神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

"みそか"の思い出

2006年04月30日 23時56分25秒 | こうべ花気だより
四月の末日である今日は、"みそか"(=各月の末日をこう呼ぶ)。

そうそうかつて、何年前だったか、幼かったわたし(弟)と姉の間でとある月の"みそか"の日にこんな会話を交わしたのを思い出しました。

姉◆「いやあ、Mさん、来(き)はったわ」
弟◇「え、来(き)はったん、いつもより早いんとちゃう」
姉◆「そうや、いっつも、つごもり(月の最後の10日間)過ぎて月開けて五日目ぐらいやのに」
弟◇「Mさん、ほんでも太陽暦やのうて太陰暦でものごと決めはる人やろ」
姉◆「あんた、よ~知ってるな、そうや。だいたい正確に来(き)はんのに」
弟◇「今日も大きな荷物、背たろうて来てはるわ」
姉◆「今月はどんな反物、持ってきはったんやろ」
弟◇「んでも、予定より早い今日来(く)んのは、グツ(=具合)悪いんやろ」
姉◆「いやあ、それがそうでもないらしいんよ。今月からMさんが来(き)はるのは、ええことで、言ってみたら、オンチョーやねんて。先月までは来(き)はっても、坊(ぼん)さんの月命日まいりみたいに「ああ、もうそんな日ぃかいな」ぐらいやったやろ」
弟◇「どういう意味か分からん。ほんでなに、オンチョー? あっ、わかった、ぼくつねづね思(おも)てんねんけども、Mさんて、鳥やと思うねん。鳥の顔に似てるやろ、ほらなんとかいう、そこいらをうるさ言いもって飛びまわっている鳥。"音鳥"て書くんやろ。なんかどっかの図鑑で見たで」
姉◆「あんたアホやなあ、オンチョーは"恩寵"と書くねん」
弟◇「ぼく、そんな難しい字習ろてへんもん。で、どういう意味なん?」
姉◆「大人になったら分かるて、言(ゆ)うてはったわ」
弟◇「ほんなら、おねえちゃん、分からへんやろ」
姉◆「いや、テンゴ言(い)いな、わかるしぃ」
弟◇「わかった、あのMさん、いっつも大きな風呂敷包み持ってきはるやろ。あれ、反物やのうて、羽根が入っているんとちがう。疲れたら、羽根つけて京都の呉服問屋に飛んで帰りはんのやわ。おとなは、そんなこと、こどもに言うたら、鳥から反物買ってるのばれるから、言(ゆ)わへんのやろ。ねえちゃん、そんなとこやろ」
姉◆「…うん…、…まあ…、そんなとこやろね」
弟◇「ほんなら、Mさんのいる座敷に行ってあの人は実は鳥やいうこと、確かめへん。面白(おもろ)いやん」
姉◆「あんた、ひとりで行(い)っとき」
弟◇「オンチョーの意味も知りたいんやろ。それに、今月はお茶菓子も上等なん出てるで。見にいこ、見にいこ」
姉◆「うん、もおー」
弟◇「はよはよ。弟として、おねえちゃんのレベルに合わせるのも大変なんやから」
姉◆「こら! 聞こえてるえ」
弟◇「痛(いっ)た~、本気でこつかんといてえな」


岩城吉成さんのライブ

2006年04月30日 18時11分15秒 | FMわぃわぃ
神戸・長田の琉球ワールド二階の舞台で、徳之島出身の岩城吉成氏がしまうたを演奏。これは今月始まる奄美のしまうたシリーズの第一回目にあたります。

舞台は、午後1時半からと、午後3時からの舞台の二回。それぞれ、一時間ほど演奏。前半を奄美、後半を沖縄の島唄が演奏されました。

わたしが聞いた二回目舞台(奄美パート)では、
1.徳之島ちゅっきゃり節
2.朝花節
3.くるだんど
4らんかん橋節
5.ワイド節
を演奏されました。
最後のワイド節では、数人が舞台に出て気持ちよさそうに踊ります。やはり長田はシマンチュが多いですね。
ちなみに、前半の奄美のうたは、1.徳之島ちゅっきゃり節 2.行きゅんにゃ加那 3.ヨイスラ節 4.カンティメ節 5.ちゅっきゃり朝花節を演奏されたとか(なお、後半は沖縄の唄をたっぷり披露されましたが、ここでは割愛しておきます)。

