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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

ほんき(本記)NOTE--07

2009年07月25日 12時59分06秒 | 文学
☆エウリピデス作「メディア」を読む。
10歳代から繰り返し読んでいる作品であるが、あらためて読むと、味わい深いものがある。
それは今生きるわたしの時点から読むので、人生の経験の重なりから、読むことになるからだ。
一文にまとめきれないので、箇条書きにすることにしょう。

1.夫・イアソンと妻・メディアの丁々発止のやりとり(内実は非難合戦)は、現代でも十分通じる内容であり、男と女のいさかいというのは、2000年たってもあまり変わりないのだということを思い知る。

2.メディアの人物描写が、キメ細かく、気の強い女性の普遍的な姿を活写している。ピエル・バウロ・バゾリーニ監督の「王女メディア」の主演女優にマリア・カラスを撰んだのも、むべなるかな、といった印象を持った(マリア・カラスもまた気性がはっきりしている攻撃的な女性だった)。かつ、一方的な気の強い巫者として描くのではなく、子どもをあやめる際には、心の葛藤も吐露するなど、決意の揺れも語らせ、ギリシア悲劇のレベルの高さを知ることができる。

3.コロスが、「世間の声」「倫理の声」として機能していて、劇そのものを、立体的に構成するのに役立っている。主役たちの次の動因になることはないが、反面的な補足を語ることで、ドラマツルギー(主役の悲劇性)を盛り上げている。

4.それにしても、メディアの徹底した夫・イアソンに対する復讐は見事である。自分を棄て結ばれようとしている若妻を死に至らしめ、我が子をも殺害する。なにもかも夫への復讐のために、巫者としてのあらんかぎりの能力を駆使している。メディアはイアソンと相思相愛の時期もあっただろうが、復讐に燃えるメディアに一切の斟酌はない。

5.今回再読しておやっと思ったことがある。メディアがすべてを打ちすてて、コリントスを去ったばかりではない、ということである。明日にもコリントスを追放されようとしている時、偶然コリントスを訪れたアテナイの王・アイゲウスと出会い、便宜を計ったことから、コリントスを去った後に、アテナイのもとに身をよせる保証を得たのである。いわば、メディアは、アテナイの王の庇護を得ること(もっと具体的にメディアはコリントスを去ったあとに「アイゲウスどのといっしょに暮らすことになりましょう」(139段)と述べている)で、イアソンとその二人の愛の証しの子どもたちも殺害して、新しい男のもとに走ったのである。なんだそういうことかと思った時、メディアが最後に乗る龍車も、ただ逃亡のためのものでなく、新たな愛の始まりのための凱旋のための乗り物なのであることが分かる。

6.コリントスに残されたイアソンはどうなったのだろう。この戯曲には、メディアの出身地は蕃地であり、イアソンは「ギリシア男」という自覚を持っている。つまり文明が進んでいる地としての矜持がこの名称の背景にあるだろう。こうした差異化は、文明の「中心」に位置する者が抱きやすい幻想で、時を超えたものであることが興味をひく。

7.もういちど、メディアの所行について考えてみよう。よくこの作品を読むと、イアソンの言い分にも整合性をもたせようとしている。いわば熟達したバランス感覚をエウリピデスは表現しているのである。メディアとイアソンのあらがいは、男と女が地球上に共棲するかぎり繰り返される幕切れのない劇なのであろう。ただ、この作品では、メディアが霊能者であり、秘術・魔術を行使する宗教者というエスパーであることが違っている。これは女性たちが男とのあらがいを超克する際に、所有したいと願う能力であることに違いないので、メディアは刮目され続けるのだろう。


ほんき(本記)NOTE--05

2009年07月22日 23時50分11秒 | 文学
7/22☆奄美は、この皆既日食の日をどれほど待っていたことだろう。今春から、奄美の日刊紙である南海日日新聞を購読するようになって、紙面ごしからではあるが、この世紀の天文ショーが奄美で見られることの悦びが伝わってきていた。

