『台湾--変容し躊躇するアイデンティティ』(若林正丈著、ちくま新書、2001)を読む。
一九七〇年代後半を大学生として過ごしたわたしは何度か海外へひとり旅をした。東アジアでは、中国はまだ簡単に入国できなかった事情があり、最初の海外旅行の地として韓国を撰んだ。朴正煕大統領の独裁政治のただなかで、戒厳令が敷かれていた。
ところが同じ戒厳令が敷かれていた台湾に行かず、韓国に行ったのはどういう理由だったのだろう。韓国の歴史と文化の蓄積に魅力を感じていたのに較べて、台湾には私を引きつける決定的な動機がなかったのだ。もちろん、台湾は、父が小学校の時に住んでいた場所(台南市)であって、興味は抱いていたが、自分の中で台湾に行く必然性が見出せなかったのである。
本書を読んで、思いつくところを書いてみよう。
1.台湾(人)もまたアイデンティティに揺れるているのだということが、本書が伝えたい重要なテーマである。1895年から50年間にわたり日本の植民地であったために、自前の国民国家をつくることができなかった。しかも日本が1945年に降伏してから国家主権を担ったのは、台湾居住者ではなく中国本土からやってきた統治者であった。
さらに1949年の国共内戦の敗北によって、蒋介石を初めとする大量の国民党の軍隊と関係者が台湾に移り住み、あらためて台湾そのものが再設定されることになった。これによって、台湾の住民は、(1)もともと台湾島に居住していた原住民(日本統治時代は「高砂族」と言われた)と、(2)漢族系のびん南族(「福ろう人」とも、祖先が福建省で、詳しくは「泉州人」と「せん州人」とに別れる)、(3)客家族(客家語をしゃべる。台湾に来ているのは主に広東省北部出身者)、(4)そして外省人と呼ばれている中国大陸からやってきたひとたち(必ずしも漢族ばかりでなく満州族なども含まれていた)といった、四つの「族群」がある。その族群が台湾のエスニシティを構成しているために、「多重族群社会」と云われている。
2.四つの族群は、言語が違う。戦後になっても原住民における部族間の共通語が日本語であったのはよく知られた事実である。また七〇歳以上の台湾人は日本語で育った人たちで、日本語による文学創作も続けられている。しかし、びん南語を中心に発達した台湾語は、戦後になって弾圧され、学校で使用が禁止され、日本語教育が徹底された奄美・沖縄と同じ情況が展開していた。こうした言語の多重性は今でも続いている。わたしの知る神戸生まれの台湾人(30歳代女性)が台湾で勉学している時、学校ではバイリンガルだったそうだ。本省人同士では、台湾語をしゃべるが、外省人出身の同級生には分からないらしく、教室内で「なにいってるの」「あっ、ごめん」と言って国語(中国語)で言い換えるといった場面は日常のことだったという。また、神戸にいると、少年の頃に耳にした中国語といえば、圧倒的に台湾出身者の台湾語であったために、あの柔和で、耳にやわらかい台湾語を聞き慣れていたわたしにとって、中国本土の北京語や、本土の言葉は耳に刺すように響いて違和感を感じでいた。
3.本書は、台湾の戦後の政治史を理解するのに、よくまとまった内容であるといえよう。特に戦後の台湾社会の政治史の変遷については、簡便に書きまとめている(反面、文化的な記述が少ないが)。台湾社会が経済成長をとげ、徐々に本省人に対して門戸を開け、そして本省人の李登輝総統の出現を準備した人物として、蒋経国の実績を客観的に記述していることも印象にのこる。
4.あれはきっと外省人系のひとだったのだろう。神戸で大きく事業を展開する台湾系のひとと口論になったことがある。その人は、日本ならびに日本人そのものに不信感を抱いていて、決して台湾の人たちがすべて親日的ではないということを、わたしに教えてくれたのである。まさに台湾は、「多重族群社会」としてのモザイクのように存在しつづけ、今でも、「台湾人」=国民というアイデンティティや均質性を模索しているのことが分かる。
5.わたしはいずれ台湾の地を踏もうと思っている。亡くなった父の故地のひとつである台南に行ってみたいのである。台南はもともと台湾人意識の強い場所であることも、わたしを惹きつける。わたしの父方の祖父である大橋千代造は、アルミ工場を台南でたちあげるべく家族をともなって堺市から渡っていった(本書にも台湾の産業にアルミニウム産業があったと記述されている)。1930年代後半のことである。しかし、事業に失敗して這々の体で堺に逃げ帰ったと聞く。いわば祖父の敗地に立つことで、台湾と向かい合い、われわれの1930年代からの立ち位置を考えて行きたいと思っているのである。
