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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

悲をのりこえる島唄

2005年10月31日 17時55分15秒 | FMわぃわぃ
10月31日(月)

本日はFMわぃわぃ「南の風」奄美篇の放送日です。

226回目の今回は、「悲しさをこえて」と題して、「別れ」「生きる」「逢えない」「救い難い」かなしさをテーマにして、曲をかけていきます。

放送した曲は、〈別れる悲しさ〉=「行きゅんにゃ加那」、〈生きる悲しさ〉=「徳之島節」、〈逢えない悲しさ〉=「ランカン橋節」「朝別れ節」、〈救い難き悲しさ〉=「長菊女節」「塩道長浜節」……といったラインナップです。うたというのは、苦難にあったとか、惜別の情をかりたてるとか、非情な情況に陥ってしまったことを歌い込む方が、感情移入がしやすいようです。奄美の島唄には明るい曲も多いのですが、歌う者、聞く者、唄に参加する者をひきつけるテーマとしては、やはりこの悲話が、大きな要素のひとつとなるでしょう。

選んだ唄者にはある仕掛けをしたのです。

築地俊造、当原ミツヨ、中野律紀、松山京子…と続いて、最後は、中村端希とくれば、分かると思います。

奄美の唄者で民謡日本一になった人たちです。5人も民謡日本一を輩出したというのは、まさに快挙。奄美が誇るべき財産だと言い得るでしょう。人口比でいえば、そうとうの高率になるのではないでしょうか。以下に各人の私なりのプロフィールを書いておきましょう。


(1)築地俊造(受賞年/44歳) 日本民謡大賞 1979年
 「日本一」の先駆けを作った唄者はまずこの人です。この大賞受賞にまず驚いたのは、奄美の人たちでした。自分たちが大切に育て上げてきたシマウタが、全国的にも充分に通じることを知った時の喜びは、例えようもなかったほどです。

(2)当原ミツヨ(受賞年/45歳) 日本民謡大賞 1989年
 この人ほど、生活と密着して自然にシマウタが紡ぎだされていく唄者はいないでしょう。まるで呼吸をするように、風がなびくように、うたが吐く息のように口からでてくる唄者です。

(3)中野律紀(受賞年/16歳) 日本民謡大賞 1990年
 二年連続で奄美の人が日本一に輝きました。それに16歳という年齢に注目してください。奄美の唄者のレベルの高さが証明された受賞でした。ただ、若くしての受賞だっただけに、RIKKIの名でその後ポップス歌手としてデビューし、「ファイナルファンタジー」のエンディング曲を担当したぐらいまではよかったのですが、ポップス歌手としては成功したとは言えず、後輩の元ちとせが島唄ブームを牽引すると、また島唄を取り入れたアルバムを作るなど、キャラクティングに"ぶれ"が生じて、これだけの美声の持ち主なのに、それが本土の市場で充分に発揮されていないキライがあるのは残念です。

(4)松山京子(受賞年/45歳) 日本民謡民舞大賞 1998年
日本民謡フェスティバル(受賞年/46歳)グランプリ受賞 1999年
徳之島在住のこの人の歌声は、今までとは全く違うタイプの声質を持った人です。まさにダイナミック。3年前の奄美における民謡民舞大会にゲスト出演してたこの人の歌声を聞いてびっくり。この人、大阪で働いていたこともあって、尼崎の武下流教室に一年ほど通っていたと同教室の重鎮である坂元武広さんは証言してくれました(これを聞くまで名瀬の教室とばかり思っていた)。この人はすでに奄美大島の島唄のCDを出していますが、徳之島の島唄のCDも出してほしいものです。

(5)中村端希(受賞年/26歳) 日本民謡大賞 2005年
21世紀最初の受賞者です。面白いことに、この人もカサンの歌い手。ヒギャは中野律紀だけというのも意外な感じです(カサン系は、築地俊造、当原ミツヨの計3人)。最近では、大阪バナナホールにも出演するなど、唄者活動を盛んにしています。「Kafu」という良き島唄アルバムをジャバラ・レーベルから出したばかり。この人も歌声もいい。しかし、本当に奄美は次から次へと素晴らしい唄者を輩出されるものです。ほとほと関心してしまいます。



「北の句会」で/俳句は越境するか

2005年10月30日 22時02分31秒 | 俳句
10月30日(日)

