ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

人気小説家の原田マハさんの単行本「美しく愚かものたちのタブロー」を読み終えた話の続きです

2019年10月02日 | 
 人気小説家の原田マハさんの最新の単行本「美しく愚かものたちのタブロー」を読み終えた話の続きです。

 この題名にある「タブロー」とは、絵画のことです(浮世絵も含まれています)。

 この単行本「美しく愚かものたちのタブロー」は、2019年5月30日に文藝春秋から発行されました。価格は1650円+消費税です。



 具体的には、大正時代から昭和半ばまで(主に第一次世界大戦前後)に、欧州(主にフランスと英国)で名画を買い集めた松方幸次郎(まつかたこうじろう)による“松方コレクション”づくりの話です。

 松方幸次郎は、1866年1月に薩摩藩士の松方正義の三男として誕生します。

 父の松方正義は、薩摩藩藩主の薩摩久光の側近として働き、異例の出世を果たします。明治政府成立後は、肥田県知事になり、大蔵卿時代には日本銀行設立の立役者となります。さらに、第四代と第六代の内閣総理大臣に就任します。

 松方正義の長男と次男がベルギーとドイツに留学していたなどの経緯から、三男の幸次郎は米国のラトーガス大学に留学します(東京大学予備門で退学処分になった経緯から)。

 さらに、兄の影響を受けて日本の外交官になろうと決意し、米国のエール大学法学部に編入し、さらに大学院に進んで博士号も取得します。

 1891年に父の松方正義は第一次松方内閣を組閣します。そして、三男の幸次郎は首相秘書官に就任します。ただし、この内閣は短命でした。

 神戸市の川崎造船所の創業者の川崎正蔵は、3人の息子が他界したために、後継者を探していました。実は、松方幸次郎の米国留学費用の面倒を、川崎正義がみていました。

 そこで、川崎正蔵は、青年の松方幸次郎が後継者にふさわしいかもしれないと思い、面会します。松方幸次郎を気に入った川崎正蔵は、父親の松方正義に「川崎造船所の社長はご子息をおいてほかにはいない」と乞います。

 松方幸次郎は30歳で川崎造船所の社長に就任し、川崎造船所の悲願だった大型船対応のドックを建設し、船の修理業から造船業に乗り出します。

 1904年に日露戦争が始まり、日本の造船業は一気に活況を呈します。川崎造船所は海軍から潜水艦の注文を受けるなど、駆逐艦と輸送艦などを含めて合計17艘を受注します。

 日露戦争などを通じて、川崎造船所は代成長します。松方幸次郎は1902年と1907年の欧州の造船業を視察に出張しています。

 しかし、日露戦争後の不況の際には、川崎造船所の従業員5000人もの人員削減を余儀なくされ、涙を流します。

 1914年6月に第一次大戦が欧州で始まります。英国の同盟国だった日本は連合国の陣営として、同年8月にドイツに宣戦布告します。

 こうした第一次大戦の勃発により、今後は船不足になると予想した松方幸次郎は、“ストックボート”というある程度つくった船を、注文を受ける前に事前に用意する事業戦略を編み出します。

 欧州諸国から注文が入ると、価格を(5倍や6倍に)釣り上げて高値で売りさばく戦略です。

 第一次大戦の進展によって、造船の原料となる材料の鉄鋼の日本への輸入量が激減し、価格が高騰します。このため、松方幸次郎は渡米し、米国でできる限り安い鉄鋼を入手しようと努めます。

 同時に、川崎造船所の従業員を官営製鉄所の八幡製鉄に派遣し、鉄をつくる技術を学ばせます(これが、川崎製鉄のルーツになります。川崎製鉄は現在のJFEです)。

 ここまでは、川崎造船所(現在の川崎重工業)が事業成長した話です。

 川崎造船所がつくった“ストックボート”を高値で売るために、松方幸次郎は同社のロンドン出張所に詰めていましたが、空き時間を見つけては、ロンドン市中心部で開催される日本人会に顔を出していました。

 この日本人会で、美術商山中商会のロンドン支店長だった岡田友次と、英国に留学して西洋画家として成功していた石橋和訓(わくん)の二人から「日本のために美術館を創っていただけませんか」と詰め寄られます。

 日本が世界の各国と互角に勝負していくためには、なんといっても文化力がたりない。それを改善し向上させるためには「美術館」が必要と口説かれます。

 話のいきさつを飛ばすと、優れた美術館がなければ、日本人芸術家は育たず、政界・財界での優れたリーダーが登場する確率が低くなる・・日本は文化後進国となり、世界の列強に遅れをとることになる・・。

 「日本を国際的な文化大国にする、そんな人物は松方幸次郎をおいてほかにいますか?」と口説かれて、松方コレクションの収集は始まります。

 人気小説家の原田マハさんの最新の単行本「美しく愚かものたちのタブロー」を読み終えた話の始まりは、弊ブログの2019年9月28日編をご覧ください。

長野県諏訪市大字四賀にある車山肩にあるなだらかな草原は、ほぼ枯れ野になっています

2019年10月02日 | 旅行
 長野県茅野市北山を通る山岳道路のビーナスラインを大まかには西に向かうと、諏訪市大字四賀側に入り、有名な車山肩に到達します。

 この車山肩は、車山(標高1925メートル)の西側山麓の草原です。9月末になり、草原はほぼ枯れ野になり始めています。

 この車山肩の少し北東側に車山山頂が見えています。



 ここから、車山の西側山麓を歩き始める方が多い地点です。時々、登山装備をした方々が、車山山頂目指して歩き始めます。



 車山肩から車山の西側山麓は緩やかに下る草原です。





 今年7月中旬には、多くの方が黄色いゼンテイカ(通称、ニッコウキスゲ)の花を観賞するために、散策していました。

 今は、ほぼ枯れ野です。

 背丈が高いハバヤマボクチの枯れかけたものが立っています。



 野アザミの花の近くに、ほとんど枯れかけたマツムシソウの花が見えています。



 たまに動くものは、ヒョウモンチョウ系のチョウです。



 ホオアカなどの夏鳥の野鳥はいません。鳴き声も聞こえません。ほんの一瞬、ホオジロかモズではないかという野鳥が飛んで来ました。すぐに飛び去りました。

 あの7月の賑わいに対して、「今はもう秋、誰もいない草原」とつぶやくしかありません。

 車山肩から、ビーナスラインをさらに西に向かい、霧ヶ峰高原の交通の要所の“霧の駅”まで進み、ここから踊り場湿原側に南に曲がります。

 “霧の駅”近くの草原は、ススキが増えています。







 踊り場湿原側にさらに南下して、北方向にある車山の西側山麓を見上げると、やはり、秋めいた草原でした。



 ここからは、交通の要所の“霧の駅”まで戻り、さらにその北側にある八島湿原に向かいました。

 八島湿原もたぶん秋めいていることでしょう。

 車山肩では、今年7月にはゼンテイカの開花が遅れました。そして7月は天候不順でした。実際に車山肩を訪れることができたのは8月初めでした。弊ブログで、車山肩でのゼンテイカが咲いている様子については、2019年8月6日編をご覧ください。