Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

シネマしりとり「薀蓄篇」(16)

2012-09-30 00:15:00 | コラム
いざべる・あじゃー「に」→「に」んげんのじょうけん(人間の條件)

長い映画が好きだ。阿呆のように長い映画が。

長いというだけで、傑作の予感がする・・・というのは、けっこう的外れではない。

極端に長い映画に触れて、時間を無駄にした! とか、ざけんなっ!! と憤った記憶がない。
かぎりある1日のうちの何割かを「その映画」に捧げることになり、受け手はたいへんなリスクを負うわけだが、創り手はその倍以上のリスク―ずばり、信用―を負うはずで、つまり、そのうえで上映にまで漕ぎ着けたということは、
配給会社や劇場主の理解を得ている→「それなりの水準に達している」、、、と結論づけることも出来る。


上映時間を聞いただけで「うぇ!」と敬遠するひとも居るだろう、そもそも長いってどの程度の時間を指すのか。

その基準として、人気の高い『ゴッドファーザー』の第二作(74)を挙げてみよう。

上映時間は、202分(3時間22分)である。

現在のハリウッド映画は2時間を超えるものが多く、大作の平均は140分くらい。
だから160分くらいは耐えられるが、180分となると「うっ、、、」となるはず。

その「うっ、、、」となった感情をひっくり返すパワーと面白さが、確かに『ゴッドファーザー』にはあった。
だから多少の「座り疲れ」は感じるものの、観てよかった! と感動出来るというわけだ。

では、それよりも長い映画でも、同じように感じることが出来るのか。

いってしまえば、『ゴッドファーザー』なんて長いうちに入らない。
世の中には、興行や観客のコンディションなどといったものを「微塵も」配慮しない「表現至上主義」の映画が沢山あるのである。


『風と共に去りぬ』(39)は231分、『ベン・ハー』(59)は240分。
日本映画だって負けて? はいない、
青山真治の大傑作『ユリイカ』(2000)は、217分。
瀬々敬久の『ヘヴンズ ストーリー』(2010)は、278分。

まだまだ甘い。
ベルトリッチの『1900年』(76)は、316分。
イングマール・ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』(82)は、311分。

ちょこざいな。

イタリア産の『輝ける青春』(2003)は、366分もある。

いやいや負けんぞ、
旧ソ連の『戦争と平和』(65~67)なんて、424分ときたもんだ。

しかし。
それでも上には上が居て、ドキュメンタリーの『ショアー』(85)は、570分を超えるのである。


そんな大長編映画の仲間入りを果たすことが出来る日本映画に、五味川純平の小説を原作としたふたつの作品がある。
『戦争と人間』の三部作(70~73)と、『人間の條件』(59~61)。

前者は528分、後者は571分。

どっちも凄いけれど、個人的には「タイトル的」にも「内容的」にも『人間の條件』のほうが好き。

ただどちらも舞台背景に戦争があり、これは世界的な傾向なのか、戦争を描くと長くなってしまうもの、、、なのかもしれない。

『人間の條件』の監督は、『切腹』(52)や『東京裁判』(83)で知られる硬派・小林正樹。
キャスト陣は仲代達矢に新珠三千代、淡島千景、有馬稲子、佐田啓二・・・と、たいへん豪華。

タイトルがすべてを語る(物語の)解説は不要の感動作だが、
たとえば、『失われた時を求めて』とか『ユリシーズ』のような大長編あるいは超難解小説を読み終えると、読み終えた自分自身に感動したりするものだと思う。
それと同じ現象が、映画にも起こると。

もちろん物語がつまらなければ、感動もクソもないわけで。

つまり物語で受けた感動と、それを最後まで観届けた自身への感動。それがプラスされることによって、「ふつうサイズの映画」では不可能な未知の領域に到達することが出来る―それが、大長編映画の「ありがたみ」といえるのではないか。






次回のしりとりは・・・
にんげんのじょう「けん」→「けん」・らっせる。

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シネマしりとり「薀蓄篇」(15)

