神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

6.30奄美パネルディスカッションの英訳

2007年06月25日 23時35分05秒 | 思想・評論
6月30日に名古屋で行う奄美パネルディスカッションの英訳を紹介しておきます。

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◆テーマ
奄美の産業・社会と歴史・文化の相克
Culture and History in Conflict: The Transitional Industry and Society of Amami Region

Chairperson 司会者 OHASHI, Ayuhito 大橋愛由等
(Maroad-sha Book Publishing Company 図書出版まろうど社)
Speakers 報告者 SAKAI, Masako 酒井正子
(Kawamura Gakuen Woman's University 川村学園女子大学)
MAETOSHI, Kiyoshi 前利潔
YUGE, Masami 弓削政巳
(Amami Health Co-operative Association 奄美医療生協)
Commentator コメンテーター OHASHI, Ayuhito 大橋愛由等

◆SAKAI, Masako 酒井正子
奄美出身者におけるヤマトでの“うた”の展開
The Evolution of “Songs” among Amami-born people in Yamato (Mainland Japan)
◆MAETOSHI, Kiyoshi 前利潔
The History of Emigration of Amami-Okinoerabu people to Yamato (Mainland Japan)
奄美(沖永良部)出身者のヤマトの移住史
◆YUGE, Masami 弓削政巳
The Dynamism of History: An Examination of Amami through its External Source Materials
奄美の周辺資料からみる歴史のダイナミズム


奄美地域に関するパネルディスカッションを行う。
3回目の今回は、〈産業〉と〈文化・社会〉の変化の関係をテーマとする。3人のパネラーを予定している。
歴史研究者は、いままで研究の対象としなかった史料に注目することで、近世の奄美の産業と社会が従来考えられた以上にダイナミックに躍動していたことを報告する。
歌謡研究者からは、奄美出身者がヤマト(=日本本土)に出稼ぎにきて、農業主体の世界から産業の論理で成り立つ世界に立ち会うことで、若い女性たちが生み出した"うた"を検証し、ヤマトという異郷との接触で生まれた文化展開を考える。
3人目は、奄美出身者がヤマトに集団で移住してきた軌跡を追い、ヤマトにおける奄美出身者の処遇を追うことで、近代日本の重層的な社会構造の変移の中で、奄美の立ち置かれた姿をあらためて検証していく。
The third consecutive panel discussion on Amami region, focusing on a changing relation between “industry” and “culture and society”.
One of the three panelists, a history researcher reports, focusing on historical materials neglected from the academic study, that pre-modern Amami fostered more dynamism in its society and industry than it has been traditionally thought.
A researcher of the region’s popular song considers a facet of Amami culture which was developed through contact with Yamato (i.e. mainland Japan), a foreign country to Amami people. The songs created by young migrant women workers from agriculture-oriented Amami society are examined as the product of their observation of Yamato, the world based on a logic of industrialism.
In addition, a reporter reviews the course of collective emigration from Amami to Yamato. How an image of “Amami” is formed and placed in the modern Japanese society, which social structure has been facing multilayered change, is reconsidered by following treatment of Amami-native people in Yamato.

琉球共和社会憲法試案の紹介

2007年06月17日 23時28分03秒 | 思想・評論
今年一月から続いている〈FMわぃわぃ ステーションメッセージ「日本国憲法を読む」〉の第六回目の番組(〈6月17日(日)〉午後3時から55分間)を私が担当しました。(再放送は、27日(水)午後9時からです)

このシリーズは、いま改憲論争が盛んな折、果たしてその風潮が正しいのかどうか、もういちど立ち返って考えて行こうとするメッセージ性の強い番組です。今年1月から月一回の放送で始まり、今月はわたしが担当したのです。
また、このシリーズの過去の番組と、わたしの生の声は、ボッドキャスティング対応のブログ http://ken-po.seesaa.net/ で聞けるようになりますので、。

◆今回のテーマは、「戦後 もうひとつの創憲〈沖縄からの問いかけ〉」。

◇戦後の日本で、今の憲法とは違うもうひとつの別の憲法をつ
くろうとした動きを紹介します。

◆ただそれは、今の憲法をいわゆる「マッカサー憲法」とか「押し付けられた憲法」であると規定する立場の人たちが作ったものではありません。今の憲法そのものと、その憲法を生みだした戦後の日本社会に立脚しながらも、やむをえず作り出さざるを得なかった創憲の行為であったのです。

