またまた良い映画を見せてもらった思いである。「みんなの学校」とは、大阪市住吉区にある市立大空小学校という実在の学校の一年間を追ったドキュメンタリー映画である。“不登校ゼロ”を目指す大空小学校の校長を始めとした教職員、父母、地域の人々、そして何より子どもたちの姿が感動的だった。
1月15日(日)、札幌市手をつなぐ育成会が主催する映画会「みんなの学校」上映会とその映画に登場する大阪市大空小学校の初代校長の木村泰子氏の講演会が札幌市民ホールで開催され参加した。
大阪市住吉区にある市立大空小学校が目指すのは、“不登校ゼロ”。
ここでは、特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんなが同じ教室で学ぶ普通の公立小学校だが、開校から6年間、児童と教職員だけでなく、保護者や地域の人も一緒になって、誰もが通い続けることができる学校を作ってきた。
映画はドキュメンタリーとして、そんな学校の日々を丁寧に追い続ける。
一観客としては「木村校長のリーダーシップが素晴らしい!」、「先生方一人一人が頑張ってるなあ…」という思いで映画に見入っていた。
一方、学校教育に関わってきた者の一人として観たとき、そこにはまた複雑な思いも私の中には交錯した…。
そこに論究するには、私のコンデションが悪すぎる。
今日の私は午前から「めだかの学校」関連に関わり、夕刻はそのまま新年会になだれ込み、この映画を冷静に論ずるにはコンディションが悪すぎる。
明日、改めてこの映画を振り返りたいと思う。
1月14日(土)午前、円山動物園で南極越冬隊員経験者の話が聴ける「南極クラス」という講座があると知り、出かけた。
会場の円山動物園の動物科学館に入ると「南極熊の南極クラス」とスクリーン上に掲示されていた。
※ 会場となった円山動物園の「動物科学館」の入口です。
この「南極クラス」という催しは、住宅メーカーのミサワホームが南極基地の建物施設を供給していることから、企業のCRS(社会貢献)活動の一環として行っている教育支援プログラムだそうだ。
この日、講演(授業?)を担当したのは同社総合研究所の井熊英治という南極越冬経験のある方だった。その井熊氏の容貌が若干厳ついことから社内で「南極熊」と呼ばれているため「南極熊の南極クラス」という講座名になったようだ。(なお、実際には南極に熊は生息していないということだ)
※ 講師を務めた南極熊の異名をとる井熊英治氏です。
井熊氏は全国の相当数の学校を中心とした講演活動を行っているようだ。口調は滑らか、用意されたパワーポイントもツボを押さえたもので、ユーモアに富みとても聞きやすかった。
現在、南極には日本の基地が◇昭和基地、◇みずほ基地、◇あすか基地、◇ドームふじ基地、の4つの基地があるそうだ。(みずほ、あすかの両基地は無人)
そのうち井熊氏は主として昭和基地でのさまざまなエピソードを紹介してくれた。
その内容は、極寒での南極生活の様子、ペンギンをはじめとした南極の生物、あるいは氷山のことなど、そのほとんどは私にとっては一度聞いたことのある内容だった。
ユーモアのある井熊氏らしいお話の一つに、瞬間最大風速が60m/sを超える中に人がさらされるとこのようになる、と自身の実験結果を写真で示してくれた図は笑わせてくれた。
※ 極地の風速60m強にさらされた後の井熊氏の顔です。
また、クイズ形式で「この形は何でしょうか?」という三択クイズの形で示されたが、答えは「雪の結晶」ということだったが、極寒の地だけに面白い形の結晶があるものだ。
※ これらの形の答えが…
⇓
そして最後に、2万年前に生成されたという南極の氷を小分けして参加者に配られた。雪が氷化した南極の氷には、たくさんの空気が封じ込められていて、氷に水をかけると二万年前の空気の泡がはじける音を聞くことができた。
※ 二万年前に生成された氷山から削り取られたという南極の氷です。
「南極クラス」というちょっと変わった名称につられて受講した講座だったが、肩の凝らない楽しい講座だった。