本日は、2カ月ごとに開催される「北の句会」に出席しました。この句会に参加してはや7年が経過します。でも今年は2回ほど欠席したので、半年ぶりとなるのです。

同句会は、定型詩作家がジャンルを越えて集まります。俳句(有季定型、無季容認)、自由律、川柳、短歌そして時に詩人が結社をこえて参加しています。

私は1999年から参加しています。同会の発起人は、俳人の堀本吟さん。評論もものするという表現者で、吟さんの発案のもとに、ジャンルを越えて定型詩の妙味を共有しようと始まったのです(わたしは勝手に、"シャーマン吟"と呼んでいるのです)。

同句会では、だいたい五七五(定型)に収まっている作品が多いのですが、有季あり無季あり、自由律、川柳、短詩(または短律、七七の14文字の最短の定型詩)ありなのですが、ジャンルのカテゴライジングから判定するのではなく、作品そのもの/発想/着眼/構成の面白さ、文学性の如何によって、判断されていきます。

私はどちらかというと、俳句でも無季容認タイプの作品が多いのです。しかもちょっと現代詩のような作品づくりをするとも指摘されます。こうした私の作品群は、ジャンル越境を容認している吟さんでさえ(作品中に選択した詩語、用法などに対して)「既視感が感じられない」と評するのですから、有季定型の俳人たちの句会ではおそらく歯牙にも掛けられない傾向でしょう(「北の句会」でも伝統的俳人が多い場合、私の作品は評価されないことが常態になっています)。

この「北の句会」でいつも私を刺激するのは、川柳人からの発言です。川柳は「有季」「定型」「切れ字」といった俳人間の果てのない非生産的な"ドクマ論争"と関係がないという観点から発言し、作句できるので、その自在さは、いつも私の目のみはる視点を提供するのです。しかも、この句会に参加している川柳人のレベルは高く、石田柊馬氏などは、会の中での発言をきくだけで私の財産となるものです。

今回、わたしが出句した作品は以下のふたつです。

   ┏                ┓                
         う      月        
         そ      の        
         寒      帆         
         の ・    の       
         め 折    老       
         ら り    羊       
         ん 句    ば       
           こ      か 
         り う    り       
         っ め    の       
         く だ    過       
         な      積       
         堤      船     
         婆            
      愛  達
      由  多
      等                     
   ┗                ┛ 


日々のこすれあい

2005年10月29日 23時49分49秒 | 文化
この日、曰く言いがたいことが起こり、言葉にするのもためらわれ、それでもこのブログの毎日更新という約束ごとを果たすための義務感との板挟みにあい、悶絶として、今日のこの日を終わろうとしています。そのことは、去年から今年にかけてのわたしの生の根幹にかかわることであり、その生が日々とこすれあったりする具合というのも、抽象的な思想の領域ではなく、ありていの人間臭い所作によって決定ずけられるのです。

阪神間の私学文化

2005年10月27日 23時39分28秒 | 文化
10月27日(木)

10月18日にお知らせした小学校の同級生と会っていました。

まずは、11名の男子同級生の消息を確認していきます。医者が二人。ひとりは勤務医を卒業して開業医を継いでいます。もうひとりは姫路の病院に養子となって医長に。大学教官、会社経営者、学習塾長、彫刻家もいます。F君は、西宮で種苗会社を経営しているので、経営者グループに入ります。純然たるサラリーマンは少ないようです。

われわれは仁川学院小学校の第七期生にあたります。考えてみれば初期の入学生なのですね。この卒業生の中には、子弟を入学させる人も少なくなく、このF君の息子氏も現在小学校5年に在学中であるとか。こうして私立学校というのは、卒業した母校に再び子弟を入学させるという連鎖をうんでいく傾向にあります。こういうつながりが積もり持って、阪神間の私学文化というのが、形成/継承されていくのでしょうね。

この私学文化を形成している人たちは、別に特権階級であったり富裕階級であったりするわけではありません。そして当の私学に進んだ人たちの間には、独特の連帯意識というのが芽生えます。公立学校があるのだから、そちらに進学してもいいのではないかとの意見もあるでしょうが、この阪神間の私学という存在は「敢えて」私学に進学するのではなく、私学へ進学するという選択肢がすでに中産階級の間に文化として根付いているのです。

