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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

時の移ろい

2009年09月28日 15時02分21秒 | 通信
時はうつろいゆく。

知らね知らねうちに、変わっていくことやものに目をむける眼差しが弱い時、その変化が具象された時の、少なからぬ驚き。

秋の日差しを受け、公園の緑葉を揺らす風に身をさらしていると、いまの私の立ち位置が、ほんわりとみえてくるような気がしてくる。

私は待っている。

それは頬をなでる風ではなく、死に絶えた夏虫たちへの哀歌でもない。
確かな(いや、ほんの少しでもいい)私が今日この場所で、昼下がりの今を生きていることを、「わかってるわ、ありがとう」と確認してくれるその香りを。

彼岸花の季節

2009年09月24日 10時33分33秒 | 神戸
いつも誰かに摘み取られてしまう拙宅近くの公園に現れる彼岸花です。

今日の神戸は夏が戻って来たよう。
退職したての人が、なにかの用件で、元の職場に戻って来た様子を思い起こします。
そんな時の職場は、退職者に対して、哀惜の感情で満たされるものですが、
その退職者がしばしば職場に戻ってくるものなら、刺々しい視線を浴びることになるのです。
この暑さ、しばらく続くと聴きます。

さてはて、今年の花たちも、誰かに切り取られてしまうのでしょうか。

高得点を得ました

2009年09月23日 23時54分50秒 | 俳句
大阪市旭区の城北市民センターで行われた「北の句会」に参加。

締め切りの日に、三句を提出。
そのうちの二句が高得点を得たのです。
私の俳句は、俳句性に依拠していない分、詩のような気配が漂っていると自分では思っています。
このため、私の句を取る人は限られていて、取らない人は決して取らない。
でも、今回は五句選という好条件も重なって、上から二番目の評価をいただいたのです。

この句会は、川柳の人も参加するために、有季定型を墨守しているかということより、詩(うた)として、優れているか(あるいは、おもろいか)という尺度で撰ばれるのです。ですから、有季定型の形にしっかりと収まって、その形式美の中で俳句を極めた作品が優先的に評価されるというものではありません。そして反対に有季定型以外は作品評価以前に排除するといったドクマ性もないのです。

わたしにとって驚きなのは、川柳人の句に対する評価内容です。
毎週といっていいぐらい句会を開いている川柳の人たちは、とにかく多くの作品を作らなければなりません。
つまり多く作るということは、多く読むということです。作品のパターン認識は、鋭敏に発達しているといっていいでしょう。
俳句や自由律、短歌、詩よりも、徹底して〈座の文芸〉である川柳。書かれた作品ではなく、句会という主戦場でいかに評価を得るかという戦果が大切なのです。

犬と猫と運命と

2009年09月19日 09時26分24秒 | 文化
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犬と猫と運命と
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鳩山・民主党首が飼っていたゴールデンリトリバー〈アルフィー〉が、9月16日に13歳で亡くなりました。国会で飼い主が首相に選任されたことを見届けるかのように、幸夫人が見守る中で死んでいったとのことです。アルフィーが産まれたのが1996年。鳩山氏が民主党をたちあげた年です。その愛犬がここ数日具合が悪くなっていたのを、政権獲得した16日までなんとか持ちこたえて死んだということになります。犬好きな人にとってはたまらない「忠犬物語」ですね。猫派である私も、涙腺が弱いので、ほろりとなってしまいました。犬というのはこうした飼い主に対する忠の意識と生がプログラミングされているのでしょうか。

ところで、私の母はもともと猫派だったようですが、私が物心ついた時はすでに愛犬家でした。溺愛していたマルチーズが、高齢の故と、大嫌いだった雷の鳴る日にショック死してしまい、母がその亡骸を抱いていつまでも号泣していたことを今も鮮明に思い出します。母とそのマルチーズは自他の区別がつかないほどに一体化していました。そしてその母がなくなった時、実家で飼っていたのが、柴犬でした。母が病院から遺体で実家に帰って来た時、その柴犬は動かぬ母のそばで一晩中鼻をくうくう鳴らしていたのです。寿命からすると、人が犬(ペット)の死を見送る頻度は高いのですが、その反対もあります。私が知る限り、犬もまた飼い主の死を悼む<哭き>行為をするのです。うた=〈詩歌〉の発生には諸説がありますが、犬もまた死者の前で哭くことを考えると、<悼み>は、うたを生み出す大きな要因であることを深く確認するのです。

