Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

シネマしりとり「薀蓄篇」(190)

2016-11-21 00:10:00 | コラム
めいくあっぷあーてぃす「と」→「と」うきょう(東京)

『東京オリンピック』(65)に『東京流れ者』(66)、『東京市街戦』(67)、
『東京裁判』(83)や『東京上空いらっしゃいませ』(90)、
2000年代も『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2007)とか『東京少女』(2008)とか、

頭に「東京」と冠する映画は「ひじょうに」多い。

そりゃそうか、日本の首都なんだから。
(でも米映画の場合、『ワシントン〇〇』より『ニューヨーク〇〇』のほうが多いのだけれども)


首都より国かな、、、と思って、
頭に「日本」と冠する映画と「東京」と冠する映画を数えてみたら、それほどの差異はなかった。

なんとなくだが、ことばの響きが関係しているのかな・・・と思ったり。

「日本」より「東京」のほうが、タイトルとしてはスッと入ってくるというか。

それに「日本」と冠すると仰々しいというか、ちょっと大風呂敷過ぎるというか。
『日本のいちばん長い日』(67)とか、漢字ではないものの『にっぽん昆虫記』(63)とか、実際にそういう作品? であればいいけれど。

「東京」と冠した場合、「いま」を描いている感じがするのだよね「日本」とちがって。


自分の青春期は昭和→平成の時代であり、東京に対する強烈で大きな憧憬を抱く最後の世代であると自覚している。

長渕の歌も刺さったし、中島みゆきの歌を聞いて「東京に行けば、なんとかなるんだ…」と思っていた。

実際になんとかなっている?? ので、嘘はなかったのだが、自分より下の世代は、そんなこと、ぜんぜん思っていないだろう。

それは映画にも明らかで、地方都市を舞台とした作品が増えたのは、つまりはそういうことなんじゃないか。

アンチャンネーチャンは、夢を抱いて東京に出てくるとはかぎらないっていうね。
東京に出てきたところで、なんとかならないことも多いっていうね。

情報が明かされ過ぎる世の中になったから、幻想は通じないってことかもしれない。


けれども。
同窓会に参加すると、地元に残る子から「東京はどんな?」と必ず聞かれる。

「まぁそれなりに楽しいよ」
「それなりに?」
「うん」
「そんなことないでしょう」

けっこう、しつこい笑

そのしつこさから、やっぱり思うのだ、あぁ自分の世代「くらい、まで」は東京に対する特別な思いがあるんだろうなって。

そんな「東京」を冠した映画で、自分の3傑を選出するとこうなる。


小津の代表作『東京物語』(53)、





塚本晋也の最高傑作であると思っている『東京FIST』(95…トップ画像)、


市川準が(たぶん)小津を目指したであろう『東京兄妹』(95)。




どれも、それぞれ、ちがう意味で味わい深い映画。

そしてそれぞれの作家が、各々の視点で「いま」を切り取っているのだと思う。


ただ繰り返すが、東京への憧憬・幻想がなくなりつつある現代なので、これからは地方を冠したタイトルの映画が増えていくかもしれない。

『函館3部作』は、その「はしり」のような気がするし、『横浜○〇』とか『神戸○○』とか、どんどん出てくるだろうね。


次回のしりとりは・・・
とうきょ「う」→「う」たうたい。

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明日のコラムは・・・

『アカルイハダカ、でありたい。』
コメント (4)
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