ただ、仁川の場合、小学校と中学校以上との学力差が開いているので、他の私立進学校を受験するか、それが果たせない場合は、普通の公立中学校に進む生徒が多いのです。私も公立の西宮市立中学校に進んだのですが、カトリック系私立という無菌的な独特の教育環境に浴していた少年が、いきなり多様な人間が混在する世界に放り込まれた時のショックといったら、計り知れないものがあります。卒業生はそこで鍛えられるとも言えるでしょうが、精神の彷徨も深く経験することになります。 

いまでこそ、仁川の雰囲気を懐かしむ心の余裕は生まれていますが、私も精神の彷徨を経験したので、長い間、私学のありよう/存在そのものを彼岸のものと対象化していかざるを得ない時がありました。

満州という夢-1

2005年10月26日 20時34分44秒 | 出版
10月26日(水)

中公新書の『キメラ―満州国の肖像(増補版)』(山室信一著)の二回目の読了を本日、果たしました。

父(大橋彦左衛門/1926年3月生)が満州の建国大学に学んでいた(第5期)ことから、幼い頃よりかの地は血肉のような身近さだったのですが、恥ずかしながら満州について、きちんとした読書暦はなく、本書読了によって、ようやくひとかどの知識を得たのです。

満州については、これから少しずつ語っていきたいと思っています。

まずこの満州という表記ですが、現在の日本の新聞表記では中国東北部(満州)となっています。中華民国-中人民共和国と続いた華人中心の社会からすると、満州国だった地域は「東北三省」などの呼称で呼ばれていたものの、満州という呼び方は存在しなかったようです。ですからこの満州国はあくまで日本国の軍事力を背景にして作られた「偽満州」でしかすぎないのです。

といいますのは、満州国が成立したのは1932年。辛亥革命で清朝を倒したのが1911年なので、清朝復興という時代を逆行したような動きとなるのです。中国の人たちには辛亥革命の成果を踏みにじる耐え難い愚行であり、「満州」という名辞自体、嫌悪の対象となるのです。

この東北部は今でも、中国の中央からすると、発展途上地域のひとつとして規定されています。かつては重工業地帯として栄えたのですが、経済自由化によって、この地域における国営企業の非効率性が際だつようになり、現在は外資の導入による立て直しが図られています。

また、方位的にも、「辺地」という意識があるようです。私の友人には、父が通った満州建国大学の二世がいて、その彼が曰くには、東北部には独特な言葉のイントネーションがあって、北京の人たちにからかわれることもあると証言しています。

しかし、私は満州という国、歴史、文化を直視するために、東北部と言い換えずに「満州」とこのブログでは書き続けることにします。満州国が存在したことは歴史的事実であり、満州という夢に魅せられて新京(現・長春)に渡った生身の父を知る限り、この名辞にこだわってみようと思っているのです。



Macというマイノリティー

2005年10月25日 23時54分24秒 | 文化
私はMAC使いです。

編集・出版業界ではこのOSを使っている人は多いのですが、往事ほどの占有率はなくなっています。

マッキントッシュという会社は、iPodで大儲けしているのですから、本業のOS普及にもっと本腰をいれてほしいものです。

MAC OSの失敗は、OS9シリーズとOSX(テン)シリーズの断層が著しいということです。プロユースはOS9シリーズであるのに対して、マッキントッシュ側は基本的にシステム構造が違うOSXに移行しようとしていて、両者の断層が埋められないままになっており、さらにMAC OSそのものの停滞を誘発してしまいました。

PCの世界ではWINが優勢なのは分かっていますが、このGooのブログ作成サイトも、MACというマイノリティーに決して優しいサイトではありません。「編集メニュー」の「おえかきツール」がMACでは使用できないことを初めとして、少数者を切り捨てて成り立っているように思われます。

光合成

2005年10月24日 23時51分26秒 | 俳句
10月24日(月)

