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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

元正章牧師が「マリア信仰」論

2018年01月21日 09時44分27秒 | 思想・評論
 
島根県益田市で益田教会の元正章牧師が「マリア信仰」について論述しています。
すぐれた内容なので、みなさんに読んでいただこうと思っています。
全文引用しています。


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マリアの賛歌
                            
ルカ1:46-56    元 正章
                             
益田教会  2017年12月17日



アドベント第3週を迎えました。イエスの母マリアの信仰について共に学んでみましょう。

本田路津子「 一人の手」(訳詩 本田路津子 作曲 ピート・シーガー)
一人の小さな手  何もできないけど それでも  みんなの手と手をあわせれば
何かできる  何かできる
一人の小さな目  何も見えないけど それでも  みんなの瞳でみつめれば
何か見える  何か見える
一人の小さな声  何も言えないけど それでも  みんなの声が集まれば
何か言える  何か言える
一人で歩く道  遠くてつらいけど それでも  みんなのあしぶみ響かせば
楽しくなる  長い道も
一人の人間は  とても弱いけれど それでも  みんなが みんなが集まれば
強くなれる  強くなれる
それでも  みんなが みんなが集まれば 強くなれる  強くなれる

ところで、禅問答に「隻手の音声」という話があります。ある日、和尚が修行僧全員を集め、彼らの前で両手を合わせて「パチン」とたたきました。そして、和尚は彼らに、両手でたたけば音が出るが、お前たちはこれから片手の音を聞いてきなさいといいました。彼らは賢明に片手で音を出そうとするのですが、手に力が入るだけでできません。これは、自分にこだわる限り音は出ず、相手の手を必要とするという問答なのです。(渡辺純幸著『人生に締切はありません』より)。

小さな手であれ大人の手であれ、自分にこだわっている限り、何もできないという、ちょっとした小噺です。自分の掌をぐっと固く握りしめていれば、息苦しくなってしまわないでしょうか。拳骨を振り回している限り、随分と大げさな振る舞いにみえますが、要は空を切っているだけです。そして最後には疲れ果ててしまい、足がよろけて倒れてしまうだけのことです。それよりも、思い切ってぱっと掌を開いたとき、そこから自分の持っていたものが飛び出して、花開くことになるのではないでしょうか。そのとき、自分の大事にしていたものを、風が運んでくれるのです。聖書の言葉では、風のことを聖霊とも言っています。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)と、イエスはユダヤ人の議員であるニコデモに言いました。「あなたがたは新たに生まれねばならない」と。

讃美歌では、「みんな手と手を合わせたとき、ひとりの手ではできなかったことが、できるようになる」と歌われています。それが何なのか、そこまでは具体的に描かれていません。しかし、「何かできる 何かできる」と、二度同じ言葉が繰り返されています。そこに相手の手がそっと差し出されたとき、何かできるのです。その手が「救いの御手」となるのです。そこで聴く耳のある人には、「パチン」というさやかな響きを聴くことができるでしょう。その響きはまた、御子イエスの産まれた泣き声「おぎゃあ」とも重なってきます。それは「飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子」の、まことに小さな泣き声でしかありません。でも、その誕生こそが、私たちに示された神のしるしなのです。

われらの救い主イエス・キリストが、母マリアのお腹の中に宿られたこの物語は、まことにもって奇跡としか言いようがありません。科学的には、復活の出来事がありえないように、この処女降誕の出来事もありえません。そのことは、神のしるしを実証できないというのと同じことです。その点では、2000年前の人たちも、現代の私たちも、実証できないということにおいては一緒です。しかし、です。乙女マリア自身の立場に立って考えてみれば、どうなるでしょうか。ある日突然、みごもったのです。そのことを、彼女自身どう説明できるでしょうか。納得できたでしょうか。神のしるしを実証できないことで一番驚き、不安に恐れおののいたのは、実にマリア自身でありました。

今週も、マリアの信仰について学んでいます。マリアは言うまでもなく女性です。女性なればこその信仰、神への賛美が歌われています。「マリアの賛歌」であって、「ヨセフの賛歌」にはなりません。なぜなのか。男と女、父親と母親の相違が一番大きな原因であるかと思います。父ヨセフもまた神に対して従順ではあるのですが、その服従にはどこか男の面子というか抗いがあって、一種の主従関係が成り立った上での隷属意識が働いています。しかしマリアの場合、なんとも単純にして、素朴です。最初は恐れと不安におののいても、いったん胸の中に納まりますと、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言えるのです。このような柔軟性を男は欠いています。子守唄はやはり母の懐に抱かれて唄われてこそ相応しいのであって、父親のゴツゴツした腕の中では、サマになりません。それにまたマリアのような慎ましやかさは、男性がいくら真似をして真似できるものではありません。やはりというべきか、天性の素直さがマリアには備えられています。

だからこそ、この後カトリック教会でも特にラテン社会では、「マリア崇拝」が熱烈に起こります。それはキリスト崇拝よりも超えています。父なる神よりも、母なる大地を信仰する民衆の気持ちを捉えています。それは日本でも同じような現象であって、隠れキリシタンはマリアと観音菩薩とを習合させた「マリア観音」を拝むことで、自分たちの信仰の拠りどころとしました。これは父性原理よりも母性原理の優位を示しています。男に頼むよりも、女にすがりたい本能が、マリア信仰を生みました。これは理屈ぬきの信仰、生活に根差した土着的な信仰です。

多くの人が、女の中の女、母の中の母をマリアに見て取るのは、いったい何故でしょうか。それは彼女のひたむきさと謙虚さにあります。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という神への絶対的な信頼にあります。自分のことを、「身分の低い、主のはしため」と呼び、自己の無価値を告白しています。自己の権利を主張するのでもなければ、もちろん相手を批判攻撃するのでもなく、神さまが何もないような自分に目を留めてくださったことに感謝しているだけです。彼女には誇るような功績など何もありません。取るに足りない、田舎生れの貧しい一少女に過ぎません。

