類によっても、状況は違うのかもしれない(大自然で、ヒッピーであれば…)。

 太陽の下で踊るクラブができれば面白いのかもしれんわい(大都会では場所がありませんか)。

 公園がありますよ、公園が(え? 警察が来る?)

考えるより、覚悟する

2012-05-28 07:05:58 | 考えるインディオ
 ピースフルヒッピーマーケットで衝撃を受け(やけに閲覧が多かったぞ)、吾輩もアトリエでも作って、のんきに暮らしたいと思った。

もし人生があと一週間しかないと知ったら、雇われ人の身分を捨て、自分が主体となって自由に過ごすに違いない。

 一週間が一ヶ月となっても同じかもしれないが、五年とか十年とかになれば、まだまだ死なないことを前提に生きるようになるのかもしれない。

 吾輩が呪術師だと認定している斎藤一人という実業家は語る(エネルギー体=守護霊とか、カスタネダと通じる部分が多い)。


 斎藤一人のツキを呼ぶ言葉(知的生きかた文庫)三笠書房より


 「鳥とかネズミとか、みんな生きているのが大変なんだよ。それなのに、人間だけが生きていくことに文句を言うんだよね。大変なのが当たり前なの。覚悟が足りないんだよ。生きていくのは大変なんだと思っておけば、全然問題なんかない」

 人間は動物と同様に、毎日、様々なことをやって生きています。

 でもそれをするのに文句を言うのは人間だけです。

 動物は黙々と必要なことだけを行うのに、なぜ人間だけが文句を言うのでしょうか。

 (斎藤)一人さんはその原因が、生きることに対する覚悟の不足にあると言っているわけです。

 また、一人さんは、

 「動物は淡々と生きるけれど、人間は頭がいいので余計なことを考えてしまう。それで覚悟が足りなくなるんだ」

 と言っています。

 

 …この「余計なことを考える」原因というのが、実は宇宙にあり、それはまるでパンにコーティングされたチョコレートのようになっていて、

 「捕食者」たちが美味しい美味しいと食べている、とカルロス・カスタネダは死ぬ寸前に書いた『無限の本質』にあるわけである。

  人間が余計なことを考えれば考えるほど、捕食者たちに好都合なのであって、

  放浪な生活をするヒッピーたちはあまり美味しくないのだわい(明日は、このネタでいきましょう)

 

夜間高速バス事故について

2012-05-01 06:34:48 | 考えるインディオ
 世間ではゴールンウイークの状態であるが、吾輩はいつもと変わらぬ生活を淡々と送っている。今、どこも混雑しているし(人と逆の行動が好きだ)、この間の別府温泉のように、平日に旅でもしたい。

 …と考えたところで、高速バスの事故が頭をよぎる。大勢の死傷者を出した痛ましい事故が、高速バスの問題を浮き彫りにさせた。

 朝日新聞のホームページによると、「金沢と東京ディズニーリゾートを結ぶツアーは、曜日によって値段が変わるものの、片道3千円からと格安だ。事故にあったバスが出発した28日夜発の便は3500円で、鉄路でJRを利用すると1万円を超す区間。この区間でJRバスが運行している路線バスも最低で5千円する…」とある。

 吾輩の場合、福岡市にいた頃、福岡~広島の移動とかで、高速バスを利用していた。新幹線代が浮くからである(ケチな発想)。一度だけ、福岡~名古屋の高速バスを利用した時(夜行便。「どんたく号」だったか)、流石にどこかでバスは停車し眠っていた。運転手は2名いただろうが、やはり仮眠が必要なのだろう。

 運転手1人で仮眠もなく長距離を走らせるというのは残酷である。吾輩も夜とか実家に戻っている時(サウナ温泉とかに入った後とか)、もの凄く眠くてぶつかりそうになった経験がある。本当にヤバイ時は、コンビニやら広い場所で停車して、一息つく。冬なら、窓を開けて、恐ろしく冷たい風を浴びる。

 高速バスでは、勝手に停車できない。コーヒーとか刺激物(ブラックガム)では限界がある。今回の事故で、大勢の運転手が睡魔の地獄と闘っていることに光が当てられた。人間は何時間も拷問に耐えられるものではない。

 高速バスの利用は安上がりであるが、リスクとか問題も多いのだ。

 3週間前、広島~別府を5時間(中フェリー2時間)乗っていたが、到着日は体力の消耗と時間のなさで、初日の別府での楽しみは半減した。

 逆に、大分~大阪を飛行機で行ったことがあるが、あっという間だったし、大阪では思い通りに行動できた。値段はかなり高かったが、それは失わずに済んだ時間、エネルギーの代金ということになるのか。

 問題の根っこは、資本主義な世界で繰り広げられる価格競争であり、とにかく安くて良いものを手に入れたい消費者の欲望にあるのか(…ただ売り手に踊らされているだけか)。

 かくして次の旅行は、飛行機の格安チケットの購入を考えるのであった(広島空港には沖縄便がありました)。

 

生まれた場所 ②

2012-04-25 06:39:55 | 考えるインディオ
  昨日、深い縁で、「親や友人」に囲まれている云々綴ったが、「生まれ育った場所」というのにも、とてつもなくヘビーな縁があるに違いない。

 そういえば、2年近く前、「生まれた場所」についてあーだこーだ考えていた(森林浴をしながら)。

 当ブログでは、ネイティブ・アメリカンな心、大自然に囲まれた生活を重んじているわけで、できれば近い将来、そのような生活を送りたいと思っている(ただ実家に帰ればいいだけだったり)。

 田舎の独自な文化に惹かれる。とりわけ、南の島の。 

 ちょくちょく紹介しているが、かつて吾輩は奄美大島に長期滞在したことがあり、実際にこの目で見てみた。

 完全に資本主義社会に飲み込まれていたものの(道路、自動車、コンビニ、スーパー…)、

 僻地の美しい海岸とか、密林な金作原とかを歩いていると、独自な文化を生み出したエネルギーの面影が残っているのである。沖縄とかも全くそうか。

 瀬戸内海の島とかもなかなかの味わいがあるのだが、海岸の綺麗さ(貝殻とかも全然違う)、アダンやガジュマルなど亜熱帯植物がそこらじゅうに広がっている光景は、強烈である。

 だから、進学やら経済的な問題で、東京や大阪などで生活している方々の故郷への思いも、格段に強いに違いない。


 平田大一氏(南島詩人)のシマとの対話(2011で止まっているのか)を読むに、共感する部分が多い。

 シマウタ37.6「琉球からのキセキな話題」

 奄美大島移住日記~南の島にIターン  

 調べれば調べるほど、沖縄の空気が羨ましく思われるのだわい(そのうち、応援ブログのコーナを設けましょう。参加者募集!)