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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

岩成達也さんをゲストに読書会&合評会

2007年11月20日 10時12分43秒 | めらんじゅ
『Melange』同人のみなさん ならびに 誌友のみなさんへ

大橋愛由等@『Melange』同人より

詩誌『Melange』の第27回読書会・合評会のお知らせです。11月25日(日)に開催しま
す。

今回は、岩成達也さんをゲストにお招きします。「詩論の方へ」というタイトルでお話し願います。以下、岩成氏制作のメモを本文貼り付けします。とワード添付をします。また、「現代詩手帖」に岩成氏が書いた詩論も2篇、富氏から預かっています。
まだ渡していない方は至急大橋まで連絡してください。maroad@warp.or.jp 

詩論の世界で大きな問題提起をし続ける岩成氏のお話しに期待しています。    
          

岩成さんのお話しを、第二部〈午後3時~〉にしますので、詩の合評会を第一部といたします。開始時間も30分早くなっていますので、ご注意下さい。

第一部の詩の合評会について、
詩稿の締め切りは、11月22日(木)とします。
今回も意欲的な作品、実験的な作品をお寄せ下さい。
お待ちしています。


ちなみに、詩稿は毎回小詩集に仕立てて、製本しています。出席されない方でご希望ので、大橋まで請求してください。さて、今月も聞いて学ぶだけでなく自作品を携えて参加するわれらの読書会・合評会にみなさん参加してください。

11月10日(土)に、甲南大学(神戸市東灘区)で「第15回島尾文学研究会」が開かれ、「島尾敏雄と神戸」というタイトルのシンポジウムが開かれ、わたし(大橋)は、パネラーとして出席。〈奄美と神戸をつなぐもの〉というタイトルで発言してきました。
会の様子は、私が記事送稿した文章が、南海日日新聞に掲載されていますので、当日お配りいたします。島尾伸三氏(敏雄の長男)の講演が特に興味深いものでした。神戸で一家をなした島尾家の最後の一人となってしまった伸三氏が語り部として語り始めた感があります。


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◆日時=11月25日(日)午後0時30分から第1部。午後2時30分まで。詩の合評会。(いつもより開始が30分早いのでご注意ください。)
午後3時00分から第2部。岩成達也さんのお話。「詩論の方へ」

◆会場=神戸・三宮のスペイン料理カルメンで行います。
(カルメンの場所は以下のサイトを参照してください。阪急三宮駅西口の北へ徒歩2分
の場所にあります。 http://www.warp.or.jp/~maroad/carmen/
 )。

◆第1部=詩誌の合評会/詩稿締め切りは、11月22日(木)締め切りは必ず守ってください。送稿された作品は24日(土)朝に、みなさんあてにメール発信します。ではみなさん、積極果敢に詩稿を送ってくださいね。

◆第2部=読書会=岩成達也さんのお話。「詩論の方へ」

なお、申しわけありませんが、岩成氏をお呼びするため、若干のカンパを要請しのすので、ご了承ください。

                           
大橋愛由等
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詩論の方へ(メモ)                07・11・25(sun)
岩成達也

( 0 ) 詩は要請(定義)できるか・・・・二、三の例

   R・ヤーコブソン : (発信者/受信者間の)メッセージそのものへの指向、メッ
セージそのものへの焦点合わせが、言語の詩的機能である。[『一般言語学』P192]
藤井貞和     : 《詩のことば》なんか存在しないかもしれない。きわめ
て意識的な言語体験が重ねられるだけではないか。[『詩的分析』の帯]
    瀬尾育生    : 言語とはほんらい、いまだ対象でないものが自らを
開き、対象としてはじめて姿をあらわす場所のことである。詩的言語は、意志体・情
熱体がそこで開示される場所そのものを直
接的に実在のものとする。一方非詩的言語は、意志体・情熱体を遠近法のなかへ移し
置き、そこで関係のなかの主体へと翻訳する。この二つの言語は互いに「逆立」する。
[『戦争詩論1910-1945』P312]
岩成達也    :(イ)詩的関係においては〈表現:内容〉という関係において言語
(構造)が充足しない。
         (ロ)あるテキストが詩(作品)であるためには、関与者の宣言を必
要とする。[『詩的関係の基礎についての覚書』p72p90]


( 1 ) 第二要請

1) 私(達)の世界を定義し構成するものは言語である。

2) 詩とは、言語でもって私(達)の世界を超出(/脱在-excendance)しようとする営為
である。

(註)ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論による「世界」の漂流性

( 2 ) 規範の侵犯―言語関係の異常

0) 詩=「規範の侵犯」という見方:第二要請との関係,その見方の問題点

1)言語構造に係わる異常
 (イ)従前の主流詩観―行分けと抒情(感情/感慨の表出)中心主義
 (ロ)音韻の前面化による異常
    →記号表現(視聴覚イメージ)の異常増殖(関係錯綜:『フィネガンズ・ウエ
イク』)
(ハ)喩/アレゴリーの前面化による異常 
    →記号内容(概念等)の異常増殖(多義性/過剰解釈/ヘルメス定義:『フー
コーの振り子』)