一九七〇年代後半を大学生として過ごしたわたしは何度か海外へひとり旅をした。東アジアでは、中国はまだ簡単に入国できなかった事情があり、最初の海外旅行の地として韓国を撰んだ。朴正煕大統領の独裁政治のただなかで、戒厳令が敷かれていた。
ところが同じ戒厳令が敷かれていた台湾に行かず、韓国に行ったのはどういう理由だったのだろう。韓国の歴史と文化の蓄積に魅力を感じていたのに較べて、台湾には私を引きつける決定的な動機がなかったのだ。もちろん、台湾は、父が小学校の時に住んでいた場所(台南市)であって、興味は抱いていたが、自分の中で台湾に行く必然性が見出せなかったのである。
本書を読んで、思いつくところを書いてみよう。
1.台湾(人)もまたアイデンティティに揺れるているのだということが、本書が伝えたい重要なテーマである。1895年から50年間にわたり日本の植民地であったために、自前の国民国家をつくることができなかった。しかも日本が1945年に降伏してから国家主権を担ったのは、台湾居住者ではなく中国本土からやってきた統治者であった。
さらに1949年の国共内戦の敗北によって、蒋介石を初めとする大量の国民党の軍隊と関係者が台湾に移り住み、あらためて台湾そのものが再設定されることになった。これによって、台湾の住民は、(1)もともと台湾島に居住していた原住民(日本統治時代は「高砂族」と言われた)と、(2)漢族系のびん南族(「福ろう人」とも、祖先が福建省で、詳しくは「泉州人」と「せん州人」とに別れる)、(3)客家族(客家語をしゃべる。台湾に来ているのは主に広東省北部出身者)、(4)そして外省人と呼ばれている中国大陸からやってきたひとたち(必ずしも漢族ばかりでなく満州族なども含まれていた)といった、四つの「族群」がある。その族群が台湾のエスニシティを構成しているために、「多重族群社会」と云われている。
2.四つの族群は、言語が違う。戦後になっても原住民における部族間の共通語が日本語であったのはよく知られた事実である。また七〇歳以上の台湾人は日本語で育った人たちで、日本語による文学創作も続けられている。しかし、びん南語を中心に発達した台湾語は、戦後になって弾圧され、学校で使用が禁止され、日本語教育が徹底された奄美・沖縄と同じ情況が展開していた。こうした言語の多重性は今でも続いている。わたしの知る神戸生まれの台湾人(30歳代女性)が台湾で勉学している時、学校ではバイリンガルだったそうだ。本省人同士では、台湾語をしゃべるが、外省人出身の同級生には分からないらしく、教室内で「なにいってるの」「あっ、ごめん」と言って国語(中国語)で言い換えるといった場面は日常のことだったという。また、神戸にいると、少年の頃に耳にした中国語といえば、圧倒的に台湾出身者の台湾語であったために、あの柔和で、耳にやわらかい台湾語を聞き慣れていたわたしにとって、中国本土の北京語や、本土の言葉は耳に刺すように響いて違和感を感じでいた。
3.本書は、台湾の戦後の政治史を理解するのに、よくまとまった内容であるといえよう。特に戦後の台湾社会の政治史の変遷については、簡便に書きまとめている(反面、文化的な記述が少ないが)。台湾社会が経済成長をとげ、徐々に本省人に対して門戸を開け、そして本省人の李登輝総統の出現を準備した人物として、蒋経国の実績を客観的に記述していることも印象にのこる。
4.あれはきっと外省人系のひとだったのだろう。神戸で大きく事業を展開する台湾系のひとと口論になったことがある。その人は、日本ならびに日本人そのものに不信感を抱いていて、決して台湾の人たちがすべて親日的ではないということを、わたしに教えてくれたのである。まさに台湾は、「多重族群社会」としてのモザイクのように存在しつづけ、今でも、「台湾人」=国民というアイデンティティや均質性を模索しているのことが分かる。
5.わたしはいずれ台湾の地を踏もうと思っている。亡くなった父の故地のひとつである台南に行ってみたいのである。台南はもともと台湾人意識の強い場所であることも、わたしを惹きつける。わたしの父方の祖父である大橋千代造は、アルミ工場を台南でたちあげるべく家族をともなって堺市から渡っていった(本書にも台湾の産業にアルミニウム産業があったと記述されている)。1930年代後半のことである。しかし、事業に失敗して這々の体で堺に逃げ帰ったと聞く。いわば祖父の敗地に立つことで、台湾と向かい合い、われわれの1930年代からの立ち位置を考えて行きたいと思っているのである。