そのように現実のマリアは神を畏れ敬う一介の少女にすぎず、世の常の女として、母として生きていただけのことです。陣痛の苦しみを味わえば、生れてきた子どもにお乳を与えたことでしょうし、わが子の健やかな成長を期待するような平凡な女です。決して特別待遇されるような人ではありませんでした。それよりも、不義の子を産んだ女として、世間の冷たい視線に晒されていたことでしょう。聖書には一言も書かれていませんが、マリアの人知れない涙を私たちは読み取らないといけません。神の子を宿した主のお母さんは、世界一幸いな女であると同時に、彼女自身が「剣で心を刺し貫かれた」女でもあるのです。それもこれも、「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。

イエスが十字架に付けられた処刑場で、彼女はその側に立って、わが子の最期を見届けなければなりませんでした。どうして、幸いな者でありましょうか。でも彼女自身が主イエス・キリストにどこまでも従ったからこそ、「女の中で祝福された方」となったのです。もしマリアに爪の垢ほどの野心があったり、自己誇示するような気持ちが心の片隅に少しでもあるようであれば、マリア伝説は生れません。彼女の一生はどこまでも神に、わが子に仕える人でした。イエスから、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と素っ気なく呼ばれても、それで動じる女性ではありませんでした。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と、召使に対しても頭を下げて、頼み込むような女性です。案外に激しさを込めた女性であったことでしょう。それも無理からぬことです。救い主イエスの母として、わが子を育てあげたのです。それこそどれだけ身勝手な世間の声に惑わされ、苦しめられたことでしょうか、想像するに余りあるほどです。否が応でも、逆境に耐えるほかない人生を過ごすしかないのです。聖書には、その具体的な姿がほとんど描かれていませんが、きっとイエスの蔭日向となって、我が子を支え続けたことでしょう。

か弱い一人の女性に、どうしてそこまで出来るのか。それは、そこに神の業が働いているからです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返され追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」(ルカ1:51~54)。これはまさに革命です。暴力ではなくて、愛と義による福音の革命です。マリアの賛歌が、革命歌とも呼ばれる所以です。ここで神学者バルトはこう説教します。「人は自分が上り詰め、その最後に、自分のなりたいと思っていた者になった。自分を大きくなした。神なしで大きくなった。しかし、それは転落に他ならない。もし私たちの計画が、神なしに成功し、目標が達せられるなら、それこそ最も恐ろしい地獄である。神を大きくする時、私たちは小さくなって、消えてしまうのではない。主にあって大きくなるのです。美しくなるのです。何と幸いなことかと思う」。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と、天使は告げました。

マリアはそのとき、芯の底から恐れたはずです。ありえないことが起こったからです。でもその恐れと不安を取り去ったのが、神さまへの信頼です。そして今、賛美にと変わりました。

偉大な奇跡の始まりです。この「逆転」「ひっくり返し」は、聖書の至るところに述べられています。「先の者は、後の者に。後の者は、先の者になり」「強い者は弱く、弱い者は強くなり」「貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々が、幸いになる」と。ルカ福音書16章19-31「金持ちとラザロのたとえ」は、その典型的な物語です。「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」これが聖書のメッセージであり、神の業、イエスのこの世での働き、福音のおとずれでした。だからこそ、このマニフィカートには、「身分の低い」マリアの感謝の思いと、神の正義の賛美が美しく気高く溢れているのです。マリアは、神の偉大な不思議な業を賛美せずにはいられなかったのでした。

 マリアの賛歌は、「わたしの魂は、主をあがめ」ここに尽きるのです。「あがめる」というのは、相手を大きくすることなのです。自分よりも大きくするのです。私たちは、信仰をもっていると言いながら、自分を大きくしようとしたり、見せかけたりすることがあります。信仰を、自分を大きくしたり、自分を飾ったりする道具にしてしまうのです。そのような人の信仰はあくまで人生の飾りであって、自分の人生の中心には自分がいるのです。そうではなくて、主にあって大きくなるのです。美しくなるのです。それゆえに、それが何と幸いなことかと、しみじみと思うのです。神をあがめるというのは、自分の力で高く駈け上るのではなく、神さまが取るに足らないこの私を、心にかけてくださることを覚えるのです。向こうからこちらに駆け寄ってくださるのです。神は主のはしためである、身分の低いマリアを心にかけられた。これがルカ福音書の大きなテーマなのです。

またもう一つ、小さくて地味な存在ではありますが、従妹エリサベトの存在を無視することはできません。マリアの悩みと不安と恐れは、まさしくその先輩でもあるエリサベトと同じでした。おそらく誰にも相談できず、自分一人だけでは背負いきれなかったことでしょう。やはりいつの時代でも、共に生きる仲間、友がいてこその自分でもあります。お互いに話し合い、聞き合い、慰め励まし合い、祈り合うことでもって、私たちは支えられ、安定し、成長し、完成されていくのです。人間の目で見れば、まことにちっぽけな弱々しい存在であって、神さまの目で見てもらえるのならば、“おっと、どっこい”です。こんな自分でもそれなりに生きるに価値があり、実際たくさんの愛に包まれて祝福されているのが分かるのです。そういった幸いに気づく心、感じる心、それが「信仰」というものです。そして、そういう信仰は、決して自分独りだけでは生まれてきません。他に誰かが身近にいることで、生きた信仰となります。マリアにとって従妹のエリサベトは決して付けたし(おまけ)ではありません。彼女が相談相手になってくれたからこそ、喜びと感謝と祈りが歌となったのです。 たとえ「取るに足りない自分」であったとしても、そのことを謙虚に受けとめることができるのならば、「おめでとう、恵まれた方。主はあなたと共におられる。あなたは神から恵みをいただいた」と、天使から祝福されるのです。

私たちはクリスマスを祝う時、神さまがそこで何をなさろうとしておられるのかを忘れないようにしましょう。大事なことは、私たちがこの「マリアの賛歌」を自分自身の日常生活にあって歌い、喜ぶことで、今の状態を超えた視点を与えられ、悔い改めて、新しく生き始めることです。そこで初めて「共に喜び歌う」ことができるのです。隣人愛が、本物となるのです。