2)言述(discours,わ話)に係わる異常
  (イ)ディスクール:「だれかが(わたし)、なにかを(意味)、なにかについ
て(指示)、だれかに(あなた)、語る」こと。
     (註)ラングの現働化、ラングの内在性(意味)とディスクールと超越性(指
示、人称)
 (ロ)一人称の異常―P・リクールのテクスト論(杉村靖彦『ポール・リクールの
思想』)
    a)「わたし」の匿名化/抹消―指示の逆転/世界の逆転
b)言述=出来事から意味への乗り超え(疎隔―distanciation)
      →発語に対する書記の優位
      →テクスト論;「テクストにおいては指示は「世界」に向かうのではな
く、そこで開かれた指示の総体が世界である。(テクストは指示を直示的な指示の限
界から解き放つ)」

        (参考)リクールの言語観
・ いかなる言述も出来事として生起するが、意味として了解される。
・ この〈出来事から意味への乗り越え〉、〈言うことの、言われるものにおける疎
隔〉という見方が、リクールの言述論の核芯を成す。(杉村)
・ 言述に注目することによって,出来事から意味が湧き出す瞬間に立ち会うことが重
要なのであって、(この意味では)〈疎隔〉とはむしろ言葉の意味産出の条件であり、
言述が出来事として孕んでいた力は、出来事を乗り越えたときに初めて解放され、以
降ますます強くなっていく反響のように、絶えざる意味の探究へと引き継がれていく。
(杉村)

    (ハ)二人称の異常―E・ レヴィナスの他者論(コリン・デイヴィス『レヴィ
ナス序説』)
       a)「あなた」の絶対化/把握不能―指示の無効/ディスコミュニケー
ション
       b)語ること(le Dire)と語られたこと(le Dit)との「相差」
        →「あなた」が絶対の「他者」の場合、出来事は意味へと回収さ
れない。
        →この場合、語る「私」は専ら「他者」にあますところなく暴い
て(暴かれて)いる。

         (註)詩とは(絶対の)「他者」との遭遇である。(第二要請
―2)

    (参考)レヴィナスの言語観
・〈語ること〉と〈語られること〉とは言語活動の二つの相である。
・〈語ること〉は〈語られること〉に「前―起源的」(先行的)であり、しかも「離―
時性(単一の時間のなかに走る亀裂)としてみれば、両者は(分離不能で)同時的に生
起し、かつ相克しない。(デイヴィス)
・〈語ること〉は、姿をみせないまま言説の語り手あるいは聴き手としての〈他者〉
に私が曝露されているような状況、構造、あるいは出来事におけるあらゆる発語を基
礎づけている。(デイヴイス)

       (補足)思考するとはディスクールにおいて「わたし」が
「わたし」に語ることである。
                                     
 (P・ヴァレリー『カイエ』) 


( 3 ) 言語系の限界―特異な言語関係           cf.他者との遭遇の様


0) 三つの問題(言語哲学的)・・・論者にとってまだ十分な決着はみていない。
(イ)知と言語の関係
(ロ)身体と知/言語の関係
(ハ)「私」と知/言語の関係
(参考)バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』
    特に「6.思考の範疇と言語の範疇」「17.ことばにおける主体性について」

1) 触知―知の下部(基礎)限界の突破
・触知はドリフト(漂流)する。
・触知を捉えるのは、多くの場合、言語の周辺部分(意味的、視聴覚像的に非中心部
分)によってであって、その場合の言語運動も通常の(言語)組織化運動から逸脱する。
(仮説) ・・ ( 断片化、 物語の破綻、等)

 (註)言語の連合(パラディグマティック)関係→多義性、中心/周辺

2) 分節―知/言語の分節/未分節(分節以前)と もの/ことのそこへの現われ

    例;a.logosがratioとoratioとに分節されたとき何が生じたのか
      b.アウグスティヌスの「聞く言葉」と「光る(見る)ことば」

   (註)知/言語の分節化の増大と知(特に科学知/理性知)-散文―の精密化
の増大  

3)超越(志向)―知の上部限界の突破
  ・知/言語は常にその根源を求めてやまず、更にそれを超えようとする。
    -知/言語の志向性/逆流
・神学、特に聖トマスの言語観モデル
      (参考)聖トマスの言語観―discomunicationの克服    
    ・ 稲垣良典『神学的言語の研究』
         _ アナロギア;同語同義と同語異義 との中間 (語;nomen/義:
ratio)       
_ 二つの言語とその方向性の一致
           「表示の様式」(modus significandi):感覚から出発する
人間理性に固有の認識
           「表示されたもの」(res significata)
         「因果性の道」による推論⇒「表示された完全性そのもの_ 
恩寵(の言語)
・澤崎幸子『内なることばの研究』
外なることば
ことば          表象において:表象像(phantasma)
内なることば         ↓※
        知性において:可知的形象
                                     (
※)能動知性が受動(可能)知性の中に可知的表象象を
つくる。これは更に概念形成(直知/定義)から
判断形成(判断/言表)を経て存在把握にいたって
究極点に辿りつく。