2012-09-29 00:15:00 | コラム
おぐり・こうへ「い」→「い」ざべる・あじゃーに(イザベル・アジャーニ)

好きな外国人女優を「ざっと」10人挙げると、順不同で・・・

ジョディ・フォスター、エミリー・ワトソン、ジュリアン・ムーア、グレース・ケリー、クロエ・グレース・モレッツ、ジュリエット・ルイス、イザベル・アジャーニ、ポーレット・ゴダード、コン・リー、マギー・チャン、ジャンヌ・モロー、ニコール・キッドマン、クリスティーナ・リッチ・・・って13人になってしまったが、だいたいはこんな感じ。

好きな映画と同様、なんとなく「ある傾向」が浮かび上がってくるが、
ジュリアン・ムーアとイザベル・アジャーニは、同じような体質・嗜好を持つ女優さんだと思う。

アジャーニの主演映画に『可愛いだけじゃダメかしら』(93)というコメディがあって、
ジュリアンとアジャーニは「そうよ、ダメなのよ」という映画キャリアを築いている、、、ような気がするから。

美女ウォッチャーでもある自分、もちろん可愛らしいお人形さんのような女優には必ず「お!」と反応はするが、
女優さんであるならば「お!」の次がほしい。
お人形さんのままだとしたら、それはモデルやグラビアのひとでもいいわけで。

ニコール・キッドマンを好きになったのも、お人形さん的なキャラクターから脱して以降(=95年の『誘う女』)であったし。
ジョディが好きなのも、とくに若いころ体当たりのひとだったから。同じ理由から、ジュリエット・ルイスやマギー・チャン、クリスティーナ・リッチが好きなのだった。

ジュリアンとアジャーニを日本の女優にたとえると、そうだなぁ、大竹しのぶになるのかもしれない。
異を唱えるひとも居そうだが、脱ぎっぷりのよさという意味で共通しているのではないか。

日本映画『ばかもの』(2010)は悪くない出来ではあったものの、内田有紀が「ちゃんと」脱いでくれていたら、これはひょっとしたら永遠に語り継がれる作品になったかもしれない―そういうこと? である。

満島ひかりが「キスシーンって必要ですか」と問うCMがあるが、
このふたりは「監督が望むのなら、いつだって裸になる」と決めているようなところがあって、たとえばその映画が若い女優との二大ヌードという展開になったとしても「それがどうした」という感じで、潔く脱いでくれる。

そして、ここが感動的なところなのだが、若い女優の張りのある身体のほうに目がいく「はず」なのに、どういうわけか、熟れた身体のほうにこそ、我々はエレクトしてしまう傾向にある、、、ということ。

このふたりの「熟」女優は、そういうことを分かったうえで脱いでいるのかもしれない。
(・・・と、自分がいくら映画論として力説しても、ふだん助平なことしかいっていないから、自慰野郎のヒトリゴトくらいにしか思われないか。だから、出来れば批評家の東浩紀か、精神科医の斉藤環あたりに賛同してほしい)


というわけで、アジャーニが好きだ。

とてもそうは見えないが、現在57歳。
アルジェリア人の父とドイツ人の母を持ち、10代のころから女優として活躍する。

代表作はおそらく、『アデルの恋の物語』(75)や『カミーユ・クローデル』(88)あたりになるのだろう。
正気と狂気の狭間で破滅していくヒロインがよく似合うひとだが、個人的に薦めたいのが、
最初から最後までわけが分からない、けれども一瞬たりとも目が離せないという怪作『ポゼッション』(81)と、
オリジナルに放屁したかのような駄作であるにも関わらず、敢えて観たほうがいいと断言出来る『悪魔のような女』(96)。

前者はアジャーニが絶叫して嘔吐する場面がひたすら続く拷問のような映画だが、「映画でしかやれない・表現出来ないこと」とはなにか? という問いに対する解答があるような気がする。(下記リンクの予告編参照。この予告編も、さっぱり意味が分からない)