◇取り上げるその憲法の試案とは、1981年に沖縄で考え出されたものです。「琉球共和社会憲法」という名前です。川満信一氏という思想家が考えだしたものなのです。その憲法試案が訴えようとした内容を紹介しながら、発表されてからちょうど26年たった今の時点で、なにをわれわれはその憲法試案から汲み取っていくのか、また、この憲法試案を取り上げる意味がどこにあるのかを、考えていきます。

◆ここで、私の番組主旨をもう一度繰り返しますと、決してこの「琉球共和社会憲法」が「日本国憲法」の反措定として立ち上がったものではないということを、強調しておきたいと思います。沖縄の人たちの「日本国憲法」にかける思いは、強いものがありました。それは、1972年に沖縄が日本国へ「復帰」する直前に書かれた以下の文章でもはっきりしています。

「日本人に25年前(大橋註/1945年のこと)に与えられた自由と
民主主義を、25ヵ年かかっても、琉球人は、必死の努力の連続
にもかかわらず、まだ形だけでも獲得しおえていない。琉球人
が、日本の憲法を読むとき、占領軍政下で、いかに琉球内で努
力しても、日本の憲法に盛られた民主主義と同質同量の民主主
義を、琉球内に実現することが不可能なことを、あらためて思
い知らされるのである。日本人が25年前から無条件に享受して
いるものを、闘っても闘っても、ついに得られないという絶望
感は、おそらく琉球人だけのものであろう。自由なく、人権な
き異常な状態の下に、たえず自由を求め人権を闘いとるという
日常生活、これが琉球現代史の正常な側面なのである。
「『琉球人』は訴える」/平 恒次(イリノイ大学労働・労使
関係研究所)/中央公論1970年11月号所収

◇国民主権、自由、民主主義という戦後の本土(ヤマト)社会が享受したごく当たり前の光景があります。そうした社会の実現に法的根拠を与えた「日本国憲法」の存在は、沖縄の人たちにとって、まぶしい存在であり、「希望のテキスト」だったのです。

◇同じ「戦後」という時代でも、本土(ヤマト)と沖縄はアメリカの支配態度が大きく異なっていました。本土(ヤマト)では、いわゆる当時の良質な部分の民主主義を社会の諸制度に反映しようとした連合軍総司令部(GHQ/SCAP)の姿勢に対して、沖縄では、米軍=軍隊が統治するというまさに占領地統治が貫かれたのです。軍事政権の本音が象徴的に現れるのは、銃剣とブルドーザーによる基地建設のための強制的な土地接収です。沖縄は軍政を基本とした統治を背景としているために、民主主義的な要求は米軍政府に受け入れられず、米兵による暴力被害も頻発していました。また、日本本土と違って、沖縄の民族資本を育てるという積極的な姿勢は米軍政府によっては見いだされず、沖縄を米国資本が生みだした産品の消費地として位置づけ、対ドルの為替レートも1$=360円といった本土(ヤマト)レートとは別に低く設定されていたのです。

◆そうした「復帰」に向けた希望をいだく中、次第にその「復帰」の中身が明らかになっていくと、沖縄の人たちが欣求した「本土並み」とはほど遠いものであることが分かり、絶望感が広がって行きます。そこで沸き上ってきたのが「反復帰」の思想です。1971年に新川明氏が主張している言説を引用しましょう。「少なくとも私が「反復帰」という時の「復帰」とは、分断されている日本と沖縄が領土的、制度的に再統合するという外的な現象を指しているのではなく、それはいわば、沖縄人みずからすすんで〈国家〉の方へ身をのめり込ませてゆく、内発的な思想の営為をさす。その意味で「反復帰」とは、すなわち個の位相で〈国家〉への合一化を、あくまでも拒否しつづける精神志向といっても差し支えない―」(『反国家の兇区』から)。ここで新川氏が提示していることで注目したいのは、沖縄の復帰が「日本国への再併合」であるかどうかというという沖縄内部の論争をもう一歩すすめて展開していることです。つまり、沖縄(人)に徹底した同化を求め、沖縄(人)からも内発的な同化をすすめていく〈日本(ヤマト)〉という存在の原基である〈国家〉そのものを撃つのです。「反復帰すなわち反国家であり、反国家民志向である。非国民として自己を位置づけてやまないみずからの内に向けたマニフェストである」(同上)と新川氏は続けます。