4)信憑性/断片集積の自己同一性の問題(独白)
  「私」がもはや「個」であることが疑わしいとき、「私」が係わる、この分裂し、
断片化し、相矛盾す  
     る言葉や言表を自己同一的な関係として、「私」に「開く」ものは何か。
     →書く/話す(読む/聞く)という身体性を伴う営為それ自体ではないか(
「私」/「開く」)

(註)書くということのありようは、「いま(ここに殺到する無数の過
去)」のありように似ている。
          つまり「私」=「いま」 





長田で

2007年11月17日 14時50分43秒 | 出版
夜、街を歩いていたらちょうど私と終業が同じ時刻の人(Sさん)と電話連絡することができて、Sさんの職場に近い新長田まで出向くことになった(いつも私の都合がいい三宮まで来てもらっているので)。時々二人はこうして街を歩いている者同士の会話を交わす機会があり、そういう時は二人で軽く飲みに行くことにしている。こうした即時即応な対応が出来るのも携帯というツールがあってこそ可能になるのである。

新長田は今年の5月までFMわぃわぃの事務所があったところで、随分とこの街にも慣れ親しんだ。

鷹取に局が変わって、しみじみ新長田が都会であることが分かった。鷹取は村といった方がいいのか、店屋が少なく循環コードのように何度も同じ店を繰り返し使っている。

Sさんと入った店は駅近くの中華料理をベースにしながら新しい感じのするコンセプトの店構え。

Sさんと逢うと、脈を計るように指先を触らせていただくことがある。

ひんやりしている。

まずい。

仕事が立て込んで疲れているようだ。私は高めの体温なので両手で包み込むようにしてSさんの手を交互に温める。

料理が運ばれてくると、Sさんの皿に取り分けるようにしている。いつもそうしているのは、少しでも多くの量をSさんに食べてほしいためである。

会話が進みワインも飲んでいった時、再び指先の温度を確認させてもらうと、温かみが戻り安心する。

こういう邂逅に近い出逢いの時はいつもと違う話題を話しあうので、これもまた愉しいひとときなのである。

ところがその店を出る時になってSさんの街に帰る電車がすでに最後が過ぎてしまったことが分かった。同じ長田区内に帰るより遠い東に帰る私の方が電車の便がいいというのは、なんだか妙な話である。


運命の三行

2007年11月15日 23時32分13秒 | 出版
ミトさんの、普段はひとえだが、時にふたえになる魅力的な眼(まなこ)を見つめながら、この人と出逢うようになったのは、私が歩んできた道中のいくつかの分岐点を経てきたからこそではないかと思っていた。

というのは二人がこうして語りあっているというのも、私のこれまで選択したり選択されたりして、ようやくたどりついた来し方があってこそのものだからと想っているからだ。

分岐点や来し方といえば大袈裟だが、例えば私が出版の仕事を本格的にするようになったキッカケは、大阪の海風社という出版社に入ってからである。その海風社を知ったのは朝日新聞に掲載された求人欄の三行広告であった。なんともそっけない内容で「編集」と書かれたその二字を頼りに試験を受けに行ったのである。

海風社では社主で詩人の作井満氏と出会ったのが私の大きな財産となった。出版の仕事を大量にして、奄美、沖縄の多くの知己を得ることになり、表現者としても歩み始めたのが、この海風社時代なのである。

後にまろうど社として独立しても作井氏との友誼はつづいたが、その端緒となるのが三行広告だったことを思いおこせば、ミトさんとの出逢いもその初めは〈小なるをもって佳し〉でもいいではないかと考えているのである。

携帯悶着

2007年11月14日 23時02分12秒 | こうべ花気だより
いま私が持っている携帯電話は、au製(casio)である。以前は、奄美に通じやすいという理由でdocomoを使っていたが、奄美に通うたびに、docomoの優位性が崩れていき、auでも同等に通話が出来ることを確認して、今年の2月に会社を変更した。もともと私はマジョリティーの会社の製品を使うのが嫌だったのだが、奄美に敬意を表していたために、どことなく官製会社の残香がただようdocomoを使い続けていたのである。