最後に一つ質問します。「氷が溶けたら何になるでしょうか」。そうです。「水」です。でも他にも考えられないでしょうか。皆さんの頭を空っぽにして、目をつぶって、ある光景を浮かべてください。「氷が溶けたら、春になります」。冷たくなった物は、冷たい心では溶けません。北風は身も心も凍えさせますが、お日さまの暖かいぬくもりは頑なになった魂を和らげます。

毎年、クリスマスのこの時期から、日は一日一日と長くなっていきます。春の訪れを告げ知らせるイエスさまの誕生日まで、あと一週間を迎えるまでになりました。

今年のクリスマス、私たちもこうした目には見えなくとも神さまの恵みと祝福を心に留めながら、まことの喜びへと導かれたいと願います。

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どこかでつながってる

2010年07月13日 18時20分45秒 | 思想・評論
北九州出身の俳人T・JさんとジャーナリストI・Tさんがふらりと。父と同じ満州建国大学に通っていた上野英信氏と子息の朱(あかし)氏のことを語り合う。父も英信氏も同じく広島で原爆にであっている。それとI・Tさんの甥が奄美市笠利町で小学校の教員をしているとか。人はどこかで繋がっている。

近現代史再考

2010年04月04日 14時24分00秒 | 思想・評論
『日本の近現代氏をどう見るか(シリーズ日本近代史10)』(岩波新書編集部編、2010.2.)を読む。

この「シリーズ日本近現代氏」は、すでに9巻の既刊が出ているのだが、総括編にあたる10巻目だけを読むという“ずる”をして、このシリーズが目指そうとした意図を知ろうとした。

以下、本書の読後感を箇条書きにまとめとみると、以下のようになる。

1.あきらかにこの「シリーズ日本近現代氏」は、歴史修正主義者に対するアンチとして、企画されている。歴史修正主義者が歴史の「読み直し」を企図したように、読み直しをされた側としてのあらたな研究成果を、シリーズの名のもとに、表出しようとしているかと思われる。

2.歴史研究は、その研究者が置かれた時代、状況に左右されることが認識できる。安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というあきらかな歴史の「誤読」を危険視した岩波知識層が、もういちど戦後に積み上げられた歴史研究を、自ら再点検してみようとする強い意志を感じる。

3.『日本の近現代氏をどう見るか』は、シリーズを担当した9人の著者が、自著の総括と、新書という原稿量の制約の中で書ききれなかった研究成果をまとめていて、興味深い内容になっている。いままで歴史研究者が切り捨てていたり問題しなかった立場の人たちの言説を取り上げ、評価したり(幕末の対外交渉にあたった幕府側役人たち)、反対にいままで疑わなかった歴史評価を相対化する(戦後社会はすべて米軍占領統治によって良くなったという美談を点検する)といった作業など、労作が多い。

4.先に「歴史研究は、その研究者が置かれた時代、状況に左右されることが認識できる。」と書いたが、それは、本書に展開されている研究は、イデオロギー対立が明確に歴史研究に深い影を落としていた時代には、困難であったろう視野の広角さが見られるからである。歴史修正主義者が提起した「戦後という時代の否定」に触発されて、彼らが「誤読」した「近現代史」のありようを、自分たちなりに「再読」してみようとした試みなのである。その「再読」には、戦後という時代に形成された「前時代を否定することで構築された合意」を再点検したり否定したりすることなども含まれているように思われる。こうした視座は、一見あやういものとみることも出来ようが、「誤読」を自分たちなりに回収した上での「再読」の確立という評価も出来るために、本書の置かれた位置は、新たな歴史研究の姿を提示しているのかもしれない。

神戸震災文学シンポジウム

2010年01月11日 12時16分55秒 | 思想・評論
いよいよ阪神・淡路大震災の発生から15年目を迎えようとしています。
1.17が近づくと、救急車のサイレン音を聴くだけで、胸騒ぎがします。
また、今も聞こえるのですが、拙宅の近所で、家を解体している音。これも1.17のあ
とさんざん街に響いていた音です。壊しているのは、その家ばかりでなく、街や、神
戸や、わたしであるかのような思いにかられます。


参加は自由。会場の神戸文学館は、関西学院大学の創立地に建てられたチャペルを活
用。素晴らしい環境です。皆さまのふるっての参加をお待ちしています。


》》》シンポジウム「神戸 震災文学を語る〈詩・短歌・俳句・川柳〉」《《《

★日時/2010年1月16日(土)午後1時30分~3時30分
★場所/神戸市立神戸文学館
〒657-0838神戸市灘区王子町3丁目1番2号 電話・FAX 078-882-2028 阪急「王子
公園駅」下車、神戸市立王子動物園の西隣。徒歩7分。JR「灘駅」からは北へ徒歩10
分。
★参加費/200円

◆企画趣旨/1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、神戸の歴史や文学に大
きな断層を生み出した出来事です。この震災が、神戸の文学のありようにどのように
変化させていったのかを検証しつづけることが、神戸で生き、生活している者の大き
な仕事であり続けると思っています。震災から15年を迎える前日(1月16日)に、
「神戸震災文学を語る」というテーマでシンポジウムを企画しました。
 詩、短歌、俳句、川柳の各文学ジャンルで活躍している表現者のみなさんに参加し
ていただき、阪神・淡路大震災が発生して書かれた作品を語ることで、なにが表現さ
れたのか、またそれらの作品は、各ジャンルの創作史の中でどのように位置づけられ
るのかを、検証してもらいます。

◆パネラーと取り上げるジャンル
  〈 詩 〉 たかとう匡子 (詩人)    
  〈短歌〉 彦坂美喜子    (歌人) 
  〈俳句〉 野口 裕     (俳人) 
  〈川柳〉 小池正博     (柳人)  
          ---------(司会)大橋愛由等(図書出版まろうど社代表)

◎〈詩〉-----発表者/たかとう匡子
◆発表骨子
 私のなかには、震災の体験は打ちのめされたのは自分の言葉だったという思いが今
もある。現実のほうが圧倒的に凄まじかったということで、言葉より現実の方が強い
のだからその現実を言葉でとらえることは並大抵ではない。この経験の先行形態とし
て、たとえば金子光晴の『黄金蟲』がある。金子は地震を契機に評判の高かったこの
サンボリズム詩集の継続を捨ててしまった。私にとっても只ごとではない。その辺り
を自分の経験に重ねてお話してみたい。