◆沖縄は1972年に「復帰」を果たしたものの、米軍基地は減らず、日米安保・地位協定の運用という超憲法的解釈にもとずき、米軍の沖縄に対する規模はもちろんのこと、態度・姿勢は変わることはなかったのです。反対に沖縄は基地依存の経済体制から脱出できないまま、日本政府からの膨大な公共工事が投下され、その依存度を高めて行きます。そうした環境のなかで、復帰から10年を迎える前年に、「琉球共和社会憲法試案」が生まれたのです。

◆これは、『新沖縄文学』という文学と思想・評論の総合月刊誌の第48号、1981年6月30日発行に掲載されたものです。いまからちょうど26年前ですね。

二つの憲法私案が掲載されています。
・琉球共和社会憲法C私(試)案(川満信一1981)4章56条
・琉球共和国憲法F私(試)案(仲宗根勇1981)
番組で紹介した「C私(試)案」と「F私(試)案」を比べてみると、「共和社会」と「共和国」という大きな違いがあります。わたしが番組で紹介したのは、共和社会を謳った「C私(試)案」です。ここには、復帰前に展開された〈反復帰/非国民の思想〉という沖縄から発せられた国民国家に対する根元的な異議申し立てをみることが出来ます。この試案の前文を紹介してみましょう。


◆琉球共和社会憲法C私(試)案/川満信一『新沖縄文学1981年6号』

一、琉球共和社会の全人民は、数世紀にわたる歴史的反省と、
そのうえにたった悲願を達成し、ここに完全自治社会建設の礎
を定めることを深くよろこび、直接署名をもって「琉球共和社
会憲法」を制定し、公布する。

全人民署名(別紙)


(前文)
 浦添に驕るものたちは浦添によって滅び、首里に驕るものた
ちは首里によって滅んだ。ピラミッドに驕るものたちはピラミ
ッドによって滅び、長城に驕るものたちもまた長城によって滅
んだ。軍備に驕るものたちは軍備によって滅び、法に驕るもの
たちもまた法によって滅んだ。神によったものたちは神に滅び
、人間によったものたちは人間に滅び、愛によったものたちは
愛に滅んだ。
 科学に驕るものたちは科学によって滅び、食に驕るものたち
は食によって滅ぶ。国家を求めれば国家の牢に住む。集中し、
巨大化した国権のもと、搾取と圧迫と殺りくと不平等と貧困と
不安の果てに戦争が求められる。落日に染まる砂塵の古都西域
を、あるいは鳥の一瞥に鎮まるインカの都を忘れてはならない
。否、われわれの足はいまも焦土のうえにある。
 九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が国内
の民を殺りくするからくりであることを知らされた。だが、米
軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地をつくった。われわ
れは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省に立っ
て「戦争放棄」「非戦、非軍備」を冒頭に掲げた「日本国憲法
」と、それを遵守する国民に連帯を求め、最後の期待をかけた
。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省は
あまりにも底浅く、淡雪となって消えた。われわれはもうホト
ホトに愛想がつきた。
 好戦国日本よ、好戦的日本国民者と権力者共よ、好むところ
の道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の
道行きをこれ以上共にはできない。


◇この前文に、川満氏の思想と文明観が凝縮されています。そして言葉運びも、詩人らしい文学的な表現ではないでしょうか。「浦添」「首里」は、沖縄の歴代王朝の拠点であり、こうした王朝に近代以前であれ、抑圧機構としての〈国家〉の姿を見いだし、そして川満氏の出身である〈宮古〉からの〈沖縄〉を相対化する視線という二重の文化コードを読み取ることが出来ます。つまり川満氏の視点からは、沖縄の自立や独立の論者が歴史的な沖縄の政治的自律性の事実としてあげる琉球王国の存在ですら、相対化の対象となるのです。

◇川満氏が、沖縄本島の出身ではなく、先島といわゆる「離島」の宮古出身であることに注目する必要があります。沖縄は、日本国にあっていわゆる「辺境」に位置づけられるとすれば、その沖縄にとって宮古は「辺境」なのです。この二重性が川満氏の思想と表現を形成する大きな要素となっているのです。つまり、宮古・八重山は、沖縄つまり首里王府から差別を受けてきたという沖縄の中の差別の多重性が背景にあるのです。沖縄にあって、無条件に沖縄の来し方/ありようを賛美したり、オマージュの対象としないという思想家としての厳しい態度を見ることが出来るのです。