090や080で始まる携帯電話同士では同じ電話番号で移行することが出来るのだが、PHSであるwillcom(070で始まる)とは互換性がない。PHSは、通信速度が速く、パソコンのデータ通信にもいいとされている。実は私はwillcom製の電話機も持っていて、通話専門に使っている。たしかに携帯電話より音はシャープだが、野外や移動しながらかけていると、通話が途切れることがある。アンテナの数が影響しているのだろうか。

私のPHS機はsim カードが付いていないタイプのもので、とある人のPHS機も同じタイプ。その人がミニパソコン並みの能力を持つ機種に変更することになって、sim カードを購入したり、SDカードを買ったりしているとコストがかかってしまうと悲しそうに報告してきた。その人、いちど〈悲しさ感度センサー〉が働きだすと、ずいずいと悲しさモードに入っていって、そんな時に横にいたり電話で会話をしていると、今という時をこえて(過去のこと未来のことを含めて)悲しさのコードに乗せてぶいぶいと語りだすのである。しかも私の負性も同時に思い出したようにくりくりと言葉にする。もともと知性の人なので理路整然たる表現をベースにしながら感情むきだしの表現がないまぜになって、知性と悟性と感情そのままが一緒に発信されるのである。そんな時にPHS機でしゃべっていると、「どうか、willcomさま、携帯auよりも、優しさを上手に運んでこの人の荒ぶる魂を鎮めてたぼれ」と願うのである。

奄美のこと--よもよも思うに

2007年11月13日 10時15分11秒 | 奄美
秋は文化的な行事が多く、なにかと思うところがある。今日は奄美についてを語ろう。


日曜日の生駒道子さんのしまうた、いい出来だったが、不満もある。かつては、巻き付くようなねちっこい歌い方をしていて、その粘着度の深さが好きだったが、どうも今回の唄はさっぱりしすぎて、「あれっ」と思ってしまった。"なつかしさ"はあるのだが、まとわりつくようなフシマゲのからみが少なく、どうしたことだと思っていたら、一緒に聞いていた人が「××の人の影響か」と最近生駒さんと組んでいる人のことを挙げた。その真偽は判断できないが、生駒さんに機会をみつけて進言してみたい。


今回の唄で一番よかったのは、出身集落である喜界島・城久(ぐすく)集落の八月踊り唄だった。チヂンひとつで歌いきるさまは、絵になっていた。反対にアカンかったのは、一部の三線(サムシィン)を二人で合奏したのはいいがチューニングが甘かったので、耳障りに聞こえたこと。二部の前に「ここの舞台は発表会ではありませんから」と釘を指す。二部は生駒さんだけがサムシィンを弾き、音がしまったのは事実である。


生駒さんの八月踊り唄があまりに良かったので、それだけ収録させてもらうことを提案した。私はかつて喜界島の上嘉鉄集落の八月踊りを現地で収録させてもらったことがあるが、生駒さんによると似ているという。チヂンひとつで奏でられる八月踊り唄は奄美の宝である。


八月踊り唄といえば、島尾シンポジウムがあった10日(土)に、岡本から三宮に、島尾伸三夫婦と瀬戸内町の図書館長をしている澤佳男氏と共に送りがてら阪急電車に乗り車中に伸三氏から島尾敏雄・ミホ両人の貴重な話を聞き、三宮到着後は、澤氏と二人で遅くまでしている炉端焼き屋に行って、二人で二時間ほどしゃべりこんだ。澤氏は瀬戸内町の55集落あるすべての八月踊りをビデオ収録するようまず町単事業で始めた。その発想の端緒となったのはおそらく古仁屋集落でのしまうた録音の場だった。澤氏に八月踊り唄を残すように要請している姿を私も見ていたのである。それから収録が始まって、やがて文部科学省の助成金を獲得するのでなったのだが、どうしても15集落ぐらいまでしか収録できないのである。それはすでに八月踊りに関して「限界集落」になってしまっている集落がいかに多いかということなのである。寂しい話だ。

生放送-取材-神戸の坂

2007年11月12日 23時43分56秒 | 神戸

今日は、鷹取のFMわぃわぃで「南の風」の生放送。朝早くから起き出し、滅びゆく記憶媒体であるMDに録音されている早田信子さんの歌声を編集する。トラックマークをつけていく作業はもう10年以上しているので慣れているが、このトラック識別がMD以外に反映されないのは、まったくもってSONYの犯罪である。


FMわぃわぃに到着する直前に、一行のメール着信。ままよとばかり、局に入る。今日は日比野氏、金千秋さんなど、いつになくスタッフが多い。ミキシング担当は田口氏。番組前の打ち合わせをして、スタジオへ。今日はギターの生演奏があったようだ。「街はイキイキ きらめきタイム」の時間帯も多くのゲストが登場して、祝祭感に溢れている。