この岩城氏の演奏(奄美パート)を、5月29日(月)の「南の風」奄美篇でわたしが編集した内容をおとどけします。みなさん、楽しみにしてくださいね。

ちなみに、岩城氏は徳之島町南原集落の出身。昭和34年(18歳)の時にヤマトに出て、沖縄民謡、奄美大島民謡(師匠/武下流・坂元武広氏)と、さらに野村流で沖縄古典音音楽を修得するという芸域の広い人です。「沖縄の古典は奧が深く、民謡を20曲覚える間にも、一曲程度しか修得できないが、その一曲が味わい深いのです」と。

これから、FMわぃわぃ「南の風」奄美篇ではこうして、琉球ワールドの舞台に演奏された内容をお届けする機会が多くなると思います。

ただいま編集中

2006年04月29日 09時56分05秒 | 出版
まろうど社が現在編集している書籍は、何冊かありますが、そのうち二冊の詩集を外部の詩人のひとに編集を依頼しています。まろうど社は、わたし以外はすべて外部の人間です。今年は特に多くの書籍を刊行予定しているだけに、わたし一人が出来る範囲が限られ、手が回らないために、どうしても外部の人に頼まざるを得ないのです。

編集の基本は、担当したその著者、書かれたものに対する愛情です。ペーパーに印字されている原稿を、書籍という三次元のオブジェに仕立てていく快感は、出版に携わった者でしか分かりません。書かれている中身を理解することも大切ですが、書籍というモノとして構築していくことの面白さがあるのです。

詩集の編集を頼んだ詩人は、モダニズム系の作風を持つ人で、わたしより前衛的な手法を発揮する人です。20歳台から現代詩に本格的なかかわるようになり、これからもっと多くの作品を書いてほしい人です。詩も俳句も「よく書く人」は「よく読む人」でもあります。また、「よく編集する人」も「よく書く人」になるものと信じています。

春を秘匿したのは

2006年04月28日 10時20分19秒 | こうべ花気だより
昨夜、JRに乗っていると、電車が止まります。先行の電車内に急病者が出たので停車しているとのこと。その時わたしが座っていた席が補助席だったので、安定に欠き、うつらと眠ることが出来ず、メールを打つことにしたのです。そして横を並行して走る貨物列車までもが徐行してついには停まってしまったので、車内の緊張感が走ります。ここ数年、JRに関する大惨事、事故が多いだけに、よからぬ想像もうまれます。

こういう時に、心許す人とメール交換できたらいいのですが、意中の人へ送信するものの、返事はなし。隣りに座る女性は、彼氏との通話らしく、正社員として転職したばかりの会社での給料明細をことこまかに話しています。聞くとはなしに具体的な金額を聞いて、経営者として参考にさせてもらいました。彼氏も派遣社員らしく「ワードとエクセルさえ出来たらどこでも通用するわよ」と世間一般常識を披瀝しています。

電車はまだ動きません。その間に考えたことは、この寒さはきっと誰かが秘匿しているのに違いないということです。つまりずっと「花冷え」という状態が続いていますね。きっと誰かが、すべての花たちに、春の暖気を回収・秘匿するよう命じているのだろうと想いはじめたのです。ひょっとして、花たちに「花冷え」を命じているのは、メール返信がこないその意中の人かもしれないと、つらつら考えていると「お待たせいたしました。いまから発車します」とのJR車掌のアナウンス。

詩の月評 連載第2回目

2006年04月27日 09時22分56秒 | 文学
さて、今月の詩誌『Melange』の読書会は、お休みで、高谷和幸氏の出版記念会をしましたが、合評会に提出した作品を掲載する月刊誌に、あらたに連載を始めました富哲世氏の「詩の月評」と、わたしの「神戸詞(うた)あしび」の二回目原稿をネットにて公開します。