本日はずっと閉じこもって編集作業に専念。

段取りをつけているので、今日は銀行からの呼び出しもない予定。でも一応、携帯電話は持ち歩きます。

月曜日ですが、FMわぃわぃ「南の風」は沖縄篇の放送です。好天に恵まれていたものの、神戸市内を出ずに、編集の雑務を淡々とこなしていました。

最近、なにを思ったのか、苔玉を育てています。コープ神戸のリビングセンターで買い求めたものなのです。殊勝にも毎朝水を霧吹き状にして供与しています。少し前には、南側の直射日光のあたる場所に置いていたのですが、これがよくなかったらしく、葉がしおれていきます。室内に置くと、今度は葉肉に力強さがない。ネットで見ていると、適度に半日陰の場所に一日数時間置くようにとの指示が書いてあったので、今日そのとおりにしてみると、葉肉に力強さが甦ってきました。植物というのは正直なものですね。

この苔玉の前に、エアープランツをお洒落な100円ショップで買い求めて育てていたのを、枯らしてしまう前科があるので、今度は少し慎重になります。でも、一度でも光合成をさせると植物というのは、元気になるのですね。

この光合成だけで生きていくといのは、実は私の理想なのです。その本音が根底にあるからこそ、以下のような俳句を作ったのでしょう。

       ┏            ┓                
              草        
              庵        
              に         
              光       
              合       
              成       
              な       
              す       
              歌       
              僧       
              あ       
              り       
         愛            
         由            
         等                           
      ┗             ┛ 

これは西行終焉の地である弘川寺を訪れた時に造った句です。その時に気になったのは、近世(江戸時代)に、西行を慕ってやってきた広島出身の僧(似雲法師)の存在です。この僧もまた西行があんだとされる草庵の少し下った場所に草庵(西行堂・現存している)をつくり、西行の威徳を偲んで暮らしたそうです。西行も似雲法師も実は、光合成をして生活していきたかったのではないだろうかと、現地に立ってみてふと考えたのです。

満州国軍の隼

2005年10月23日 18時02分56秒 | 文化
10月23日(日)

写真ではわかりずらいかもしれませんが、これは昨日、神戸三宮のユザワヤで見つけたプラモデルの箱です。

わたしの少年時代、多くのプラモデルを作りました。残念ながらなにひとつ残っていません。たまたま寄ったプラモデル売り場には、私と同世代と思われる男性が商品を物色していました。話しかけたくなる衝動を抑えるのにたいへんでした。

私が生まれたのは、まだ戦争が終わって10年後だったので、男の子たちの遊びの主なものは"戦争ごっこ"でした。しかし、テレビで流れてくるのは「コンバット」に代表されるアメリカ制作の戦争ドラマ。相手の悪役としてのドイツ兵。人情のかけらもない冷血な軍人たちに描かれていました。そしてたまに米映画で見る日本兵は、目のつりあがったすぐ惨めに死んでしまうモノとしての兵隊群でした。戦争に負けるということはこういうことなのです。

でも、日本の少年たちは、こうしたメディアの攻勢にもかかわらず、敗戦国同士の日本とドイツに強いシンパシーを持っていたのです。その心情が端的に現れたのが、プラモデル作りだったでしょう。米英のものにも優れたデザインはありましたが、心情的に避けていたのです。日本を空爆したB29などは売っていたのでしょうか、少なくとも私の周辺では作っていた友人はいませんでした。ただヨーロッパ戦線に登場したB17は作ったような記憶があります。その機種の操縦室付近に描かれたちょっとエロティックな図柄に、少年なりの生真面目さで反発しつつも、同時に見入っていたように覚えています。

兵器には多くのジャンルがありますが、戦車はドイツ製が群を抜いて格好良かった。旧日本軍のものは、今の言葉でいうと"へぼい"。潜水艦もドイツ製。Uボートがよかった。日本の"イ号潜水艦"のデザインは"もっちゃり"していていました。ああ、もうひとつドイツにあって日本にないものに、列車砲というのがありましたね。フランスを占領したドイツ軍が、ドーバー海峡越しにイギリスに砲弾をぶちこむもので、やたらと砲身が長かったものです。あれもよかった。

ところが、飛行機、戦艦のジャンルとなると、日本の工業デザイン力の優秀性がみえてきます。本日の写真は、満州国の軍隊の飛行機だと説明されています。といっても、モノは旧陸軍の隼です。そして満州国軍といっても、実体は日本の関東軍であったのです。しかし、こうして目に見える形で「満州国航空隊」と機体に書かれていると強いインパクトを感じます。いま、満州に関する本を読んでいるので、気になって携帯写真に収めたのです(箱に描かれた絵が面白い。隼の下には軍用トラックめいたものと、馬賊をイメージするような人馬が描かれていて、大陸の満州らしさを演出しています)。