今から9年前、2008年1月14日から私は連日投稿を自分に課した。以来今日まである事情から4日間だけ中断したが、それ以外は欠かさず投稿を続けた。自分ながら「よくやってきたなあ…」という思いである。その9年間を振り返ってみた。
私がブログデビューを果たしたのは2006年5月6日「可能な限り自己紹介を」というタイトル名で投稿したのが最初である。以来、1年目は月に10~15日前後の投稿だった。(この時期はまだ私の住まいは北見で、現職だった)
2007年4月、退職して札幌に居を移し、少し余裕もできて投稿は月に20~25日となり、ほぼ毎日投稿する形になっていたのだが、それがある時「よ~し、連日投稿を心がけよう!」と思い立ったのが2008年1月14日だった。
それ以来、何を差し置いても、特に話題がなくとも、ブログの投稿だけは続けた。内容は二の次、三の次で、ともかく欠かさず投稿をすることに私自身は意味を見出していた。
連続投稿が危うくなるのは、飲み会が入った時である。酔いが回っていては文章作成もおぼつかない。そんなときは一度寝て酔いを醒まし、深夜に起き出して投稿したことも数え切れぬくらいあった。
海外旅行に出かけた際も、現地から投稿を続けた。(これがIT音痴の私にはかなり高いハードルだったのだが…)
※ 私がブログに写真を掲載することができた最初は2007年4月23日付のコンサドーレ戦を観覧した札幌ドームでした。
そんな中、唯一2009年11月13日から4日間、ブログ投稿を中断した。
それは私が「めまい」の症状に悩まされた時期である。初めての症状だったのだが、歩くこともおぼつかないくらいで、眼を閉じて寝入るしかなかった。当時は第二の職場に勤めていたのだが、止むを得ず休みをもらった。職場を休んでいながらブログを投稿するわけにはいかない。涙を飲んで(?)ブログ投稿を中断した。
それ以外は、雨が降ろうが、槍が降ろうが、ともかく投稿を続けた。
先にも記したが、連続投稿することに意味を見出して…。
ブログを通して交流させていただいている“夢逢人”という方も同じく連続投稿を心がけているという。その方がブログを発信する思いを次のように綴っている。
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
“夢逢人”さんのように私は自らの心の内を語るほどの力量はないが、自ら見たこと、学んだこと、体験したこと、等々に自分の思いを重ねて記すことにより、私の生きた証を記録したいと今日まで続けてきたような気がする。
これまで触れたことはなかったが、実は私はブログを始めて以来、私のブログに対する「閲覧数(PV)」と「訪問者数(IP)」を残らず記録し続けている。
昨日、妻も寝静まった深夜、 それらを紐解き9年間を振り返ってみた。
先の数字の中でも、私が着目するのは「訪問者数(IP)」である。その時々、月間の平均訪問者数を計算し、記録していたのだが、昨夜は年間の平均訪問者数を割り出してみた。
すると私のブログの場合は次のとおりである。
2008年-113.4 pv
2009年-198.0 pv
2010年-258.4 pv
2011年-370.6 pv
2012年-330.3 pv
2013年-374.5 pv
2014年-402.5 pv
2015年-349.4 pv
2016年-400.4 pv
訪問者数の推移をみると、2008年から2011年にかけては右肩上がりであるが、その後は凹凸を繰り返し、訪問者数を見るかぎり限界値かなぁ、と思っているところである。
ちなみに月間平均では2014年2月が534.9 pvで最高である。
また、最高訪問者数があった日は、2014年2月7日の923 pvである。翌日2月8日も912 pvを記録している。この時の投稿は両日にわたって「沢木耕太郎 流星ひとつ」の読後感を前後編で綴っている。
年、月、日ともに2014年が最高の数字を得ている。できれば、今年のこの記録を塗り替えたいなぁ、というのが私のささやかな思いである。