時代は変わったものですね。かつては、ペーパーの発行部数でしか、みることが見ることができなかった情報がネットに載せることで、より多くの人たちに読んで頂けるのですから。

》》》》詩の月評《《《《 2006年4月 No.02

遺言と遺言執行人  
富 哲世 

「討議戦後詩」に引き続き、野村喜和夫、城戸朱里両氏によって敢行された「討議 詩の現在」(2005年思潮社刊)のなかで、第3回のゲストとして登場した吉田文憲さんが、鮎川信夫の詩作品「死んだ男」の読み直しを通して、人称の問題を語っている箇所がある。そこでの凡その討議内容は、仮に詩人自身にとって一義的には「M」が森川義信であり、「遺言執行人」が「ぼく」であったにしろ、そのいずれもが固有名や確立的な主体といったものに還元されるものではなくて、──吉田氏発言「そこに出てくる『ぼく』や『おれ』という鮎川の一人称は『M』に象徴されるようななにかその『死んだ男』の代行や表象としてあらわれてくるものではどうもないような気がするんです」、「『M』も『遺言執行人』も自分自身の引き裂かれた分身的ななにかであるし、それはいわばその語り難い不可解な体験、開いたままの傷のメタモフォーゼのような気がするんです」というものとして、「わたくし」という物語を解体し続けるものである、と言っているように見える。『おれたちは深い比喩なのだ』(清水昶「野の舟」)という具合に、内在性からはみだしたような主体の実存のあり方が比喩とみなされて語られる場面があるのだが、そもそものはじまりにおいてその主体を呼ぶ「おれ(たち)・一人称」がもっとも初発的な暗喩であるなら、わたしたちは逃げ水の自己影を追い求め続けるほかないともいえる。「ぼく」と書いてなにかしっくり来ない感じ、そういうものを現代詩の体験としてわたしたちは必ずもっているだろう。そもそも「遺言執行人」が「ぼく」であるとはこの詩「死んだ男」のどこにも書かれてはいない。ただ歴史の底なしの淵へと半ば身を持ち崩すように恢復されていった暮らしの自家中毒的な浸潤のなかから、あるいは木部のような自己組織の内部へ、それとして選ばれるよにあらわれたその者がいるだけだ。これが(すべての)無残といううつつ(=生き残り)の悪夢のはじまりである、と仮に認める者があるとするなら、そこでは「遺言執行人」とは夢魔のようななにか別の存在である。そしてこの浸潤という世界の性格がもっともよく体言されているのが括弧でくくられた四つの発話、発話主体の不明な発話であろう。わたしはかつてこれを「M」の遺言とみなしてきた。そうしてそれを「思い起こし」、「ぼくの声」として生きることがその「執行」であると。その意味ではここでは発話者は同時に「ぼく」でもあると。『さようなら、太陽も海も信ずるに足りない』これは胸の傷みのきわみであると同時にいわば死後のランボーに会いにゆくための手土産のことばだとおもっていた(見つかったぞ!/何が? 永遠。/太陽にとろけた/海。)。そしてこの一行が置かれたことにはおそらく「間際」への切なる接近があるだろうことも事実だ。あるいはしかし、この一行がここに置かれたがゆえに、そこでは「ぼく」が爾後の「ぼく」として決定的に、他者や自己から追放されてしまっているのかもしれないのだ。そこにある身振りの一切が実は永遠の乖離を前提としたもの、遺言執行の不可能性(それは「ぼく」が「ぼく」であることも「M」であることもできないということを意味している)を前提とした上にはじめて成り立つものであったろうこともまた、この一行における「ぼく」の所有、「ぼくの、ことばの憑依」に関わって明らかなことではないだろうか。執行ははじめから不可能であるというふうにその執行人はあらわれていた。彼が遺言であるとみとめたもの、あらゆる再現・剽窃・口マネ・再創造にもかかわらず、その一切が遺言であることができないことを夢魔におかされた「ぼく」は知っていた、もしそうでなかったなら、ことばの痛みを死後にかえすように、どうしてその胸に答えのない問い(傷口)を開かねばならないだろうか。


