ときをかけるしょう「じょ」→「じょ」しこうせい(女子高生)
自分の女子高生好きは、いまに始まったことじゃない。
たぶん自分が高校生だったころからのもので、当時は冴えないガキゆえに、同級生女子とマトモに会話さえ出来ず、そうした「後悔、のようなもの」が蓄積されつづけ、現在の自分が出来上がったんだと思う。
デリヘルさんを呼ぶときは、「高校生に見える感じの子で」とリクエストするし、制服や体操着をオプションでつける。
映画の世界でも女子高生は大活躍だ。
いつの間にかJKと記号化された彼女らの強みは、(90年代ころから、だろうか)自分たちの価値を「よく」知っている―これに尽きると思う。
だから映画でも、そういう描きかたをされる。
アンノ監督による『ラブ&ポップ』(98)は、ジャンルとしての「女子高生映画」を確立させた快作。
なにがどうというわけではなかったが、最後の最後には感動してしまう不思議な映画だった。
レンタルショップで、手に精子を付着させられる―この場面に象徴されるように、女子高生の存在とエロは直結している。
が、そういうものとは無縁の描きかたを「敢えて」選んだのが、 矢口史靖監督の『スウィングガールズ』(2004)だろう。
「ジャズやるべ!!」
王道の青春映画であり、だからこそ万人の支持を得た。
自分だって嫌いじゃないが、こころに深く刺さるのは『ラブ&ポップ』なんだ、やっぱり。
たぶん、現実が顔を出しているからなんだと思う。
良い悪いではなく、女子高生は「こうあってほしい」と思う映画と、現実を突きつけてくる映画、どっちが好きかって話なんだろう。
だが。
前言を撤回する形にはなるが、自分にとってもはや女子高生は、現代を映す鏡なんかではなく、単なるコスプレのキャラクターである。
だからQTタランティーノが創出させた「ゴーゴー夕張」が好きだし、
タイトルロールの「キックアス」より「ヒットガール」(トップ画像)が目立つのは当然だろうし、
『エンジェル ウォーズ』(2011)が「ごく」一部でおおいなる支持を得ているのも、「そりゃあそうだろう!」と思うわけなんだ。
いうまでもないが。
彼女らの魅力のひとつ・・・というか、これがすべてだったりするのだが、それはやっぱり制服で。
クィーンとして長いこと君臨してきたセーラー服が希少価値となり、その代わりに注目されるようになったのが極端に短いスカートと「脚のありかた」だ。
ルーズソックスから紺のハイソックスへの流れは劇的(??)で、自分なんかは歓喜のあまり泣いてしまうほどだった。
(半分は誇張だが、もう半分は「割とマジ」である)
極論をいえば、制服を脱いでしまったら彼女らの魅力は半減する。
単に若い女子がいいのであればJCだって女子大生だって「あり。」のはずだもん、いや別の意味では「あり。」なのだが、あの制服を纏うことによって、エロなり攻撃性なりが表現出来るようになり、映画における女子高生のキャラクターは輝くこととなる。
小松菜奈がビッチを熱演する『渇き。』(2014)や、優等生ローラ・パーマーの裏の顔が暴かれる『ツイン・ピークス』(90~91)を観て、ゲンナリするひとも多いだろう。
だが『青い山脈』(49)だって公開当時は、「けしからん!」みたいな声も聞かれたわけで。
いまの感覚で観れば、なんと健全な青春であろうか!! と思うけれどね。
今後も、沢山の女子高生キャラクターが生まれてくることだろう。
それが現実の鏡であれ、非現実的であれ、エロであれ、自分は一種のコスプレ劇としておおいに楽しみたいと思っている。
あすのしりとりは・・・
じょしこうせ「い」→「い」のせんと。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(168)』
自分の女子高生好きは、いまに始まったことじゃない。
たぶん自分が高校生だったころからのもので、当時は冴えないガキゆえに、同級生女子とマトモに会話さえ出来ず、そうした「後悔、のようなもの」が蓄積されつづけ、現在の自分が出来上がったんだと思う。
デリヘルさんを呼ぶときは、「高校生に見える感じの子で」とリクエストするし、制服や体操着をオプションでつける。
映画の世界でも女子高生は大活躍だ。
いつの間にかJKと記号化された彼女らの強みは、(90年代ころから、だろうか)自分たちの価値を「よく」知っている―これに尽きると思う。
だから映画でも、そういう描きかたをされる。
アンノ監督による『ラブ&ポップ』(98)は、ジャンルとしての「女子高生映画」を確立させた快作。
なにがどうというわけではなかったが、最後の最後には感動してしまう不思議な映画だった。
レンタルショップで、手に精子を付着させられる―この場面に象徴されるように、女子高生の存在とエロは直結している。
が、そういうものとは無縁の描きかたを「敢えて」選んだのが、 矢口史靖監督の『スウィングガールズ』(2004)だろう。
「ジャズやるべ!!」
王道の青春映画であり、だからこそ万人の支持を得た。
自分だって嫌いじゃないが、こころに深く刺さるのは『ラブ&ポップ』なんだ、やっぱり。
たぶん、現実が顔を出しているからなんだと思う。
良い悪いではなく、女子高生は「こうあってほしい」と思う映画と、現実を突きつけてくる映画、どっちが好きかって話なんだろう。
だが。
前言を撤回する形にはなるが、自分にとってもはや女子高生は、現代を映す鏡なんかではなく、単なるコスプレのキャラクターである。
だからQTタランティーノが創出させた「ゴーゴー夕張」が好きだし、
タイトルロールの「キックアス」より「ヒットガール」(トップ画像)が目立つのは当然だろうし、
『エンジェル ウォーズ』(2011)が「ごく」一部でおおいなる支持を得ているのも、「そりゃあそうだろう!」と思うわけなんだ。
いうまでもないが。
彼女らの魅力のひとつ・・・というか、これがすべてだったりするのだが、それはやっぱり制服で。
クィーンとして長いこと君臨してきたセーラー服が希少価値となり、その代わりに注目されるようになったのが極端に短いスカートと「脚のありかた」だ。
ルーズソックスから紺のハイソックスへの流れは劇的(??)で、自分なんかは歓喜のあまり泣いてしまうほどだった。
(半分は誇張だが、もう半分は「割とマジ」である)
極論をいえば、制服を脱いでしまったら彼女らの魅力は半減する。
単に若い女子がいいのであればJCだって女子大生だって「あり。」のはずだもん、いや別の意味では「あり。」なのだが、あの制服を纏うことによって、エロなり攻撃性なりが表現出来るようになり、映画における女子高生のキャラクターは輝くこととなる。
小松菜奈がビッチを熱演する『渇き。』(2014)や、優等生ローラ・パーマーの裏の顔が暴かれる『ツイン・ピークス』(90~91)を観て、ゲンナリするひとも多いだろう。
だが『青い山脈』(49)だって公開当時は、「けしからん!」みたいな声も聞かれたわけで。
いまの感覚で観れば、なんと健全な青春であろうか!! と思うけれどね。
今後も、沢山の女子高生キャラクターが生まれてくることだろう。
それが現実の鏡であれ、非現実的であれ、エロであれ、自分は一種のコスプレ劇としておおいに楽しみたいと思っている。
あすのしりとりは・・・
じょしこうせ「い」→「い」のせんと。
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(168)』