午後1時から生放送が開始。やはり番組は生が緊張して好きだ。島唄が流れている時は、ミキサーの田口氏と語り合う。こうした局スタッフと語り合うというのも、大切な情報交換となる。番組は順調に進んでいく。そういえば、この番組も今年のこすところ数回となってしまった。あと、なにを放送するのか、詰めていかなくてはならない。


番組終了後、近くの麺屋で、とりそばを食べる。ここのダシがいい。丁寧に作っている。Sさんも同じとりそばを食べる。麒麟ビールを一本頼む。日頃アサヒビールが多いので、なぜか長田では麒麟ビールにしている。理由はない。食事中、Sさんとさまざま語る。真面目な話が中心である。二人で話していると話題が尽きないのはいつも不思議だ。


局に帰って、10日に神戸新聞生活文化部の女性記者の方(この人も有能な記者であるとの評判を聞いている)に写してもらった「島尾敏雄と奄美」シンポジウムの写真データを、田口さんにCD-Rに焼いてもらい、局を辞す。続いて向かったのは、琉球ワールド。兼次さんは沖縄出張して不在だが、二階で治(はる)一郎さんを待つ。藤山和也さんとともに来てくれる。さっそく「第一回徳之島ちゅっきゃり節関西大会」の事務局長を引き受けてくれた治さんへのインタビューをする。一時間ほどさまざま聞く。亀津出身の治さんの生きざまも形を変えて、南海日日に紹介したい。治さんのインタビューが終わった後も、ひとり原稿をしあげる。南海日日新聞に送稿するのである。写真もデジタルでとったので、それをまとめて送稿した。一度もプリントアウトしなくて送稿できるのだから、全くもって時代は変わったものだ。すべてアナログでしていた記者時代を経験しているので、隔世の感を抱く。


無事一本脱稿して気分がよくなり、とある人からの連絡を待ち、午後7時すぎに連絡がとれ(とこういう書き方でわかると思うが、以前一回連絡がとれなかったことがあり大騒動をした)、とある場所へに向かうことになった。私もその人も神戸の人間で、都市やその街に住む者の性格上、さっぱりしている面も確かにあるのだが、あにはからんや、一度叶わなかったことを再度やり抜くという執着の深さも二人の共通の性格のようである。わたしがまずその"約束の地"に向かって、神戸の坂をゆたゆたとあがって行ったのである。

南へ 台湾へ

2007年11月09日 12時48分58秒 | 出版
ミトさんが言った。

「台湾に行きたいわ」

他者とは、繊細なこころもちで、控え目でかつ、温かみのある距離をつくるミトさんが、問わず語りに自らの嗜好を言うのは珍しい。

台湾ーー昭和10年代、祖父・大橋千代造が、父を含む一家を引き連れ、堺から移り住み、台南で事業を起こすが失敗して、ほうほうの体で本土に引き上げたと聞いている。

そうした一族にとって苦い経験の敗地である台湾に、かねてより深い興味を抱いていた。私にとって、事業家・千代造の痛恨の土地を訪れることで、彼がどのような思いでその地に立っていたのか、思いを馳せることで、私と共に南に向かった千代造の心情を察してみたいのである。

ミトさんに、私のそうした台湾にまつわる心の経緯は本格的に語ったことはあるだろうかこころもたないのだが、私の台湾についての思いを一気に噴出してくれたミトさんの一言であった。

パネラーの準備

2007年11月08日 13時41分57秒 | 出版
土曜日(10日)に甲南大学で開かれる「島尾文学研究会」で「島尾と神戸」というテーマでシンポジウムが開かれ、私はがパネラーとして呼ばれ出席します。

苦労して作った1945年敗戦直後の混乱期から、1953年日本復帰にいたるまでの、奄美出身者の阪神における郷土会活動表を使いながら、奄美側資料から見た島尾の神戸時代を検証していこうと思っている。

いま準備にいそしんでいるが、最近の私の仕事を見続けてくれているミトさんが仕事の都合で来れないため、気力がそがれ気味なのです。

チリに行く国司氏

2007年11月07日 22時46分25秒 | 出版
何年ぶりかの再会です。

共同通信記者をしていた国司さんがふらりと立ち寄ってくれました。

氏とはもう20年以上の付き合いです。

来年からチリに2年間シニアボランティアとして、生活改善の仕事をしにいくのだそうです。彼が行く場所はスペイン系国民(白人)が殆どの中で、インディヘナの住民が比較的多い地域だそうです。

