島根県益田市で益田教会の元正章牧師が「マリア信仰」について論述しています。
すぐれた内容なので、みなさんに読んでいただこうと思っています。
全文引用しています。
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マリアの賛歌
ルカ1:46-56 元 正章
益田教会 2017年12月17日
アドベント第3週を迎えました。イエスの母マリアの信仰について共に学んでみましょう。
本田路津子「 一人の手」(訳詩 本田路津子 作曲 ピート・シーガー)
一人の小さな手 何もできないけど それでも みんなの手と手をあわせれば
何かできる 何かできる
一人の小さな目 何も見えないけど それでも みんなの瞳でみつめれば
何か見える 何か見える
一人の小さな声 何も言えないけど それでも みんなの声が集まれば
何か言える 何か言える
一人で歩く道 遠くてつらいけど それでも みんなのあしぶみ響かせば
楽しくなる 長い道も
一人の人間は とても弱いけれど それでも みんなが みんなが集まれば
強くなれる 強くなれる
それでも みんなが みんなが集まれば 強くなれる 強くなれる
ところで、禅問答に「隻手の音声」という話があります。ある日、和尚が修行僧全員を集め、彼らの前で両手を合わせて「パチン」とたたきました。そして、和尚は彼らに、両手でたたけば音が出るが、お前たちはこれから片手の音を聞いてきなさいといいました。彼らは賢明に片手で音を出そうとするのですが、手に力が入るだけでできません。これは、自分にこだわる限り音は出ず、相手の手を必要とするという問答なのです。(渡辺純幸著『人生に締切はありません』より)。
小さな手であれ大人の手であれ、自分にこだわっている限り、何もできないという、ちょっとした小噺です。自分の掌をぐっと固く握りしめていれば、息苦しくなってしまわないでしょうか。拳骨を振り回している限り、随分と大げさな振る舞いにみえますが、要は空を切っているだけです。そして最後には疲れ果ててしまい、足がよろけて倒れてしまうだけのことです。それよりも、思い切ってぱっと掌を開いたとき、そこから自分の持っていたものが飛び出して、花開くことになるのではないでしょうか。そのとき、自分の大事にしていたものを、風が運んでくれるのです。聖書の言葉では、風のことを聖霊とも言っています。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)と、イエスはユダヤ人の議員であるニコデモに言いました。「あなたがたは新たに生まれねばならない」と。
讃美歌では、「みんな手と手を合わせたとき、ひとりの手ではできなかったことが、できるようになる」と歌われています。それが何なのか、そこまでは具体的に描かれていません。しかし、「何かできる 何かできる」と、二度同じ言葉が繰り返されています。そこに相手の手がそっと差し出されたとき、何かできるのです。その手が「救いの御手」となるのです。そこで聴く耳のある人には、「パチン」というさやかな響きを聴くことができるでしょう。その響きはまた、御子イエスの産まれた泣き声「おぎゃあ」とも重なってきます。それは「飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子」の、まことに小さな泣き声でしかありません。でも、その誕生こそが、私たちに示された神のしるしなのです。
われらの救い主イエス・キリストが、母マリアのお腹の中に宿られたこの物語は、まことにもって奇跡としか言いようがありません。科学的には、復活の出来事がありえないように、この処女降誕の出来事もありえません。そのことは、神のしるしを実証できないというのと同じことです。その点では、2000年前の人たちも、現代の私たちも、実証できないということにおいては一緒です。しかし、です。乙女マリア自身の立場に立って考えてみれば、どうなるでしょうか。ある日突然、みごもったのです。そのことを、彼女自身どう説明できるでしょうか。納得できたでしょうか。神のしるしを実証できないことで一番驚き、不安に恐れおののいたのは、実にマリア自身でありました。
今週も、マリアの信仰について学んでいます。マリアは言うまでもなく女性です。女性なればこその信仰、神への賛美が歌われています。「マリアの賛歌」であって、「ヨセフの賛歌」にはなりません。なぜなのか。男と女、父親と母親の相違が一番大きな原因であるかと思います。父ヨセフもまた神に対して従順ではあるのですが、その服従にはどこか男の面子というか抗いがあって、一種の主従関係が成り立った上での隷属意識が働いています。しかしマリアの場合、なんとも単純にして、素朴です。最初は恐れと不安におののいても、いったん胸の中に納まりますと、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言えるのです。このような柔軟性を男は欠いています。子守唄はやはり母の懐に抱かれて唄われてこそ相応しいのであって、父親のゴツゴツした腕の中では、サマになりません。それにまたマリアのような慎ましやかさは、男性がいくら真似をして真似できるものではありません。やはりというべきか、天性の素直さがマリアには備えられています。