◇そして「落日に染まる砂塵の古都西域を、あるいは鳥の一瞥に鎮まるインカの都を忘れてはならない」。といった件りは、先の戦争で沖縄が地上戦の舞台となって焦土と化し、多くの民間人が犠牲になった事実を踏まえていることが確認できます。またその次の、「否、われわれの足はいまも焦土のうえにある」といった言葉は、1995年1月17日に震災によって都市機能が一挙に機能不全状態となった神戸のことでもあるのです。つまりわれわれ神戸の人間も「焦土」の上に立っているのです。しかし、震災の後、国家はわれわれになにをしたのでしょうか。多くのボランティアに支えながらも、ひとつの大きな教訓として立ち上がったのは「日本国は日本国民を救わない」という冷厳な事実ではなかったでしょうか。この「日本国は日本国民を救わない」という事実は、沖縄のひとたちがすでに先の戦争で経験していたことなのです。ヤマト、日本本土に住むわれわれは、沖縄の痛みを、戦災と天災という大きな違いがあるものの、いちど焦土になるという同様の被害を受けて初めて、その「共苦」を分かちあえるのかもしれません。


◇「復帰」から10年を迎えようとしている時、沖縄の人たちが抱いた「本土並み」という幻想が崩れるばかりか、「われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省に立って「戦争放棄」「非戦、非軍備」を冒頭に掲げた「日本国憲法」と、それを遵守する国民に連帯を求め、最後の期待をかけた」と悲痛な叫びを発するのです。こうした言説は先にも紹介しましたように、沖縄の人たちにとって、「日本国憲法」が「希望のテキスト」であったことが強く表れているのです。しかし、期待は裏切られ、沖縄の現実は変わりません。「日本国民の反省はあまりにも底浅く、淡雪となって消えた」の箇所は、今の私の心にもずしりと突き刺さります。

◇「好戦国日本よ、好戦的日本国民者と権力者共よ、好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない」の表現もインパクトがあります。主権在民、自由、民主主義を享受する戦後社会を実現
し、そしてその法的根拠である「日本国憲法」を持ちながら、日本国/人は、他者/アジアに向かっては、暴力的な側面、好戦性をむき出しにするというダブルスタンダードを、行使しているのです。ここに、「戦後日本」という国家と社会のありかたについて、沖縄という〈他者〉から強烈な異議申し立てがにされているのです。
川満氏はこうした日本国/人と訣別して、どこに向かおうとしているのでしょう。「琉球共和社会憲法私案」の続きを追ってみることにしましょう。

◆第一章
(基本理念)
第一条 われわれ琉球共和社会人民は、歴史的反省と悲願のう
えにたって、人類発生史以来の権力集中機能による一切の悪業
の根拠を止揚し、ここに国家を廃絶することを高らかに宣言す
る。
 この憲法が共和社会人民に保障し、確定するのは万物に対す
る慈悲の原理に依り、互恵互助の制度を不断に創造する行為の
みである。
 慈悲の原理を越え、逸脱する人民、および調整機関とその当
職者等のいかなる権利も保障されない。

第二条 この憲法は法律を一切廃棄するための唯一の法である
。したがって軍隊、警察、固定的な国家的管理機関、官僚体制
、司法機関など権力を集中する組織体制は撤廃し、これをつく
らない。共和社会人民は個々の心のうちの権力の芽を潰し、用
心深くむしりとらねばならない。

◇考えてみると、「日本国憲法」が、〈国家の非武装〉を謳ったとすれば、この「琉球共和社会憲法(試案)」は、〈国家そのものの解体〉という一歩進んだ様相を提案しているのかもしれません。川満氏にとって、憲法私案は、あくまで「国家」ではなくて、「共和社会」のものでなくてはならないのです。

