わたしの第一詩集について、版元の変化があった。その経緯をまとめてみることにしよう(Twitterの文章をもとにしています)。
1.
今年から来年にかけて、わたしの属する詩誌『Melange』同人で、詩集を上梓する人は多い。今年10月に出た寺岡良信氏『凱歌』(まろうど社)を始めとして、西本恵さん、高木富子さんも出版予定。そしてわたしも予定している。今回『Melange』と「エクリ」の合評会に提出した作品をもって締め切るつもり。書名は『明るい迷宮』。全18篇。来年1月に出来上がるように努力したい(発行日付は阪神大震災が起きた1月17日にする)。さてこれから忙しくなる。
2.
11月7日(月)の姫路における「エクリ」合評会が終わって、詩人・大西隆志氏が経営する書肆「風羅堂」へ赴く。ここは何度訪れてもその高度な棚づくりに驚いてしまう。棚が生きている。こうした書肆はむしろ客として本を見る眼力が問われてしまう。まろうど社の社主として、寺岡氏の詩集を納品し、摂津幸彦氏の句集『陸々集』(1992)を購入。
3.
姫路から帰って翌日の朝、自分の詩集をパソコン上で編集していた時だった。そこに版元となるべくTK氏から電話。「出版業をやめたい」と突然の宣告。まだ本人は60歳台前半で充分に若いのに。母上を亡くされてその精神的ショックもあったのだろうか。驚天動地の事態。どうしよう。出版間際になってこんなことになってしまって。
4.
わたしの第一句集『群赤の街』の版元も引き受けてもらった出版社がもう本造りから手をひくという。代表のTK氏は知り合いの出版社の名を挙げて推奨したり、又は自分の出版社(まろうど社)から出してもいいのではないかとも提言してくれるのだが、それはわたしの美学に反する。さて困った。なんとかしなくとはならない。
5.
TK氏からの電話を切って考えた。ある親しい出版社代表の顔が浮かび、さっそくホームページで出版傾向を確認してみた。アジア関係の面白い本を出しているのだが、文学や評論関係の書籍が多くない。ここに頼んでもいいのだが、わたしの詩集がそういったラインナップの中で浮いてしまわないかと危惧した。
6.
うつらうつら逡巡しているとViviさんからの電話。近頃体調が思わしくないと言うので、そんな人に打ち明けるのはためらわれたが、思い切って「悩みがあるんだけど」と切り出した。Viviさんはわたしの心の中の躊躇の軌跡を知らないはずなのに、ずばりと提言してくれた。
7.
Viviさんが提案したのは、わたしがぼんやり考えていた選択肢を明確に指示したものだった。「大西隆志さんのとこはどう?」。そうだ、今年5月に姫路に上質の文芸関係の書肆「風羅堂」をオープンして勢いにのる大西氏に任せるといいのだ。彼のところにしよう。
8.
大西隆志氏との付き合いは長い。わたしがまだ海風社に編集者として働いていた1980年代、既に有名な詩人だった。その時、わたしは一介のヒラ編集者だったが、大西氏は出版記念会等でゲストとして参加しているほどだったのだ。その彼が永年勤めた役所を辞め、姫路で書肆を開き、出版部門も設けたいと聴いていたのだった。さっそく大西氏に電話をして、いままでの経緯を説明したのだった。
そして神戸で会った時、「書肆 風羅堂」の版元名のもとに、その第一冊目として、わたしの詩集を刊行することに決まったのである(実はその時に版元名が決まった。氏は別名を考えていたようだが、言葉の座りの良さからしてわたしの方から「書肆 風羅堂でいいのではないか」と提案して受諾してもらった)。その後、大阪のブックデザイナーTY氏のもとに行って、装幀の打ち合わせ。東京の某印刷所に連絡して、最終データ入校日などをすりあわせるなど、本作りのステージは進んでいる。