そしてもうひとつ気になるプラモデル商品の傾向を指摘しておきましょう。今の商品群の中に、旧日本軍、ナチスドイツの試作機が見られると言うことです。それは敗戦間際に開発されたものや、実戦に配備されたものでもごく短期間におわった兵器類ですが(主に飛行機)、こうした敗戦国の試作機、稀少機を登場させるという背景には「戦争に負けはしたが、こういう新型兵器類が展開する可能性もあったし、開発能力もあった」とする〈敗者の記憶〉であるような気がします。これは負けた側でしか発生しない記憶のつながり/願望であり、あるいは、戦後に新しく作られた〈敗者の記憶〉であるような気がするのです。

フラメンコの情熱

2005年10月22日 17時05分09秒 | 文化
10月22日(土)

あるフラメンコのリハーサル現場からの発信です。これは私が関わるイベントで毎月1~2回催されるものです。

フラメンコの一回の舞台は30分から長くて1時間ほど。踊りきると、バイレ(踊り)の人たちは汗まみれになるのです。激しい動きであるためだということもありますが、なんといっても、この芸能は魂の踊りであるのです。芸術性や技術よりまして演技者のソウルがいかに表出されているかが、上手下手の決め手になるのです。だから型どおりに身体を動かしていても、フラメンコにはならないのです。

フラメンコは、ヒターノたちが、インドからはるばるスペイン南部のアンダルシーアにたどり着いて、そこの土着芸能と出逢うことで一挙に開花したものです。ですから、ヒターノが介在しなくても、フラメンコと区別が付かないセビジャーナスといった歌舞もアンダルシーアには存在します。

このヨーロッパ半島の西の果てのどん詰まりで誕生したフラメンコに、なぜかユーラシア大陸の東の果てをさらに海を渡った島々に住む日本人の魂が感応したのです。スペインの著名なフラメンコ教室には、たいがい日本人留学生が学んでいるようです。

当然、日本国内でもフラメンコは盛んです。そういえば詩人の野村喜和夫氏の夫人がバイレをされています(フラメンコだけを踊る人はバイラオーラと呼ぶそうです)。

私は去年の9月から、このフラメンコと身近な存在になってきました。せめて、セビジャーナスぐらい踊れるよう練習したいものです。このフラメンコの最後に演じられることが多いセビジャーナスという踊りがあります。会場のお客さんも参加できるのです。奄美でいえば、六調・天草、沖縄でいえばカチャーシーといったところでしょうか。

携帯を持たない女性

2005年10月21日 18時44分05秒 | 文化
10月21日(金)

いまどき、いるものですね、若い女性で携帯電話を持っていない人が。

その人の毎日の生活は職場とアパートの往復だけなので、必要がないという理由なのですが、私も、数年前に、携帯電話が流行り所有するかどうか迷っていた頃には、同じ思いを抱いていました。かつ、周囲の人たちが次々と携帯を所有しつつあるのに不安だったのです。

一度、持ってしまうと、電話機能は高いので、殆ど使わないのでずが、メール機能がとにかく面白い。どんな場所からも、ボタン操作ひとつで、メールを発信することが出来る。葉書も切手も要らないし、ポストも探さなくていい。夢のような未来機械を手にしたという悦びがありました。ただ気をつけたのは、こうした時代にとっての最新メディアは、機械に使われてしまう傾向が強いので、最初から、どうにかして創造手段として使おうと考えたのです。

さっそく実行したのは、携帯メールを文学装置に仕立て上げることです。詩誌『Melange』発行人の詩人・福田知子さんと、携帯文学メール交換をしたのです。私が使っているドコモという機種が250文字しか打てないので、それを逆手にとって、250文字通信を二人で始めたのです。計45回ほどやりとりしました。なにか日本内外の詩華を引用して後にコメントを書く。それをうけた相手は、同じようにまたなにかの詩華を引用してコメントを書く----この試みは非常に刺激的でした。この全容は、『Melange』vol.5(2001.6.5発行)の「携帯電話交換詩華集」に結実しています。

畏友のブログ

2005年10月20日 14時49分11秒 | 文化
10月20日(木)