◇ここで国家のありよう、つまり国民国家(nation-states)についておさらいをしていきましょう。「日本国には日本語を話す日本人が住んでいる」という一見当たり前に思えてしまうこの状態を作りだしたのが、国民国家の意思なのです。明治の近代国家が誕生するまでは、いわゆる日本列島(ヤポネシアと言い換えても可)には、さまざまな人たちが住んでいましたが、それを「日本語を話す日本人」に仕立てたのが、日本国の国家
運営をになう者たちの意思あり、それを内発的に支えた「国民」でした。その「日本語をしゃべる日本人」が確立していく過程で、抑圧・排除されていったのが、沖縄やアイヌ、在日のひとたちであるのは、言を待ちません。沖縄はさらに琉球処分に
よって、「琉球国」が「琉球藩」にされたすぐ後で廃藩置県によって「沖縄県」になるという国家の消滅まで至っているのです。沖縄における日本(人)への同化傾向は、奄美と共に、他の本土の地域に比べても、その内発力は強いものがありました。つまりヤマトからの強烈な遠心力(沖縄ことば・習俗・慣習の禁止)と求心力(同化)が同時に働いていたのです。

◇川満氏にとって、国家というものがあるかぎり、他の国家に対してばかりでなく自国民に対しても、その暴力性を発揮してしまう。そういう国家は、亡くしてしまって〈共和社会〉を創出したらいいのではないか、と唱えます。またこうも言います。「少数民族が大変な努力をして独立国家を持ったとしても、その国家が、近代主権国家と原理的に変わらず、先進的な現在国家群をモデルにしていくのであれば、その少数民族国家の未来はかえって希望のないものになるのではないかとみるんですね」(『ザ・クロス 21世紀への予感』沖縄タイムス社 1988 p34)。沖縄の人口より少ない太平洋の島嶼が国家を形成していることもあり、100万人以上あるその数は一国家を形成するのには、決して少なくはないのです。しかし、川満氏は「国家という病理」を見抜くのです。


◇それでは国家というフレームがないその〈共和社会〉に「参加」するのはどうしたらいいのでしょう。川満氏はこう語ります。「アメリカに国籍をもっていようと中国であろうと、どこに国籍をもっていよと構わない。その人間が「琉球共和社会憲法」の主旨に賛同して、自分もこういう憲法のもとで人民になりたいというのであれば、その人は登録によって、琉球人民社会の一員に加わることができる。ただし、この憲法には最初から「国」はないわけですから、現在の世界が定めている国籍法には触れない」(『新沖縄文学1981年6号』)。

◇この考えは、ひょっとしたら、国民国家を越えるひとつのヒントになるかもしれません。つまり、所属する「国籍」はどうあれ、「琉球共和社会憲法」の主旨に賛同すれば、琉球人民社会の一員になれるというものです。この考えは、やはり同じく沖縄の思想家である高良勉氏の「琉球民族意識を共有した国籍を越えた連帯」に受け継がれています。

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◆番組では、まだまだ語りたいところがありましたが、以上の箇所の紹介と解説をしたところで、終わりました。また、川満信一氏のこの「琉球共和社会憲法(試案)」についても、さまざまな角度からの異見があることも承知していますし、番組あるいは私の文章を読んで異見が発生するでしょうが、「日本国憲法」の姿をもういちど問い直す意味で、沖縄からの熱いまなざしを提示してみました。いまこうした沖縄や、アジアからの「日本国憲法」に対するまなざしを、われわれが今内在化しないかぎり、川満氏が撃つ「日本国」が近隣諸国・地域に向けた暴力性に加担しつづけることになるのでしょう。

パネラーの発表内容

2007年06月17日 23時06分17秒 | 思想・評論
6月30日の奄美パネルディスカッションにおける各パナラーの発表内容骨子です。

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◆発表要旨(前利潔)

