チェーホフの小説『わたしの生活』に出てくる木々(ナナカマドも)についてです。
1896年に執筆した"Моя жизнь"、英語なら”MY life"。チェーホフ全集、中央公論社の原卓也訳は『わが人生』、筑摩書房の松下裕訳は『わが生活』です。
英語のウィキペディアには「チェーホフ自身の故郷タガンログのようなロシア南部の地方都市を舞台としている」と書いてあります。ロシアでもかつてそういわれていたように思って検索してみたら、「タガンログというわけではなく、一般的なロシアの田舎町である、海がない」との解説にぶつかりました。
さて、この変わった主人公ミサイル(肉体労働に価値ありとしている、トルストイ主義者というのでもないのですが)の小説の1(章)で、この町の目抜き通りはナナカマドではなくはこやなぎ(ポプラ)の並木が植えてあるとありました。(目抜き通りにナナカマドは植えないかもしれませんね。
「夕暮れがやってきた。わたしたちはボリシャーヤ・ドヴォリャンスカヤ通りに住んでいた――それは市内の目抜き通りで、夕方になると、ちゃんとした市の公園がないために、ポ・モンド(上流人士)の散歩するところだった。このすばらしい通りがある程度公園代りになっていた、というのは、はこやなぎの並木みちになっていて、とくに雨あがりにはいい匂いがただよい、柵や小庭のかげからアカシアや高いライラックの茂みや、実桜(みざくら)や、林檎(りんご)の木などが枝を垂れていたからだ。五月のたそがれどき、ゆたかな影をつくるやさしい新緑、ライラックの香り、黄金虫(こがねむし)の羽(は)おと、静けさ、暖かさ――年々歳々、春はくりかえすのに、こういったものがみな、なんと新鮮で、珍しかったことだろう!」
これは松下裕訳です。目抜き通りに家々から木々がよい香りをさせて、花を咲かせ、枝を垂らしている。タガンログの目抜き通りもボリシャーヤ通りとも呼ばれました。ボリシャーヤとは大きなの意味で大通りということです。タガンログの大通りはペトロフスカヤ通り、つまりピョートル1世の通りです。タガンログは1698年にピョートル大帝によってロシアで初めて海軍基地と要塞が造られたことで生まれた町なのです。かつての要塞からペトロフスカヤ通りをずっと進んでゆくと劇場と図書館の先に今はゴーリキー公園とよばれる公園があります。薬草園として19世紀初めに造られました。『わたしの生活』の町とはちょっとちがいますね。
通りの家々に植えてある植物は松下訳では「アカシア、ライラック、実桜、りんご」です。
最初私は実桜が植えてあるなら、南ロシアかもしれないと思いました。(ちなみに原訳も「ミザクラ」でした。)ミザクラはロシア語ではチェレーシニャ(черешня)、セイヨウミザクラです。チェレーシニャって、サクランボの原種の木です。チェレーシニャはロシア中部では寒すぎて、生育しません*。それなら南ロシアだと、確認のために
原文を調べてみました。チェレーシニャではなくチェリョームハ(черемуха)でした。チェリョームハはロシアの人々の大好きな花 エゾノウワミズザクラ、中部ロシアに生育します。
松下訳も原訳も原文のチェリョームハ(エゾノウワミズザクラ)をチェレーシニャ(セイヨウミザクラ)と間違えています。全集を訳すって、大変ですものね。
結局、『わたしの生活』はロシア中部の町が舞台ということになるのではないでしょうか。
それから『わたしの生活』にナナカマドが出てきます。ナナカマドもロシア中部に生えたり、植えられています。
これは町中でなく、この町からはなれた田舎です。一応、メモがわりに書いておきます。
主人公ミサイルが妻と小学校をつくって、その祝いの日に村を訪ねた場面です。
15(章)「クリーロフカに近づいたときには、よく晴れわたって、うきうきするような天気だった。あちこちの農家の庭では打穀(だこく)していて、裸麦の藁(わら)の匂いがしていた。編み垣のむこうには、ナナカマドが鮮やかに色づいていて、あたりの木々は、どちらを見ても、みな金いろや赤に燃えていた。」(松下訳)
最後までつき合ってくださった方がいたら、ありがとうございました。
夜、BSでロシアの子供たちへの愛国教育をやってました。もう見るの耐えないけれど、これが今のロシアの現実です。文学作品の中のロシアの植物が・・・といっている時ではないと改めて思ったことです。
*サクランボも改良種ができるまで中部ロシアでは生育できませんでした。だから『桜の園』の舞台は南ロシアかウクライナです。