◇たかとう匡子 (たかとう・まさこ)
詩人。日本文藝家協会会員。神戸で被災。震災後、この体験をモチーフにした詩集
『ユンボの爪』、『立ちあがる海』、『水嵐』など五冊を刊行。ほかに詩集『学校』
(第8回小野十三郎賞)『女生徒』。エッセイ集『神戸ノート』など。 

◎〈短歌〉-----発表者/彦坂美喜子
◆発表骨子
歌には、その場の状況や事実を記録する機会詩としての側面があるといわれている。
それは、震災後の新聞歌壇や短歌雑誌に、阪神大震災の作品がたくさん寄せられてい
ることを見ても分かると思う。しかし、作品というレベルで考えるとき、単に事実を
直截に詠めばいいのかという問題も起きている。事実の再現・報告の素朴リアリズム
か詩的想像力か。震災から15年経った現在、「風化しない震災の表現とは」につい
て考えてみたい。

◇彦坂 美喜子(ひこさか・みきこ)
1985年・春日井建主宰の中部短歌会入会。昭和63年度中部短歌会「短歌賞」受
賞。歌誌「井泉」創刊同人。編集委員。評論「現代短歌はどこで成立するか」。大阪
歌人クラブ会員。中原中也の会理事。歌集『白のトライアングル』。

◎〈俳句〉-----発表者/野口裕
◆発表骨子
 代表句、「鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ」の林田紀音夫は、昭和五十年の第二句
集「幻燈」以降、沈黙するかのように句集を出さぬまま、平成十年に逝去した。唯一
の弟子、福田基氏はその後の句を拾い上げ、「林田紀音夫全句集」をまとめた。そこ
には、平成七年に被災した際の八十句ほどが含まれている。時宜を得た発表をすれば
反響もあったであろう。しかし、彼はあえてそれを見送っている。なぜだろうか? 
考えてみたい。

◇野口裕(のぐち・ゆたか)
 一九五二年生まれ。一九九四年、震災の前年より五七五を手がける。「五七五定型」
同人。「垂人」、「逸」などに作品を発表している。インターネット上のWEB「週
刊俳句」で「林田紀音夫全句集拾読」を連載中。

◎〈川柳〉-----発表者/小池正博
◆発表骨子
 堺の川柳人・墨作二郎は震災直後に百句を書き、一冊の句集にまとめている。震災
の直接体験者ではないが、川柳界の反応として早い時期のものだった。大きな出来事
が起こったとき、直接体験者は衝撃から立ち直り表現に至るまでの時間を必要とする。
一方、第三者による表現がどれだけ真実をとらえているかについては、懐疑的な見方
もある。震災をめぐる時事句(社会詠)に対して、体験者・非体験者による表現の差異
と問題点を考える。

◇小池正博(こいけ・まさひろ)
 「MANO」「現代川柳点鐘の会」会員。「バックストローク」「豈」「五七五定
型」同人。句集にセレクション柳人『小池正博集』(邑書林)。評論集『蕩尽の文芸』
(まろうど社)。共著に『セレクション柳論』。

安重根 決起百年の日に集うの会

2009年10月26日 23時30分10秒 | 思想・評論
いよいよ、その日がやってきました。

午後5時半に会場につくとすでに、会場設定は済んでいます。
金里博氏はこの枚方市で29年間、「朝鮮語講座」を担当していて、市当局ならびに、生徒諸氏と厚い信頼関係ができているのです。ですから、わたしがした準備といえば、パネラーの名を印刷した紙、一文字の紙、両面印刷をして折りや丁合が出来ていない紙の束をスタッフのみなさんに渡しただけです。それがいつのまにか、すべて出来上がっているのです。いやあ感服いたしました。さすが、里博氏の枚方に根が生えた仕事が結実しているさまが目に見えてきます。

以下は、私が会の冒頭に挨拶した内容です。
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わたしが本日こうして「安重根 決起百年の日に集う」という集会を企画いたしましたのには、二つの理由というか動機があります。

まず第一の理由は、安重根の文章との出会いです。岩波書店から発行されている「月刊 世界」10月号に、安重根の絶筆となった「東洋平和論」が本邦初訳されています。その未完論文の解説を読んでいますと、今日(10月26日)がちょうど安重根が伊藤博文をハルビンで暗殺して百年になることを確認できたのです。さっそく畏友である金里博氏に電話をして、なにかこの百年を記念した自前の会合ができないものかと提案したところ、快諾をいただいたのです。そして大阪の私立高校で歴史を教えている寺岡良信氏にも声をかけて日本の高校における歴史教育の現場から、安重根と伊藤博文はどのように教えられているのか、また安重根と彼をとりまく当時の東アジア情勢についてどのように捉えているのか、を語っていただこうと思ったのです。

二番目の理由として、安重根の行為はテロリズムの枠に収まらないなにか強い精神性を感じたからです。韓国で安重根は、抗日闘争の英雄であり、国民の間でいまも熱く支持されています。かたや日本の立場からしますと、明治政府の功労者であり重鎮(元老)であった政治家が殺されてしまったので、内政や外交などにおいて、大きな痛手となったのです。ところが不思議なことがあります。安重根について日本において讃える声が細々とではありますが、着実に連綿と継承されているということです。それはどうしてでしょうか。私は考えるに、まず安重根の人間として個人的魅力に起因するものがあったと思います。獄中にあるとき、読書と執筆にうちこみ、その清廉な姿をみて慕う日本人が多くいたのです。

そしてもうひとつ忘れてはいけないことは、安重根の行為の動機に、個人的なうらみとか、思いつきではなくて、なにか大きな動機が考えられるということです。それは一体なにかと考えますと、安重根を形容する時に使用される〈義士〉とか〈義挙〉といった〈義〉ですね。安自身も間島(韓国と満州の国境地帯)でパルチザン闘争をしている時に、「独立義軍」という名称の軍隊に所属していたことがあります。わたしは安重根をこの〈義〉という概念でとらえられないか、と考えたのです。