国司さんはスペイン語を流暢にしゃべるのですが、われらがFMわぃわぃのスペイン語放送担当のロクサナさんにスペイン語を学んでいたそうです。世間は狭いですね。

日比野・吉富夫婦もよく知っているとのこと。年内には、われわれFMわぃわぃ関係の送別会をしたいものです。

島尾文学シンポジウム

2007年11月06日 04時49分44秒 | 思想・評論
11月10日(土)に甲南大学で行われる島尾敏雄についてのシンポジウムが行われます。
わたしはパネラーとして発表する要旨をまず下記に載せておきます。
(今回はパネラーとして出席しますので、いままでのように自分が企画司会をするのと違い、少し楽なのです。司会の方の差配に委ねる快感があるのです。これから濃密に島尾に関して読み込んでいくことにしましょう)。


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「奄美と神戸をつなぐもの」
 神戸は戦前から多くのエスニシティが住み働く多義な街である。それぞれのエトニ集団は自足していて、他者に対して微妙な距離を取りつつ棲み分けが出来ているためか、市民はその多義であることを日常的にあらかた意識しなくても生きていける都市でもある。奄美出身者は戦前から主に大手企業の底辺労働者として働いていたものの、島尾敏雄が神戸における奄美出身者とその集団を明確に意識するようになったのは、戦後からだというのはうなずける。それは、ミホ夫人との神戸においての結婚生活と、終戦直後の混乱期における奄美・沖縄出身者による突出した「郷土会」活動のゆえだと思われる。復員後の神戸時代における島尾と奄美の〈シマ社会〉の接触に関する資料は多くない。私の発表では、奄美側資料からみた島尾の動態を見ることで、神戸という街の特性を思念しながら、島尾が後の奄美時代に向けて用意したものがあったのかどうかを検討していく。

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その日のスケジュールは次のようになっています。

◎第15回島尾文学研究会 

島尾敏雄生誕90周年 故ミホ追悼記念 島尾敏雄文学研究会結成10周年
島尾伸三写真展覧会 同時開催(11月5日~17日予定)
共催:人間科学科・島尾文学研究会
協賛:和泉書院、タクラマカン、(神戸文学館)

開催日時:11月10日(土)13時~16時30分
開催場所:甲南大学521教室(5号館2階)OR 511教室(5号館1階) 

総合司会: 鳥居真知子
13:00~    開会の辞: 高阪 薫
13:20~14:50 
◆シンポジウム:「島尾敏雄と神戸」
*「島尾作品と神戸」              西尾宣明
*「『タクラマカン』・神戸外国語大学の時代   尾嵜昇
* 「父・四郎と生糸貿易の島尾商店について」  寺内邦夫  
*「奄美と神戸をつなぐもの」         大橋愛由等   
*1人あたり15~20分、質疑応答を合わせて14:50に終了

◆講演15:10~16:30 
「神戸時代 父トシオ 母ミホ」          島尾伸三
                  *1時間の講演の後質疑応答
◆島尾伸三写真展について         
写真展「生活」をめぐって   西 欣也(甲南大学)
    純粋写真に向けて       島尾伸三  
16:30~16:45 閉会の辞: 坂本幸雄(『タクラマカン』編集長) 
17:00~    レセプション:ギャラリー会場。写真展観賞。

18:30~    懇親会 会場:甲南大学生協2階 
            会費:6000円
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◆神戸文学館 文学イベントのご案内

平 成19年11月17日(土) 午後2時~3時半『 関 西文化の日 』 参加イベント 企画展

「島尾敏雄の文学 神戸から・・」連動講座
「島尾敏雄と神戸」 講師  西尾 宣明  (プール学院大学教授)  


神戸東西徘徊

2007年11月05日 19時16分04秒 | こうべ花気だより
月曜日であるが、今週はFMわぃわぃの放送なし。
一日、神戸の東西を徘徊して過ごす。

ランチをSさんととる。
時々いくお好み焼き屋で、わたしが先に入って待つ。
店の人も連れ合いがくるのは承知のようだ。
右手にシャーペンを手に、とある人の俳句の一句評を書くために、選句する。
左手はビールグラス。「呑み過ぎですよ。金曜日も日曜日も呑んだでしょ」とSさんに注意されるのだが、待つ時間が手持ち無沙汰なので瓶ビールを一本注文。長田あたりは、まだ大瓶が出てくることが多いので嬉しい。三宮で大瓶を出すところは本当に少ない。
やがて現れたSさん。今日は艶やかな顔のふくらみを感じて、なんとも色っぽい。
映画の話や、いままでの会話の反芻など、Sさんと語っているといつも楽しい。
Sさんの休み時間はあっという間に終わり、挨拶をして別れる。