》》》》神戸うたあしび《《《《 2006年4月 No.02
越境する蝶たちの行き先は  大橋愛由等

--- 銀の滴降る降るまはりに
   金の滴降る降るまはりに  
 (「梟の神が自ら歌った謡」より。知里幸恵著『アイヌ神謡集』大正12年刊)

 南ばかり指向していたわたしが、所用で北の大地に向かうことになった。四月六日に到着した札幌は地元の人も驚くほどの季節はずれの大雪であった。北海道では、雪がふればいとも簡単に地面に雪が残ることを知る。一八〇万人の都会でわたしが見たものは、都市の喧噪ではなく、市の中心部に残されている関西とあきらかに林相が異なる白樺林から喚起されるこの地の原風景と原記憶であり、わたしの耳許に聞こえてきたものは、先住民たるアイヌモシリたちの〈うた〉であった。冒頭に紹介した詩句は、神の鳥であるフクロウを語り手とする神話世界である。わたしは、樹木や鳥たちに刻印されてたこの地の豊穣な物語世界を想い続けて二日間を過ごした。

 さて、北海道で買い求めた本に『サハリンの蝶』(朝日純一ほか著、北海道新聞社、1999)がある。冬期には雪に閉ざされている北海道とサハリンには、多様な種類の蝶が成育する。タテハチョウ科の仲間には成虫のまま越冬するものもいる事実に驚きながら、図鑑のページをさらにめくっていくと、わたしが名前をよく知る蝶とであったのである。
 
 アサギマダラ---- 1000キロに及ぶ距離を越境する蝶として知られている。三重県に住む医師が本土でマーキングした蝶を奄美大島で自ら捕獲したという記事を南海日日新聞という奄美で発行されている日刊紙で読んだ記憶がある。この蝶、わたしはもっぱら南(奄美・沖縄)に向かうものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。北海道はおろか、サハリン(樺太)まで飛行しているのだから、創造主たる神は、この蝶に越境しつづけることを命じたのかもしれない。南に向かうアサギマダラと北に向かうアサギマダラは、同じ個体特徴を持っているのだろうか。また、その個体が越境する場所を決定する動機はなんなのだろうか。この蝶は謎だらけで面白い。同時に、もっぱらの南指向のわたしに同調してくれていると思っていたこの蝶が、北にも越境することに、複雑な思いを抱くのである。

 最後に北海道と蝶と俳句についてのことで締めくくろう。北海道在住の俳人といえば、まずわたしは西川徹郎氏を思い浮かべる。初期の作品群の中に蝶が登場する佳句があるので引用することにしたい。

・無数の蝶に食べられている渚町
・月夜轢死者ひたひた蝶が降ってくる  西川徹郎  
          (『西川徹郎句集』現代俳句文庫 ふらんす堂1992)

また雨です

2006年04月26日 23時44分20秒 | 神戸
どうも、その人と神戸の街を歩くと、雨が降る確率が高いようです。

若干の打ち合わせと、会話の後、ターミナルへ急いでいる時、蕭とした雨がふってきます。

「ほら、また雨」、その人は微笑を絶やさぬまま、わたしの顔をのぞき込みます。「ああ、はい、やはりわたしは、はい、そのお、雨男でして…」と少しく消え入りそうな確認の声。

傘を差すほどでもない雨。すこし歩速を早めるだけでうっちゃれる雨。ふたりで歩むことに障害にならない雨。このまま降り続けてもふたりで入る一本の大きな傘があればすごせる雨。

その人の胸には、亡命チベット人の思い出がつまったモノが"移動"しています。

亡命チベット人の思い出

2006年04月25日 09時52分37秒 | 文化
昨日、FMわぃわぃから、神戸駅・ハーバーランドにあるソフマップ(パソコンショップ)に向かう途中、雑貨屋があり、そこでいろいろつらつらと見ていると、かつて20歳代にインドを旅行した際に取得したあるものとそっくりなものがあって、それを、ある人のために買い求めたのです。

