☆エウリピデス作「メディア」を読む。
10歳代から繰り返し読んでいる作品であるが、あらためて読むと、味わい深いものがある。
それは今生きるわたしの時点から読むので、人生の経験の重なりから、読むことになるからだ。
一文にまとめきれないので、箇条書きにすることにしょう。
1.夫・イアソンと妻・メディアの丁々発止のやりとり(内実は非難合戦)は、現代でも十分通じる内容であり、男と女のいさかいというのは、2000年たってもあまり変わりないのだということを思い知る。
2.メディアの人物描写が、キメ細かく、気の強い女性の普遍的な姿を活写している。ピエル・バウロ・バゾリーニ監督の「王女メディア」の主演女優にマリア・カラスを撰んだのも、むべなるかな、といった印象を持った(マリア・カラスもまた気性がはっきりしている攻撃的な女性だった)。かつ、一方的な気の強い巫者として描くのではなく、子どもをあやめる際には、心の葛藤も吐露するなど、決意の揺れも語らせ、ギリシア悲劇のレベルの高さを知ることができる。
3.コロスが、「世間の声」「倫理の声」として機能していて、劇そのものを、立体的に構成するのに役立っている。主役たちの次の動因になることはないが、反面的な補足を語ることで、ドラマツルギー(主役の悲劇性)を盛り上げている。
4.それにしても、メディアの徹底した夫・イアソンに対する復讐は見事である。自分を棄て結ばれようとしている若妻を死に至らしめ、我が子をも殺害する。なにもかも夫への復讐のために、巫者としてのあらんかぎりの能力を駆使している。メディアはイアソンと相思相愛の時期もあっただろうが、復讐に燃えるメディアに一切の斟酌はない。
5.今回再読しておやっと思ったことがある。メディアがすべてを打ちすてて、コリントスを去ったばかりではない、ということである。明日にもコリントスを追放されようとしている時、偶然コリントスを訪れたアテナイの王・アイゲウスと出会い、便宜を計ったことから、コリントスを去った後に、アテナイのもとに身をよせる保証を得たのである。いわば、メディアは、アテナイの王の庇護を得ること(もっと具体的にメディアはコリントスを去ったあとに「アイゲウスどのといっしょに暮らすことになりましょう」(139段)と述べている)で、イアソンとその二人の愛の証しの子どもたちも殺害して、新しい男のもとに走ったのである。なんだそういうことかと思った時、メディアが最後に乗る龍車も、ただ逃亡のためのものでなく、新たな愛の始まりのための凱旋のための乗り物なのであることが分かる。
6.コリントスに残されたイアソンはどうなったのだろう。この戯曲には、メディアの出身地は蕃地であり、イアソンは「ギリシア男」という自覚を持っている。つまり文明が進んでいる地としての矜持がこの名称の背景にあるだろう。こうした差異化は、文明の「中心」に位置する者が抱きやすい幻想で、時を超えたものであることが興味をひく。
7.もういちど、メディアの所行について考えてみよう。よくこの作品を読むと、イアソンの言い分にも整合性をもたせようとしている。いわば熟達したバランス感覚をエウリピデスは表現しているのである。メディアとイアソンのあらがいは、男と女が地球上に共棲するかぎり繰り返される幕切れのない劇なのであろう。ただ、この作品では、メディアが霊能者であり、秘術・魔術を行使する宗教者というエスパーであることが違っている。これは女性たちが男とのあらがいを超克する際に、所有したいと願う能力であることに違いないので、メディアは刮目され続けるのだろう。
10歳代から繰り返し読んでいる作品であるが、あらためて読むと、味わい深いものがある。
それは今生きるわたしの時点から読むので、人生の経験の重なりから、読むことになるからだ。
一文にまとめきれないので、箇条書きにすることにしょう。
1.夫・イアソンと妻・メディアの丁々発止のやりとり(内実は非難合戦)は、現代でも十分通じる内容であり、男と女のいさかいというのは、2000年たってもあまり変わりないのだということを思い知る。
2.メディアの人物描写が、キメ細かく、気の強い女性の普遍的な姿を活写している。ピエル・バウロ・バゾリーニ監督の「王女メディア」の主演女優にマリア・カラスを撰んだのも、むべなるかな、といった印象を持った(マリア・カラスもまた気性がはっきりしている攻撃的な女性だった)。かつ、一方的な気の強い巫者として描くのではなく、子どもをあやめる際には、心の葛藤も吐露するなど、決意の揺れも語らせ、ギリシア悲劇のレベルの高さを知ることができる。
3.コロスが、「世間の声」「倫理の声」として機能していて、劇そのものを、立体的に構成するのに役立っている。主役たちの次の動因になることはないが、反面的な補足を語ることで、ドラマツルギー(主役の悲劇性)を盛り上げている。
4.それにしても、メディアの徹底した夫・イアソンに対する復讐は見事である。自分を棄て結ばれようとしている若妻を死に至らしめ、我が子をも殺害する。なにもかも夫への復讐のために、巫者としてのあらんかぎりの能力を駆使している。メディアはイアソンと相思相愛の時期もあっただろうが、復讐に燃えるメディアに一切の斟酌はない。
5.今回再読しておやっと思ったことがある。メディアがすべてを打ちすてて、コリントスを去ったばかりではない、ということである。明日にもコリントスを追放されようとしている時、偶然コリントスを訪れたアテナイの王・アイゲウスと出会い、便宜を計ったことから、コリントスを去った後に、アテナイのもとに身をよせる保証を得たのである。いわば、メディアは、アテナイの王の庇護を得ること(もっと具体的にメディアはコリントスを去ったあとに「アイゲウスどのといっしょに暮らすことになりましょう」(139段)と述べている)で、イアソンとその二人の愛の証しの子どもたちも殺害して、新しい男のもとに走ったのである。なんだそういうことかと思った時、メディアが最後に乗る龍車も、ただ逃亡のためのものでなく、新たな愛の始まりのための凱旋のための乗り物なのであることが分かる。
6.コリントスに残されたイアソンはどうなったのだろう。この戯曲には、メディアの出身地は蕃地であり、イアソンは「ギリシア男」という自覚を持っている。つまり文明が進んでいる地としての矜持がこの名称の背景にあるだろう。こうした差異化は、文明の「中心」に位置する者が抱きやすい幻想で、時を超えたものであることが興味をひく。
7.もういちど、メディアの所行について考えてみよう。よくこの作品を読むと、イアソンの言い分にも整合性をもたせようとしている。いわば熟達したバランス感覚をエウリピデスは表現しているのである。メディアとイアソンのあらがいは、男と女が地球上に共棲するかぎり繰り返される幕切れのない劇なのであろう。ただ、この作品では、メディアが霊能者であり、秘術・魔術を行使する宗教者というエスパーであることが違っている。これは女性たちが男とのあらがいを超克する際に、所有したいと願う能力であることに違いないので、メディアは刮目され続けるのだろう。