そろそろ太陽がかけようとしていた午前10時40分ごろ、奄美市名瀬にいる森本真一郎氏の携帯に電話をしてみた。名瀬の拝み山に登っていた彼は、暗黒化していく名瀬の様子をライブで伝えてくれた。日食の直前には蝉はなきやみ、カラスたちは羽根をたたんで制止していたという。太陽が月に隠れた後は、まるで名瀬の街が夜のようになってしまっていると興奮気味で伝えてくれた。

また、沖永良部の前利氏は、皆既日食ではないものの、ドラキュラ伯爵のトランシルバニア地方に出てくる月のようで、あるいはもっと今風にいえば、マイケルジャクソンの「スリラー」のプロモーションビデオに出てきそうな日食の写真を送ってきてくれた。やはりこの天文ショーのおもしろさは、現地でみることだろうと思いなしたのである。

ロロさんによれば、皆既日食があった地域は、終わってからも数年間、なにか象徴的なことが起こり続けるだということ。

ほんき(本記)NOTE--04

2009年07月21日 23時50分12秒 | 文学
7/21☆本日、ジュンク堂書店に赴き、購入したのは、文庫本の二冊。

そのうちの一冊が、ちくま文庫から出ている『ギリシア悲劇4巻』ものの第3巻『エウリピデス(上巻)』。今夏はこの4巻すべてを読破しようという野望に燃えているのです。

ギリシア悲劇は私が高校時代に耽読してきた文学世界であり、最初は、岩波文庫で少しずつ読み進め、大学時代には人文書院の『ギリシア悲劇全集』を購入して、なんどとなく読んできたのですが、<一冊読みの愚者>をあらためて選択しようとしている今、ちくま文庫から4巻もので出ていることが気になっていたこともあり、決意したのです。 

編集者として、やるべきDTP実務が山積みしているので、読書ばかりに集中するわけにもいかないことは分かっているのです。いつか全編を読み直そうと画策していたものの、さすがに730頁もある『エウリピデス(上巻)』を見てため息をつき、4巻読破は今夏だけでは無理かとはじめから腰が引けがひけているのです。

ちなみに、この『エウリピデス(上巻)』を4巻のうち最初に選んだのは、「メディア」が掲載されているからです。パゾリーニ監督が映画化し、主演はあのマリア・カラス。蜷川幸雄演出でメディアを平幹二郎が演じた舞台「王女メディア」を見た感動をもういちど、確認したいがための選択です。

ほんき(本記)NOTE--01

2009年07月18日 09時00分03秒 | 文学
7/18☆学生たちの夏休みの期間中にあわせて、今日から、読書ノートや書籍にまつわることなどを、毎日書きつづっていこうと想っています。

書を読むこと。この意味の深さを確認したのは、二週続けて「スペイン文学と神戸」(神戸文学館)、「薩摩侵略/侵攻を考える奄美のパネルディスカッション」(東京外大、09カルチュラルタイフーン)の企画・司会をこなして分かったことです。編集者というのは、徹底して(書籍、資料を)読む人でなければならないということです。

本を読むことの大切さは、この数年心深く気づいてたことなのですが、どうしても多忙と、それよりもましてインターネットに接する時間が長くなることで、ネット経由で入手される情報・知識の簡便さと豊かさに目が奪われ、読書の機会が減ってしまうという環境に慣れてしまうのです。

そこで当面は、「ネットの知的達人ではなく、一冊読みの愚者」に徹っしようと想っているのです。ネットの検索能力があがると、短時間のうちにその該当するテーマについて、おおかたの知識を得ることができます(あるいは、出来るような幻想を抱きます)。かたや一冊まるごとの読書は、読んでいて、これは読み飛ばしていいかもしれないという箇所がかならずあるものです。そうした箇所を読むときの時間のロスに痛感していると、読書にさく時間よりネットサーフィンしている方が、短言的な知識・情報が増え、快楽であることもあって、ここ数年は書籍を購入しても、なにか論文を書くときのための資料として短時間で集中して拾い読みするためのメディアの位置でしかなかったのです。

そうした反省のもとに、ようやく今春になって、読書=<一冊読みの愚者>を選択し直そうとしているのです。今夏の「ほんき(本記)NOTE」は、その試みの軌跡を夏という期間に限って書き記していこうとする試みです。