そのモノとはある人と物々交換したものです。たしか相手は亡命チベット人だったと思います。実家に残っているのかもしれませんが、ちょっと自信がない。わたしの部屋の現在の房主は姪っ子です。わたしが使っていた時より多くのものが部屋にあって、そういう事情もあり、探し出すのは困難を要します。

「南の風」は徳之島のホープ登場

2006年04月24日 23時03分02秒 | FMわぃわぃ
本日のFMわぃわぃ「南の風」の放送は、伊仙町出身で、徳之島の若手ホープである幸野泰士さんの特集でした。

じつは、この幸野さんの歌声を聞くのは初めてではなく、4年前の大島新聞社系の島唄大会で聞いたことがあり、放送でも紹介しているのです。その時の印象では、「徳之島からも、若くて活きのいい唄者が出てくるものだな」といった印象でした。その時歌ったのが大島系のうただったので、「こういう人が自分の島の唄を歌って欲しいな」とも思っていたのです。ところがその思いは今回の収録で早くも実現したのです。

今回の放送はわたしが1月に徳之島に行った際に収録したものです。米里輝三氏に紹介してもらった若手の唄者の一人です。やはり島のことは島の人に聞くのに限ります。わたしの「南の風」奄美篇の番組が成り立っているのは、こういう島の人たちの温かい支援があってこそのものなのです。

亀津の「福盛堂」の一室をお借りして録音させてもらったのですが、これがまた素晴らしい内容でした。まだ24歳という若手ながら、すでに徳之島らしい声質を獲得しているのには驚きました。泰士さんさんは、伊仙町伊仙集落の出身。だれかの師匠について学習したのではなく、唄者の家系なので父上の照繁さんやおじいさんから学んだというのです。

録音が終わって、「徳之島というのではなく、伊仙のうたを極めてください」と要望したのです。そして泰士さんがいるかぎり、しばらくは伊仙の島唄は安泰だと思ったのです。

放送したのは、以下の7曲です。

(1)島あさばな
(2)くろだんど節
(3)意見口説
(4)全島口説
(5)花徳のうまくら節
(6)二上がり節
(7)三京ぬ後

特に、今回注目したいのは、(3)意見口説 (4)全島口説--といった二つの口説(くどぅき)ものです。わたしは今回初めて徳之島を含めて生の口説に接しました。その勢いある調子は「徳之島は口説の島である」と言われていることがよく理解できます。

松山光秀氏によると、「徳之島は奄美諸島の中では口説を最も多く継承している島」(「徳之島郷土研究会報」第27号 2005年12月「徳之島の口説」より)であり、16曲が確認できるとのこと。もともと口説うたは17世紀ごろ、京都の門付き芸人集団「チョンダラー(京太郎)」が沖縄にもたらしたものとされ、それが徳之島に北上したとされています。沖永良部にも口説は旧来から歌われたものや、新しく作られたものも含めて数曲伝わっています。ところが奄美大島には、この口説は伝わっていないそうです。

この口説が徳之島で開花したということは注目していいと思っています。いわば抒事詩的なうた世界で、なにかの要因で、この島の風土や島の人の気風に深く受け入れられたということにもなるでしょう。これはつまり、現在のこの島の人や出身者が生み出す文芸についても、少なからぬ影響を与えているのかもしれません。すなわち、徳之島からは多く俳人を輩出しているということです。琉歌の叙情的な世界は、どちらかという短歌の世界と通底するところがあり、奄美群島には歌人が多いのです。ところが、口説は、モノに即した歌詞や歌い回しが多いことなどから、モノを通じて作品をつくり出していく俳句に近いのではないかと思っているのです。

さてさて、こうして徳之島の口説の魅力を語り始めるとキリがありません。明日の放送のように、こうした口説の素晴らしさを、若手がしっかれ継承していることに、嬉しくなってしまうのです。