では猫に〈忠〉はあるのでしょうか。猫にも人間(飼い主たち)のその時の気分を察知したり、仲介役を演じたりします。また、同居する犬に対する強い仲間意識を抱いていることも報告されています。猫は唯我の気配があるものの〈関係性〉の生き物であるかもしれません。


若者の民主党嫌い

2009年09月18日 18時12分50秒 | 通信
身近にいるその若者は、民主党嫌い。しかも朝日新聞も嫌い。(その嫌いの素は今の大人たちが信じている良心やコモンセンスに対する若者なりの距離意識であり、大人たちが築いてきた社会のありかたを代弁したり相対化したりするいわゆる「良識派」の人たちやその言説に対する生理的嫌悪なのだろうか)。
鳩山政権が誕生して、さっそく「失政」ウォッチングをしている。
その若者は、いわゆる新聞やテレビニュースなどマス媒体からの情報ではなく、主にネットから情報収集によって、判断している。その情報源の主なひとつは「2チャンネル」であろう。

もうひとり、民主党嫌いを知っている。二人の若者に共通するのは、自民党のこれまでの毛針でひとびとを釣ったような悪政について、殆ど批判の矛先を向けることはないということである。すでに歴史的使命を終焉している20世紀政党である自民党のひどさに散々つきあわせれた世代である私にとって、民主党への失政ウォッチングに熱心となる情熱の少しを割いて、いままでの自民党が築いてきた日本の政治の総決算を、若い世代なりに徹底して検証してほしいと希っているのである。

旧約聖書=義の書/ヨブ記読書ノート02

2009年09月16日 13時56分16秒 | 思想・評論
(2)旧約に書かれた義について考えてみよう。

「一般に旧約聖書は義の宗教であり、新約は愛の教えであるといわれている」(p53)と著者は書く。
ではこの義とはいったいなんだろう。
あるべきものに対する遵守の精神と行為だろうか。

しかし、「ヨブ記」では、ヨブの義と神の義が対立する。
「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほほむべきかな」
「われわれは神から幸をうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか」
と語り、ヨブがたび重なる不幸にみまわれても、主(神)を恨んだり、信仰を疑ったりせずに、神(主)の優位性を強く確認することが、「ヨブ記」の大きな骨格といえよう。

つまり自分(ヨブ)が感じている義であっても、それは主(神)の義ではなく、つねに人の義は、神の義によってさらされ、判定されることになる。

こうした義の定立が産まれるのは、人となにかとの契約があてこそのものではないかと思っている。
ヨブと神との契約関係があってこそ、義はさらされ。判定されるのであろう。

義はつねに義(ただ)しくなくてはならない。しかしその「ただしさ」は、旧約の世界にあっては、神との契約の中で、曝され、修正されていくものなのか。

いま、安重根について思惟を続けている。〈義士〉と言われる安重根もキリスト者であったという。このことを考えると、安も、個人の想いや決意を越えたなにものかと強い靭帯と契約を結ぶことで〈義挙〉を決行したのかもしれない。

では信仰をもたない私にとって義は、なにを根拠として成立するのだろうか。信仰ではない〈祈り〉の中で義はなりたっていくのだろうか。しかし〈祈り〉をいくら重ねても信仰にはならないと著者は指摘する(p99)。

義(ただ)しくあるものに対する強い感情というのは、華厳の事事無礙法界に対する希求と似ているとも思える(あるいは、明恵の「阿留辺畿夜宇我(あるべきようわ)」が定立しようとした精神世界に似ているのかもしれない)。しかし華厳の世界からは、義という個人を超克した政治・思想的行為の強い動機に発展するとはかんがえにくい。

安にとっての義は、個を超えた神が許した義だったのか----疑問は尽きない。


同時代性/ヨブ記読書ノート01

2009年09月15日 17時49分29秒 | 思想・評論
義という概念が気になっている。

『ヨブ記』(岩波新書、浅野順一著)を読了。

旧約聖書のヨブはずっと気になっていた存在だった。
第一句集『群赤の街』にも
・立ち尽くす六甲颪にヨブの群れ
という作品を載せている。

去年暮れから、忍従をしいられるいくつかの事態に直面して、ふたたびヨブの存在が身近に感じていた。

本書を読んで、覚え書き風の読書ノートを記することにしよう。

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(1)「ヨブ記」が成立したのは、紀元前5世紀頃とされている。旧約聖書のひとつなので、とんでもない過去だと思っていたが、意外な作品と同時代性があることを知った。この『ヨブ記』の内容に似ていて、同時代に書かれたものに、アイスキュロス(紀元前525-456)が書いたギリシア悲劇『縛られたプロメテウス』がある。その辛苦する主人公の姿が、同時代作品として比較される原因を作っているようだ。