連続投稿を自らに課すことは、ブログの話題作りのために見たり、聴いたり、体験するために出かけることも多いのが実態である。
しかし、そのことが自宅に引きこもらず、身体を適度に刺激し、脳にも刺激を与えてくれていると信じ、これからも連続投稿を出来るかぎり続けたいと思った“ブログ記念日”の一日だった。
退職組織が昨年の冬から、長期休業中の一定期間、児童会館における「学習タイム」に子どもたちの学習を支援する活動に取り組んでいる。(昨年の投稿はこちら⇒)
今冬も、1月5日~16日までの6日間、会員の間で手分けして支援活動に取り組むことになった。私は自分のスケジュールと睨み合わせ、1月5日、10日、そして今日13日と3日間のお手伝いをした。
時間は児童会館が設定している「学習タイム」である午前11時~11時45分までの45分間である。
時間になると、それまで児童会館の各所で遊んだり、本を読んだりしていた子どもたちは所定の部屋に集まり、長机に分かれて座り、それぞれ学校の宿題や、問題集、あるいは塾の宿題などに取り組み始める。私たちはそれを背後から見守り、質問があったら答えたり、躓いている子へのアドバイスなどをするのが主たる活動である。
※ 学習に取り組む子どもたちの様子です。あっ、白髪の男性は私ではありませんよ。同じ日に指導にあたった先輩です。
総じて子どもたちは学習に真面目に取り組んでいる。
しかし3回目ともなると、いろいろ課題が見えてきたことも事実である。
初めてだった昨年冬は、「みんな一生懸命取り組んでいるなぁ」、「かなり難しい問題にも取り組んでいるぞ」…、というように子どもの学習の様子を肯定的に見ていた。
ところが、今冬はおしゃべりしている子や学習に取り組めていない子も目に付いた。
何故だろう?と考えてみたときに、今冬の学習に参加している子のほとんどが一二年生を中心とした低学年の子が多いことに気付いた。
どうやらまだ学習習慣がしっかりと形成されていないきらいがあったようだ。
さりとて、強制的に学習に取り組むように指示することはできない。児童会館の職員が注意をするのだが、あまり効力はないようだった。私たちもなんとか学習に取り組むようにとアドバイスするのだが、子どもたちは教室と違い、どうしてもリラックスしてしまっている感じが否めなかった。
中には懸命に取り組んでいる子もいるのだが、全体としてはやや集中力にかけていた感は否めなかった。このあたりを、児童会館にどのように伝え、改善を図っていくかが今後の課題かな?と思えた。
いずれにしても、こうしたボランティアは、私たちだからこそ協力できる活動だと思っている。私たちの仲間を増やし、児童会館との連携を密にし、子どもにとって頼りになる、私たちにとってやりがいのある、教育支援活動に発展していかねばならないと感じた3日間だった。
1月12日(木)午後、かでるホールにて「札幌演劇シーン特別プログラム/かでる演劇フェスティバル」の「北海道高校演劇Special Day」に今年度高校演劇の最優秀校の北見緑陵高校の演劇部が招待されたということのようだ。
北見緑陵高校演劇部の作品は「学校でなにやってんの」という演目だった。
ストーリーは、某高校において文系グラブである放送部がたった一人の部員で奮闘するさまを中心に描きながら、さまざまな文系クラブの喜怒哀楽をユーモアたっぷりに描いているものである。
ポスターにも表現されている「キモくなければ何もできないんだぞ」という言葉に、ダサくてもいい、恰好悪くてもいい、自分が好きと信じるクラブで精いっぱい活躍してほしい!というメッセージが込められた作品だと私はとらえた。
作品は演劇部の顧問である清野俊也先生の創作脚本だという。プログラムで清野先生は10年前に赴任した時、演劇はまるで素人だったそうだ。以来、相当に勉強されたのだろう。高校生の日常を観察し、高校生が演じやすい状況を設定し、高校生が生き生きと演じることができる作品に仕上がった、と言えるのではないか?
