『日本の近現代氏をどう見るか(シリーズ日本近代史10)』(岩波新書編集部編、2010.2.)を読む。
この「シリーズ日本近現代氏」は、すでに9巻の既刊が出ているのだが、総括編にあたる10巻目だけを読むという“ずる”をして、このシリーズが目指そうとした意図を知ろうとした。
以下、本書の読後感を箇条書きにまとめとみると、以下のようになる。
1.あきらかにこの「シリーズ日本近現代氏」は、歴史修正主義者に対するアンチとして、企画されている。歴史修正主義者が歴史の「読み直し」を企図したように、読み直しをされた側としてのあらたな研究成果を、シリーズの名のもとに、表出しようとしているかと思われる。
2.歴史研究は、その研究者が置かれた時代、状況に左右されることが認識できる。安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というあきらかな歴史の「誤読」を危険視した岩波知識層が、もういちど戦後に積み上げられた歴史研究を、自ら再点検してみようとする強い意志を感じる。
3.『日本の近現代氏をどう見るか』は、シリーズを担当した9人の著者が、自著の総括と、新書という原稿量の制約の中で書ききれなかった研究成果をまとめていて、興味深い内容になっている。いままで歴史研究者が切り捨てていたり問題しなかった立場の人たちの言説を取り上げ、評価したり(幕末の対外交渉にあたった幕府側役人たち)、反対にいままで疑わなかった歴史評価を相対化する(戦後社会はすべて米軍占領統治によって良くなったという美談を点検する)といった作業など、労作が多い。
4.先に「歴史研究は、その研究者が置かれた時代、状況に左右されることが認識できる。」と書いたが、それは、本書に展開されている研究は、イデオロギー対立が明確に歴史研究に深い影を落としていた時代には、困難であったろう視野の広角さが見られるからである。歴史修正主義者が提起した「戦後という時代の否定」に触発されて、彼らが「誤読」した「近現代史」のありようを、自分たちなりに「再読」してみようとした試みなのである。その「再読」には、戦後という時代に形成された「前時代を否定することで構築された合意」を再点検したり否定したりすることなども含まれているように思われる。こうした視座は、一見あやういものとみることも出来ようが、「誤読」を自分たちなりに回収した上での「再読」の確立という評価も出来るために、本書の置かれた位置は、新たな歴史研究の姿を提示しているのかもしれない。
この「シリーズ日本近現代氏」は、すでに9巻の既刊が出ているのだが、総括編にあたる10巻目だけを読むという“ずる”をして、このシリーズが目指そうとした意図を知ろうとした。
以下、本書の読後感を箇条書きにまとめとみると、以下のようになる。
1.あきらかにこの「シリーズ日本近現代氏」は、歴史修正主義者に対するアンチとして、企画されている。歴史修正主義者が歴史の「読み直し」を企図したように、読み直しをされた側としてのあらたな研究成果を、シリーズの名のもとに、表出しようとしているかと思われる。
2.歴史研究は、その研究者が置かれた時代、状況に左右されることが認識できる。安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というあきらかな歴史の「誤読」を危険視した岩波知識層が、もういちど戦後に積み上げられた歴史研究を、自ら再点検してみようとする強い意志を感じる。
3.『日本の近現代氏をどう見るか』は、シリーズを担当した9人の著者が、自著の総括と、新書という原稿量の制約の中で書ききれなかった研究成果をまとめていて、興味深い内容になっている。いままで歴史研究者が切り捨てていたり問題しなかった立場の人たちの言説を取り上げ、評価したり(幕末の対外交渉にあたった幕府側役人たち)、反対にいままで疑わなかった歴史評価を相対化する(戦後社会はすべて米軍占領統治によって良くなったという美談を点検する)といった作業など、労作が多い。
4.先に「歴史研究は、その研究者が置かれた時代、状況に左右されることが認識できる。」と書いたが、それは、本書に展開されている研究は、イデオロギー対立が明確に歴史研究に深い影を落としていた時代には、困難であったろう視野の広角さが見られるからである。歴史修正主義者が提起した「戦後という時代の否定」に触発されて、彼らが「誤読」した「近現代史」のありようを、自分たちなりに「再読」してみようとした試みなのである。その「再読」には、戦後という時代に形成された「前時代を否定することで構築された合意」を再点検したり否定したりすることなども含まれているように思われる。こうした視座は、一見あやういものとみることも出来ようが、「誤読」を自分たちなりに回収した上での「再読」の確立という評価も出来るために、本書の置かれた位置は、新たな歴史研究の姿を提示しているのかもしれない。
その経緯についてはなんらの説明がないのはどうウシ手でしょうか。アメリカは帝国主義でなくなり、日本は独占資本社会ではなくなったのでしょうか。横滑り史観といわれても仕方がないのではないでしょうか。日本の歴史学界と共産国家の関係をはっきり検証しなければならないと思います。
この先生方が、賛美ないし肩を持っていたソ連、東欧共産国家は崩壊し、中国、ベトナムは資本主義経済を導入し、北朝鮮は共産経済を続けいまだに餓死者を出しています。戦後歴史学会を担ってきた先生方にこの間の歴史描写について何らかのコメントを聞かせてもらいたいです。あの当時我々歴史学科で学んだものはイッタイ何を学んだのでしょうか。
変な並べ方だが、私はどちらも好きではない。その共通性は、どちらも一般大衆を馬鹿にして嘘八百を並べ虚像をばら撒いて自分らの信ずる「夢のようなユートピア(大東亜共栄圏と共産社会)」へ連れて行き、多くの悲劇を生んだことです。「大東亜共栄圏」は300数十万人の国民を戦死させました。共産主義は北朝鮮帰国運動や赤軍やゲバによる殺人や、