ある作家の小説を読んでいたら、表現方法に誤りのある部分を見つけた。見ると初版第一刷だったから、第二版辺りから修正されるだろう。
アマチュアならこんなことはしょっちゅうだが、プロでもこんなことあるんだと思い、他の作家の初版本を見てみた。そしたらあるわあるわ。1番多いのが日本語の言い回し。次に多いのが、回収し切れていない伏線などだった。
明らかにメインキャラクターの後付設定が多すぎて、序盤とだいぶ違っていたり、どこかの二次キャラ流用だと分かるものが“大やけど”していたり。今の私から見て、「いや、これ、いいわけねぇよなぁ……」と、かなり首を捻る物もあった。
私らアマチュアにとって、プロフェッショナルは雲の上の存在……というよりは、ベルリンの壁や板門店の向こう側の人達のような感じである。しかし、いかにプロとはいえ、いつもいつも体調が良いわけではないだろう。アイディアだって枯渇する時はあるだろうし、字数やページ数の都合で、泣く泣く最初に用意しておいた伏線を捨てなくてはならぬ部分もあるだろう。
クリエイティブな仕事には、必ず納期(締め切り)がある。それに間に合わせるために、無理くり設定を後付しなくてはならぬことも多々あるはずだ。
つまりだ。彼らもただの人間だったのである。
例え大家の部類に入るような著名作家でさえ。
その事実に気付いた時、ハッとしたものだった。それと同時に、憧れていたプロフェッショナル達に対する幻影が崩れていったのも覚えている。
同時に、ハードルがかなり下がった気がした。
ただ書きたいというだけではダメだというのはもちろんであるが、しかし書きたいという気持ちが無ければ、どんなにアイディアが浮かんでも書けないのもまた事実。
私はラノベしか書けないが、それでもモチベーションとアイディアがある限り書き続けよう。
“そけいけ!アンパンマン”の作者、やなせたかし先生は、アンパンマンを始めとするキャラクター全員が自分の息子・娘であると述べていた。どこの新聞だったか失念したが、さしもの悪役ばいきんまんも、『親』の死に、表では憎まれ口を叩きつつも、裏では泣いていることだろうと書いてあった。
その気持ち、少し分かる気がした。さすがに私は大きな息子や娘がいる歳ではないが、少なくとも“ボーカロイドマスター”の主人公、敷島孝夫は兄弟というより戦友という感じがする。むしろ“ユタと愉快な仲間たち”の稲生ユウタや威吹邪甲は弟達といった感じか。いずれは、息子くらいの歳になるのだろうか。
クリエイティブな仕事の中でも、執筆業は孤独との戦いだ。本業の警備業が団体競技であるのとは違う。個人競技である。その為に、確かに部屋に閉じこもっていてはアイディアが枯渇してしまう。
そんな時、私は乗り鉄や乗りバスをしてアイディアを湧かす。大石寺に行くのもいいだろう。おかげさまで、いい作品を作ることができた。ただそれを発表しようとする場合、かなりハードルは高そうだが。
もしあれなら、宗教色の無いリメイク版“ボーカロイドマスター”を発表した方が良さそうだ。
今更、“ユタと愉快な仲間たち”を無宗教色にリメイクするのもなぁ……。
アマチュアならこんなことはしょっちゅうだが、プロでもこんなことあるんだと思い、他の作家の初版本を見てみた。そしたらあるわあるわ。1番多いのが日本語の言い回し。次に多いのが、回収し切れていない伏線などだった。
明らかにメインキャラクターの後付設定が多すぎて、序盤とだいぶ違っていたり、どこかの二次キャラ流用だと分かるものが“大やけど”していたり。今の私から見て、「いや、これ、いいわけねぇよなぁ……」と、かなり首を捻る物もあった。
私らアマチュアにとって、プロフェッショナルは雲の上の存在……というよりは、ベルリンの壁や板門店の向こう側の人達のような感じである。しかし、いかにプロとはいえ、いつもいつも体調が良いわけではないだろう。アイディアだって枯渇する時はあるだろうし、字数やページ数の都合で、泣く泣く最初に用意しておいた伏線を捨てなくてはならぬ部分もあるだろう。
クリエイティブな仕事には、必ず納期(締め切り)がある。それに間に合わせるために、無理くり設定を後付しなくてはならぬことも多々あるはずだ。
つまりだ。彼らもただの人間だったのである。
例え大家の部類に入るような著名作家でさえ。
その事実に気付いた時、ハッとしたものだった。それと同時に、憧れていたプロフェッショナル達に対する幻影が崩れていったのも覚えている。
同時に、ハードルがかなり下がった気がした。
ただ書きたいというだけではダメだというのはもちろんであるが、しかし書きたいという気持ちが無ければ、どんなにアイディアが浮かんでも書けないのもまた事実。
私はラノベしか書けないが、それでもモチベーションとアイディアがある限り書き続けよう。
“そけいけ!アンパンマン”の作者、やなせたかし先生は、アンパンマンを始めとするキャラクター全員が自分の息子・娘であると述べていた。どこの新聞だったか失念したが、さしもの悪役ばいきんまんも、『親』の死に、表では憎まれ口を叩きつつも、裏では泣いていることだろうと書いてあった。
その気持ち、少し分かる気がした。さすがに私は大きな息子や娘がいる歳ではないが、少なくとも“ボーカロイドマスター”の主人公、敷島孝夫は兄弟というより戦友という感じがする。むしろ“ユタと愉快な仲間たち”の稲生ユウタや威吹邪甲は弟達といった感じか。いずれは、息子くらいの歳になるのだろうか。
クリエイティブな仕事の中でも、執筆業は孤独との戦いだ。本業の警備業が団体競技であるのとは違う。個人競技である。その為に、確かに部屋に閉じこもっていてはアイディアが枯渇してしまう。
そんな時、私は乗り鉄や乗りバスをしてアイディアを湧かす。大石寺に行くのもいいだろう。おかげさまで、いい作品を作ることができた。ただそれを発表しようとする場合、かなりハードルは高そうだが。
もしあれなら、宗教色の無いリメイク版“ボーカロイドマスター”を発表した方が良さそうだ。
今更、“ユタと愉快な仲間たち”を無宗教色にリメイクするのもなぁ……。