ただし、著者の浅野順一は、「その(『縛られたプロメテウス』/大橋注)中に取り上げられている問題がヨブ記のそれと非常に近い。それ故、ヘブル文学とギリシア文学、ヨブ記とプロメテウスを比較して論じる研究者もいるが、歴史的に見て、ヨブ記の中にギリシア文学の影響をはっきり認めることには躊躇を感じる」(p9)と、比較されることを紹介しているものの、ふたつの作品間の連関性については疑問を呈している。

私がこの「ヨブ記」とギリシア悲劇の一作品が比較されることを、読書ノートの最初に記したのは、今夏にギリシア悲劇(ちくま文庫版4冊)を読破しようと野望をいだいたものの、早々に挫折して、手頃な新書読みに変節したばかりだったので、その私を諌めるように、ギリシア悲劇を注視するよう、なにものかが喚起したものと受けとめた。

私の驚きは、旧約聖書というテキスト性が強い箴言にみちた神の書と、観客がいて、作家がいて、劇場があるというたっぷりの世俗性がなくしては成立しえなかったギリシア演劇が、同時代に存在していたという事実に集中する。

そして、私の読書はこの『ヨブ記』の次として、アイスキュロスの「縛られたプロメテウス」を選択したのはいうまでもない。








めらんじゅ合評会のお知らせなど

2009年09月14日 13時34分22秒 | 文学
詩誌『Melange』に関連するイベントなどのお知らせです。

今年の九月は残暑が終息するのが早いのでしょうか。朝夕は少し冷え込むようになりました。みなさん、風邪をひかれていませんか。

今回のメールニュースは、いくつかのお知らせで構成しています。

9月の『Melange』合評会は、27日(日)。詩稿の締め切りは、24日(木)です。
今回はお知らせする事項が多くなっています。

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◆1.--同人・日出山陽子さんの出版について
◆2.--同人・栗山要さんの出版記念会について
◆3.--「月刊めらんじゅ」45号が発行されました。
◆4.--10.26「安重根決起百年の日に集う会」のお知らせ
◆5.--第45回『Melange』合評会のお知らせ
◆6.--11.21フラメンコ・カンテ祭と詩の朗読会
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◆1.--同人・日出山陽子さんの出版について

お知らせが遅れましたが、われらが同人である日出山陽子さんが新著『尾崎翠への旅--本と雑誌の迷路のなかで』(小学館スクウェア、四六上製本140頁、本体1500円、発行日は16日)を上梓されました。カバーはブルー地の素敵な本です。日出山さんがずっと関心を抱いてきた作家について、評論やエッセーを一冊にまとめた本です。

巻頭にはこう書かれています。「尾崎翠に出会う旅のなかで、架けられなかったたくさんの橋があります。私には不可能でもいつか誰かが可能にしてくれるのではないか……そんな思いから本書をまとめました。尾崎翠を愛する方が橋を架けなおしたり 尾崎翠に届く新たな橋を架けてくださったらと、心から願っています」 


◆2.--同人・栗山要さんの出版記念会について

今秋は、同人各位にとってひとつの大きな結束点を迎える方が何人かいらっしゃいます。栗山要氏もその一人。大きな仕事を成し遂げられました。今年84歳になられる栗山氏は若い頃薫陶を得た国文学者・阿部國治氏の古事記解釈を、次世代に伝えるべく出版を続けてこられましたが、このたび七巻上梓をもって、無事その責務を果たされました。

その出版を祝う会が10月25日(日)に開かれます。「ホテルオークラ神戸「有明の間」にて、「新釈古事記伝 全七巻完結出版記念会」が、正午から開催されます。会費は1万円。問い合わせは078-997-0181まで。

◆3.--「月刊めらんじゅ」45号が発行されました。

8月は、『Melange』読書会・合評会はなく、毎年「ロルカ詩祭」が行われます。なので、月刊めらんじゅは休刊するのですが、毎年重ねてきた朗読の会も、熟達の度合いを深めていって、書き下ろし作品も多く、それを記録しておきたいと思い立ち、月刊めらんじゅの一巻として編集しました。45号には、ラテンアメリカ文学者・鼓直氏の本邦初訳のスペイン詩、安西佐有理さんによる英語詩からの翻訳によるそれぞれの「ロルカ追悼詩」も含まれています。