 1898年8月、沖永良部島と与論島を猛烈な台風が襲った
。両島は壊滅的な被害を受け、翌年2月に始まる口之津への集
団移住につながっていく。1901年までの数回にわたる移住
で口之津へ渡った沖永良部島民は364人、与論島民は740
人であった。
 昨年口之津歴史民俗資料館で発見された二冊の海員名簿(〈1〉
1899年3月~1901年3月、〈2〉02年1月~04年1月
)には、多くの沖永良部出身者の氏名が記載されていた。この
名簿をみると口之津には北海道から沖縄まで、全国から労働者
が集まっていたことがわかる。二つの名簿に記された計2,2
27人(延べ人数)の中に、188人(同)の沖永良部出身者
の氏名があった。総数の8.5%、鹿児島県の離島出身者27
4人(同)の68.6%になる。
 これまで、沖永良部島民も与論島民と同じように主に石炭の
船積み労働力として募集されたと考えられていた。しかしこの
名簿の発見で、沖永良部島民は海員労働力として募集されてい
たという姿が浮かび上がってきた。それぞれの島社会における
労働力の存在形態(ヤトゥイ労働とヤンチュ労働)の違いが、
船積み労働力として納屋頭のもとで間接的に三井資本に包摂さ
れた与論島民、海員労働力として直接的に三井資本に包摂され
た沖永良部島民、という労働実態の違いをもたらしたのではな
いか。
 三池港の完成(1909年)にともない、与論島民の多くが
三池炭鉱の街・大牟田へと再移住したが、沖永良部島民は再移
住することなく各地へ分散していった。
 大正時代の神戸には、多くの沖永良部島民が出稼ぎに出るよ
うになった。川崎製鉄の前身となる川崎造船所葺合工場(19
18年新設)には、多くの沖永良部出身者が底辺労働者として
働くようになった。沖永良部から神戸への出稼ぎは、明治末年
に北野前行という人物が神戸製鋼所に入ったのが始まりだとさ
れているが、なぜ神戸なのか、そのきっかけについてはよくわ
からなかった。
 三井物産海運業の発展は、口之津港の位置づけに変化をもた
らした。国際貿易の視点から、三井物産船舶部が門司支店内に
創設された(03年4月)。しかし、日清戦争後、東アジアの
海運市場の中心は上海、香港から神戸に移りつつあった。門司
支店内に船舶部が創設されてから一年もたたない04年2月、
船舶部の神戸移転が決定された。2月6日、日露戦争が勃発し
た。
 社船のほとんどが御用船として徴用された。徴用は開戦前の
03年12月から始まっており、徴用開始日の前後数日間に乗
船した5人の沖永良部島民を確認できる。軍属として日露戦争
に従軍した沖永良部島民も多いのではないか。
 日露戦争が終わったときには既に、三井物産船舶部は神戸に
移転していた。日露戦争後の海運業界は過剰船腹を抱え、不況
に直面し合理化を進めていく。海員だった沖永良部島民たちは
船を下り、川崎造船所や神戸製鋼所などの労働者として、神戸
に定住していったのではないか。
 二冊の海員名簿の発見によって、これまで断片的にしか知ら
れていなかった沖永良部島民の移住史を、近代史の文脈に位置
づけることができた。石炭、海運、造船、製鉄という近代日本
を象徴する産業の底辺労働者として島を出ていった島びとの姿
が見えてくる。それは前近代的な不自由な労働力として存在し
た島びとが、自由な労働力として資本のもとに包摂されていく
過程でもある。

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◆「奄美諸島の歴史認識--奄美史は近現代の歴史である--」
奄美医療生活協同組合 弓削政己
 はじめに、
 奄美の歴史をどう把握するかという点で、学生時代、後輩に
「奄美の歴史は鹿児島藩(通称薩摩藩)による砂糖収奪で、大変
島民は苦しんだ」と発言したら,弓削さん、大阪出身の学生は
、「大坂だって大塩平八郎の乱にみられるように大変だったの
よ」と反論された。
 それに対して、何もいえなかったことを覚えている。それは
、百姓・町民、いわば「民衆」と把握される人々の収奪される
側面という点では、どこの地域でも存在する「収奪された・差
別された」という点での「競い合い」では、科学的な歴史認識
・意識を獲得できないことを示していると言えよう。これが宿
題であった。
 奄美史で濃厚な「差別史観」という方法論があるとすれば,
それは、特定の状況の把握に有効であるが、全体的把握の方法
論、全体の歴史構造を提示することはできない。
ここでは、しかし、なぜ「差別史観」が現在も濃厚なのかとい
うことを含めて報告したい。
1、奄美歴史の変遷
1)〈1〉考古学の時代(古代)、〈2〉琉球王国支配(中世・古琉球期)
、〈3〉薩摩藩支配(近世)、〈4〉鹿児島県(近代) 〈5〉米軍統治(現代
) 〈6〉鹿児島県という変遷をたどる。
 2)とともに、特異の形態は、〈3〉薩摩藩支配(近世)である。
表向き〈2〉の琉球支配という形態をとりながら、内部では実質、
藩の直轄支配という統治形態をとった。東アジアを律する「冊
封体制」に包括されていたことを示している。この「冊封体制
」の視点での奄美諸島史の歴史把握は有効。
 3)〈3〉薩摩藩支配(近世)の直轄支配という側面とともに、近
世期は、奄美諸島は、いわば「海が道路」で、「道之島」とも
表される。これは、鹿児島と奄美諸島という直轄支配の側面だ
けでなく,琉球弧の他の島々(例えば種子島・屋久島・トカラ
)の関係史、近代では明治政府の政策との関係という側面も必
要である。