昨年感動した札幌琴似工業高校定時制演劇部の作品も、やはり脚本の勝利だった。こう見てくると、高校演劇においては、いかに高校生が演じやすい脚本を創作できるかにかかっているようにも思えてくる。
ただ、ちょっと残念に思ったのは、演ずる高校生たちの発声が十分に鍛えられていないと感じられたことだ。私はステージからそれほど離れていない席に陣取ったのだが、早口だったり、声が小さかったりで、セリフが十分には聞こえてこなかったのだ。
私の耳にも問題があるのかもしれないが(老化ゆえ)、琴似高定時制の演劇部と比較してもセリフの不明瞭さが気になり、アンケートにもその点を指摘させてもらった。
彼らは、今年8月に行われる全国高校総合文化祭に出場するということなので、さらなる精進を積み重ねてもらいたいと思った。
お正月早々「いい映画を観たなあ…」という思いでユナイテッド・シネマを後にした。主演の岡田准一が良い!すでに彼は日本を代表する男優の一人といっても良いのではないだろうか。
1月9日(月・祝)午後、以前から観たいと思っていた映画「海賊とよばれた男」を観るためにユナイテッド・シネマ札幌を訪れた。
この日は成人の日とあって、サッポロファクトリーには沢山の買物客が詰めかけ、映画館のほうもいつになく混雑していた。
映画は一代で石油販売のメジャー会社に育て上げた「出光興産」の社長・出光佐三の破天荒ともいえる半生を描いたものである。
特に「出光興産」を有名にしたのは、国内石油販売会社が次々と海外メジャーに吸収されている中で、唯一海外メジャーからの攻勢に抗して生き抜き、当時としては世界最大のタンカー「日章丸」を就航させたことで注目を浴びた人である。
※ 岡田准一が60代の田岡を演ずる写真がなかなかなかった。私が見つけた唯一ものだが非常にリアルに感じた。
映画では出光佐三は、田岡鐵造と名を代えるがその役を岡田准一は見事に演じ切っていたといっていいと思う。
最初に田岡鐵造は、60代の役を演ずるのだが、一瞬それが若い岡田准一が演じているとは信じがたいほど、彼の役ははまっていた。その表情といい、仕草といい…。
田岡は混乱の戦前、戦中、戦後の石油業界を彼の胆力と実行力で、次々と難題を突破し、田岡商店をメジャーへと導いていく。 次々と海外メジャーの参加に下っていく他の石油会社を尻目に、誰よりも“日本人の誇り”を失わなかった田岡の激しい生き方を岡田准一は見事に演じ切ったといっていい。
※ 映画「海賊とよばれた男」で岡田准一を支える豪華な脇役陣です。
脇役陣がまたいい。吉岡秀隆、染谷将太、鈴木亮平、綾瀬はるか、近藤正臣、堤真一、國村隼、小林薫…、まだまだいるが、それこそキラ星のごとく名優たちが居並ぶ。
私は日本アカデミー賞の主演男優賞を獲得した「永遠の0」は観ていないが、「エヴェレスト 神々の山嶺」の彼の演技を観て、これはアイドルの演技ではないと見ていたが、本作を観てそれは確信に変わった。彼はもうアイドルという範疇に収まる人材ではなく、確実に日本の映画界を代表する俳優の一人となったと断言して良いと思う。
若い時の田岡鐵造もいいが、私は岡田准一が60代の田岡鐵三を演じた姿に心底感じ入ったと言っても良いほど感動した。
興味のある方、ぜひ映画館に足を運んでいただきたい。(あっ!私はけっしてどこかの回し者ではない。どこにでもいる市井の市民です。)
お正月明けの7日、妻の提案でランチを楽しむことになった。
妻はホテルランチが好みである。ホテルに入居するレストランには外れがない、というのが理由らしい。
ということで、この日は「東京ドームホテル札幌」の1階に店を構える中国料理の「緑花(ルファ)」へ行くことにした。
「緑花」には過去何度か訪れたことがあったが、ブログでのレポはまだだったので今回取り上げることにした。
緑花は中華料理店らしい書が壁に掛かっていたりしているが、全体としては中華料理の店というより、センスの良いレストランといった雰囲気だった。