その足で、以前から目をつけていたキムチ屋で、白菜キムチ、ごまの葉、トックを買う。特に私はこのごまの葉に目がない。
一枚あるだけで、茶碗一杯を軽く食べることが出来る。そして干し鱈を一本買う。韓国産だそうだ。店のオモニとしゃべる。「わたし、FMわぃわぃで、もお13年も番組してんねん」「ああそお! でもここわぃわぃが入りずらいんよ、店の外にラジオを出さなあかんねん」。

東に歩いて、琉球ワールド二階の「琉球サンバ」へ。兼次さんと打ち合わせ。12月に琉球ワールドでフェアをするのは、与論島ではなく、与路島だそうである。びっくりした。与路島だけでフェアが出来るのだろうか。こうしたフェアが琉球ワールドでされるのも、私が南海日日新聞に書いたコラム「神戸から」の影響かもしれないと思うと嬉しくなる。兼次さんから、WEB更新の相談を受ける。そして「徳之島ちゃっきゃり大会」のことも話し合う。今日は一階の「沖縄食堂」でくだを巻くことはせずまっすぐ新長田駅に向かう。

兼次さんと話し合っている時に、山本幹夫・神戸文学館長から携帯に電話が入る。三宮に少しだけ途中下車してCに寄り、月刊『Melange』26号を二部持ち、阪急に乗り換えて王子公園駅で下車。小学校低学年の子供たちの下校時間である。海星の小学生の女の子たちが集団で歩いている。帽子が歩いているようで可愛い。わたしも仁川学院というカトリック系小学校に通っていたので、こうした制服に身を包んだ私立小学校の生徒たちを見ていると、自分の過去とだぶって微笑ましく思ってしまう。

それにしても、この王子公園あたりは、神戸有数の文教地帯である。緑が豊かで、心が落ち着く。文学館に到着して、山本館長と打ち合わせ。2008年1月12日(土)に、同館で「三枝和子--文学で結ぶ神戸と奄美パネルディテスカッション」を企画しているのである。

これは、毎年この時期に神戸にやってくる沖永良部島の前利潔氏に、せっかく神戸文学館が出来たのだから、沖永良部に関係する文学を語ってもらおうと考えたことから始まった。同文学館の周囲は、沖永良部島出身者が濃密に住んでいるエトニを形成している地域でもある。沖永良部二世の干刈あがたは、故郷の島に帰る時、神戸を経由している船ひとつで島と直結しいるこの街に島を強く感じていた。その干刈の研究者であり、かつ奄美大島・瀬戸内町の二世である小説家の三枝和子の全集編集委員でもある与那覇恵子さん(東洋英和大学)に語ってもらおうと思っているのである。

山本館長と打ち合わせを終え、館内で展示されている島尾敏雄展を見て回る。几帳面な島尾の筆跡や、生前に愛用した革靴や傘も展示されていて、興味深い。この作家はさまざまな場所にかかわったので、さまざまな島尾像が語られて面白い。私は沖縄における島尾受容の熱さを知っているので、その息吹きを神戸にいる人たちにも伝えたいと思っている。

館を出ると、小雨が降って来た。キムチのすこやかな臭いに気分をよくしながら、阪急電車に乗って、隣の東灘区に向かっていく。下車した岡本駅は、かつて谷崎潤一郎が利用した駅である。南から向かうと、駅舎の背後が六甲連山を借景としていて、おおよそ都会にある駅とは思えない趣きがある。おそらく谷崎が利用した時代と変っていないだろう(阪急以北の土地は建築規制が厳しいのと、マンションが建つ比較的大きな土地が少ないから、借景がいまだ成り立っているのである)。

コープ神戸の階上へ行き、昨日から気になっているコネホに関する小物を買って、坂を下り、帰宅の途についたのである。


映画「パンズ・ラビリンス」

2007年11月04日 23時13分09秒 | こうべ花気だより
Aさんと、映画「パンズ・ラビリンス」を観る。

これはなんとしてでも観たかった映画で、大阪の映画館は満席の盛況だった。

単なるメルヘンではなく、スペイン内戦終結後の内戦(!)がからみあっている。
不思議なことに、私がAさんだけに書き送ったメルヘン仕立ての掌編小説に少し似たところがあって、さらに驚いてしまった。

舞台は1944年。5年前にスペイン内戦は終結しているのだが、市民戦線側の残党はレジスタンスとして、山間部を転戦しながら、政府軍と闘っている。スペインは内戦終結後から独裁者フランコが死ぬ1970年代までの間、長い暗黒時代であったことは知っていたが、組織的な戦闘が終わってもなお、ゲリラ的に闘っていたことは知らなかった。

スペインは内戦が終わってから、市民戦線側にたった者たちに対して、拷問、抑圧、監視、追放などあらゆる強圧的な待遇を貫いてきた。そうした勝者と敗者の構図が決定していたと思っていた1944年にもレジスタンスとして闘っていたスペイン国民がいたことを知って、驚愕したのであった。