2、若干の「歴史像の修正と新たな歴史像」
近世の砂糖収奪のシステムはどうであったのか。
近世の奄美の砂糖専売制は、屋久杉専売制のシステムの導入で
ある.
屋久杉専売と琉球・奄美諸島からの屋久島への米の搬送システ

幕末「大島古図」作成とイギリス・フランス琉球開国要求
「系図焼却論」と『奄美史談』(すでに明治25年には稿了され
ていた)はなぜ生じたか。
近世の奄美の一字姓は、差別からの発想であったのか。
二つの永良部島(種子島領「口永良部島」と奄美諸島の「沖永
良部島」)は、藩の布達ではなぜ、「口永良部島」と「永良部
島」であったのか。また、なぜ「口」と「沖」となってきたの
か.
 8)近代の大島商社による砂糖専売制は、明治政府の砂糖自
由売買を隠して、島民をだまして近世と同じような専売制を引
いたのか。
 9)明治初期の人身売買禁止で、奄美諸島の「膝素立(ひざ
すだち)」は、開放されなかった。その理由は何か。
 10)近代行政機構の変遷理由は、何が原因であったのか。
   明治政府の「大島県構想」「大支庁制度」「金久支庁」
「前田正名の砂糖産地問屋方式」はどうして出てきたのか。

3、旧来の説が、なぜ今日まで流布・確信されているのか。
 1)東京からの高齢者の電話
2)『関西喜界町郷友会五十周年記念誌』
 3)月刊誌『奄美大島』
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2007 文化台風 in 名古屋   6/30
14:55pm
 ウィル愛知


 
            本土(ヤマト)から運ばれたウタ
            ーー奄美の〈紡績歌〉と出稼ぎ体験ーー
                 大正~昭和前期
                  1~3年

酒井正子 SAKAI,Masako
               (川村学園女子大学)

 奄美諸島では、一連の〈紡績歌〉が各集落に伝承されている
。1992年に徳之島の伊仙町目手久集落では、次の6曲が「歌あ
そび」の席でうたわれていた。(1)静岡めいしょの歌(1)ストトン
節(替え歌)(3)草津節(替え歌)(3)こんな紡績・・・(曲名不
詳)(4)製糸工場のうた(5)紡績数え歌。また隣の面縄集落では、
「しょんまいか節」(原曲は越中おわら節)が集落あげて踊ら
れている。主として大正?昭和前期、「そてつ地獄」の慢性的
不況期に、出稼ぎで本土に出た大勢の紡績女工たちが覚え、シ
マ(集落)に持ち帰って流行らせた。それがシマウタや新民謡
などと並ぶ「あそび歌」の1ジャンルとして、あるいは共同体
の「踊り歌」としてシマで独自に展開したのである。中にはユ
タ(民間のシャーマン)の「神うた」としてうたわれる例もあ
る。
 本報告では〈紡績歌〉の多様な側面と、その土着化の背景を
探ってみたい。紡績へは結婚前の若い娘が、1?3年ほど行く
のが通例であった。シマへ戻ることを前提に、相当多数の女性
が出ていった。また多感な時期の本土体験が鮮烈で、都会のハ
イカラな風俗がもてはやされたがゆえに、戻った後のシマでの
伝承が濃いのだと思われる。
 果たしてどこからどこへ、何人が向かったか、確たるデータ
は未詳である。聞き取りに頼るほかないが、比嘉道子の労作(2005
)によれば、沖縄北部のある集落では、当時半数近い女性が紡
績を体験した。本土資本による沖縄での募集が本格化したのは1920
(T9)年以降で、低賃金維持の最後の決め手とされた。当時は
、学校教育を修了した沖縄女性がはじめて「層」として出現し
た時期と重なる。女学校進学が望めない大多数の農村の平民女
性の進路として、紡績行きが選択されたという。
 従来、劣悪な労働環境での長時間労働、病死、差別、人身売
買的な拘束など、ネガティブな面が強調されている。その嘆き
を歌に託したわけだが、同時に、旅費と宿舎を確保し本土に行
ける稀な機会でもあった。他府県人との交流や労働争議も体験
し、また教育を受け他職種へ転身する人もいた。奄美沖縄の女
性たちがはじめて可処分所得を手にし、仕送りにより村の生活
を支え、労働者として自立する契機でもあった。そして歌文化
生成の一つの契機ともなった肯定的な側面もみてゆくことによ
り、「なぜ大勢の娘が紡績に向かったか」という問題を解き明
かすことができよう。