問題は後者で、アジャーニが「脱ぎ損」をしている―と捉えることも出来る酷い作品なのだが、それでも最後まで観ていられるのは、やはりというかなんというか、アジャーニの裸のおかげ、、、なのである。
40代後半のはずなのに、なぜか10代の初々しい裸を覗き見ているかのような錯覚に囚われる。

これが演出かというと「絶対に」そんなことはなく、そこにこそアジャーニの抗い難い魅力があるのだった。


※ポゼッションとは、「憑依」の意





あすのしりとりは・・・
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stink > smell > perfume

2012-09-28 00:15:00 | コラム
唐突に涼しくなり、なにをするにもやり易い季節になった。

Tシャツ好きとしては自慢のデザインを披露する機会が少なくなるのは残念、、、ではあるが、自分、汗っかきでもある。
どれだけ気をつけても暑い時期は「それなりの汗くささ」を放つものであり、しかも喫煙者だし、さらにいえば病的な自慰野郎ときたもんだ。

汗とヤニとザーメンの共演。

おえっ、とんだstinkymanだぜ! と。
(stinkは「悪臭を放つ」の意で、映画『セブン』(95)ではブラッド・ピットがFBIの男を評し「あいつ、stinkymanだ」といっていたのが印象に残る)

いい香り(perfume)ではないことは確かだろうが、自分ではどの程度のニオイを放っているのか、よく分からない。
ただワンちゃんを抱くと、周囲のものが苦笑するほどに股間を嗅がれる―という傾向にはある。

内面的には下品で不潔な男だからね、外面くらいは・・・という理由から坊主にしているわけではないが、周囲の女子からは坊主は清潔感があるからいい感じ♪ と評価されている。

ふぅ、よかった。

しかし、ニオイはどうなんだろう。
喫煙者ゆえよくガムを噛むようにはしているが、香水などはつけていない。

自分ではピンとこないからこそ気になる、ニオイのあれこれ。

んなこと気にするのは柄じゃないと思いつつも気になってしまうのは、いくつかの職場でニオイにまつわるアンナコトコンナコトの話を耳にしたから。

体質的な問題、つまりワキガや多汗症、と、環境的な問題、つまり風呂なしアパートに住んでいる・・・など、背景は大きくふたつに分けられる。

親しい間柄になれば、後者の場合はジョークっぽく「銭湯行けよ、ちょっと臭うぞ」とか「うちのシャワー使えよ」といえる、、、場合もある。
しかし前者の場合は、なんというかとてもデリケートな問題だから、直接的にはいい難い。20年くらい生きていれば自覚していることだろうから、本人だって対策を取っているはずだし。
ずっと前のアルバイト先では、スプレー缶を1日で使い切ってしまうのではないか・・・と思ってしまうほど、シューシューしている女子が居たっけ。
そういうひとに「臭うよ」といってしまうのは、残酷なのではないか、、、とか。

それで辞める辞めないなどの話に発展したり、「あのひととは組めない」という話が出てきたり、ついには軽いいじめに繋がったりすることもあるから、なかなかに厄介なのである。

自分は鼻がでかい割には鼻が弱い。
だから「俺はあんまり臭わないよ、みんな敏感過ぎるんだよ」といったら、「じゃあ、あなたが組めばいい」と返され、その「臭う」といわれているひととタッグで仕事をしたことがある。

「どうだった?」
「・・・う~ん、少し気持ちが分かったかも」
「でしょう?」
「しかし彼だって、うちの大事な戦力でしょう。臭いどうこうだけでクビには出来んでしょ」
「じゃあ毎回、あなたがタッグを組んでよ」
「・・・・・」

そういい放つ彼女は、問題の彼と組むと吐き気までもよおすという。
ちょっと大袈裟な気もするが、一緒に仕事をしてみて「あり得るかも・・・」と思ってしまった。

その職場で自分はリーダー的なポジションにあり、場合によってはクビを宣告することも出来る。
明らかに能力が劣るひとには容赦なく「向いていないから、自分でどうするか考えて」といえるが、仕事は出来るのにちがう理由でシフトを減らしたりクビにしたりというのは、ちょっと、、、ねぇ。

