ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
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断片の煌き 其の壱 ~ 中途半端を恥じるのがみみっちいことかもしれない

2013年08月18日 | いいことも起きるにきまってる旅行記

" 流行のポップミュージックには目もくれなかったし、そんなものには興味を失っていたが、すぐれたシタール奏者になれないことも明らかだった。"
(ジョージ ハリスン)

 この中途半端な境遇や、それに対する諦めにも似た気持ちは誰にでもよく起こりそうなことだ、共感する。 

「流行のポップミュージック」という文脈は、現実世界での「ビジネスの現場や最前線」に置き換えることができそうだが、
フルタイム出場が困難なわたしは、立ち位置について再考をせざるを得ない。
かといって、新しいパラダイムや価値観(シタール奏者になること)について、手がかりがあるわけでもない。じつに中途半端だ。

" ぼくの思いはとても単純だ。ビジネスの世界にフルタイムで足を踏み入れる気はない。
なぜなら、自分は庭師だからだ。花を植えて生長を見守る。クラブやパーティーに出かけたりせずに、家にいてひらすらに川の流れを見つめているのだ " 

庭師というのが、ジョージの趣味を反映している。
ジョージは、「庭にいるときが神にもっとも近づける」と語ったというが、自然や宇宙の断片に神を見ていたのだと思う。
神が宿る風景 ~ 私の範囲をとらえ直す

ジョージはFriar Parkという広大な地所を1969年に買取って、あるひとりの男の精神世界と出会うことになる。
屋敷の建物をデザインし、庭園を作りあげた、Sir Frankie Crisp(フランキー・クリスプ卿)である。
この高名なヴィクトリア朝時代の准男爵のことを、ジョージはいつもまるで生きているかのように語るのだ。

~ サー・フランクのおかげで、ぼくの内面の世界はより広く、そして深くなった。
この屋敷に移ったことで、どんなものに対しても感性が鋭くなり、言葉での表現もより豊かになった。すべてが進歩したというか、高められたというか、そんな気がしたのだ。
いずれにせよ、ぼくはサー・フランクがあちこちに書き残してくれた言葉のおかげで、いつまでもネガティヴな見方をしてはだめだと考えるようになった。 

~ 本当にそれでいいのですか

― この本のインタビュアーと同じような疑問を持つのは自然なことだと思う。
ビートルズの喧騒の後とはいえ、庭師だなんて、三十そこそこの若さでそんなのでいいのか。
そんな風に人生を切り換えることなんてできるはずがない。仙人のようになるなんてあり得ない。

しかし、自分にも立ち位置を変えざるを得ない状況が訪れていることを自覚し始めると、見る目や聞く耳が変わってくる。
仙人のようになるというのは極端だが、自分の意識を書き換えて、
新しい境遇やパラダイムを受け容れて、より幸福に充実感をもって過ごすための工夫みたいなものは、どこかのタイミングで必要になってくる。
それは誰しも同じだ。

一方で、ビジネス後のパラダイムに携えていく志、みたいなものについて、教えてくれたり書かれたりしているものが、思いのほか少ないことに気づく。
まるで、そんなことは個人の問題だ、勝手に考えろ、と言わんばかり。
(本来は、そういうときの為に哲学や芸術があって然るべきなのだが、哀れなほどにビジネスタームでの発想に取り憑かれてきたので、そういう資質が十分に涵養できていないのです、残念ながら。)

しかし、ジョージですら、迷い悩んでいる。
現状をふまえ、日常の度量衡(時間や空間認識)を書き換えていくためには、
書き換えようと意識付けすること、すなわち「修行」を愉しむ期間が有効なのかもしれない。

あの頃のぼくは、インドのほうが居心地がいいと感じていたのだが、やはりギターに戻るべきなのかもしれないと強く思うようになっていた。
ギターの腕はちっとも進歩しておらず、かといってシタールで大成する見込みもなかった。
一流のシタール奏者になるには少なくとも15年は早くレッスンを始めなければいけなかったのだ。

それでもシタールを学んだことは、本当に役に立った。
ぼくのシタール時代は何もかもが素晴らしかった。ヨガもだ。インドでやってるのと同じように、朝起きたらまず沐浴し、ヨガの稽古をし、瞑想をして、シタールを練習し、それから朝食をとる。
ぼくにとっては、すばらしい修行で、絶対に必要なことだった。

文化というものを考える出発点にもなった。 

社会生活を送るうえで必要な知識やノウハウを教えてくれる機会はたくさんあるが、
もっと本質的なメッセージ、誰もがふと思うであろう存在や生命についての根源的な問い― わたしは何処から来て、何処へいこうとしているのか ―
については、不確かな情報が錯綜しているばかりで、自分で取捨選択しながら、掴み取っていくしかにように思える。

― 学校では決して教えてくれないことがあると思っていた。学校が人生の全て、人生の最終目的ではないとわかっていた。だから、学校にそれほど悩まされずにすんだのかもしれない。(ジョージ ハリスン)

学校だけでなく、社会に出てからの教育の機会をも包含しても、経済効果的な度量衡を基準にした学びがほとんどを占めているように思う。
ウチダ先生が「修業論」のなかで指摘されていたように、教育などの経済原理を本来持ち込むべきでない分野にまで、費用対効果のような議論が当たり前に行われている。
修業論 ~ 無敵とはなにか

修業のように、到達点まで行ってみてはじめて新しい地平を獲得できるような体験にすら、
到達点が事前に一覧的に把握でき、事前にその効果や効能が分かりやすく示されることを、私たちは消費者の権利のように要求する。
ばかになってるのかもしれない。

大成する見込み、とか、投資効率とか、みみっちい一覧性を求めることはよそう。

ころがっている断片をじっと見ること。
ユニットを丁寧に見ていくのです。
夜明けのスクワット~ 腰割りトレーニングの習慣 ~
がんさんの女房 - 楽観を生む勝利のユニット

” そうだ、修行しよう " なのだ。

シタールならぬピアノ修行、今週はやや停滞中。。

( ↓ ) ギタリストであったジョージは、一曲まるごとというよりも、断片のきらめきを大切にするところがあるように思える。

 

( ↓ ) 深い森のなかに居るような世界観、より一層の深淵へと向かってゆくような断片のきらめき。

( ↓ ) なにげなく立ち顕れるきらめく断片のような何かが、誰よりもわたしを強く惹きつける。 

それが全体をなし得るのかは分からない。

The Beatles - Something - Take 37 Quality Restored!!!

Something in the way she moves 
Attracts me like no other lover   
Something in the way she woos me

You're asking me will my love grow
I don't know, I don't know
You stick around now, it may show
I don't know, I don't know

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