神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

7月4日に東京で奄美シンポ

2010年06月29日 21時12分44秒 | 奄美
7月4日(日)東京で、奄美に関するシンポジウムを開催します。

これは、カルチュラルタイフーンという学際的なテーマを討議するイベントの一環として行われるもの。2003年から開催され、奄美に特化したパネルディスカッションは今回で6回目となります。

テーマは、「米軍普天間飛行場の徳之島移設案が持つ思想的な意味~奄美諸島は沖縄県外か、圏内か~」。

また奄美が国家という大きい権力の都合で翻弄されている。歴史的に何度も繰り返されるこの事態を、思想や批評のレベルでういちど冷静に議論していきたい。

パネラーは、前利潔氏(知名町公民館)、喜山荘一(与論島出身、マーケター)、古勝信次(奄美大島生まれ 徳之島二世)の3人。
会場では、「4月28日の徳之島1万5千人集会の写真展」も開催される。
会場は、東京都世田谷区駒沢1-23-1の駒沢大学の駒沢キャンパス「日本館2階204会議室」で午後1時から2時間開催。

奄美セッションは、6年前からカルチュラルタイフーンで続けているもので、奄美に特化したイシューを討議するものです。今回は当初、2009年が薩摩の琉球・奄美侵略からちょうど400年であったことから、今年も文学にみる「薩摩侵略400年」を考えるとしていたのですが、今年1月から降ってわいた「米軍普天間飛行場の徳之島移設案」という緊急のテーマを語ろうと、変更しました。


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奄美セッション〈「米軍普天間飛行場の徳之島移設案が持つ思想的な意味~奄美諸島は沖縄県外か、圏内か~」〉。

開催/7月4日(日)午後1時~3時 「日本館2階204会議室」
テーマ/〈「米軍普天間飛行場の徳之島移設案が持つ思想的な意味~奄美諸島は沖縄県外か、圏内か~」〉。
出演者/大橋愛由等(司会/図書出版まろうど社代表)
    パネラー 前利潔氏(知名町公民館)
         喜山荘一(与論島出身、マーケター)
         古勝信次(奄美大島生まれ 徳之島二世)
なお、会場では、「4月28日の徳之島1万5千人集会の写真展」も開催される。

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四人の趣意文 
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★大橋愛由等  (司会)

奄美が揺れている。米軍普天間基地の移設問題で、訓練施設の一部を徳之島に移すとする政府案が民主党・鳩山政権において提示された。徳之島では全島あげての反対運動が盛り上がり、民意は決定したかのように思えたが、「条件付き賛成派」も存在する。6月になって鳩山内閣から管内閣に変わり、事態は刻一刻と変化しているが、奄美が国家の思惑によって翻弄され続けていることには変わりはない。振り返ってみると、奄美は常にその所属をめぐって変転を繰り返してきた歴史がある。今回も、奄美が「沖縄県外」であることが政府にとって免罪符になりうると位置づけをしたかったようだが、奄美は同時に琉球「圏内」でもある。こうした「県外」と「圏内」という何重にも複雑に絡みあった奄美のありようを、本土の為政者たちはどれほど深く認識していたのだろうか。こうしたヤマトにおける奄美の所属認識をめぐる「可塑性」は、系統発生しているのだということを見据えて、その思想的意味を討議していきたい。

★前利潔    (沖永良部島在住) 

 徳之島(奄美諸島)は沖縄県外なのか、沖縄圏内なのか、という声が米軍普天間飛行場の移設問題の過程で出てきた。鳩山前首相にとって徳之島案は、沖縄県外であり、日本(本土)でもない、ということに意味があったのではないか。日本という近代国家は外交的な危機を、琉球弧の島々を犠牲にするかたちで解決しようとしてきた。琉球処分後の琉球分割案(1880年)、南洋道構想(1908年)、近衛文麿による昭和天皇への戦争終結の上奏と沖縄戦(1945年)、天皇メッセージ(1947年)などである。奄美諸島の返還(1953年)は、沖縄を恒久的な軍事基地化するための「道具」であった。普天間飛行場の徳之島への一部移設案は、今後も米軍基地を沖縄に固定化するための「道具」でしかない。民主党政権になっても、日本という国家の本質は変わっていないことを、徳之島案は露わにした。この問題を、近現代史の文脈の中に置いて考えたい。

★喜山荘一   (与論島出身、東京在住)

 奄美にとって普天間基地の機能一部移設問題は、二重の疎外に由来する困難の現在形である。「琉球ではない、大和でもない」という奄美の二重の疎外は、今回、振り子みたいに「大和ではない」方に振れ、そうである地理として徳之島が浮上しているように見える。ここから見れば、徳之島案は沖縄「県外」ではあるが琉球「圏内」に止まるものであり、そうであれば、大和と琉球の切断線を再生産させてしまうのだ。
 奄美は、徳之島移設の反対を、普天間基地撤去と矛盾しないものとして沖縄と連帯しなければならない。そして日本は、そのことを国民化した上で対アメリカの問題としなければならない。しかしこう言えば同時に、その理念の背後で、二重の疎外の当事者である鹿児島は、奄美ではなく薩摩内部への基地移設を提案すべきではないかという主張と、米軍基地の維持が現段階で不可避ならば、隣人である奄美がその一部を引き受けたいという心情とが、いつ噴き出してもおかしくない声としてぼくの胸にせりあがってくる。

★古勝信次   (奄美大島生まれ 徳之島二世)

奄美の島々、島んちゅに内在する「凍てつき」と「煌めき」の二面性で繰り返し輝いてきた姿。
僕は今回の普天間基地徳之島移設問題でも奄美の島々からそれを感じることができた。
元々、自分自身は徳之島への米軍基地移設を“軍事”的なるものへの嫌悪感があり反対したわけではない。逆に産業が乏しく人口減少が止まらない徳之島においては「徳之島自立論」として受け入れる空気は少なからず生まれるだろうと思っていたし、身内にもはっきり賛成と口にする者もいた。
現段階で自分自身が絶対反対なのは、米軍基地の一部を鹿児島“県”である徳之島へ移設すれば表面的に沖縄“県”の負担が減るという一時的に政治の手柄になる道具として南西諸島を利用しようとしたことがはっきり感じられたからだ。この問題は沖縄でも鹿児島でもなく恒常的に地域の問題として地域全体で討議されるべき問題だ。
そして今回の問題で『徳之島』に焦点が当てられたことで、全国に散らばった徳之島、奄美ゆかりの人たちは自分の中にある『島』をはからずも感じさせられたのではないだろうか。
徳之島への基地移設問題が報じられて以後、インターネットでは全国から自分の祖先は島にある島ゆかりの者だと言う声が見られた。
歴史的に日本本土と沖縄の間に位置し、絶えず両面から翻弄されながら自分たちの悲哀と元々ある南国的な生命力のはざまで己を昇華し続けてきた島んちゅたちの「島」を根とする強い意識が声を挙げさせたのだと感じる。薩摩と琉球のはざまにあり植民地的な支配を受けながら現代に至るまで400年経っても奄美はそれぞれの「島/シマ」の個性を失わなかったことがそれを裏付けている。
僕はそれを「薩摩と琉球」とか「鹿児島と沖縄」と言う地域名を使うことなく、苦悩する「凍てつき」と生命力である「煌めき」を繰り返しても潰れることなく輝いてきた奄美群島の島々の二面性を内在した強さであり個性だと感じる。


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