神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

山端の物語

2008年04月30日 23時08分48秒 | 神戸
午後4時すぎ、教会の鐘の音。
窓をあけると、山がすぐ近くに迫り、マンションが所狭しと建っています。
迫る夕刻。
坂を下って行けば都心の街並み。
今日は三度坂を登り坂を下り。
日がとっぷりと暮れた後は、ある人のために、あることを集中します。
缶ビールを飲みながら、だんどりを考えて、ことを進めて行きます。
四月つごもりは聖なる日。
心地よい緊張。
出来上がったものへの感謝。
二人のための聖餐式です。

ばしゃ山会の発表会

2008年04月29日 18時09分43秒 | 通信
動画は、民謡教室「ばしゃ山会」の発表会で歌う藤山和也氏とシマナンジキのみなさんです。

歌うは「一番口説」。口説をこうして教室の発表で歌うのは初めて聞きました。今回の発表会で私が注目した演奏のひとつです。藤山氏はますます徳之島のしまうたを極めるための本格モードに突入した感があります。この人がいるかぎり神戸の徳之島のしまうたは今後ますます隆盛していくことでしょう。

青年Mが見た長野五輪リレー8

2008年04月28日 19時06分37秒 | 思想・評論
混在する両陣営と交通整理をしようとしている警察官が撮影されています。

今回の長野で示されたものは、五星紅旗の面的な大きさと圧倒的な量です。チベット支援グループの旗の大きさ、量の違いが目立ちました。今回の八本の携帯ムービーで示されたものは、五星紅旗がチベット旗を量的にも、面的にも凌駕していたということです。

また今回のムービーは参加した者でしか撮影できないライブな視点であり、つねに事態を鳥瞰しようとしているマスコミの視座と明らかに違うものです。両者が混在する場では、チベット支援グループが五星紅旗によって覆われてしまうという事態がしばしば見られたそうです。そうしたライブな写真、動画を撮影できるのに、今回のマスコミは混乱が予想されるという理由をもとに「代表撮影」というジャーナリズムの自裁を選択しているように思えてなりません(これから週刊誌メディアなどで紹介されるかもしれませんが)。

これは、五星紅旗を支えるものが、国家(民族)であり、チベット支援グループが、市民であるとの差異でしょうか。中国からすると外国である日本で多くの五星紅旗がはためいている。赤の色彩は刺激的です。同じスポーツの祭典のワールドカップの時と大きく違い、日の丸は一部写っているものの、今回は、日本の地において、中国国旗とチベット旗が主役になっています。

青年Mが見た長野五輪リレー7

2008年04月28日 19時00分22秒 | 思想・評論
混在する両陣営。やはり中国国旗の圧倒的な物量面の広さ大きさが見立ちます。
この「混在の現場」を撮影したこのありようが魅力的ですね。
私がテレビやネットニュースで見たマスコミ報道の動画では、伝わってこない「現場」からの情報です。
それにしても今回の〈長野五輪リレー事態〉は「代表撮影」が多かったようですね。
街頭の中に記者や写真部記者が分け入って撮影したのでしようか。
やはり「…の中に」という意識とその画像、動画がジャーナリズムに必要かもしれません。

青年Mはたまたま「国境なき記者団」のロベール・メナール事務局長とある場所で居合わせたらしいのですが、テレビクルーに邪魔だからどけと「排除」されたと憤っていました。

こうした混乱した「現場」からなにかが生まれるはずです。今年の夏に向けて、大学のキャンパス内で、中国留学生と日本人学生との対話集会も企画されかもしれません。

思想も表現も、ことすべて「混在」という「現場」から産まれ出るように思っています。

青年Mが見た長野五輪リレー6

2008年04月28日 18時50分30秒 | 思想・評論
今回の「長野五輪リレー事態」を考えるツールのひとつとして旗があるようです。かつて日韓共催のワールドカップの時(2002年)に当時の日本の青年たちは日の丸を振っていたのですが、今はチベット旗を振っています。
当時は新しいナショナリズムの形が顕現したと表現されましたが、今度は自分たちの国の国旗ではなく、実体を持つ国の国旗でもない。そして今まで見知ったなじみ深い旗でもない。うがった見方をすれば、これはチベット旗である以上に、〈反・中国の象徴旗〉〈反・中国旗〉であるかもしれません。
つまり「反」の表象なのです。旗は時として大きな意思の道具となります。
6年前の青年たちは、日本/日本人であることの自己肯定/自己措定をするための道具として旗(日の丸)を振りましたが、今回は日の丸の出番は殆どなく、亡失したアジアの国(地域)の旗を振っている。青年たちはいつの時代も怒りを秘め怒りを表現しようとしている。今の青年たちの怒りはなんだろう。〈反・中国旗〉=〈チベット旗〉をかざすことで、どのような〈反〉を表現しようとしているだろう。