けっして潤沢とはいえない私たちがオーダーしたのは、お得感のある「天然大海老のランチコース」(1,800円)にした。その内容は次の通りである。
◇一口冷菜三種
◇アサリとふのりのとろみスープ
※ 意外に美味しかったのが、このスープでした。アサリとふのりの取り合わせが抜群でした。
◇あんこう四川唐辛子炒め
◇点心
◇天然有頭大海老のチリソースと金沙マヨネーズ ※
※ ※印を付けた二つの料理の写真はお店のHPから拝借したものです。
◇海老みそ炒飯の海老入り塩味あんかけ ※
◇デザート
という7品であった。
冷菜の一品(食材は分からなかった)が私には少し塩辛く感じられ、盛んにお茶を口にした。
しかし、その他の料理は薄味の上品な味でいずれも満足だった。
特に私が好みだったのは、「あんこう四川唐辛子炒め」のぷりぷり感のあるあんこうの食感と、「海老みそ炒飯の海老入り塩味あんかけ」の上品な塩味ととろみのついた炒飯の軟らかな食感だった。
全体にお得感のある「天然大海老のランチコース」だと思った。
【中国料理 緑花(ルファ) データー】
〒060-0042 北海道札幌市中央区大通西8 東京ドームホテル 札幌1F
電 話 011-261-6646
営業時間 11:30~21:00(LO20:30)
定休日 無
駐車場 有(93台 ホテル駐車場)
座 席 97席 (テーブル席)
入店日 ‘17/1/7
※ 道立近代美術館の展示室の前には写真のような表示が立てられていました。
1月7日、私にとって近くて遠い存在の北海道近代美術館に足を運んだ。
同館では現在、北海道出身の画家・片岡球子の「本画とスケッチで探る画業のひみつ」と題する展覧会が開催されているのだ。(開催期間 1/4~3/20)
前夜、アウトドアライフの先達であるsakagさんと歓談させていただいた中で、sakagさんが先に観賞した同展のことを話された後で、「明日は、学芸員による『みどころトーク』があるのでぜひ行ってみたら」と助言を受け、別にあった予定をキャンセルして足を運んでみることにしたのだ。
※ 片岡球子は80歳を超えてから富士山が描く対象になったということです。写真は冬にもかかわらず富士山のすそ野でスケッチをする片岡です。
14時から美術館講堂で、学芸員の杉山聖央さんによる「見どころトーク」が行われた。
彼女の話によると、片岡球子が残したスケッチブックは実に350冊にのぼるという。
そのスケッチブックを繰ることによって、本画(完成した作品)にいたるまでの創作のプロセスがよく分かるということだった。
片岡球子のスケッチブックは、一般にいうラフスケッチではなく、大胆な構図を試したり、彩色を施したりと、他の画家たちのスケッチとは一線を画すものだという。時にはアクリル絵具を指で画面に擦り付けるようにして描く場合もあったという。
また、片岡球子が時代と共に描く対象が徐々に変遷していった様子についても解説があったが、その初期には描く対象をじっくりと観察していることが特色であるが、後期に入りその対象の本質に迫ろうとする(内面を描く?)ような描き方に変化していったとの説明があった。
※ 上がスケッチで、下がそのスケッチをもとに描いた本画です。
「見どころトーク」を聴き終えた後、さっそく展覧会の方へ足を運んだ。
会場には近代美術館が所蔵する本画とともに、おびただしいほどのスケッチが展示されていた。
画家として初めて世に認められた(第17回院展で入選)「枇杷」という作品は、そのスケッチも本画も、日本画そのものといった感じで、後の片岡の片りんもうかがえないものであるが、同じ初期の勤めていた小学校の児童を描く作品にはすでに片岡独特の描き方の片りんがうかがえるような描き方をしている。
※ 片岡が初めて世に認められた「枇杷」の本画です。