〈義〉というのは、「あるべきことがあるべきようになるために向かう強い動機になると思います。その〈義〉にふりがなを振るとすれば、〈義(ただ)しい〉となるのではないか。つまり〈正義〉とは、「正しい」の意味を重ねた熟語ではないかと考えています。つまり安重根にとって韓国独立はあるべきことであり、それに向けた行為(暗殺を含めてですが)は、正(=義)しいことだという信念に基づいていたと思います。

今の日本と韓国とで大きく異なっているのが、暗殺された伊藤博文に対する評価です。韓国側の評価というのは、あとで朗読していただく金里博氏の詩によく現れていると思います。この違いの善し悪しを判断するのではなく、この百年という時間の流れはひとつの共時的空間、つまりひとつの塊としての時空間を形成しているようにも、思えます。いま我々がこうして百年を一区切りにして、安重根を語るということは、この百年間われわれはどのように過ごし、彼の決起の意味をどれほど内在化できていたのかを問うキッカケでもあり、かつまた次の日韓関係の百年に向けたメッセージになるかものだと思っています。私はそういう思いで、今日のこの会を企画いたしました。


10.26安重根の会 チラシ文

2009年10月13日 12時50分53秒 | 思想・評論
10月26日に行われる<安重根 決起百年の日に集う>のチラシを作成しました。

そこに載せた情報をここに紹介します。

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☆安重根 決起百年の日に集う
   〈--あなたはなにを撃ったのか〉

1909年10月26日→2009年10月26日

☆日時/10月26日(月)午後6時~8時
☆場所/枚方市・サンプラザ生涯学習
   市民センター サンプラザ3号館5階
☆資料代/500円
☆主催/安重根決起百年の日に集う会事務局
☆問い合わせ先/図書出版まろうど社 
        maroad@warp.or.jp

〈挨拶〉ちょうど百年前のことだった。一九〇九年一〇月二六日。中国東北部・ハル
ビン駅頭に立った安重根(一八七九―一九一〇)は、ロシアの蔵相ココフツォフと会
談するために到着したばかりの韓国統監府初代統監・伊藤博文に向かって拳銃を発砲。
その命を奪った。ロシアの警備員に取り押さえられ、日本の司法当局に引き渡されて
のち、翌年三月二六日旅順口で処刑される。獄中では、執筆にいそしみ、その清廉な
人柄を慕う日本人も多く、日本政府は同情が広がることを恐れて極刑を科し刑の執行
を早めたとも言われている。安重根は、韓国独立を欣求したばかりでなく、東洋平和
の確立も真摯に渇望していたのである。しかし、彼が放った銃弾は、「韓国併合」を
加速させるという歴史の皮肉を産んだ。韓国で安重根は「抗日闘争の英雄」であり一
九七〇年には「安重根義士記念館」が建設され顕彰されている。そして日本でもテロ
リストという側面を越え、民族的使命に裏付けられた義挙を讃える声が連綿と継承さ
れている。しかし、現在の朝鮮半島や東アジア情勢は安重根が生命を引き替えにして
までも希んだ結果なのだろうか。彼が決起して百年のちの今、韓国の民族精神の具現
者である金里博氏に、安重根を深く語ってもらうことで、改めて彼の、時代を超えた
<義>について考えていきたい。

★当日の内容
 ☆01--午後6時 司会(図書出版まろうど社代表・大橋愛由等)あいさつ
--会の企画趣旨説明
▼第1部 
 ☆02--午後6時15分~ 寺岡良信氏(大阪・金蘭千里高校講師、詩人)「韓国併合」
前後の東アジア情勢―日本の高校の現場で教えられているもの
▼第2部 
 ☆03--午後6時45分~/金里博氏「安重根を語る」
▼第3部
 ☆04--午後7時40分~/詩の朗読 里博氏のハングル詩「大韓ここにあり―安重根」
を朗読。続いて詩人・上野都さんの同作品翻訳を朗読。
関西の詩人たちの朗読もあり。
 ☆05--午後8時 司会挨拶で終了


▼〈集う会〉に向けた金里博氏のメッセージ
 朝鮮独立運動の義士・安重根の決行は、マルクーゼの「抑圧され屈服させられてい
る少数民族には、もし合法的手段が不十分と分かったならば、非合法的手段を用いて
反抗してよい、『自然権』があると、私は信ずる。法や秩序は、いつでもどこでも既
成の階層的秩序を防衛するためなのだ。…かれらが暴力を行使するにしても、それは
決して暴力の新しい連鎖をはじめるのではなく、既成の体制化された暴力を破壊する
のである。かれらは罰せられる以上、その危険を知っており、あえてその危険をみず
から引き受けようとしているのだから、いかなる第三者も、とくに教育者や知識人は、
暴力をやめよと説教する権利はないのだ。」(抑圧的寛容1965.岩波現代文庫 生松
敬三「社会思想の歴史」P200~2001)の主張と思想に一致する。私はマルクーゼの主
張と思想を支持賛同する。


会場案内
◇枚方市サンプラザ生涯学習市民センターは、京阪電車「枚方市駅」の駅ビル「サ
ンプラザ3号館」5階にあります。京都・大阪方面から交通至便な場所にあります。


▼金里博氏プロフィール

▽大韓民国文化観光省選定「韓国語・
 語文守り人」(06)
▽大韓民国ハングル学会日本関西支会
 会長・弘報大使(08)
▽在日本韓国文人協会会長
▽枚方市教育委員会朝鮮語教室特別職
 非常勤講師
▽龍谷大学コリア語講座・関西大学比
 較地域文化講座非常勤講師
▽ハングル詩人
▽私設・コリアン書堂文化大学学頭

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以上です。
だれでも参加できます。
直接会場にお越し下さい。



安重根 決起百年の日に集う

2009年10月07日 18時04分19秒 | 思想・評論
「安重根 決起百年の日に集う」についての詳細です。

》》》》》》安重根決起百年の日に集う《《《《《

☆日時/10月26日(月)午後6時~8時
☆場所/枚方市・サンプラザ生涯学習市民センター
    〒573-0032 大阪府枚方市岡東町12-3-508 
    京阪電車枚方市駅東口サンプラザ3号館5階
   (京阪電車「枚方市駅」の駅ビルの中にある枚方市の施設です)
☆会費/資料代程度(未定