そういうことがあって以降、ちょっと神経質なほどに自分のニオイを気にするようになった。

(チャリダーゆえ)この時期でも汗をかくことが多いから、着替えをいくつもバッグに入れたり。
ひとりになったら、脇の下のニオイを嗅いでみたり。
坊主のクセして、頭を二度洗いしてみたり。

効果のほどは分からんが、まぁ、まったく気にしないようりはいいのだろう。


※もうひとつのニオイ的ことば? である「smell」から連想して、
グランジの代表曲である『Smells Like Teen Spirit』のアレンジ版を。

これは、格闘家・宇野薫の入場曲でもある。
『ジュピター』→『Smells Like Teen Spirit』の流れで、宇野くんが泣いているのは、数ヶ月前に亡くなった恩師を思い出してのこと、、、らしい。




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聖林、、、だけじゃないぜよ。

2012-09-27 01:04:29 | コラム
煽り系の宣伝文句だとは分かっていても、米映画『アベンジャーズ』の、

「日本よ、これが映画だ」

というキメのフレーズを初めて聞いたとき、ほんとうにイラッときた。

これ聞く前はそこそこ期待していたのに、この煽りが逆効果に働き、観たいという気まで失せてしまった―というヘソマガリは、たぶん自分だけではないはずである。

よほど気に入らなかったのか、じつは現在でも少しイラッときている。

難しいヤツだ・・・と思われるかもしれないが、
もし『アベンジャーズ』が映画のすべてだとしたら、この世から映画というものが消滅しても構わない―そこまで自分は頑なになってしまった。

で、実際に観た感想は、良くも悪くもハリウッド(聖林)産だなぁと。連続打ち上げ花火みたいだなぁと。
それが悪いといっているんじゃない、ただ大風呂敷にもほどがある―そんな風に感じたわけである。


最近の日本では、邦高洋低が続いている。
実際、今年の夏~秋は『おおかみこどもの雨と雪』『桐島、部活やめるってよ』『夢売るふたり』と、日本映画に良作が多い。

邦高洋低の洋には英国も仏国も含まれるが、米国のみをイメージするものは多いだろう。

そしてハリウッド産の映画は、日本では多少勢いを失っているのかもしれないが、世界的な視野に立てば、未だ王者であり続けているのであった。
その意識がなければ、「日本よ、これが映画だ」などという煽りフレーズは作れなかったろう。


10月下旬より、六本木をメインとして『東京国際映画祭』が開催される。

日本は世界中の映画に(比較的)触れ易い環境にある―とはいうが、基本は日米のメジャー作品であり、ポルトガルやイランの映画を劇場で観たかったら、都心のミニシアターまで足を運ぶほかない、、、のが現実。

そういう意味で、映画祭はひじょうに有難い企画である。
世界中の映画に出会えるのだから、しかも短期間で。

ただ問題というか、由々しき事態だなぁと思うのは、中国と韓国の映画が「次々に」上映中止になるかもしれない・・・という噂が流れていること。
尖閣・竹島問題の余波ということだが、実際、「アジアの風」部門で上映を予定していた『浮城』は「諸々の事情」を理由にして上映が中止となっている。

ひとつがそうなったということは、ふたつめの可能性が出てくる。
ふたつ出れば、確実にみっつめが出てくることだろう。

ネットニュースのコメントなどを読んでいると、「いいよ別に、来てもらわなくても」などといった書き込みが目立つ。
すぐ国旗燃やしたりデパート襲撃する国民性もどうかと思うが、そういう書き込みも暗いし建設的でないと思うんだが。

映画小僧としては、ただただ純粋に悲しいのである。
ハリウッドばかりじゃないことを確認するためにも、世界中の映画に触れたいわけでね。


というわけで。
米国、中国(香港含む)、韓国、英国、仏国、伊国、そして映画大国の印度「以外」で、つまり映画的に馴染みの薄いと「されている」国のなかで、個人的に侮ってはいけないと思っている映画の国を挙げてみる。

(1)ベルギー

社会派の名匠、ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌが有名。
最近作『少年と自転車』(2011)も好評だったが、個人的に薦めたいのは、少女が「働くために」友人さえ裏切る『ロゼッタ』(99)。