スペイン映画というのは、面白く、Aさんと一緒にみた「ボルベール(帰郷)」もそうだったが、最初脇役的な存在の役者が次第に作品展開のキーパーソンになっていくという構図を、今回の作品でもみることが出来た。メルセデスという大尉の生活全般を世話する女性が、少女とともに、物語を大きく展開していく役回りを与えられるのである(「ボルベール」では主人公の女性の姉が次第に大きな存在として立ち回って行くようになる。観ている方は、複線的なストーリー展開を楽しむことができるのである)。

それにしても、この映画では多くの生命(いのち)が奪われてしまったことだろう。まだ映画を観ていない人には申し訳ないが、最後まで生き残るのは、赤子ではないだろうか。白き聖衣とも思われる白い着ぐるみに包まれた赤子はなにを意味していているのだろう。祖父と父の記憶を赤子に継承しようとして拒絶されて死んでいった父である大尉。そしてその記憶の継承を拒絶したレジスタンスの人たちもおそらく徹底した政府軍の掃討作戦で死んでいったことだろう。この赤子は、スペイン再生の意味が付与されているのだろうか。映画の最後のシーンで、架空の花が登場して、ひとしれず咲いては忘れられて枯れていく。しかしまたなにかの機縁で咲いては忘れられ、そして枯れていくことを繰り返す。忘却という空白があっても紡がれていくのだというメッセージが聖衣にくるまれた赤子に託されたメッセージなのかもしれない。

私は、この映画で殺戮されてしまった人たちのなかで、一番過酷に思えたのが、農夫親子が大尉の無慈悲な激情のためにいとも簡単に殺されてしまったことである。コネホ(しかもまだ幼い)を撃っていたのにすぎない農夫親子が、その銃撃音を政府側兵士にとがめられ、必死の懇願にもかかわらず、息子は大尉が割った瓶で目をつぶされた後に、口に突っ込まれて殺され、「息子が、息子が死んでしまった」と嘆く父にはピストルを二発発射して殺してしまう(戦場ではとどめの一発を撃つのが常識なのだということがこの映画をみていて深く認識してしまった)。農夫のバックの中には、無政府思想的な言葉が書かれた紙片を大尉は発見するが、それは昔からの格言だという父の弁明を聞こうともせず、二人を殺してしまった後に、バックからコネホが本当に出て来て「私に報告する前にちゃんと所持品を調べてからにしろ」と部下に言うときの大尉の顔には、表情の変化はみられなかった。そしてそのコネホを地元有力者が集まる宴に出してしまうという残忍さ。

そしてこの主人公の少女。愛くるしく、スペイン女性らしい黒髪、少女という概念にふさわしい年齢と、いかんなく発揮される少女性。「不思議の国のアリス」で示されたロリータ的嗜好の対象にぴったりあてはまるラニーニャ。それでいて、自らの少女をもてあまし、少女を逸脱する行為もする(タブーを犯して葡萄を三粒食べてしまう)。いわば絶対受容体として措定される「絶対少女」の中の概念の中にも組み込まれている〈反少女性〉。

この映画を観ている時、不思議な感興に陥った。隣りで映画をみているAさんが、映画の中の主人公であるラニーニャと二重写しとして見えてしまったことだ。「これはAさんの少女時代だ」と思い定めてみていた。蚕が繭を作って、成虫になるための準備をするように、利発で繊細な少女たちは、繭をつくり社会・状況・家族と隔絶することで、自分の世界に閉じこもり、自閉自足な世界を構築していく。かつ自分を否定する行為もする。繭を出しながら、繭を食べている。Aさんは、いままで一緒に観た映画の中では見つめている濃度が違っていた。「ああ、こうした少女時代を送りたかったのではないか」とも思っていたのである。

この映画、メルヘンだろうか。スペイン内戦後の深刻な国内分裂状態がリアルに描かれている。連合国軍が、ノルマンディに上陸したとの新聞紙片を回し読んでレジスタンス同士で励まし合っているシーン。なんとも切なく、なんとも過酷な現実にメルヘンをぶつけている。だから反対にメルヘンが際立ったのかもしれない。わたしはてっきり最初から最後までメルヘンチックな作品だと思っていたのが大違いだった。

Aさんが面白いことを言う。もしこの映画がアメリカで作られていたら、最後のシーンで、主人公の女の子が、継父に殺される寸前に、レジスタンスの部隊がやってきて救い出し、ハッピーエンドだったかもしれない、と。でもこの映画は違った。殺戮に殺戮が重なり、ひとのいのちが簡素に散っていく。これが、戦争や内戦の現実なのだろう。それに対するわりきれなさを抱きながらも、希望や幻想はだからこそ生み出されるのだろうと思っていた。