◇当日の内容は以下のように考えています。

☆01--PM6:00 司会(大橋)あいさつ--この会を開催しようと思った経緯説明。
☆02--PM6:15 第1部/寺岡良信氏(大阪・金蘭千里高校歴史教諭、詩人)の話・「韓国併合」前後の東アジア情勢。司会と会場から質疑応答時間設定
☆03--PM6:45 第2部/金里博氏 「安重根を語る」時間はPM7:30まで。その後、質疑応答の時間設定。
☆04--PM7:40 第3部/詩の朗読 里博氏の安重根の詩、都さんの翻訳詩ほか、詩人たちの自作詩
☆05--PM8:00 司会挨拶で終了



◆「月刊めらんじゅ46号」に掲載した「安重根決起百年の日に集う」についての呼びかけ文です

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決起からちょうど百年
安重根が撃ったものは
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 それは夏の読書遍歴から派生した驚きと確認であった。

 ひと夏かけて、ちくま文庫の「ギリシア悲劇」4冊を読破しようと野望を抱いたのだが、エウリピデスの二、三篇を読んだ時点で、残る全体の圧倒的な分量に、早々に白旗を挙げてしまい、新書本読みに特化しようと変節し、『ヨブ記』(岩波新書、浅野順一著)を読了した。旧約聖書に描かれたヨブはずっと気になっていた存在だった。第一句集『群赤の街』にも「立ち尽くす六甲颪にヨブの群れ」という阪神大震災が起きた直後に作った句を収録している。ヨブはたび重なる不幸に見まわれても、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほほむべきかな」「われわれは神から幸をうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか」と、決して神を恨まず、自分が神に対して思いなしている義よりも、神の義を優先した信仰の厳しさを訴え続けてる。

この『ヨブ記』と同時代(紀元前5世紀)に書かれ、同じく巨きなものから与えられた辛苦に対して立ち向かうテーマが描かれているのが、なんとギリシア悲劇の「縛られたプロメテウス」(アイスキュロス作)であった。そのことを知って一度挫折した「ギリシア悲劇」読みを復活させたのは言うまでもなかった。

もうひとつの驚きは、こうした読書遍歴と関係なく購入した月刊誌「世界」10月号に掲載されていた安重根(1879-1910)の「東洋平和論」も、私の中で夏に熟成していたテーマと強い連関を持つようになるのである。キリスト教と深い関係があった安は、韓国統監府初代統監であった伊藤博文を、中国・ハルピン駅頭で暗殺するその動機について、個人を超えたなにか大きな存在と義の契約を交わしていたからこそ、“義挙”に打って出たのではないかと思っている。安にとってその決起は<義(ただ)しき>行いであったのだろあう。来月が、その“義士”の決起(1909年10月26日)からちょうど百年にあたることを知った。そこで安の義を想い、ささやかな集いを持つことを企画したのである。

旧約聖書=義の書/ヨブ記読書ノート02

2009年09月16日 13時56分16秒 | 思想・評論
(2)旧約に書かれた義について考えてみよう。

「一般に旧約聖書は義の宗教であり、新約は愛の教えであるといわれている」(p53)と著者は書く。
ではこの義とはいったいなんだろう。
あるべきものに対する遵守の精神と行為だろうか。

しかし、「ヨブ記」では、ヨブの義と神の義が対立する。
「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほほむべきかな」
「われわれは神から幸をうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか」
と語り、ヨブがたび重なる不幸にみまわれても、主(神)を恨んだり、信仰を疑ったりせずに、神(主)の優位性を強く確認することが、「ヨブ記」の大きな骨格といえよう。

つまり自分(ヨブ)が感じている義であっても、それは主(神)の義ではなく、つねに人の義は、神の義によってさらされ、判定されることになる。

こうした義の定立が産まれるのは、人となにかとの契約があてこそのものではないかと思っている。
ヨブと神との契約関係があってこそ、義はさらされ。判定されるのであろう。

義はつねに義(ただ)しくなくてはならない。しかしその「ただしさ」は、旧約の世界にあっては、神との契約の中で、曝され、修正されていくものなのか。

いま、安重根について思惟を続けている。〈義士〉と言われる安重根もキリスト者であったという。このことを考えると、安も、個人の想いや決意を越えたなにものかと強い靭帯と契約を結ぶことで〈義挙〉を決行したのかもしれない。

では信仰をもたない私にとって義は、なにを根拠として成立するのだろうか。信仰ではない〈祈り〉の中で義はなりたっていくのだろうか。しかし〈祈り〉をいくら重ねても信仰にはならないと著者は指摘する(p99)。

義(ただ)しくあるものに対する強い感情というのは、華厳の事事無礙法界に対する希求と似ているとも思える(あるいは、明恵の「阿留辺畿夜宇我(あるべきようわ)」が定立しようとした精神世界に似ているのかもしれない)。しかし華厳の世界からは、義という個人を超克した政治・思想的行為の強い動機に発展するとはかんがえにくい。

安にとっての義は、個を超えた神が許した義だったのか----疑問は尽きない。


同時代性/ヨブ記読書ノート01

2009年09月15日 17時49分29秒 | 思想・評論
義という概念が気になっている。

『ヨブ記』(岩波新書、浅野順一著)を読了。

旧約聖書のヨブはずっと気になっていた存在だった。
第一句集『群赤の街』にも
・立ち尽くす六甲颪にヨブの群れ
という作品を載せている。

去年暮れから、忍従をしいられるいくつかの事態に直面して、ふたたびヨブの存在が身近に感じていた。

本書を読んで、覚え書き風の読書ノートを記することにしよう。

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(1)「ヨブ記」が成立したのは、紀元前5世紀頃とされている。旧約聖書のひとつなので、とんでもない過去だと思っていたが、意外な作品と同時代性があることを知った。この『ヨブ記』の内容に似ていて、同時代に書かれたものに、アイスキュロス(紀元前525-456)が書いたギリシア悲劇『縛られたプロメテウス』がある。その辛苦する主人公の姿が、同時代作品として比較される原因を作っているようだ。