◆4.--10.26「安重根決起百年の日に集う会」のお知らせ


何年かぶりに、月刊誌「世界」(岩波書店)を購入(10月号)。同誌に掲載された安重根の「東洋平和論」を読むのが目的です。その解説を読んでいると、来月の10月26日(月)がちょうど、安重根が決起して伊藤博文を暗殺した日から百年であることにきづきました。 

安重根は「義士」と言われています。私は今夏、この<義>という概念が気になっているのです。いま読み続けているのが、旧約聖書の「ヨブ記」。神に対して<義>を貫いたヨブを考えていると、<義>とは何者かとの契約によって成り立つのではないかと思うようになったのです。ではその言説に従って考えると、ヨブは、安重根は、なにと契約することで、<義>を貫いたのでしよう。

私の思惟は続きますが、せっかく来月に〈安重根決起百年〉を迎えるのですから、この安重根の百年前の行為を、いまの日本・韓国のひとびとの目線から振り返ってみたくなったのです。安重根に対する評価はさまざまです。そうした評価にまなざしを向ける一方で、政治的評価を越えていまのわれわれに訴えてくるものを、感じ取れる会になればと思っています。

そこで、10月26日に、〈安重根決起百年〉をテーマとするささやかな会合を企画しました。会合では、畏敬する金里博氏に、安重根について語ってもらい、また日本側からも伊藤博文の政治史的な立ち位置を解説してもらう予定です(話者は交渉中)。さらに、里博氏はかつて母国語で安重根についての詩を書いたこともあるので、その朗読をしてもらい、われわれも安重根に関係する詩を創作して朗読しようかと思っています。

ちなみに、10月26日は、韓国政治史の中では大きな意味を持っています。朴正煕大統領が側近に射殺されたのも10月26日(1979)。暗殺側は、安重根が伊藤博文を暗殺した日をあえて選択したと聞きます。

》》》》》》安重根決起百年の日に集う《《《《《

☆日時/10月26日(月)午後6時~
☆場所/枚方市・サンプラザ生涯学習市民センター
〒573-0032 大阪府枚方市岡東町12-3-508 京阪電車枚方市駅東口サンプラザ3号館5
階(京阪電車「枚方市駅」の駅ビルの中にある枚方市の施設です)
☆会費/資料代程度(未定)


◆5.--第45回『Melange』合評会のお知らせ

9月27日(日)に行います。第1部は午後1時から詩の合評会。第2部は午後3時半から、『Melange』本誌の合評会をします。読書会はお休みです。第1部の詩稿締め切りは、9月24日(木)です。会場は、スペイン料理カルメン(078-331-2228)。

◆6.--11.21フラメンコ・カンテ祭と詩の朗読会

二年に一回開催している「神戸ビエンナーレ」共催事業として、「12.5回ロルカ詩祭」を、ビエンナーレ開催時期の11月21日(土)に、カルメンでおこないます。秋の深まりと共に、スペイン・アンダルシーアの根の歌謡文化であるフラメンコカンテ(うた)の世界と詩とのコラボレーションを楽しみたいと思っています。


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☆第45回『Melange』合評会の会場=神戸・三宮のスペイン料理カルメン
(カルメンの場所は以下のサイトを参照してください。阪急三宮駅西口
の北へ徒歩1分の場所にあります。 
http://www.warp.or.jp/~maroad/carmen/)。
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2009.10.26安重根決起百年

2009年09月12日 16時53分08秒 | 思想・評論
月刊誌「世界」に掲載された安重根の「東洋平和論」やその解説を読んで、来月の26日がちょうど、安重根が決起して伊藤博文を暗殺した日から百年が経過するのだということを知る。

ちょうどこの日は、時間の余裕があるので、〈安重根決起百年〉をテーマとする会合をささやかながら企画しようと思った。
さっそく京都在住の民族主義者・金里博氏に連絡をとって、この日をあけてもらうよう要請。氏は快く私の企画を受託してくれた。

金里博氏の安重根に関する評価を中心に、詩人で高校日本史教諭である寺岡良信氏にも、日本の政治史の中における伊藤博文の位置を語ってもらう予定である。場所は京都か枚方を予定している。

また、詩人仲間には、その会に向けて、安重根についての書き下ろし作品を書いてもらうことも併せて提案していくつもりである。

詳細が分かったら、また知らせることにしよう。




闇とのディアローグ

2009年09月11日 08時45分20秒 | 通信
昨夜、突如停電する。

窓から周囲を見渡すと私の住む×丁目のみの無電状態で、地域全体ではないことを知る。

この突如停電するという現象を体験したのは、1978年のインド以来なので30年ぶりだと言えようか。

24時間通電しているのが当たり前という国からやってきた若者にとって突然の停電はそれだけでも強いカルチャーショックだった。

しかしインド滞在中に毎日停電が続くと、突然という感覚はなくなり、日々の生活の中に織り込み済み(予定調和的)なのだと言うことを知り、無電になればろうそくをすぐさま用意して生活を続け商売も続行しているインド人のたくましさに感服したのである。