再放送は4月29日(土)午後6時からあります。

雨男の告白

2006年04月23日 23時41分40秒 | 神戸
出版記念会の余韻が残る昨晩から今朝にかけて、神戸の坂を歩いていると、雨が降り出します。わたしが持っていたのは、ビニール傘。とても二人で入る大きさではありません。雨が時にしっかりと降ってきて、傘を離せなくなります。「この前も雨でした」と横を歩くひと。「ひょっとして雨女ですか」とのわたしの質問に「いえ」との簡にしてフォルテな返事。二人で坂を歩く時は、ずっと雨なので、そろそろ気付かれるのではないかと思っていたのですが、やはり告白しなければならなくなり「すみません、わたしは雨男です」と。


坂の途中で雨が小振りになった時、まだ、花が開ききっていない八重桜の花びらをちぎって、わたしの押し花用として『現代思想/サイード特集』に数片押し込み、そして横に歩いている人にもささげたのです。

高谷和幸氏の出版記念会

2006年04月22日 23時37分31秒 | 文学
本日、神戸市内のレストランで、高谷和幸氏の出版記念会が行われました(写真右が高谷氏、左が大西隆志氏)。

詩集『回転子』(思潮社)は、散文詩のみで構成されているのが特徴です。つまり、行替えがなく、句読点もいっさいないのです。

参集したのは、詩誌『Melange』同人、姫路から文学関係者、大阪から倉橋健一氏、京都から河津聖恵さん、名古屋から鈴木孝さんと紫圭子さんといった多彩に顔ぶれです。

わたし、思うに、この詩集のレベルからみて、なにか賞をとりそうな予感がします。その予想があたりそうなのも、これからの楽しみとしましょう。

出版記念会の前に『Melange』同人と誌友による詩の合評会が行われ、10名の作品参加がありました。いつものことですが、出稿された作品は、一編の詩集にそのつどに仕立てています。その目次から引用してみましょう。

〈  詩  〉
     バードアイ     野口 裕    
     ヴオカリーズ 或ひは渡海記      寺岡良信   
     ビギンズ その4  (開かれた矩形) 高谷和幸     
     モノクロ      天野夢織     
     姉         福田知子     
     天の川       安西佐有理    

     舞い舞い舞いて   大橋愛由等     
     奇妙な三角形    富岡和秀      
     み  こ      富 哲世      
     雨の午後      堀本 吟       

〈  評論  エッセィ  〉
     月評-02〈〇六年四月〉「後遺言と遺言執行人」  富 哲世   
    〈神戸詞あしび〉-02  大橋愛由等 

詩は自由か

2006年04月21日 19時23分32秒 | 文学
俳句と詩の両方の表現をしていますと、俳句は短い詩型だから、充全に表現できないとは決して思わないのです。作家とその作品を17文字(程度)に凝縮することの所作がすでに俳句作品の一部であるからです。一方、詩を作っていると、口語自由詩であるといいながら、なんらかの内在律を作品の中に持ち込もうとしている(つまり俳句的な手法の導入)私の態度に気づきながら、やはり17文字(程度)の文字制限から解放された悦びを満喫するのです。

作家カップル

2006年04月20日 09時50分42秒 | 文化
作家カップルのことについて考えています。

いままろうど社が編集している沖縄・奄美関係の論考・作品集『甦る詩学』の著者・藤井貞和氏は、学匠詩人といわれ、折口信夫型の知と表現を展開している人です。そのパートナーが、小説家の津島佑子さん。太宰治の次女です。

二年前に訪問したお二人の自宅兼仕事部屋は広く、一階は藤井さんの知の拡がりをそのまま展開したような大きな書斎空間でした。それぞれが違うジャンルの書き手なので、たがいの分野に干渉することなく、刺激しあっているのでしょうか。

表現者カップルの同居というのは、独特の空間を形成しているように思えます。ふたつがまじりあう場所と、その人のみの独占世界された場所と。

わたしも、3畳ほどの仕事部屋を持っていますが、部屋の三方にしつらえた作りつけの書棚に本、書類、CD類はとうてい収まらず、もうひとつの部屋に収めています。そしてまろうど社の在庫を入れる部屋と、本に囲まれた生活をしているのです。