青年Mが見た長野五輪リレー3

2008年04月28日 18時39分04秒 | 思想・評論
道路を挟んでチベット・「新彊ウイグル地区」の旗と、中国国旗が対峙しています。
この場所では向こう側同士で旗が振られていますが、両陣営と旗が混在している箇所も多かったそうです。
ちなみにこの「新彊ウイグル地区」の旗については初見です。青年Mはそうだと説明してくれましたが、確かめていません。
もしそうだとしたら、この「長野五輪リレー事態」は、「チベット支援」というタームだけではない意志の広がりを意図している人たちが控えているのかもしれないという推測も可能かもしれません。

青年Mが見た長野五輪リレー2

2008年04月28日 18時35分03秒 | 思想・評論
チベットの旗は中国の国旗で隠されようとしています。

青年Mによりますと、こうした光景はいたるところで見られたとのこと。
意識的に大きな中国国旗(五星紅旗)によってチベット旗やプラカードを隠そうとしていたと憤慨していました。

それにしても真っ赤な五星紅旗は多くかつ目立ちます。

青年Mが見た長野五輪リレー1

2008年04月28日 18時31分44秒 | 思想・評論
さて、長野の向かった青年Mが携帯ムービーで撮影した八本の15秒作品を紹介しましょう。

最初はリレー会場で散見された中国留学生グループと、日本人のチベット支援グループの議論あるいは、言い争いの場面です。

青年Mも何人かの中国人と議論したそうです。

そのうち二人組の中国人と言い争いとなり、「では続きはあそこの中華料理屋で決着をつけよう」となり、三人で店内に。中国人のうち一人が日本語を話すのですが、もう一人はモンゴル系で日本語は少しだけ。内蒙古からやってきたらしく青年Mとは漢字で筆談。そのモンゴル人も仏教徒だということ。時に激しく言い争ったそうですが、青年Mはその時の昼ご飯代を中国人におごってもらったそうです。現場に行ったからこそ生まれる興味深い光景です。


神戸に住む中南米文学者

2008年04月26日 12時49分22秒 | 思想・評論
昨日ふらりと、まろうど社の著者である安藤哲行氏(摂南大学教授)が事務所を訪れてくれました。
パチェコ著『メドゥーサの血』の訳者です。

近況報告をしたりして、しばし情報交換。
永年「中南米文学時評」を連載した『ユリイカ』のことや、訳出する予定の文学書のことなど。

そしてせっかく中南米(イスパノ・アメリカ)文学の泰斗と言うべき鼓直氏(法政大学名誉教授、かつては神戸外大で教鞭をとっていた)が神戸に移り住んだので、鼓・安藤両氏という中南米文学を深く知る人を結びつけてなにか形にしてみたいと思っているのです。

例えば、神戸文学館で、神戸のなにかと結び合わせて、シンポジウムをするというのもいいですね。そこで今、中南米文学と、「神戸」というもの、「神戸の文学者」、「神戸の文学」との結びつきを考え始めています。

またこのお二人の編著による中南米文学の本も出してもいいですね。
エディターごころがむくむくとわき出して行きます。

青年M 長野へ

2008年04月25日 13時33分07秒 | 思想・評論
昨日、「青年Mは明日長野に行くよ」とMの小学同級生の女の子に伝えると「えっ、長野?」という答え。「あら知らないの、いま日本の都市の中で長野が一番注目されているのに」「え、え、え、え、なにかあるんですか、長野に」と困惑した返答。同世代でも反応はさまざまです。

そして青年Mは、バスに乗って長野に向かって行きます。神戸も今日は寒いので、長野はもっと寒いでしようね。ホテルなどは満室であるので、ネットカフェに「宿泊」を予約したとか。チベット応援グッズを持って行いました。緊張していたなあ。