最近は元気がないが、ブノワ・ポールヴールドという鬼才も居る。
このひとの『ありふれた事件』(92)に衝撃を受けた映画小僧、多いはず。

おっと、『トト・ザ・ヒーロー』(91)のジャコ・ヴァン・ドルマルも忘れるわけにはいくまい。

(2)デンマーク

80年代に『バベットの晩餐会』(87)、『ペレ』(88)という二大傑作が誕生した。

そして90年代、異端児ラース・フォン・トリアーが『奇跡の海』(96)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)で映画界をかき回す。
トリアーは健在だが、スサンネ・ビアという新進作家にも注目したい。

(3)オランダ

なんといっても、『ロボコップ』(87)や『氷の微笑』(92)のポール・ヴァーホーヴェンが居る。
これらの映画は一見するとハリウッド的だが、肌触りがちがう。
米国資本で制作しておきながら、米国に対し「あっかんべー」をしている姿さえ浮かぶ。それはヴァーホーヴェンのキャリアが、従軍カメラマンから出発した・・・というのも、少なからず関係しているのではないか。

(4)カナダ

静かに狂った映画作家、多し。

その代表格はもちろんデヴィッド・クローネンバーグで、『ヴィデオドローム』(82)や『デッドゾーン』(83)のころから狂っていたのに、最近になってその狂気は「さらに」先鋭化、『イースタン・プロミス』(2007)というバケモノのような怪作を生んでいる。

もうひとり、寡作のひとだがアトム・エゴヤンという狂人も居て、クローネンバーグとは違った狂いかたをしているので目が離せない。

(5)スウェーデン

映画史的に「ぜったい」外せぬ、イングマール・ベルイマンが居る。(故人だが)
『第七の封印』(56)と『野いちご』(57)、そして『沈黙』(63)は、出来れば20代までに触れておきたい。

日本でもファンの多い『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』(85)、『ギルバート・グレイプ』(93)の監督ラッセ・ハルストレムも、この国のひと。

(6)ギリシャ

テレビの画面では観たうちに入らぬ映画ばかりを撮った鬼才、テオ・アンゲロプロスで有名。

『旅芸人の記録』(75)や『ユリシーズの瞳』(95)は、確かに自宅では観たくない。

(7)ニュージーランド

マオリの血を引くリー・タマホリはアクションを描く作家で、オスカー授賞式において「オスカーなんて」と大胆発言したジェーン・カンピオンは、性を描く作家。

カンピオンは『ピアノ・レッスン』(93)で「ときのひと」となったが、個人的に薦めたいのは、その前作『エンジェル・アット・マイ・テーブル』(90)である。

(8)ドイツ

映画史において重要なキーパーソンやキーワードが「ひじょうに」多い国。

サイレント時代のフリッツ・ラングは『ドクトル・マブゼ』(22)や『メトロポリス』(27)を生み、
モノクロ時代のレニ・リーフェンシュタールは、プロパガンダと映画表現のあいだを綱渡りしてみせた。

フォルカー・シュレンドルフの『ブリキの太鼓』(79…トップ画像)やヴェルナー・ヘルツォークの『アギーレ/神の怒り』(72)は、映画そのものが事件だった。

そして80年代にヴィム・ヴェンダースが監督デビューを飾り、『パリ、テキサス』(84)や『ベルリン・天使の詩』(87)などで日本のミニシアターの発展に寄与した。

(9)フィンランド

酔いどれ詩人、アキ・カウリスマキがひとりで頑張っている。

最新作『ル・アーヴルの靴みがき』(2011)に感動したものも多いだろう、自分もそんなひとりである。

(10)ロシア

セルゲイ・エイゼンシュテイン(=25年の『戦艦ポチョムキン』)やアンドレイ・タルコフスキー(=72年の『惑星ソラリス』)など、映像表現を大きく変えた作家を生み出す。