ともかく私には、そのおびただしいほどのスケッチの数に驚いた。一流の画家というものが一枚の本画をモノにするにあたって、対象に対してあらゆる角度からスケッチし、対象を深く思索したうえで、納得した後に本画を描き出していることを知った。
片岡球子というと、いわゆる“赤富士”が有名だが、本展ではその“赤富士”は展示されていなかった。道立近代美術館にはそのたぐいの所蔵がないということなのかもしれない。一つだけ、青く描かれた富士山の画は展示されていたが…。
※ 今回の展覧会で唯一(?)展示されていた富士山の画です。
破天荒だ!型破りだ!という印象の強かった片岡球子であるが、今回の「本画とスケッチで探る画業のひみつ」を鑑賞することによってその印象が大きく変えられた展覧会だった。
※ 今日のgooブログは何かトラブルがあったのでしょうか?かなりの時間投稿できませんでしたね。
石狩川第一橋梁 ⇒ 向陽橋 トレッキング実施日 ‘17/1/3
この日は好天に恵まれたスノーシュートレッキングだった。ミドルのウェアを脱ぎ、時には手袋を外してのトレッキングとなった。そうした心地良さが快調なトレッキングにも繋がった一日だった。
この日のトレッキングは当初には予定のなかった一日だった。
ライブレポでも触れたが、前回のトレッキングで目的の「妹背牛橋」まで到達できなかったために、間に一日入れる必要が出てきた。その結果プロジェクト№17として「石狩川第一橋梁 ⇒ 向陽橋」間のトレッキングを設定したのである。
※ JR妹背牛駅です。無人駅ですね。
この日はまずJRで妹背牛駅まで移動する必要があった。妹背牛に午前中に行くためには札幌駅6時00分発の普通列車しかない。この列車に乗るためにかなり苦労したことはライブレポで触れたとおりである。
8時13分、妹背牛駅に降り立ち、この日のスタート地点のJRの石狩川第一橋梁の袂へ行くためにタクシーを利用した。
タクシードライバーが私の言うことを良く理解してくれなかったために、橋梁のはるか手前で降ろされ、結局スタート地点まで1キロ以上歩かされる羽目になってしまった。
※ 前回は左岸から見た「石狩川第一橋梁(JR鉄橋)」を今回は右岸から見た光景です。
そんなことで妹背牛駅には8時13分に降り立ったのに、「石狩川第一橋梁」の袂をスタートできたのは9時20分になってしまった。
天気は薄曇り、風がなく、まあまあのコンデションだった。ただ、雪の状態はやや軟らかく、くるぶしの上くらいまで埋まるためやや苦労しそうな感じだった。
※ JRの鉄橋の袂から歩き始めの状況です。それほど埋まっていませんが、雪が軟らかでした。
※ JRの鉄橋に近いところの石狩川の流れです。天候同様穏やかな流れでした。
スタートして20分後、この日最初の掘割に遭遇した。とても渡れそうになく、樋門を巻くしかなかった。9時50分、「丸樋門」を通過した。
※ 雪中トレッキングをしていると様々な雪の造形を目にするのですが、あまり良い写真をモノにすることができません。
※ この日、第一の掘割を避け、迂回するために「丸樋門」を通過しました。
さらに行くと、この日第2の掘割があった。この掘割の流れもかなりの幅だったが、途中に確実に渡れそうなところが見つかり、そこを越えて進んだ。
※ なかりの幅をもった第二の掘割でした。
※ 幸い、途中に安全に渡れそうなスノーブリッジ(もちろん木が倒れてできたものですが)あり、渡ることができました。
この頃になると、太陽が顔を出し、気温もかなり上がってきた。私はミドルを脱ぎ、手袋を外し、心地よい気持ちになってトレッキングを続けた。
そうした中、10時50分、この日の大きな目安「妹背牛橋」の下を通過した。
※ 遠くに見える青色の橋が「妹背牛橋」です。
この日は、雪は深いものの、面倒な風倒木もそれほど見当たらず、快適なトレッキングだった。
石狩川の水面を見ると、これまでずーっと目にしてきた蓮葉氷が見当たらない。どうしてなのだろう?気温が高いからだろうか?