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6月30日名古屋で奄美のパネルディスカッション

2007年06月13日 09時50分27秒 | 思想・評論
奄美に特化したパネルディカッションを、六月三十日(土)、名古屋で行います。

これは、カルチュアルタイフーンという毎年一回、開催都市を替えて展開している学際的イベントの一貫として行われるもので、今年で五回目。奄美だけにテーマを絞ったパネルディスカッションは二年前から開催していますので、今回で3回目となります。

今年のテーマは、「奄美の産業・社会と歴史・文化の相克」。開催場所の愛知県がグローバル企業「トヨタ」の本拠地であることから、産業と社会・文化との係わりが全体のテーマとなっているのです。

予定されているパネラーとそのテーマは、
◆酒井正子氏 (文化人類学) --「ヤマトから運ばれたウター昭和初期の奄美紡績女工の出稼ぎ体験をめぐって」。
◆弓削政己氏(歴史学) --「奄美諸島近代の歴史認識--奄美史は近現代の歴史である」。
◆前利潔氏(政治・文化研究) --「ヤマトへの集団移住から、阪神へのエスニシティとしての定着へ」。
◆企画と当日の司会進行は、私・大橋愛由等です。

今回は、歴史研究者である弓削氏を迎え、新たな史料に眼差しを向けることで、実証的研究にもとずき、奄美の歴史と経済が従来考えられた以上にダイナミックに躍動していたことが報告されます。

また、歌謡研究者の酒井氏からは、奄美出身者がヤマト(=日本本土)に出稼ぎにきて、そこで若い女性たちが生み出した"うた"を検証することで、ヤマトという異郷との接触で生まれた文化展開を考察。

さらに前利氏からは、奄美出身者がヤマトに集団で移住してきた軌跡を追い、ヤマトにおける奄美出身者の処遇を追うことで、近代日本の重層的な社会構造の変移の中で、奄美の立ち置かれた姿をあらためて検証しきます。

奄美をみるとき、その地政学的位置から考えると、「戦後」や「近代」といった時代相にとらわれることなく、よりスパンの長い共時性のもとで、分析することによって見えてくるものがあるのではないでしょうか。

◆開催場所は、「ウィルあいち(愛知県女性総合センター)」セミナールーム2。
 愛知県名古屋市東区上竪杉町1番地。電話は052-962-2511。
◆交通アクセスは、地下鉄・「市役所」駅2番出口 東へ徒歩約10分、あるいは名鉄瀬戸線・「東大手」駅 南へ徒歩約8分。
◆パネルディスカッションは14:55~16:55に行われる。
◆カルチュアルタイフーンの問い合わせは、ホームページ
http://www.cultural-typhoon.org/
から入ってください。

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この情報は、近日中に、南海日日新聞(本紙・社会面)に掲載されますので、読んでくださいね。

2007/06/03

2007年06月03日 13時55分10秒 | 出版
琉球ワールドでの早田信子さんの教室の舞台の演奏曲目です。


一部/
1朝花節/よいすら節/東れ立雲節(合奏)
2俊良主節
3長雲節
4長雨切り上げ節(上野山)
5嘉徳なべ加那節
6徳之島節
7飯米取り節

二部/
1ほこらしゃ節
2糸くり節
3いそ加那節(斎藤)
4今ぬ風雲節
5行きゅんにゃ加那節
6塩道長浜節
7すば宿節
8一切朝花節(多島)
9六調