ただし、著者の浅野順一は、「その(『縛られたプロメテウス』/大橋注)中に取り上げられている問題がヨブ記のそれと非常に近い。それ故、ヘブル文学とギリシア文学、ヨブ記とプロメテウスを比較して論じる研究者もいるが、歴史的に見て、ヨブ記の中にギリシア文学の影響をはっきり認めることには躊躇を感じる」(p9)と、比較されることを紹介しているものの、ふたつの作品間の連関性については疑問を呈している。

私がこの「ヨブ記」とギリシア悲劇の一作品が比較されることを、読書ノートの最初に記したのは、今夏にギリシア悲劇(ちくま文庫版4冊)を読破しようと野望をいだいたものの、早々に挫折して、手頃な新書読みに変節したばかりだったので、その私を諌めるように、ギリシア悲劇を注視するよう、なにものかが喚起したものと受けとめた。

私の驚きは、旧約聖書というテキスト性が強い箴言にみちた神の書と、観客がいて、作家がいて、劇場があるというたっぷりの世俗性がなくしては成立しえなかったギリシア演劇が、同時代に存在していたという事実に集中する。

そして、私の読書はこの『ヨブ記』の次として、アイスキュロスの「縛られたプロメテウス」を選択したのはいうまでもない。








2009.10.26安重根決起百年

2009年09月12日 16時53分08秒 | 思想・評論
月刊誌「世界」に掲載された安重根の「東洋平和論」やその解説を読んで、来月の26日がちょうど、安重根が決起して伊藤博文を暗殺した日から百年が経過するのだということを知る。

ちょうどこの日は、時間の余裕があるので、〈安重根決起百年〉をテーマとする会合をささやかながら企画しようと思った。
さっそく京都在住の民族主義者・金里博氏に連絡をとって、この日をあけてもらうよう要請。氏は快く私の企画を受託してくれた。

金里博氏の安重根に関する評価を中心に、詩人で高校日本史教諭である寺岡良信氏にも、日本の政治史の中における伊藤博文の位置を語ってもらう予定である。場所は京都か枚方を予定している。

また、詩人仲間には、その会に向けて、安重根についての書き下ろし作品を書いてもらうことも併せて提案していくつもりである。

詳細が分かったら、また知らせることにしよう。




何年ぶりかに「世界」を読む

2009年09月10日 13時47分20秒 | 思想・評論
昨日は「月刊 新潮」10月号を購入。島尾敏雄日記の連載三回目を読む。

今日も総合雑誌を買う。「世界」(岩波書店)10月号。

いまから30年前、わたしが高校時代の頃は、さかんにこうした総合雑誌を買った。最前線の知識や評論の吸収のための必須のメディアだったのだ。当時は、「総会屋系左翼雑誌」というものがあって、発行者は、大手企業からの毎月の金銭を巻き上げる総会屋か右翼がらみの者(団体)であるが、編集者や執筆陣は、左翼的な陣営というねじれた発行形態だった雑誌が何誌かあって、重要な論陣の一角を担っていた。インターネットがまだない1970年代は今と比較できないほど、多くの性格のはっきりした月刊総合雑誌が刊行されていた。

私が「世界」を読んでいたのは、朴正煕大統領の民主化弾圧に抗議する韓国発の「T・K生」による韓国レポートを読むためであった。

おおよそ30年ぶりに購入した「世界」には、安重根の絶筆手記の翻訳が載っているのである。
来月の26日で、ちょうど百年となる1909年10月26日。中国東北部ハルピン(哈爾浜)駅頭で、当時の朝鮮総督府の初代総監だった伊藤博文は、安重根によって暗殺された。その安の絶筆である「東洋平和論」が本邦初訳されている(伊東昭雄訳)。

ただ残念なことは、この絶筆が未完であることだ。暗殺現場でロシア警察に逮捕され、日本側に引き渡されて1910年3月26日に、旅順口区の旅順刑務所内にて絞首刑にされるのだが、安はこの「東洋平和論」が執筆し終わるまで刑の執行を待ってほしいと懇願するも聞き入られなかったために中途で筆がとまっている。

この「東洋平和論」は、近代以降の東アジアにおける政治軍事情勢を分析して、日本の帝国主義的野望によって、次第に国権が制限されつつある韓国から発せられる義憤と慟哭が連綿と綴られている。

つまりなぜ自分は伊藤博文を撃たなければならなかったのかを、個人を越えた民族的動機、その義憤のありようを書き残しておこうというものである。

この安重根の暗殺への評価は、一定ではなく、韓国では「抗日闘争の英雄」とされ、「安重根記念館」もソウルに建設さされている(また「多黙 安重根」〈2004、ソ・セウォン監督〉という映画が制作されている)。しかし、「 安重根が伊藤博文を撃つ」という映画を制作している北朝鮮は、朝鮮併合に消極的だった伊藤博文を暗殺したことを問題視しているようである。この暗殺によって、一挙に併合にむかって加速したことはどうやら事実のようだ。ただ、この北朝鮮の評価も、金日成の偉業を際出させるために、安重根の義挙を相対化しているとも思えるので注意しながらその評価をみていかなくてはならない。

日本でも、安重根の義士としての振る舞いに深く同調する者が多いことは確かである。また、伊藤博文は安重根に暗殺されることによって、反対にその名を高らしめたと言い得るのかもしれない。暗殺されることによって、義挙の対象になるほどのものであることは伊藤にとって、名誉であるかもしれない。

伊藤は、朝鮮併合はコストがかかりすぎるために、日本の国益にそぐわないと主張していたので、韓国から発せられる伊藤=韓国併合をもくろむ帝国主義的野望をもった日本の権化とみなすのには無理があるかもしれない。が、しかし、当時の朝鮮支配の最高責任者である伊藤のたまをとった行為は、テロという無惨な手法であったとしても、当時の韓国人が可能な数少ない表現手段のひとつであるのに違いない。日本においては、安重根を「テロリスト」扱いすることによって、評価の中心にもってくる人がいることも確かである。しかし、幕末の日本は多くのテロリストたちによって、時局の変化が刻印されたことを考えると、日本の幕末・維新の過程ではテロリズムは必要悪で、安重根のテロは容認できないというのは、筋が通らないのではないか。