今朝、PCのメールチェックをしていたら、高嶋正晴・下関市立大学助教授から着信があることを確認。

去年春から現職になられたのですが、その前は、立命館大学で講師をされていました。出身大学が私と一緒なので、関西時代は同士的むすぼれを感じあい、しばしば会い、語り、呑み、そしていくつか仕事を共にしたのです。

高嶋氏は奄美の島唄の研究者でもあり、『ユリイカ』にも私と共に執筆して、若くしてユリイカへの執筆者デビューを果たしています。

いまは遠くに離れてしまいましたが、7月の立命館大学で催された戦後の奄美に関するパネル・ディスカッションにも、わざわざ下関から駆けつけてくれました。また、12月の鹿大における奄美の研究会で会えるかもしれず、今から楽しみです。

ちなみに、高嶋氏も、ブログとホームページを運営されており、紹介しておきます。

ブログ「下大の日日」下天の日日

ホームページ 高嶋正晴氏のHP

古書肆という居場所

2005年10月19日 20時18分53秒 | 出版
10月19日(水)

かつてなら古書肆を営む動機として、本が好きだというばかりではなく、なにか運動をするための生活手段として選択する場合がありました。

私の身近にも、俳人の伊丹三樹彦氏をはじめ、戦前から兵庫県を舞台に社会運動を展開した古家実三氏、そして私の母方の祖父である岸本邦巳もそうでした。こうした世代の人たちは、運動を展開するための時間的余裕を確保するべく、生業(なりわい)として古書肆経営を選択していたのです。

奄美・名瀬市で「あまみ庵」を経営する森本真一郎氏も、古書肆経営そのものを、運動として措定しているタイプの人でしょう。彼の場合は、奄美に関する新刊、古書をとわず、販売するメディアを創出して運営すること自体、彼の表現/思想活動なのです。

本日の朝日新聞(大阪本社版)に、古書店の現状に関する記事が掲載されています(「古書屋にあこがれ」なぜ?)。古書販売といえば、最近はネット販売もさかんになることで、無店舗でも可能になりました。時代は大きく変わったものです。

古書肆を利用する楽しみは、そこのオヤジとの会話を交わすことでした。また未知の店なら、店主との知的対決もあったりして緊張感あふれる出会いもあります。つまり、店に入った途端に、店主は客の品定めを、そして客はなめるように棚をみることで、その店の真剣度を品定めする、といったことでしょうか(いまでも、このよき時代の古書肆の雰囲気を保っている店はあります。例えば、JR六甲道駅北にある宇仁菅書店)。

私の祖父が古書肆を営んでいたために、幼児期から大学生の頃まで、古書店という居場所は、私の原風景のひとつでした。あの独特な古書の匂いと雰囲気を呼吸してきた身として、懐かしくもあり、快楽空間でもあったのです。

さらに、私自身が出版社を初めてからというもの、まろうど社の本が古書肆の棚に並んでいるということは、古書肆で流通するに値する人文系書物であることが認知されていることを嬉しく思う反面、いくら古書肆で売買されても、まろうど社の販売には関係のない世界の事態であるという相反する思いもして複雑な心境になるのです。

小学校の同級生

2005年10月18日 20時54分21秒 | 文化
10月18日(火)

「ひょっとして、あの大橋くん?」という一通のメールが届いたのが、数カ月前。

小学校でクラスメートだったF君でした。たしか小学校を卒業してからは会っていないはず。街ですれ違ったとしても、お互いを認知できないでしょう。

私が卒業した小学校は西宮市にある仁川学院というカトリック系のミッションスクール。中学、高校もあるのですが、なぜか小学校から中学に進学する生徒は多くありません。私の姉は高校まで進学したのですが、私は西宮市立甲陵中学校に入ったのです。

ところが、この小学校の卒業生同士の連帯意識が強いのです。たかが小学校と思うなかれ。たった2クラスしかなく、しかも30人余のクラスメートは、鮮明にひとりずつ覚えているのです。会っていない時間は長いのですが、もう少し先の"同窓会適齢期"になると、頻繁に会うことになるでしょう。

そのメール連絡をくれたF君と今月末に再会する予定です。


FMわぃわぃのスタジオから

2005年10月17日 16時47分54秒 | FMわぃわぃ
10月17日(月)