そうした本に囲まれた生活を送りながらも、もうひとり、本にかかわる人が間近にいてほしいとの、作家カップルに対する憧憬のようなものがわたしにあるようです。

最近、とある人に、活字の世界/本の世界に戻ってくるように促している人がいます。もともと才能がある人なのですが、瞥見するところ、ちょっと活字の世界とご無沙汰のような印象を持ちます。その人と活字に囲まれ表現しあい、そしてその人に本を読むばかりでなく、本を創るという場でも共有していけたらと思っているのです。

琉球ワールドで島唄トーク

2006年04月19日 09時20分27秒 | 琉球弧
琉球ワールド沖縄宝島(神戸・JR新長田駅南)の二階ステージ「でいごの家」で、6月4日(日)、わたしが島唄トークをします。テーマは「神戸から島唄を発信する」。

これは、ステージの運営を担っている「琉球サンバ」店長の兼久賢一氏から誘われたもので、午後1時からと午後3時30分の二回ステージです。各40分の長さ。

この舞台は、島唄や琉舞の演奏ばかりではなく、トークも企画したいとの兼久氏のコンセプトにそって、わたしに出演依頼があったものです。

まあ、でも島唄は生演奏に優るものはありませんから、関西在住の若手唄者に出演依頼をしようと思っています。

さてさて、また新しい展開が生まれようとしています。ますます多忙になりそう。

薄い黒糖焼酎

2006年04月18日 09時02分56秒 | 奄美
日曜日の晩、若い人たちと、三宮に出来たばかりの評判の店に行きました。

相撲界を引退したWが経営する店で、"ちゃんこ鍋料理"に付加価値をつけています。

Wは、マスコミを騒がした遺産相続問題で随分有名になりました。そして彼は、同時に、こうした新しいタイプのちゃんこ料理店を全国的に展開していたのですね。

で、その店は、店内装飾に多くの費用をかけていることがわかります。そうした初期費用がかかっているせいか、値段設定は高め。若い人たちと呑むのには、もう少し安い店でいいでしょう。

わたしは、黒糖焼酎がメニューにあれば、迷うことなく撰ぶのですが、その店で呑んだ焼酎がこれがまた薄い。Rというヤマト向けに作られたもともとクセを消したタイプの焼酎に、ご丁寧にもお湯をたっぷりいれている。さらに「シングルとダブルがありますが」と店のスタッフの人に聞かれた時は、耳を疑い、絶句しました。

奄美では、高齢の方も、お湯割りは、焼酎6~7、お湯4~3の配合です。もちろん、ストレートの人も少なくありません。そうした中で、わたしは焼酎4~5、お湯6~5に特別に作ってもらい、「軟弱なヤマトンチュですから」と自虐的に言ってのけるのですが、そのわたしが薄すぎると感じるのですから、血の気の多いシマンチュなら「こんなん、セェっち、わんは言わん!」とテーブルをひっくり返すかもしれませんね。

いやあ、とにかく薄かった。

長田にいます

2006年04月17日 16時04分50秒 | 神戸
今日は、FMわぃわぃの放送日ではないのですが、外付けハードディスクの修理のために向かいます。

同局の事務所スペースには、データ修復のソフトを取り扱っている会社も同居しているために、お世話になろうと思ったのです。

琉球ワールドで、奄美の島唄を舞台にのせる日程調整をしたあと、駅に向かう途中に、ビルの解体現場がありました。それを見守る人たち。長田に限らず、神戸の人たちは、11年前に見飽きるほどに見ていた光景です。

見ていた人はそれでも、まるでパソコンがフリーズしたかのように、じっとその場から動きません。あの震災からの11年の来し方をこの光景に重ね合わせているようです。わたしも、ゆっくり歩きながら見ていたのですが「停まらんと歩いて!」との警備の兄さんに促されて、その場を去ったのです。

新長田駅前は、せっかく震災にも残ったビルを毀し、駅前再開発ビルが次々と建設されようとしています。