どうも私は、安重根にしろ、ヨブにしろ「義」に生きた人に対して心情的に深いシンパシーを感じるようである。





ジャガイモにこだわる

2009年06月04日 09時54分38秒 | 思想・評論
それは、ジャガイモについて私の知見を決定的に転換させた映像だった。
NHK-TV特集で、アイルランドにおけるジャガイモの生育を定点観測で追っていた。あきらかに痩せ地と思われる耕地の、植え付ける前の姿と、数カ月後の立派に育っている畑の姿が映し出されていた。何の番組だったのか思い出せないのだが。
アイルランドは、氷河期が長かっただけに、土壌が薄く、しかもその土壌も気温が低いために腐植土が少ないという農業をするには劣悪の環境であるのだが、そうしたなかでもこの作物は育つのだということを見事に視覚化していた。それ以来、ジャガイモがいとおしく感じるようになったのである。

山本紀夫著『ジャガイモのきた道--文明・飢餓・戦争』(岩波新書、2008)読了。

私なりの読みをまとめると以下のようになる。

(1)クニから国家に発展するとき、食糧の備蓄が権力を発生させると言われるが、その食糧とはもっぱら米、小麦などの穀類を指している。つまり備蓄が難しいジャガイモなど芋類では、国家は誕生しないといわれている通説に対して、本書は異議を唱えているのが面白い。その例として挙げているのは、インカ帝国である。インカ帝国の領域は、一般にはトウモロコシ(穀類)を栽培して備蓄していると言われているが、帝国の中心地は高地であり、そこはトウモロコシの栽培限界高度を超えている。インカの人たちは、ジャガイモを「チューニョ」という保存形態にすることで、備蓄食糧としたのである。よって、国家の誕生は決して穀類の備蓄が可能な地所ばかりからではないことを、著者は主張している。これは本書の枢要であろう。国家というものを考える際にもヒントを与えてくれる。

(2)ジャガイモは、スペイン人によって、ヨーロッパにもたらされる。スペインを経由してヨーロッパに伝播していくのだが、痩せ地でも充分生育して栄養価の高いこのジャガイモの恩恵を深く受けたのは、温暖なスペインではなくて、アイルランドやドイツといった北玲の地だった。このジャガイモは欧州の歴史を変えたと言っていいのかもしれない。特に17世紀以降の天候不良時に人々を飢餓から救ったのは、このジャガイモであったからだ。また日本でも救荒作物として、江戸時代にはすでに威力を発揮している。

(3)一方で、ジャガイモによって大きな災難をこうむった場所もある。1845年からはじまるアイルランドの「ジャガイモ大飢饉」である。アイルランドは、ジャガイモに食糧供給を依存しすぎていたためと、単一種しか栽培しなかったために、その病気が蔓延したとき、病気に対する耐性が同一であったために、飢餓が深刻なものとなった。

(4)これに対して、アンデスの伝統農法は、ひとつの畑に多くの種類のジャガイモを植え付けることで、それぞれの種が持つ耐性を活かして、どんな気象条件でも最低限以上の栽培が可能になるようにしている。ただ、こうしたアンデスの伝統農法は、休閑地を多く設定するため、アメリカに比べて収量が悪くなっている現実もある。

(5)私にとって、ジャガイモをより身近にしたのは、毎年2月の新ジャガの産地が、奄美だということである。1月に沖永良部島に行くと、丁寧に風よけネットを張ったジャガイモ畑が広がっている。神戸では、2月から3月にかけて、沖永良部産や徳之島産のジャガイモがスーパーなどに並んでいる。ジャガイモの産地はこうして南から始まって、最後は北海道まで北上していくのである。そうした「ヤポネシア・ジャガイモ産地北進ものがたり」の最初が奄美であることも快く思っている。

クセジュの幻惑世界

2009年06月03日 14時05分28秒 | 思想・評論
新書の中で私が注目しているのは、「文庫クセジュ」。
「文庫」と命名されていますが、体裁は新書なのです。

フランスから出版されているだけに、内容が日本の新書とは違っていて興味深いのです。
いわば、西洋文化にぐっと手をつっこんで、つかみ取ったテーマが多いのです。つまりテーマが概論的ではなく詳細にわたっているのです。
この「文庫クセジュ」に入っていなければ、専門書として購読するだろうジャンルのものが、ほぼ1000円で読めるというのは嬉しい限りです。
ただ、もともとの文章の韜晦さゆえなのか、直訳調の約文に出会ってしまったときは、なかなか読み進めることができず、難渋してしまいます。それでもテーマは面白いので、我慢して読み進める価値はあるかと思っているのです。

本日購入したのは、『ラテン・アメリカ文学史』(ジャック・ジョゼ著)。訳者が高見英一氏と、今月わたしが神戸文学館で「神戸とスペイン文学シンポジウム」をする際にパネラーとしてお呼びする鼓直氏。シンポジウムの参考資料として購読したのです。

この本の初版は1975年。1998年に第8刷をしています。しかし、版面は、活版で刻字したであろうと思われ、のちにデータ化して組版せずに、活版の版面をそのまま流用しているのです。ですから、文字の風合いが違っています。

新書づくし

2009年06月02日 14時02分34秒 | 思想・評論
今年は新書づくしの読書をしようかと思っています。

もともと私は高校時代に新書を中心に読書をしていたのです。当時は、岩波新書、中公新書、講談社新書を初めとして数限られていたのですが、現在は多くの新書シリーズが刊行されていて驚くばかりです。当時読んだ本や、買いためていた本が、35年の歳月を経て黄ばんでいるものもあり、私の中ですでに歴史が刻印されています。こうした新書を多く読むことで得られた教養主義的な知の蓄積が、学校を卒業して働いた小新聞の記者や、出版編集者として役にたったのは言うまでもありません。

いまのネット社会では、おおよその情報が入手することができますが、より詳細で、より周辺の情報を知るための情報媒体として新書という書籍が一番時代にマッチしているのかもしれません。