大正天皇----忘却された王

2008年04月24日 14時31分18秒 | 思想・評論
最近すこし読書が快調です。
原武史著『大正天皇』(朝日選書663、2001)を読了。

私が大正天皇について書籍を読もうとしたキッカケをまず書いておきましょう。
1980年代後半、わたしは大手のD印刷大阪支店に出向させられていたのです。
出向の身の拠りどころのない閉塞感がいやで仕方なかったのです。大企業ほど、正社員を頂点としたヒエラルキー意識が超然としてあるからです。
ある時、東京本社から指令が入り、サンケイ系の週刊誌をなるべく駅スタンドなどで購入して、読者の目にふれないようにせよ、というものでした。いわば納品後にとりうる「回収」の最終手段でしょう。ウワサによると、内容になにか不都合があったらしく、記事差し替えも間にあわなかったのでしょう。その指令は出向社員にも暗黙のうちに協力が求められていたのです。
私はその雑誌をキオスクで一冊購入しましたが、出勤してから「もう売ってなかった」と報告したのです。
その号には大正天皇についての記述があり、どうもそれが「不敬」に抵触するという怖れがあったから「回収」の対象になったのだとウワサされていました。
その記事を読んでいると、大正天皇が「御脳病」であり、たしか陸軍の閲兵式に臨んだ時、相手がおじきをするのを真似て、おじきを果てなく繰り返していたといった内容が書かれていたと記憶しています。
大正天皇については、こうした種々のウワサ話が流布していることで著名なことであり、いまさら「不敬」でもあるまいとあきれたものです。
印刷の現場にいると、商品回収や刷り直しといったトラブルはつきものであるものの、ことが「天皇」「不敬」に関連することであったために、この超大手で、国を代表している会社であるとの自覚がそこはかに漂っているD印刷の本質に接して、うんざりしたものです。

さて、本書。大正天皇について正面切って一書を草したという意味では画期的な内容です。
「近代天皇制研究では、もっぱら天皇だけに関心が集まり、明治期であれば明治天皇の果たした役割が強調されすぎてきた。だが、少なくても明治の最後の十二年間に関する限り、嘉仁皇太子が果たすことになる役割に、もっと注目する必要がある。この役割こそ、戦後巡幸で全国を回った昭和天皇の姿を先取りするものであり、それに着目することで、なぜ戦後も天皇制が象徴天皇制として残ったかという重要な問題が見えてくるように思われるからである。」(p102)
この箇所に著者が本書を書き起こした原器があるでしょう。
大正天皇(嘉仁皇太子)の健康のために始められた日本国内各地と朝鮮半島(その時はまだ「併合」前の保護国)の「微行」は、生身の天皇を間近に国民が接するという大きな副産物を産んでいきます。明治天皇が殆ど国民の前に姿を現さなくなった明治時代の後期はもっぱら嘉仁皇太子が国民との接点の役割を果たしたのです。

こうして国内を巡っていく積み重ねが、国民の皇族を迎える態度を国家が徐々に規格化していく過程と重なっているのだということが、本書でみごとに書き出されています。国民統合のアイデンティティを天皇に求めるという超国家主義のクライマックスの形態が出来上がっていくのです。

嘉仁皇太子の健康向上のために計られた「微行」が、皮肉にも昭和天皇の皇太子時代に引き継がれ、昭和のファナティックな国体主義に昇華していくのです。

大正天皇の個人的な資質として注目したいのは、「後宮」制度に距離を置き、一夫一婦制を大切にすることで、近代国家における「聖家族(サクラダ・ファミリア)」の様相を国民に顕現したことです。また、子煩悩な父親像は昭和・平成天皇の家族像の大きな規範となっていったことでしよう。しかし、時代は、大正天皇のそうした個人的資質と関係なく、植民地朝鮮に皇化を波及させる役割を果たし、昭和の戦時体制における天皇絶対主義を準備することになるのです。




奄美からの電話

2008年04月23日 12時49分33秒 | 奄美
二日前、夜に私の携帯が鳴ります。
「ひさしぶりです。やはり奄美はいいですねえ」。
知り合いの新聞記者です。
奄美についての著作もあるこの記者は、奄美がよほど性分にあうらしく声さえものびのびとしています。

その電話に次に代わったのは、私よりも奄美通いの頻度が高い男性です。京都で飲食業をやっておられるとか。
名瀬・屋仁川で奄美支店を出店する予定があるほど入れこんでいらっしゃいます。

その記者「それと、『キョラ』第二期を出し続けてくださいね」と釘をさされました。はい、すみません。その通りです。

そしてこちらの方からも「2009年のこと(奄美への薩摩侵略からちょうど400年)を記事にしてくださいね」と伝えたのです。