しかし現在、元気なのはアレクサンドル・ソクーロフくらいか。
そういう意味では、ちょっと寂しい。


※『ブリキの太鼓』予告編…オスカルを演じた男の子、いまどうしているのかな。




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な に み て あ る く

2012-09-26 00:51:12 | コラム
自分の住む町田市は、「そこそこ」緑の多いところだと思う。

都心に比べて―の話ではあるが、いやしかし、では「どのへんが?」と問われると、
ほら、あそこにも緑があるし、ここにも・・・などとは返せない。

ふだん、緑に目が行かないからである。
いちばん好きな色は、緑のクセしてね。

その昔、自宅に遊びに来てくれた友人の女子が「まっき~の家には、緑が足りないから」と、観葉植物やサボテンを持ってきてくれたことがあった。
興味がまったくないわけではないが、そのくらい緑に関して「うとい」のだ。

チャリでどこにだって行くし、ジョギングもするし、「モノばかり書く日常だから」と散歩することだってある。
しかしそれでも、緑は目に入らない。

そうか、ひとって、意識を持たなければ「そこにあるもの」でも「見えていないことにする」イキモノなんだな、、、と思った。

では、チャリに乗っていて走っていて歩いていて、いったいなにを見ているのか。

大抵は、女子と、チャリなのである。

美女ウォッチャーなのだから前者は説明不要だろうが・・・
街を歩く女子は、とりあえず見る。
「ガン見」することはないが、いや、ときどきあるけれど、視線を感じた女子のほとんどが「前髪を触ったりする」という調査結果? を発表出来るほどに見ている。

しかも、頭のてっぺんから足の爪先まで。
脚70、顔20、残り10の妙な割合だけれどもね!

そして、美しいものはどこからどう見ても美しいものだなぁ、、、などと感動し、本来の移動目的を忘れてしまうことも。
自分にとっては金が一切かからぬエンタメのひとつということだが、見られるほうはたまったものではないのかもしれない。
ただもちろん見るだけで無害なのだから、糾弾されるのはお門違いだ。助平な自分ではなく、どうか自身の美しさを責めてほしい。

罪なおんなだよ、まったく。
って、誰に向けていってんだ?

ふたつめの、チャリ。

他者が乗るチャリに、異常なほど関心を示すところがある。

単にチャリ好きだから―では片付けられないレベルで、格好いいチャリが通る度にキョロキョロすることになる。

度を超えたバイカーやカーマニアもそういうところがあるよね、
知らぬものに対し「くそー、生意気にあんなのに乗りやがって」と思ったり、もっと単純に「かっけー!!」と感嘆したり。

あっち(女子)を見て、こっち(チャリ)を見て、そっち(チャリ2)を見たら、向こう(女子2)のほうまで気にしたり。

要は女子が格好いいチャリに乗っていれば満点? で、そうすればキョロキョロする必要がなくなるのだろう。彼女が怖がって逃げ出すまで「ガン見」してやるぜ、、、と。


それはともかく。
38歳でこれじゃあ、さすがに落ち着きがなさ過ぎると思う。
ただどういうわけか、緑を眺めるという大人な? 行為を試せないのである。

・・・というような自分の生態というか体質というか、そういうものを、友人知人のブログなどを見て気づかされることが多い。
かなりの確率で皆が、自然風景の写真などをアップしているから。

自分のブログやフェイスブックは、映画か美女の画像ばかりで、緑がない。
ことば遊びのつもりはないが、華はあるのに緑はない。

撮ろうという気も起こらない―というのが本音ではあるものの、ただ、いい写真に触れると「素晴らしい緑だなぁ」とか思うことはあるわけで。

だから先日、デジカメを持って散歩をしてみた。
頑張って? 緑を撮ってみようと思ったのである。

それなのに。
あぁそれなのに。

自分では緑にフォーカスをあわせシャッターを押したはずなのに、フォルダを開いてみると、そこに映っていたのは下校中の女子高生だった。

無意識、たぶん無意識のことだ。

つまりこれが、自分の性だというわけなのだろう。


※あるくシーンが「えれー」格好いい映画、『ジャッキー・ブラウン』のオープニング




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