何年ぶりかに「世界」を読む

2009年09月10日 13時47分20秒 | 思想・評論
昨日は「月刊 新潮」10月号を購入。島尾敏雄日記の連載三回目を読む。

今日も総合雑誌を買う。「世界」(岩波書店)10月号。

いまから30年前、わたしが高校時代の頃は、さかんにこうした総合雑誌を買った。最前線の知識や評論の吸収のための必須のメディアだったのだ。当時は、「総会屋系左翼雑誌」というものがあって、発行者は、大手企業からの毎月の金銭を巻き上げる総会屋か右翼がらみの者(団体)であるが、編集者や執筆陣は、左翼的な陣営というねじれた発行形態だった雑誌が何誌かあって、重要な論陣の一角を担っていた。インターネットがまだない1970年代は今と比較できないほど、多くの性格のはっきりした月刊総合雑誌が刊行されていた。

私が「世界」を読んでいたのは、朴正煕大統領の民主化弾圧に抗議する韓国発の「T・K生」による韓国レポートを読むためであった。

おおよそ30年ぶりに購入した「世界」には、安重根の絶筆手記の翻訳が載っているのである。
来月の26日で、ちょうど百年となる1909年10月26日。中国東北部ハルピン(哈爾浜)駅頭で、当時の朝鮮総督府の初代総監だった伊藤博文は、安重根によって暗殺された。その安の絶筆である「東洋平和論」が本邦初訳されている(伊東昭雄訳)。

ただ残念なことは、この絶筆が未完であることだ。暗殺現場でロシア警察に逮捕され、日本側に引き渡されて1910年3月26日に、旅順口区の旅順刑務所内にて絞首刑にされるのだが、安はこの「東洋平和論」が執筆し終わるまで刑の執行を待ってほしいと懇願するも聞き入られなかったために中途で筆がとまっている。

この「東洋平和論」は、近代以降の東アジアにおける政治軍事情勢を分析して、日本の帝国主義的野望によって、次第に国権が制限されつつある韓国から発せられる義憤と慟哭が連綿と綴られている。

つまりなぜ自分は伊藤博文を撃たなければならなかったのかを、個人を越えた民族的動機、その義憤のありようを書き残しておこうというものである。

この安重根の暗殺への評価は、一定ではなく、韓国では「抗日闘争の英雄」とされ、「安重根記念館」もソウルに建設さされている(また「多黙 安重根」〈2004、ソ・セウォン監督〉という映画が制作されている)。しかし、「 安重根が伊藤博文を撃つ」という映画を制作している北朝鮮は、朝鮮併合に消極的だった伊藤博文を暗殺したことを問題視しているようである。この暗殺によって、一挙に併合にむかって加速したことはどうやら事実のようだ。ただ、この北朝鮮の評価も、金日成の偉業を際出させるために、安重根の義挙を相対化しているとも思えるので注意しながらその評価をみていかなくてはならない。

日本でも、安重根の義士としての振る舞いに深く同調する者が多いことは確かである。また、伊藤博文は安重根に暗殺されることによって、反対にその名を高らしめたと言い得るのかもしれない。暗殺されることによって、義挙の対象になるほどのものであることは伊藤にとって、名誉であるかもしれない。

伊藤は、朝鮮併合はコストがかかりすぎるために、日本の国益にそぐわないと主張していたので、韓国から発せられる伊藤=韓国併合をもくろむ帝国主義的野望をもった日本の権化とみなすのには無理があるかもしれない。が、しかし、当時の朝鮮支配の最高責任者である伊藤のたまをとった行為は、テロという無惨な手法であったとしても、当時の韓国人が可能な数少ない表現手段のひとつであるのに違いない。日本においては、安重根を「テロリスト」扱いすることによって、評価の中心にもってくる人がいることも確かである。しかし、幕末の日本は多くのテロリストたちによって、時局の変化が刻印されたことを考えると、日本の幕末・維新の過程ではテロリズムは必要悪で、安重根のテロは容認できないというのは、筋が通らないのではないか。

どうも私は、安重根にしろ、ヨブにしろ「義」に生きた人に対して心情的に深いシンパシーを感じるようである。