午後1時からFMわぃわぃ「南の風」奄美篇224回目の放送を担当しました。

今回は、番組を一緒に担当した山内由紀子さんと共に、「うたの島~奄美を語ろう~」と題して、島唄についていくつかのテーマを設定して、おしゃべりと唄で構成します。


今回初めてかけたのは、石黒三郎さんという徳之島町で民謡教室をやっていらっしゃる方の「徳之島ちゅっきゃり節」。ただ、提供してもらったMD音源が片チャンネルしか録音されていなくて、モノラールにも出来ず閉口したのです。

続いては今年5月22日に神戸市にある西山記念会館で催された沖永良部島知名町上平川集落の皆さんによる「大蛇踊り」の様子を紹介しました。

合計で10分ほどですが、熱のこもった舞台でした。演じるのは、15年ぶりだそうです。もともとこの「大蛇踊り」はシマ(集落)でもなにかの祭祀で演じるという取り決めはないそうですが、年に一回程度は催していたそうです。それが保存会の役員の交代などさまざまな要因がかさなって、近年は途絶えていました。それを、神戸と尼崎の上平川の郷友会が、神戸に呼ぼうということになり、島から総勢47人をひきつれての実現にこぎつけたのです。

ラジオなので、残念ながら大蛇が暴れるクライマックスの場面は伝えることができませんでしたが、会場は終始独特の高揚感に包まれていました。

かつて、この「大蛇踊り」で重要な役回りをする娘役は、シマの中では未婚女性が羨望するヒロイン役でした。一年交代なのですが、希望者が多くとりあいになり、誰にするのか苦慮したそうです。ところが一転してなり手がいなくなり、既婚女性になんとか頼んで出演してもらっていたのが途絶える時の実情だったようです。

それよりも、私が驚いたのは、娘役の女性が小坊主を手玉にとってしゃべる台詞の場面では、会場のそこかしこで年輩の女性たちが、その同じ台詞をそらんじている光景に出逢った時でした。やはりシマの郷土芸能というのは、出身者の人たちの間で濃密に継承されているのだということを確認できた一瞬でした。

この「大蛇踊り」には、坊主役1人、小僧役6人、娘(大蛇の化身)1人、大蛇をあやつる人5人(頭2人、胴2人、尾1人)、その他大勢とジュウテ5人(サンシル2人、太鼓1人、唄者2人)といった構成です。

このうち、坊主役の男性と、サンシルを弾く女性とは旧知の仲でした。やあやあと挨拶をして、しばらく控え室で歓談。その時、かれらが言っていた言葉が面白い。この「大蛇踊り」の前に、琉舞(「フクラシャ」「シクマイ」など)が披露されたのですが、このふたつは共に、上平川で継承されてきた独特の節回しと踊りだそうで、今回の神戸公演にあわせて練習したそうです。

練習不足だったのか、いくつかミスがありましたが、「いままで、沖縄風に演じようとばかりしてきたけど、もういい。シマのものをしていきたい」と力強くいったその言葉によって、そうした細かいミスなどどうでもよくなってきたのです。未熟であっても、われわれの手で継承・創造していくのだという大きな決意を読みとること出来たのです。なんだか、その言葉を聞いて、私の方も嬉しくなってしまったのです。 

話は余談になってしまいましたが、今日の番組では、せっかくユキさんと番組を進めているので、「ウタアシビの魅力について」「ゼロ記号になりきる唄者の憑依状態とは」「ひとつの歌では多様にある歌詞をどうとらえるか」「唄者が上達するのに必要な〈ハヤシ力〉って何?」といったテーマと、それに関係する曲を選んでかけたのです。

この放送の再放送はまだ間に合います。10月22日(土)午後6時からFMわぃわぃにアクセスしてもらえば、同内容を聞くことが出来ます。

本日の写真は、新長田の仮スタジオの様子と、FMわぃわぃの一番の親玉である日比野純一氏です。この「南の風」は、たいてい日比野氏が番組プロデュースとミキシングを担当してくれます。番組の中で、曲が鳴っている時に、日比野氏とさまざまなことを語り合うのも、私の楽しみの一つです。この時に、番組のヒントやイベント企画のことを話し合います。また、日比野氏は多文化共生について、いくつかの大学で教えているので、研究者としての側面もあり、論考めいたものを書く私と共通の話題が多いのです。