※ 「妹背牛橋」に近いところの石狩川の流れです。蓮葉氷がまったく見当たりません。
そうしているうちに、この日第3の掘割が現れた。それほど大きな掘割ではなく、うまく木が掘割上に横たわっていて、難なく掘割を渡ることができたとき時計は11時15分を指していた。
※ この日第3の掘割です。幅がやや狭かったので、どこかに渡れそうなところがあるはずと思いながら遡っていました。
※ そうして見つけたスノーブリッジです。向こう岸からスノーブリッジを渡った跡が雪面に刻まれています。
河岸の状況は相変わらず、私を悩ませるほど木が密生していたり、横たわっている木なども少なかった。
石狩川の水面は鏡のように滑らかで、太陽の光を水面に反射させていた。
※ この日は太陽が顔を出し、石狩川の水面にその光を反射させていました。
※ 河岸の様子はおおよそこの程度で、難しいところは少ない一日でした。
※ スノーシューの沈み込みもスタート時点と変わらず、脚への負担もそれほどではありませんでした。
昼食も摂らずに歩き続けていると、12時55分くらいだったろうか?遠くにこの日のゴール「向陽橋」が見えてきた。
※ 遠くにこの日のゴールに設定した「向陽橋」が見えてきました。
河岸から橋の袂に向かって20分、13時15分スノーシューを外した。
※ 「向陽橋」の袂でスノーシューを外しました。
ここから先はライブレポでも発信したとおり、「向陽橋」を渡り、国道12号線の面したぬくもりの里「向陽館」で息子の車を待つ予定が、閉館中だったため、近くにあったドア付きの立派なバス停で待つことにした。
待つこと約1時間、無事に息子の車にピックアップされて帰宅したのだった。
※ 国道12号線沿いに立つ「ぬくもりの里『向陽館』」の大看板です。
※ 「向陽館」は小学校の廃校を活用した美術館兼社会教育施設のようです。
※ 一日数本しか通らないバスのために立派な停留所があり、助かりました。
お気づきのことと思うが、タイトル名の後ろの数字は、このプロジェクトが始まった4年前から、このプロジェクトに要した日数の累計を表している。つまり、今回でこのプロジェクトを始めてから17日目ということだ。
※ 私をピックアップしてくれた息子の車です。
私の計画では、今シーズンさらに5日程度を予定している。願いとしてはこの後5日で当面の最終目的地である旭川市に達したいと願っているが、はたして願い通りとなるのか、どうか?
予定としては1月下旬に3日連続のトレッキングを予定している。
※ 葛飾北斎のたくさんの作品の中でも最も有名な「神奈川沖浪裏」です。
定期購読している月刊誌「文藝春秋」の中に、canon(キャノンKK)の技術を駆使して日本の文化財を高精度複製品として制作するCMがシリーズ化されて掲載されているのを毎号興味深く見ていた。
同じような響きをもった(結局キヤノンの技術が活用されたわけではなかったようだが)
北斎の展覧会が開催されるとあって、前売券(700円)を入手して開催を待った。
ところがもともと美術にそれほど関心のない私は、いざ展覧会が開催されてもなかなか会場に赴こうとはしなかった。
閉幕1日前になって、ようやく重い腰を上げたというわけである。
プラニスホールは、お正月客で賑わう札幌エスタの11階にある。
連日新聞に広告が載っていたこともあってか、けっこうな人が観覧に訪れていた。
会場の入口で、「フラッシュはNGだが、写真撮影はOK」と言われ、「これはラッキー!」と思い、北斎の作品の中で有名と思われる作品を写すことにした。
私は北斎の浮世絵版画の本物など一度も拝見したことがない。だから本物との比較などできないのだが、最新のデジタル印刷技術は本物と見紛うばかりクォリティの高さを誇っていたように見えた。
そしてデジタル技術ゆえ、本物を拡大した作品も会場には展示されていた。
※ 作品名「凱風快晴」
葛飾北斎は江戸時代後期(1760-1849)に活躍した浮世絵師である。数多くの作品の中でも「富嶽三十六景」は彼の代表作群である。
今回、彼の作品をリ・クリエイトするにあたり、彼の作品が版画であるだけに同じ作品が数多く現存することから、どの作品をリ・クリエイトするのかが問題となったそうだ。
結果は、刷り上がりの早い段階の、比較的発色が鮮明なものを使用するようにしたそうだ。
「富嶽三十六景」の中でも、美術に不案内なものでもよく知っている波間から富士山が小さく見える「神奈川沖浪裏」は会場内に大小3枚ほど掲示されていた。
その「神奈川沖浪裏」をはじめ、北斎の絵はその構図、色遣いなどフランス印象派に大きな影響を与えたという。
会場には、「富嶽三十六景」、「諸国瀧廻り」など全54作品が所狭しと展示されていた。
その中の一部をどうぞ!
全作品を概観してみて、北斎の場合「青」色の使い方が印象的だと個人的には思ったのだが…。
※ 作品名「甲州石班沢」
※ 作品名「甲州伊沢暁」
※ 作品名「相州梅沢左」
※ 作品名「武州玉川」
※ 作品名「江戸日本橋」
※ 作品名「東海道江尻田子の浦略図」