だからこそ、この後カトリック教会でも特にラテン社会では、「マリア崇拝」が熱烈に起こります。それはキリスト崇拝よりも超えています。父なる神よりも、母なる大地を信仰する民衆の気持ちを捉えています。それは日本でも同じような現象であって、隠れキリシタンはマリアと観音菩薩とを習合させた「マリア観音」を拝むことで、自分たちの信仰の拠りどころとしました。これは父性原理よりも母性原理の優位を示しています。男に頼むよりも、女にすがりたい本能が、マリア信仰を生みました。これは理屈ぬきの信仰、生活に根差した土着的な信仰です。
多くの人が、女の中の女、母の中の母をマリアに見て取るのは、いったい何故でしょうか。それは彼女のひたむきさと謙虚さにあります。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という神への絶対的な信頼にあります。自分のことを、「身分の低い、主のはしため」と呼び、自己の無価値を告白しています。自己の権利を主張するのでもなければ、もちろん相手を批判攻撃するのでもなく、神さまが何もないような自分に目を留めてくださったことに感謝しているだけです。彼女には誇るような功績など何もありません。取るに足りない、田舎生れの貧しい一少女に過ぎません。
そのように現実のマリアは神を畏れ敬う一介の少女にすぎず、世の常の女として、母として生きていただけのことです。陣痛の苦しみを味わえば、生れてきた子どもにお乳を与えたことでしょうし、わが子の健やかな成長を期待するような平凡な女です。決して特別待遇されるような人ではありませんでした。それよりも、不義の子を産んだ女として、世間の冷たい視線に晒されていたことでしょう。聖書には一言も書かれていませんが、マリアの人知れない涙を私たちは読み取らないといけません。神の子を宿した主のお母さんは、世界一幸いな女であると同時に、彼女自身が「剣で心を刺し貫かれた」女でもあるのです。それもこれも、「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。
イエスが十字架に付けられた処刑場で、彼女はその側に立って、わが子の最期を見届けなければなりませんでした。どうして、幸いな者でありましょうか。でも彼女自身が主イエス・キリストにどこまでも従ったからこそ、「女の中で祝福された方」となったのです。もしマリアに爪の垢ほどの野心があったり、自己誇示するような気持ちが心の片隅に少しでもあるようであれば、マリア伝説は生れません。彼女の一生はどこまでも神に、わが子に仕える人でした。イエスから、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と素っ気なく呼ばれても、それで動じる女性ではありませんでした。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と、召使に対しても頭を下げて、頼み込むような女性です。案外に激しさを込めた女性であったことでしょう。それも無理からぬことです。救い主イエスの母として、わが子を育てあげたのです。それこそどれだけ身勝手な世間の声に惑わされ、苦しめられたことでしょうか、想像するに余りあるほどです。否が応でも、逆境に耐えるほかない人生を過ごすしかないのです。聖書には、その具体的な姿がほとんど描かれていませんが、きっとイエスの蔭日向となって、我が子を支え続けたことでしょう。
か弱い一人の女性に、どうしてそこまで出来るのか。それは、そこに神の業が働いているからです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返され追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」(ルカ1:51~54)。これはまさに革命です。暴力ではなくて、愛と義による福音の革命です。マリアの賛歌が、革命歌とも呼ばれる所以です。ここで神学者バルトはこう説教します。「人は自分が上り詰め、その最後に、自分のなりたいと思っていた者になった。自分を大きくなした。神なしで大きくなった。しかし、それは転落に他ならない。もし私たちの計画が、神なしに成功し、目標が達せられるなら、それこそ最も恐ろしい地獄である。神を大きくする時、私たちは小さくなって、消えてしまうのではない。主にあって大きくなるのです。美しくなるのです。何と幸いなことかと思う」。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と、天使は告げました。
