神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

安重根 決起百年の日に集うの会

2009年10月26日 23時30分10秒 | 思想・評論
いよいよ、その日がやってきました。

午後5時半に会場につくとすでに、会場設定は済んでいます。
金里博氏はこの枚方市で29年間、「朝鮮語講座」を担当していて、市当局ならびに、生徒諸氏と厚い信頼関係ができているのです。ですから、わたしがした準備といえば、パネラーの名を印刷した紙、一文字の紙、両面印刷をして折りや丁合が出来ていない紙の束をスタッフのみなさんに渡しただけです。それがいつのまにか、すべて出来上がっているのです。いやあ感服いたしました。さすが、里博氏の枚方に根が生えた仕事が結実しているさまが目に見えてきます。

以下は、私が会の冒頭に挨拶した内容です。
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わたしが本日こうして「安重根 決起百年の日に集う」という集会を企画いたしましたのには、二つの理由というか動機があります。

まず第一の理由は、安重根の文章との出会いです。岩波書店から発行されている「月刊 世界」10月号に、安重根の絶筆となった「東洋平和論」が本邦初訳されています。その未完論文の解説を読んでいますと、今日(10月26日)がちょうど安重根が伊藤博文をハルビンで暗殺して百年になることを確認できたのです。さっそく畏友である金里博氏に電話をして、なにかこの百年を記念した自前の会合ができないものかと提案したところ、快諾をいただいたのです。そして大阪の私立高校で歴史を教えている寺岡良信氏にも声をかけて日本の高校における歴史教育の現場から、安重根と伊藤博文はどのように教えられているのか、また安重根と彼をとりまく当時の東アジア情勢についてどのように捉えているのか、を語っていただこうと思ったのです。

二番目の理由として、安重根の行為はテロリズムの枠に収まらないなにか強い精神性を感じたからです。韓国で安重根は、抗日闘争の英雄であり、国民の間でいまも熱く支持されています。かたや日本の立場からしますと、明治政府の功労者であり重鎮(元老)であった政治家が殺されてしまったので、内政や外交などにおいて、大きな痛手となったのです。ところが不思議なことがあります。安重根について日本において讃える声が細々とではありますが、着実に連綿と継承されているということです。それはどうしてでしょうか。私は考えるに、まず安重根の人間として個人的魅力に起因するものがあったと思います。獄中にあるとき、読書と執筆にうちこみ、その清廉な姿をみて慕う日本人が多くいたのです。

そしてもうひとつ忘れてはいけないことは、安重根の行為の動機に、個人的なうらみとか、思いつきではなくて、なにか大きな動機が考えられるということです。それは一体なにかと考えますと、安重根を形容する時に使用される〈義士〉とか〈義挙〉といった〈義〉ですね。安自身も間島(韓国と満州の国境地帯)でパルチザン闘争をしている時に、「独立義軍」という名称の軍隊に所属していたことがあります。わたしは安重根をこの〈義〉という概念でとらえられないか、と考えたのです。

〈義〉というのは、「あるべきことがあるべきようになるために向かう強い動機になると思います。その〈義〉にふりがなを振るとすれば、〈義(ただ)しい〉となるのではないか。つまり〈正義〉とは、「正しい」の意味を重ねた熟語ではないかと考えています。つまり安重根にとって韓国独立はあるべきことであり、それに向けた行為(暗殺を含めてですが)は、正(=義)しいことだという信念に基づいていたと思います。

今の日本と韓国とで大きく異なっているのが、暗殺された伊藤博文に対する評価です。韓国側の評価というのは、あとで朗読していただく金里博氏の詩によく現れていると思います。この違いの善し悪しを判断するのではなく、この百年という時間の流れはひとつの共時的空間、つまりひとつの塊としての時空間を形成しているようにも、思えます。いま我々がこうして百年を一区切りにして、安重根を語るということは、この百年間われわれはどのように過ごし、彼の決起の意味をどれほど内在化できていたのかを問うキッカケでもあり、かつまた次の日韓関係の百年に向けたメッセージになるかものだと思っています。私はそういう思いで、今日のこの会を企画いたしました。


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