マリアはそのとき、芯の底から恐れたはずです。ありえないことが起こったからです。でもその恐れと不安を取り去ったのが、神さまへの信頼です。そして今、賛美にと変わりました。
偉大な奇跡の始まりです。この「逆転」「ひっくり返し」は、聖書の至るところに述べられています。「先の者は、後の者に。後の者は、先の者になり」「強い者は弱く、弱い者は強くなり」「貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々が、幸いになる」と。ルカ福音書16章19-31「金持ちとラザロのたとえ」は、その典型的な物語です。「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」これが聖書のメッセージであり、神の業、イエスのこの世での働き、福音のおとずれでした。だからこそ、このマニフィカートには、「身分の低い」マリアの感謝の思いと、神の正義の賛美が美しく気高く溢れているのです。マリアは、神の偉大な不思議な業を賛美せずにはいられなかったのでした。
マリアの賛歌は、「わたしの魂は、主をあがめ」ここに尽きるのです。「あがめる」というのは、相手を大きくすることなのです。自分よりも大きくするのです。私たちは、信仰をもっていると言いながら、自分を大きくしようとしたり、見せかけたりすることがあります。信仰を、自分を大きくしたり、自分を飾ったりする道具にしてしまうのです。そのような人の信仰はあくまで人生の飾りであって、自分の人生の中心には自分がいるのです。そうではなくて、主にあって大きくなるのです。美しくなるのです。それゆえに、それが何と幸いなことかと、しみじみと思うのです。神をあがめるというのは、自分の力で高く駈け上るのではなく、神さまが取るに足らないこの私を、心にかけてくださることを覚えるのです。向こうからこちらに駆け寄ってくださるのです。神は主のはしためである、身分の低いマリアを心にかけられた。これがルカ福音書の大きなテーマなのです。
またもう一つ、小さくて地味な存在ではありますが、従妹エリサベトの存在を無視することはできません。マリアの悩みと不安と恐れは、まさしくその先輩でもあるエリサベトと同じでした。おそらく誰にも相談できず、自分一人だけでは背負いきれなかったことでしょう。やはりいつの時代でも、共に生きる仲間、友がいてこその自分でもあります。お互いに話し合い、聞き合い、慰め励まし合い、祈り合うことでもって、私たちは支えられ、安定し、成長し、完成されていくのです。人間の目で見れば、まことにちっぽけな弱々しい存在であって、神さまの目で見てもらえるのならば、“おっと、どっこい”です。こんな自分でもそれなりに生きるに価値があり、実際たくさんの愛に包まれて祝福されているのが分かるのです。そういった幸いに気づく心、感じる心、それが「信仰」というものです。そして、そういう信仰は、決して自分独りだけでは生まれてきません。他に誰かが身近にいることで、生きた信仰となります。マリアにとって従妹のエリサベトは決して付けたし(おまけ)ではありません。彼女が相談相手になってくれたからこそ、喜びと感謝と祈りが歌となったのです。 たとえ「取るに足りない自分」であったとしても、そのことを謙虚に受けとめることができるのならば、「おめでとう、恵まれた方。主はあなたと共におられる。あなたは神から恵みをいただいた」と、天使から祝福されるのです。
私たちはクリスマスを祝う時、神さまがそこで何をなさろうとしておられるのかを忘れないようにしましょう。大事なことは、私たちがこの「マリアの賛歌」を自分自身の日常生活にあって歌い、喜ぶことで、今の状態を超えた視点を与えられ、悔い改めて、新しく生き始めることです。そこで初めて「共に喜び歌う」ことができるのです。隣人愛が、本物となるのです。
最後に一つ質問します。「氷が溶けたら何になるでしょうか」。そうです。「水」です。でも他にも考えられないでしょうか。皆さんの頭を空っぽにして、目をつぶって、ある光景を浮かべてください。「氷が溶けたら、春になります」。冷たくなった物は、冷たい心では溶けません。北風は身も心も凍えさせますが、お日さまの暖かいぬくもりは頑なになった魂を和らげます。
毎年、クリスマスのこの時期から、日は一日一日と長くなっていきます。春の訪れを告げ知らせるイエスさまの誕生日まで、あと一週間を迎えるまでになりました。
今年のクリスマス、私たちもこうした目には見えなくとも神さまの恵みと祝福を心に留めながら、まことの喜びへと導かれたいと願います。
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